漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 4(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

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(承前)
http://senkaku.blog.jp/2018100677771560.html

其の二

東亜の諸言語と漢文

 今までの話では、古典中国語(漢文)を含めて、いわゆる死語の生存と復活というものが一見珍しい文化現象に見えるが、かいつまんで言えばユーラシアの東西両端に渡る文化の一面に過ぎないという事実を明らかにしようとした。西から東へと順に、ラテン語、シリア語、サンスクリット語の諸言語が、規模において多少の相違があるにも関わらず、類似する復興の姿を現しつつある。これから、話の後半では、焦点をしぼり日本における漢文の地位と可能性を考えて行きたいと思う。
  前文に挙げた諸々の例から見て、日本文化の中における漢文、そして韓国・ベトナム両文化における古典中国語(韓国ではハンムン、ベトナムではハンヴァンと発音する)を代表として、一般的に言えば極東における中国の「文言」の過去の普及と現在の生存は世界的に珍無類な現象でなく、ユーラシアの諸文化圏にて通常に現われた文化生活の不可欠の一面と認められていいものである。ユーラシア文化の一面として見られるようになれば、漢文の復興と教育が新しい意味を浴びると私は確信している。又、今までの長い歴史の延長で、未来のために漢文の果たせる役割を改めて文学、学問、国際関係の諸分野においてかつてなかった新しい活動範囲に進む方法を敢えて紹介したいと思う。

