製紙術がアレクサンドリアから東漸した可能性
が高いことを平成30年11月9日に書いたが、
素人としてパピルスを語るならば、併せて
羊皮紙について勉強した情報を附記せねばならない。

羊皮紙工房 「羊皮紙の歴史」  

ヘロドトス『歴史』には一般に獸皮に書記してゐたことを述べる。
それを加工羊皮紙(Parchment)として普及させた都市ペルガモンは
紀元前三世紀から繁榮した。羊皮紙の普及はこれ以後である。
ペルガモンは今のトルコ西部。

獸皮書記については張騫も記録してゐる。
前囘述べた張騫の到達地、大宛・康居・大月氏
については、『史記』大宛列傳に書かれてゐるが、
大月氏につづいて安息國(パルティア)を記述する。曰く、
「安息在大月氏西可數千里。……以銀為錢、
錢如其王面、王死輒更錢、效王面焉。
畫革旁行、以為書記。」
「安息は大月氏の西、數千里ばかりに在り。
……銀を以て錢となし、錢、その王の面の如し、
王死すれば輒ち錢を更(あらた)め、王が面に
效(なら)ふ。革を畫して旁行し、以て書記をなす。」
と。
ヘレニズム諸國で銀貨に國王頭像を刻んだのみならず、
さらにパルティアで獸皮に書記してゐたことを張騫は傳聞してゐた。
年代から見れば單なる獸皮でなく、ペルガモンの羊皮紙が
パルティアまで普及してゐた状況を指すだらう。
この書き方からすれば、張騫は康居及び大月氏で
羊皮紙を傳聞しながらも、目睹しなかった可能性が高い。

關聯書を讀むと、羊皮紙はパピルスよりも高級品
だと書いてあったり、逆だと書いてあったり、
一定しない。かなり慎重に評價せねばならない。
しかし羊皮紙がパピルスよりも丈夫であるのは確かだ。
パピルスは數千年の傳統的材料であるが、
新興の羊皮紙は保存用に優れてゐた。

新興の羊皮紙の存在する地では、
傳統のパピルスも早くから普及してゐただらう。
新たな羊皮紙が珍奇だからこそ張騫は記録した。
康居に近いアイハヌム(オクサスOxus附近)でも羊皮紙が
出土してゐる。張騫よりも早い年代らしい。
されば張騫は新しい羊皮紙を目睹しなかったとしても
傳統的パピルスを目睹した可能性は高い。

ただ、パピルスは漢の竹簡に較べて質的に粗惡で、
さほど注目に値ひすると思はなかっただらう。
だからこそ、後漢に至ってやっと改良パピルス即ち「紙」が普及した。
また張騫よりも前に、パピルスが既に漢の西域に
普及してゐて、珍奇と思はなかっただらう。
要するに、羊皮紙を知った張騫がパピルスを知らなかったとは考へにくい。

このあたり、ヘレニズムがチャイナに東漸した歴史について
最も多く論文を書いてゐるのが南開大學の楊巨平氏である。
楊巨平氏は羊皮紙の東漸に論及し、さらに張騫が
アイハヌム(オクサス附近)を經由しただらうと推測するが、
惜しいところでパピルス東漸の可能性についてまでは
論及せず、張騫の時代にチャイナは竹簡だけだったとする。

アイハヌム(オクサス附近)はバクトリアからインド及びチャイナへ
向かふ交通の要衝に位置し、チャイナ貿易を目的とする都市だったと、
ウィキペディアに書いてある。誰の説か分からないが、
誰でもそれは推測できることだ。
そのやうな位置のアレキサンドリア・オクサスのパピルスが
チャイナに東傳しなかったと考へる方が難しい。

參考:
クロード・ラパン(Claude Rapin)氏作成地圖、アイハヌムをEucratidiaに擬する。

ラパン氏、アイハヌム・パピルスの寫眞。

アイハヌム・パピルスの佛語譯。

クロード・ラパン(Claude Rapin) 1992年著
"La Trésorerie du Palais Hellénistique d' Aï Khanoum"
(圖版125號にアイハヌム・パピルスの彩色寫眞。)
https://www.academia.edu/3316486/


C._Rapin_1994_
"Ai Khanum and_the_Hellenism_of_Bactria_in_Ancient Rome and India ---- Commercial and cultural contacts between the Roman world and India"
(張騫、メナンドロス=ミリンダ、大月氏、エウクラティデスに論及。)
  Though the colony had been an important centre ever since its foundation, it really reached the apex of its power in the first half of the 2nd century RC., when itbecame a capital under the kingship of Eucratides I (c. 17r·145 B.C.). This king, who reached power defeating Demetrios II (c. 175-165 B.C.), increased his authority with a policy of conquests, among which were included most of the territories of the Indo-Greek king Menander (c. 155-130 B.C.). The Yuga-Purana alludes to a retreat of yavanas  (of king Menander) from Madhyadesa provoked by a civil war in their own country. This civil war must probably be attributed to the arrival of Eucratides I in the Western territories of Menander. As he was returning from one of his Indian expeditions in 145 B.C., Eucratides was killed by one of his sons (JUSTlNUS XLI, 6). It appears then that the city suddenly fell under the control of Central Asian nomads.  A second nomadic population arrived a few years later and in 128 B.C., as related by the Chinese ambassador Chang Kien, Bactria had entirely fallen under the power of the people of the Great Yiieh-chih. Meanwhile Menander seems to have again imposed his authority upon the Greek territories of North-West India and of Southern Afghanistan. This Indo-Greek authority tasted for a long time, as the last Indo-Greek king in North-West India disappeared in about 10 A.D.


