奥山真司の地政学「アメリカ通信」 平成30年10月12日 
「米中激突は決定的!だとして、日本はどうなる?どうすべき?リアリズムで読み解くシナリオは...」
 13分過ぎから約3分間、奧山眞司氏曰く、
「倫理的に正しい形で尖閣などでチャイナを挑撥する。
 越南臺灣などアジアの聯攜を強める。」
と。具體的方法を持ってゐるのだらうか。
私に言はせれば勿論、尖閣歴史戰が正答だ。
尖閣は古典文明の爭ひである。
さらに印度文明とチャイナを比較して、
「印度は先生、チャイナは弟子だった」、
といった話もチャイナ人が一番我を忘れて怒る形だ。
奧山氏が尖閣について國際法でなく倫理を持ち出したのは
とても良い。倫理は人間の歴史を根幹とする。
悠久の歴史で正論を戰はせれば自然と平和的挑撥になる。


 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。