現代日本語のジレンマ

 本題に入る前、現代日本語についての一考察を述べたい。
  現代日本語、特に二十世紀末の超現代日本語の現状を論じ出したら話が長くなる恐れがあるので、それを避けたくも、これからの漢文教育という問題とは無関係でないので触れざるを得ない。日本の評論家、作家、国文学者、場合によって言語学者にも国語の現状についての意見を聞いてみると、皆口を揃えて「日本語が乱れている」と忽ちにその言葉が返ってくる。言葉が乱れるという表現がいったい何を意味するのか私にはよくわからない。文法上の問題であろうか。よく挙げられる例を顧みると、「見られる」か「食べられる」の代りに「見れる」、「食べれる」というのは、果たして言葉が乱れている証拠と云うべきであろうか。どちらかというと、受動態と可能態を区別するのが、言葉が乱れるよりも正確になると言ったほうがいいのではなかろうか。また、「犬に餌を上げる」という言い方が誤りであり、「餌をやる」といった方が正しいとよく言われるが、会話上の調子の変化に過ぎないので、決して文法上の混乱とみなすことはできない。一番厳しく批判されている敬語の現代的使い方もどうしても文体上の問題だと思える。生きる言葉は当然なこととして常に変わりつつあるものである。ただその変わり方の規模と速度には多少の相違があるのみで、変化することだけは確かである。「死語」も変わるものである。八世紀、十三世紀、十六世紀、二十世紀に書かれたラテン語の文章を比較してみれば、それぞれの特徴と相違が著しい。サンスクリット語、ヘブライ語、漢文でも同じである。「乱れる」という、強い非難の色を浴びた単語を口にする前に、どういう角度からこんな判断を下すかということを充分に意識する必要がある。
  ここで現代日本語に関して、確かに「混乱」という単語を使ってもいい一面を少し念を入れて考えてみたいと 思う。それは外来語の問題である。新語を作るため、また新しい技術品を名付けるため、ある言語が他の言語の語彙を借りるという現象は文字の歴史が始まって以来常に行われたものである。また先にも書いたように、「聖語」という現象と密接につながっているものである。ラテン語はギリシア語から、ペルシア語はアラブ語から哲学、宗教、科学に関する単語をたくさん受け入れた。現代の諸言語は新しい発明を名付けるために、最初はそれぞれの文化圏の「聖語」に当たる言葉に求めた。ウルヅ語はアラブ語やペルシア語にたよるのに対して、ヒンディ語はサンスクリット語を拠り所にしてきた。また東南アジアのもろもろの言葉、タイ語、カンボジア語、ラオス語、ビルマ語、ジャワ語などもサンスクリット語(パリ語とならんで)を指南にしたと同様に、日本語、韓国語、ベトナム語は古典中国語・漢文を新語造りの拠り所にした。
  漢語を以ての新語造りが明治維新のころから始まったとよく言われるが、実際のところ早く江戸時代、蘭学、即ちヨーロッパ医学が輸入される時から始まった。さらに一九世紀の終から、日本で作られた漢語の新語が中国を始めとして極東大陸の全部に普及したという事実はよく知られている。「電話、経済、癌」などの新語彙の大部分がまだ使われているということ自体はその単語造りの成功を物語るものである。そういう画期的な業績は、日本文化と漢文の長い共存をないがしろにすれば理解しがたい。
  ここでR・A・ミラー氏の指摘した日本語と古典中国語の関係の特徴を挙げる必要がある。氏の意見によると、日本語彙における中国語の借用語の歴史的関係が「全面的な活用性」(total availability)という一言で総括される。中国語のどんな時代のどんな単語も日本語、特に日本語の書き言葉の中に取り入れられる可能性があるという意味である。極端に言えば、日本人にとって中国語からの借用語が本当の意味の外来語でなく、また中国語そのものも外国語と見られるというよりも、(中国語の話し言葉は別として、圧倒的に書き言葉に限られるが)むしろ中国語は日本人が自由に汲める無尽蔵であり、日本語の上層次元であるからである。古典中国語の作品に出る単語ならば、日本語で書く人がそれを自由に使えると自覚している。その単語が分からなければ、書いた人が難しい語彙を使いすぎて悪いということでなく、その難しい単語を知らない読者自身が悪くて、自分の勉強不足を恥じるべきなのだということであった。これは正に「聖語制」なのである。ある言語の上に、もう一つの言語があって、後者を熟知するのが本当の学問とされているような文化関係を特徴とする。
