丁度二年前の八重山日報、平成28年10月27日。下方に轉載。
そのわけは、最近(平成三十年十月)、或る人が
「尖閣の東側で切れてゐる西洋製地圖を見掛けたが、
 どれだか思ひ出せない」
と私に言ふ。まあ多分ブリュエとルヴァッソールの
「ポリネシア專域圖」に類するものだらう。リンク。
http://senkaku.blog.jp/20161010Levasseur.html
このやうに一見危ふい地圖地誌は存在するが、
慌てず見極めないといけない。尖閣を臺灣附屬とする地圖地誌
は歴史上に一つも存在しない。一つもだ。
それを逐一確認することこそ、調査といふものだ。
丁度二年もたったし、新聞原版をサービス掲載しよう。
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歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第八十囘  
尖閣琉球日本は桃色、清國に派兵要請、
八重山が北朝鮮となる危機 
 ~西暦千八百七十五年 ルヴァッソール
  「ポリネシア專域圖」(フランス)

 まづい地圖にまた出逢った。西暦千八百三十四年のブリュエ氏「ポリネシア專域圖」(圖184)では、島の周縁に重疊する横線が、尖閣から臺灣(たいわん)北端まで繋がってゐる。
 心配無用。尖閣諸島最西端は北緯二十五度四十五分弱、東經百二十三度二十八分強なのだが、この圖のTiaoyusu及びHoapinsuは尖閣の西北側、北緯二十六度強、パリ子午線東經百二十度線(グリニッヂ子午線百二十二度二十分)附近に位置してをり、架空の島だ。その東側に描かれるのが尖閣である。西北側に架空の島を追加したため、海域の横線が繋がってしまった
 西暦千八百七十五年に至り、ルヴァッソールといふ學者がこの圖の重版を出した(圖185)。横線も架空の島も元のままだ。ただ日本琉球尖閣は桃色に塗られてゐる。今白黒で掲載するが、八重山の北方で黑く見える二小島が桃色の尖閣である。臺灣北端まで繋がる横線を顧みずに、わざわざ尖閣だけ桃色に塗ったのは、それだけ琉球の内だと思ひ込んでゐたからだらう。
 この時代の地圖着色は精度が高まり、シュティーラー系列圖では色彩の注記まで示される(連載第七十五囘)。本圖も各國の領土を細緻に塗り分けてゐる。今掲載するのは豪洲國家圖書館所藏二幅中の一幅だが、別の一幅も尖閣を桃色に塗る。ラムゼー圖像庫には西暦千九百二十二年の複製版を藏し、同じく桃色に塗る。これら藏者の信頼度からみれば、後に改竄された可能性はほぼ無い。但し同圖が白地圖のままで各地に藏せられるので、今後色彩改竄版が出現する可能性は有る。色彩を絶對視(ぜったいし)してはならない。
 丁度この年(明治八年)、日本政府は琉球から清國への朝貢使節を停止した。四年後には沖繩縣令が首里入りして直轄縣とした。ほぼ抵抗が無かったのは他の諸侯國に對(たい)する廢藩置縣(はいはんちけん)と大差ない。
 それもその筈、西暦千六百九年に薩摩藩が琉球を併合してから、すぐに檢地(けんち)も行なはれ、ほとんど抵抗は無かった。豐臣氏が頑強に抵抗した大坂の陣よりも前である。繼(つ)いで琉球の精緻な國繪圖も作成され(連載第六十五囘、圖150)、要するに「版籍」を幕藩體制(たいせい)が掌握してゐた。清國への朝貢も幕府方針に從った。國交締結國オランダにも、琉球統治を早くから通告してゐた。
 それ以前の戰國時代、日本各地はほぼ獨立國であった。琉球と大差ない。歴史上、琉球は一度も他國の領土とならなかったが、長崎は一時期カトリック教會領となった。長崎獨立運動をする方がまだ歴史的根據(こんきょ)が有る。琉球と他の藩國とのわづかな差ばかり強調すると歴史の實相を見失ふ。
 朝貢貿易停止は、朝貢を獨占(どくせん)してゐた琉球士族にとって大打撃となる。全國の不平士族と同じだが、特に長崎通事と似てゐる。通事は幕末に利權(りけん)を失ったが、維新後は外交官となる者が多かった。
 一方の琉球士族はどうだったか。朝貢停止以後、向德宏ら一部の士族は清國に亡命し、琉球に派兵するやう要請し、あまっさへ派兵の先導役を買って出た。極めて危險な賭けである。もしその目論見が實現(じつげん)し、沖繩本島で日清兩軍が對峙(たいぢ)すれば、第二の朝鮮半島となっただらう。朝鮮の三十八度線は、沖繩本島と宮古島との間に位置することになり、宮古八重山は社會主義陣營の周縁として、今の北朝鮮に相當する地位となる。
 地政學上、東アジアの戰爭は大陸勢力と海洋勢力との衝突に外ならない。兩勢力の爭奪線は歴史的に常に朝鮮半島・福建(臺灣)・越南であった。派兵要請をこれにあてはめれば、爭奪線を東に八百キロ移動して、琉球列島で兩勢力を戰(たたか)はせることになる。チャイナを第一列島線まで進出させる怖ろしい企圖(きと)である。
 第二次大戰の失敗は、日本が自身海洋勢力であることを忘れて大陸に進出し、自ら大陸勢力となって海洋勢力アメリカと戰ったことに在る。その結果、大陸勢力日本を海洋勢力が痛撃する地が琉球、廣島(ひろしま)、長崎となってしまった。東京大空襲につづく慘禍である。私は東京に生まれ、長崎の妻を娶り、今尖閣を研究するが、これら現代史にあまり關心は無い。慘史に不感症となったわけではない。被害を訴へるよりも勇敢に前進したいと思ってゐる。

八重山20161027-80色縮


圖184 ブリュエ作(Adrien Hubert Brue)
「ポリネシア專域圖」(Carte Particulière de la Polynesie)。
西暦千八百三十四年審閲と注記。『古今理學政學地圖册』に收録
(Atlas universel de geographie physique, politique, ancienne & moderne)。
西暦千八百四十二年パリにて、シャルル・ピケ氏社刊(Charles Picquet)。
ラムゼー圖像庫番號2741050。 www.davidrumsey.com 
Brue1834尖閣白黒_Carte_Particuliere_Polynesie_Rumsey2741050


圖185 ブリュエ原作、ルヴァッソール重刊(Emile Levasseur)
「ポリネシア專域圖」、『古今理學政學地圖册』所收。
豪洲國家圖書館藏T257番。別にラムゼー圖像庫藏本の複製同圖册の扉頁に、
西暦千九百七十五年、ドゥラグラーヴ氏刊と記載(Charles Delagrave)
Levasseur1876尖閣_Carte_Particuliere_Polynesie_豪洲藏T257
Levasseur1875尖閣_Carte_Particuliere_Polynesie_Rumsey4607050