「シルクロードは、チャイナの絹の先進性に歐洲人が驚いた道だ」
そんな俗説を高校の授業で聞かされた人は多い。
しかし基本的にシルクロードは西方の文明を
チャイナ日本に齎した道であって、逆方向は量的に
極めて少ない。絹と磁器と改良パピルスだけしかない。
東から西へといふ一帶一路は大嘘である。
しかもその絹にしても、絶對的に東方が良質だったわけではない。問題は色だ・
『三國志』に引く「魏略・西戎傳・大秦國」に曰く、
「有織成細布、言用水羊毳、名曰海西布。
亦用木皮或野繭絲作、
織成氍毹・毾㲪・罽帳之屬皆好、
其色又鮮於海東諸國所作也。」
(細布を織成する有り、水羊の毳を用ゐると言ひ、
名を海西布と曰ふ。亦た木皮或は野繭絲を用ゐて作り、
氍毹(くしゅ)・毾㲪(たふとう)・罽帳の屬を織成すること皆なよし、
その色また海東諸國の作る所よりも鮮やかなり)
この「海西布」は毛織物が基本だが、
「野繭絲」(やけんし)即ち野生のまゆの絹絲でも作られてゐた。
毾㲪は、ウィキペディアによれば波斯古語「taaftan」(縒り絲)ださうだ。
このやうなローマの毛織布が存在したがゆゑに
希臘彫刻の薄衣のひだが可能であった。
海東・海西とは、勿論東支那海ではなく、
後漢の使節甘英が到達した安息(アルサケス朝)の西境(地中海岸か)
から見て東西である。
注目すべきは、色が東方諸國よりも鮮やかだったのである。
東洋は、羅馬波斯大帝國に負けてゐた。その出土實例が、
ウルムチ博物館に藏せられてゐる。漢代の馬人と武士像。
パキスタンに近いホータン(于闐、うでん)の現洛浦縣の出土。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/0/0b/20121220220040%21UrumqiWarrior.jpghttp://news.sina.com.cn/c/2017-12-02/doc-ifyphtze3491653.shtml
上半の人首馬身ケンタウロスはただの裝飾だが、
下半の武士(兵士、戰士、武人)像の鮮やかさ。
深目高鼻、實に驚くべき高水準である。
ガンダーラ佛像に迫る寫實性で、
漢魏にこの水準の美術は存在しなかった。
「海東諸國の作る所よりも鮮やかなり」といふその海東でもこの鮮やかさである。
さらに遠く東洋人は驚倒しただらう。
これより迥かに古いツタンカーメン黄金面具は、
かかる高度な文明ゆゑに出現した。
とてもとても、チャイナの希冀し得る水準ではなかったのだ。ついでながら、漢文古書の西域傳に頻出する
「烏弋山離」(アレクサンドリア)の漢字音について。
烏は古音「あ」である。嗚呼(a ha、ああ、今音をこ)からも分かる。
烏の鳴き聲を模する。古音「あ」から「を」に轉じたので、
新たに鴉(あ)といふ字が生まれた。
「弋」(よく)は遊弋で馴染みだ。
式と同源の音であり、古音はrik乃至dik。
所謂三十字母の喩母字である。d,r,yと變化した。
喩母の羊・陽・姚・驛などが詳・場・兆・擇などと諧聲
であることからも分かる通り、舌音・齒音のs,z,t等に轉じ易い。
よって烏弋山離は「a rik san li」(アレクサンドリア)である。
別の説もあるが、穿鑿しすぎてゐる。
略して烏弋國。「那先比丘經」(ミリンダ王の問ひ)では「阿荔散」(あれいさん)に作る。
上記の海西布に關聯して、鈴木治氏論文は
希臘彫刻の薄衣のひだはチャイナから輸入した絹であらうと推論したが、
論證に成功してゐない。
絹路考 鈴木, 治 天理大学学報 15 (3), 1964 https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/649/
絹路補考 鈴木, 治 天理大学学報 16 (3), 1965
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/673/
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