  日本語と漢文の従属関係については、先にも見た通り、他にもよくある現象である。政治的な従属でなく、文化的な従属を反映するものである。ある程度までギリシア語とラテン語の関係によく似ている、すなわち政治的にローマに降伏したギリシアが文化的にローマを支配するようになった。ホラチウスという詩人が書いたように「征服されたギリシアが獰猛な勝者を征服してしまった」。ローマ帝国の時代、ヨーロッパの指導階級がみなラテン語の傍にギリシア語を身につけていた。もはや権力がまったくなかったギリシアの言葉の知識は高い知的、社会的身分の象徴であった。数世紀が経ってから、同じ古代ギリシア語の単語を使って、新しい科学上、技術上、思想上の観念を名付ける過程に大いに役に立った。Telephone, telegram, antibiotics, psychoanalysis(ここ で日本人読者の便宜をはかるため英語の綴を使う)等々は皆ギリシア語の語根を基本にした新語であり、それは古代ギリシア人の科学と技術を遥かに超えた発明であった。ラテン語も同様に生かされた。たとえばvitamin, informatics, subconscious, computer 等はその類である。こういう新語彙の大部分はギリシアとイタリア以外 の国の学者が考え出したものであり、現代ギリシア語とイタリア語に再輸入されたものであるので、その国とその言葉がそれぞれ全く離れて独立したものになってしまった。新語造りの為ならば、ギリシア語とラテン語が西洋全体の共有財産になってしまったとも言える。最近は英語(米語)の話し言葉も科学的新語を生みだす様になった(Big Bang, by-pass, software)が、ギリシア・ラテン語程他のヨーロッパ言語に簡単に移行しない。たとえばフランス語はビッグ・バンを受け入れたとは言え、バイパスをpontageにし、ソフトウェアをlogicielに直して、本来の英語単語がほとんど使われない。
  日本語の場合、二十世紀の後半には規模として珍しい現象が目立ってきた。中国語(漢文)に替って英語の語彙が全体的に利用される様になった。昔の漢語と同じく、現在英語のどんな単語もそのまま(片仮名を通じて)日本語として利用される可能性を得た。それを知らない人は憤慨するどころか、むしろ自分の知識不足を恥じる、という妙な状態になってしまった。一九八〇年、早稲田大学にいた頃、私はそこで日本語を勉強していた二人の中国人の通訳者と知り合ったが、二人とも口を揃えて、これから英語も身につけることを決心したと言った。何故なら、もっぱら中日通訳・翻訳の訓練に没頭していた彼等は、英語の知識なしでは普通の日本語の文章、演説も完全には理解できないという事実に悩んでいたからであった。日本語における英語語彙の全面的活用性(さきに言及したtotal availability)のせいで、現在日本語を熟知するのに、英語も充分に知る必要があるという珍しい状態になってきた。恰も昔の漢文の代りに英語が移ってきたと言える。
  こういう妙な状態は、植民時代の名残として英語を公用語に指摘したインドやフィリピンを除けば、東アジアには珍しい。現代中国語の新語の大部分がいまだに「文言」を拠り所とする。「リモコン」を「遥控機」、「コンピューター」を「電腦」、「ロボット」を「機械人」、「ヴァーチュアル・リアリティー」を「虚擬實景」等々と呼ぶのはなかなか想像ゆたかな工夫であり、中国語の常識だけで誰でも意味が分かる。また、明治時代の日本人が英語のclubの様な単語をそのまま借用した時でも、片仮名の代りに何となく意味のある漢字を当てて「倶樂部」(倶に楽しめる部屋)を造ったと同じ様に、現代中国語の舶来語もなるべく中国語なりの意味を伝える漢字を使おうとしている。有名な例には「ミニスカート」を「迷■裙」(君を迷わせるスカート)や、「ウイスキー」を「威士忌」(威厳のある紳士が忌むもの)が挙げられる。
  世界的に恐怖を起こしたエイズの借用の仕方も中国語と日本語は対照的である。英語のAIDS(実は頭文字の組 み合わせ)は日本語ではとても不充分な片仮名で表わされている。特に[dz]という子音連続を正しく表わすのが不可能なので、翻訳した方がよかったと思えるが、中国語でも同じくその英語の音を正確には写せないのに、その不便を漢字の巧みな使い方で補い、「愛滋病」という新語が使われた。最初の二字が音を表わすと倶に、「愛の繁盛から起きる病」というような意味を伝えることもできる。擬日本語の「エイズ」が前もって説明されないと一般の人には不透明で理解されない、それにひきかえ中国語の新語はそれを初めて見る人にとってもかなりの程度までその意味の範囲を直接に伝えることが出来る。
  二〇〇〇年のオリンピックの折に気がついたもう一つの例を挙げたい。「アーチェリー」という様な片仮名語 が頻繁に使われることが気になって、周りの日本人に(確かに運動に疎い人が大多数を占めたが)意味が分かるかどうか聞いてみた。教育の程度を問わずに(むしろ年齢による差があるようであるが)まったく分からない人が意外に多かったことに驚いた。いったい何故「洋弓」という単語を利用しないのか分からない。「要求」と混同される嫌いがあるからであろうか。しかし、話の内容から(特にオリンピックの報告の場合ならば)また文法構造から見ても、両単語を間違える危険性が非常に少ない上、新聞や雑誌の書面報告なら、誤解の可能性が完全になくなってしまう。もし同音異義が本当に問題であり、音でも区別する必要を感じるならば、「洋弓術」か「西洋弓術」というだけで困難は解決するであろう。ついでに申し上げると、韓国のテレビや新聞ではやはり「洋弓」(ヤングン)を使う。
  日本の漢語の代りに外来語を片仮名で使う傾向が同音語を避ける、という合理的な意図にもとづくものと反論する人もいるので、次の例を取り上げて考えてみる。

