ロシアは「齒舞色丹を返還する場合、該二島に米軍基地を置かぬやう確約せよ」と主張してゐる。この主張の意圖を少し考へてみると、極めて明瞭な事が分かる。まづは地圖。
そもそも、日米がロシア至近距離に軍事基地を設置して威嚇する目的ならば、二島が返還される前から根室(納沙布岬)と知床半島に米軍基地を置いて夾撃態勢を布(し)けばよい。知床に置けば位置的に最強力だ。
しかし現在まで、自衞隊の小さな根室レーダー分屯基地が市内にあるだけで、納沙布岬にも進駐してゐない。まして米軍基地は無い。知床側は、更に遠く西側の網走に自衞隊分屯基地があるだけだ。
假に日米軍が北方領土のロシア軍を夾撃する意圖を持ってゐるならば、何故知床と納沙布に米軍基地を置いてゐないのか。それは日米が極めて平和主義的な國だからである。
そのやうな平和的日米に對して、返還二島に米軍基地を置かぬやう確約せよとは、要するに返還後も二島に對するロシアの發言權を持たせろといふ意にほかならない。つまり日本に治外法權を要求してゐるのだ。
日本國内でロシアが治外法權を持てば、大きな楔(くさび)となり大成果であらう。しかし日本がその要求を呑む筈が無い。ほぼ架空の要求に過ぎない。呑む筈の無い架空の要求をする目的は、他の面で讓歩を引き出すためだらう。要するに數百兆に及ぶやうな巨大な經濟支援などを日本に出させることが目的である。それを日本が出さないならば、プーチンが二島を返還するつもりはさらさら無い。
日頃北方領土に關心の薄い私だが、内閣官房領土室や笹川財團島嶼センターの關係者が熱心に北方領土を考へてゐることは知ってゐる。よって今日は私も少し考へてみた。少し考へたらすぐに分かった。
結論。そもそもロシアと交渉してはならない。ロシアと修好しても何の利益もない。チャイナを牽制する目的ならば、もっと有効なのは、北京訪問をしないこと、北京通貨スワップを結ばぬこと、與那國・尖閣・臺灣に米軍基地を置くことなどであり、遠囘りしてロシアとごちゃごちゃ關はり合ふのは無駄である。ロシア交渉を即刻停止するのが正しい。
まさかこの程度の素人考へすら分かってない日本政府ではあるまい。。
追記。
以上のやうに思った途端に、新情報。米軍基地を置かないことを、日本側が明言したさうだ。これにてわざわざ治外法權を保證しました。わはははは。實際に置かないのと、置かないと保證するのとは全く意義は異なる。同じやうに尖閣に基地を置かないことを、チャイナに密約してゐると疑はれることになる。わっはっは。
https://www.asahi.com/articles/ASLCH4VL1LCHUTFK00T.html「歯舞・色丹に米基地置かない」安倍首相、プーチン氏に
朝日 2018年11月16日05時11分
北方領土をめぐる日ロ交渉で、安倍晋三首相がプーチン大統領に対し、1956年の日ソ共同宣言に沿って歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島が日本に引き渡された後でも、日米安保条約に基づいて米軍基地を島に置くことはないと伝えていたことが分かった。首相はプーチン氏の米軍基地への強い懸念を払拭(ふっしょく)し、2島の先行返還を軸に交渉を進めたい考えだ。米国とも具体的な協議に入る。
首相官邸幹部が明らかにした。日米安保条約と付随する日米地位協定は、米軍による日本の防衛義務を定め、米国は日本国内のどこにでも基地を置くことを求められると解されている。このためロシア側は、2島を引き渡した場合、島に米軍基地ができる可能性があるとして強い懸念を表明してきた。
プーチン氏側近のパトルシェフ安全保障会議書記は2016年11月、日ロ首脳会談を前に谷内正太郎・国家安全保障局長と会談した際、56年宣言を履行して2島を引き渡したら「米軍基地は置かれるのか」と質問。谷内氏が「可能性はある」と回答したことで、交渉が行き詰まった。
このあと首相はプーチン氏に対し、2島が引き渡されても、島に米軍基地を置くことはないとの考えを直接伝えた。
谷内氏自身もパトルシェフ氏に、首相側近の北村滋内閣情報官はナルイシキン対外情報庁長官に、それぞれ日本政府の意向を伝達。複数のルートを使って、ロシア側の懸念の払拭に努め、交渉の局面打開をめざしてきた。
外務省は日米安保条約や地位協…
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以下、千島列島の繩文文化について最新の論文。
千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(3)
千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(3)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 3, 163-178, 2018
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol3/
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 3, 163-178, 2018
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol3/
千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(2)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 2, 83-110, 2017
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol2/
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 2, 83-110, 2017
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol2/
千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(1)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , 竹原 弘展 , スコヴァティツィーナ V. M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 1, 53-72, 2016
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol1/
右代 啓視 , 鈴木 琢也 , 竹原 弘展 , スコヴァティツィーナ V. M.