篇名「Hellenistic Information in China」October 3, 2014  楊巨平   
誌名『CHS Research Bulletin』A publication of the Center for Hellenic Studies
Posted by Juping Yang under Art/Archaeology, E-journal, History, Research Symposium   
2§38 About the style of writing and material for it in Anxi, Zhang Qian says that people there wrote horizontally from left to right on sheets of leather (畫革旁行,以為書記). Leather paper indicates the parchment produced in Pergamum, another Hellenistic kingdom. At the site of Ai Khanoum, French archaeologists discovered the remains of a sheet of parchment on which a Greek poem had been written. At other places in Bactria, a few Greek parchments containing a tax receipt and records of payments were discovered.[73] This makes it certain that indeed parchment was known in Daxia when Zhang Qian stayed there. Most probably, Zhang Qian saw such parchment as well as the Greek texts on it. This must have caught his attention, because the Chinese still used bamboo slips for writing and wrote vertically from the top down.
2§38。關於「安息國」的書寫法和材料,張騫說彼地「畫革旁行,以為書記」。「革」是指另一希臘化王國「別迦摩」(帕加馬, Pergamum)生産的羊皮紙(parchment)。法國考古學家在艾哈努姆(Ai-khanoum)遺址發現了一張羊皮紙的遺物,上寫一首希臘詩。在巴克特里亞境内其他地方,發現了一些含有稅收收據和付款記錄的希臘羊皮紙。可知張騫到達大夏時,羊皮紙確實為人所知。 最有可能的是,張騫看到了這樣的羊皮紙和希臘文。 這一定引起了他的注意,因為China人仍用竹簡,並上下竪寫。


楊巨平「亞歴山大東征與絲綢之路開通」
載『歴史研究』2007-04。又『中外關係論叢』11輯。


「遠東希臘化文明的文化遺産及其歴史定位」
《歴史研究》2016年第5期。
論及張騫與牛皮紙(羊皮紙)相涉,未論及莎草紙(papyrus)。
論及Ai-Khanoum並非Oxus。



楊巨平「哈努姆遺址與希臘化時期東西方諸文明的互動」。
『西域研究』2007年第一期。
哈努姆 Ai-khanoum 未論及莎草紙(papyrus)。
https://www.1xuezhe.exuezhe.com/Qk/art/351435

アレキサンドリア一覽。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_cities_founded_by_Alexander_the_Great

アレキサンダー帝國最大版圖、Oxusを載せる。

アレキサンダー帝國地圖、Oxusを載せず。

東部アレキサンドリア各地。Oxusを載せず。


「西方古代的歷史是僞造的嗎?」   飛虎隊文集。
http://city.udn.com/55568/2372517
https://blog.boxun.com/hero/feihuduiwenji/44_1.shtml
https://blog.boxun.com/hero/feihuduiwenji/44_2.shtml
曰く「也有可能是埃及人發明的紙草紙通過阿拉伯人波斯人,
輾轉傳播到中國來以後,經過中國人的改進然後産生了
後來更高級的紙,這在邏輯上是完全說得通的,
在時間上和空間上也是完全有條件的。實際上,
現在中國地區發現的最早的紙之一就出現在新疆。」
(未具體論及烏滸、亞歷山卓、張騫等。)



阿富汗珍寶展背後的故事①:希臘文物和希臘化阿伊哈努姆遺址的發現
  2017/04/27   (Ai-khanoum。紙に論及無し)


「ギリシア人植民都市アイ・ハヌムの滅亡-中国史料からの考察-」
小谷 仲男  富山大學「人文学部紀要」巻35。2001-08-31
 (月氏がアイハヌムを滅ぼしたと論じる。紙に論及無し。)
http://doi.org/10.15099/00000043


変体流水術ブログ 2011年01月09日「中国文化の源泉は西アジア」
曰く、「紙は前漢時代の遺蹟からも発掘されていて、そのルーツはエジプトのパピルスにある。パピルスの製造方法は、基本的な部分(植物の髄から出る粘液を利用して、繊維同士を接着するなど)で、紙と同じような製造方法を持つ」と。惜しくも張騫、アイハヌムなどに言及無し。



Pergamonの神殿wikipedia
  ペルガモンのトラヤヌス神殿の遺跡。ウィキペディア。