北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 1, 53-72, 2016
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol1/
「北方島文化研究會」2000年3月11日発足
第3回研究会(2001年1月27日)
「続縄文時代の骨角牙製釣針」 福井淳一
「カムチャッカの調査報告」 右代啓視
第3回研究会(2001年1月27日)
「続縄文時代の骨角牙製釣針」 福井淳一
「カムチャッカの調査報告」 右代啓視
「択捉島に 地元の子ら、縄文住居復元 考古学調査きっかけに」
会員限定有料記事 毎日新聞2017年6月13日 北海道朝刊北方領土の択捉島で昨年、日本の学術交流団体によって確認された縄文時代の遺跡について、現地の子供たちでつくる「先史文化探検隊」(26人)が結成され、遺跡の保存などに取り組んでいる。同島を含む北方領土の先史時代の研究は、日露の学術交流で2005年に始まった。今後の交流を進める環境づくりとして期待されている。今年度のビザなし渡航事業で、11日まで同島を訪れていた北海道博物館の学術交流訪問団(右代啓視(うしろひろし)団長)が記者会見で明らかに…
2016.7.24.釧路新聞
https://pbs.twimg.com/media/DjCFhjoUwAEKRhH.jpg「中華文明の考古學」飯島武次編 同成社, 2014.3
内:右代啓視 「北方四島の考古学的研究」. pp.409-424.
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB15060302
長崎純心購入すべし。
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「縄文の布 : 日本列島布文化の起源と特質」
尾関清子著 雄山閣, 2012.12
(閲覽濟。pp.176-185「近隣地域の編布」章で、
千島最北部占守島アイヌ編布を論じる。オホーツク文化。)
「縄文時代 : その枠組・文化・社会をどう捉えるか?」
山田康弘, 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館, 2017.3
(閲覽濟。繩文文化の北限は擇捉までとする。右代氏見解と異なる。)
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB23200236右代啓視 2014講演 「新・千島紀行-発見された千島列島の先史文化-」.
函館市北方民族資料館、函館市文化・スポーツ振興財団.
右代啓視「千島列島における人類活動史の考古学的総合研究」(3)
(北海道博物館研究紀要3, 2018)では、
右代啓視2014「新・千島紀行-発見された千島列島の先史文化-」について、
「確実に中部千島までは縄文文化晩期、続縄文文化の遺跡が存在すること、
さらにオホーツク文化は北千島まで拡がりをもつこと、
アイヌ文化はこの地域に特徴的にみられる内耳土器が
カムチャツカ半島南部まで拡がりをもつこと、
チャシ・コツは北千島まで拡がりをもつことを指摘してきた。」
と自ら述べる。講演であるが、詳細記録が公開されてゐない。
最初は講演でなく論文かと思って搜した。
函館市北方民族資料館に問合せた處、講演だったと分かり、
上の圖像も入手できた。しかし講演詳細記録が無い。
詳細の公開されないものを引用されると中々苦勞する。
今度右代先生ご本人から詳細記録を頂くべく問合せよう。
以下某個人頁より。
千島列島における縄文遺跡の発掘から、北海道から伝播した縄文文化は、少なくとも列島中間に位置する新知島(シムシル島)まで及んでいることが分かっている。列島最北端の占守島(シュムシュ島)、その直南の幌筵島(パラムシル島)では縦穴住居、貝塚、北海道のオホーツク文化に属する遺物が発見されている。占守島の住民はアイヌ語を話していたことが分かっている。また、カムチャツカ半島南部では、寛永通宝、擦文文化、アイヌ文化に特徴的な内耳土鍋が発掘されている。これらのことから、縄文人やアイヌ民族は北海道から千島列島を渡りカムチャツカ半島南部まで入植していたことが分る。1696年にカムチャツカ半島南部に進出したロシア人は、この地で陶磁器、漆器、木綿服その他の高度な技術で作られた日本製品に接している。カムチャツカ半島南端に住むアイヌ民族を、後にロシアはクリル人と呼び千島列島をクリル諸島と名付けた。千島列島全島にアイヌ語の名称が付けられている。http://afthistory.info/ryodo.htm
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