  1. エアコン > air conditioner
  2. ボディコン > body conscious
  3. リモコン > remote control
  4. ロリコン > Lolita complex
  5. パソコン > personal computer
  6. クルコン > cool conservative
  7. コンカジ > convenience-store casual (clothes)
  8. アイコン > Private Eye Writers' Convention(アメリカの推理小説作家大会、日本人の推理小説の好事家が使う言葉)

 以上の八カ例のほかにまだまだたくさん並べられるが、今のところこれだけに止める。この八単語に現われる 「コン」の一節はそれぞれ違う、「コン」という接頭辞を含む八つの言葉の略号であることは一目瞭然である。極端に言えば、立派な日本語になったこの諸単語は漢字の意味上の便利さを捨てて、アルファベットの便利さも捨てられた舶来語に過ぎない。それを半分以上冗談として作られた新語とみなした方が適当かも知れないが、もし同じ原則に従って新語を造ってゆけば、日本語の語彙がどれほど曖昧で二流的なものになってしまうか想像できる。

 話を少し広げてみよう。現代日本語に溢れている英語(片仮名語)の借用ぶりがほかの文化国と比べて異常と言ってもいいほどの現象が見られるという事実の裏には、一種の論理があるのではないかという問題を考えてみたい。代表的と思われる三つの例から話を進めたい。
a シビリアン・コントロール。正直に言えばこの言葉を初めて日本で聞いた時、私は意味を完全に誤解してし まった。何となくシビリアンの音がシベリアと関係があると思い込んだので、昔シベリアで醸された陰謀かなんかのことなのではないかと思った。映画かスパイ小説にはいかにもふさわしいタイトルのようにそれをとらえた。シビリアンが英語のcivilianを表記したものとわかった時、まず可笑しく思った。日本語に書き表せない三つの音(国際音標文字で書くと[si],[v][l])を含んでいる単語をなぜわざわざ片仮名に直す必要があるのであろうかと不思議に感じたからであった。「市民管理」が果たして何故いけないのであろうか。数少ない新聞記者、評論家、知識人などを除けば誰もわかるはずもない「シビリアン・コントロール」という抽象的な単語が使われる理由は非常に単純なのではなかろうか。「市民管理」と書けば、誰でもその観念の内容がわかる恐れがあるためそれを避けようとするのではなかろうか。すなわち、一般の市民たちが「市民管理」を真面目に実現しようとするのが望ましくないから、不透明な片仮名語を利用して、それを弄ぶのが安全だという潜在の意図があるように思えてならない。「市民管理」と書けば、具体的な提案をする必要になるので、面倒くさい、と思うので あるが考え過ぎであろうか。
b プライバシー。前に述べた例よりも「プライバシー」の場合が率直である。テレビなどでタレントか俳優の プライバシーが侵害されたとの記事を見るにつけ、常に浮かんでくる疑問がある。日本人の判事たち自身が本当に片仮名語の「プライバシー」そのままを使うかどうか。英語のままそれを使うならば、その法的内容はいったい誰が決めるのであろうか。アメリカ英語の意味をそのまま受け入れると理解してよいのであろうか。アメリカは州ごとに法律が多少違うので、日本法律のプライバシーの定義はどこの州に随うのであろうか。なお、日本語では「私生活」という非常にわかりやすい熟語があるのに、今流行しているその言葉はもっぱら不透明な「プライバシー」である。これも私の早合点かも知れないが、マスコミの観点から見れば、日本語の「私生活」は日本の一般人には分かり易過ぎるという嫌いがあるのではないかと思う。なぜならば、個人の私生活を守ることが絶対不変の権利であるとすれば、日本のテレビや週刊誌が毎日のように犯している私生活の侵害は直ぐさま中止しなければならないということになるであろう。そういう点から見ると、イタリアとフランスの対比を考えると面白い。イタリア語とフランス語が非常に近いにも関わらず、フランス語が日本語の「私生活」に文字通りに近いvie prive・を前から使い続けてきたのに対して、イタリア語にはフランス語の直訳としてのvita privataがあるのに、最近は英語のままprivacyが著しくはやってきた。なおフランスでは情報手段における私生活侵害の法律は他の国に比べて非常に厳しい。アメリカの大統領や日本の首相が嘗めたような、不倫関係に基づいた醜聞事件はとても起きそうもないのであり、またイタリアや日本のように俳優、女優、歌手などの離婚騒ぎのニュースは本人の許可なしでは報道されない。まさしくはっきりした「私生活」という単語が生きている国では、個人の生活の権利が一番厳格に守られていて、「私生活」の代わりに、漠然とした外来語の「プライバシー」が流行っている国では、私生活そのものが特別に尊敬されていないといっても過言ではない。誰でも理解できる「私生活」 の権利を主張するならば、一九九九年の春から夏にかけてテレビや週刊誌でいやになるまで報道された「熟女合戦」を想像することができる。「プライバシー」と抽象的観念から「私生活」の次元にもどれば、マスコミだけでなく、それを味わう一般の大衆、すなわち市民たちがその権利の本当の意味を改めて考えるのではないかと思う。
  ついでに、アメリカでもプライバシーの観念がさほど古い伝統に基づくものでなさそうである。一九六五年出 版のWebster's Seventh New Collegiate Dictionaryという辞典でprivacyを引くと、今日いちばん流行っている 「私生活」の意味が全く載っていない。
c セクシュアル・ハラスメントという片仮名語も典型的な語彙上の悪用の見本の一つである。先の「プライバシー」と同様に、この単語の法律上の内容はどこで決められるかという問題がおのずから起きる。合衆国で発生したこの観念と言葉は果たしてそのまま他の国に移せるのであろうか。日本で流行った「セクハラ」という略語は確かに面白いが、一般的に冗談に用いられがちなので、「セクシュアル・ハラスメント」よりも曖昧であり、むしろ事実上のいやらしさを隠すためには逆効果になる。ここにも、日本語の「性的嫌がらせ」という熟語を利用する方が適当と思える。日本人なら誰でもわかるという利点を有する。「セクシュアル・ハラスメント」や「セクハラ」が日本人の語感から意味的には内容が乏しいからこそ、誰でも想像逞しく自分なりの意味と解釈を加えたりする傾向が自然に現われる。たとえば、ある日本人から聞いた話であるが、男が女性に対して「あんた」という言い方を使えばセクハラとされるそうである。その話が本当かどうか分からないが、もし正確な日本語を使って、人を「あんた」と呼ぶのが「性的嫌がらせ」という違法行為になると言えば、それほど簡単に納得できないと思える。
  ここで片仮名語の妙な例を三つだけ挙げたが、他にもたくさんある(モラル・ハザードなど)。それで外来語 の使用がより正確な表現を与えるためでなく、むしろ曖昧な、漠然たる、意味のない言葉を使うことによって、本来の観念をぼかすために選ばれる可能性が強いことを証明しようとした。
  残念ながら、そういうような説明があまりにも合理的なので、日本語における外来語の氾濫を完全に理由づけるには足りないということを痛感せざるをえない。理性がなかなか届かない動機も潜んでいると思える。京都の市バスで、年寄りや身体の不自由な人のために、町の中を簡単に動き回ることの出来るよう新しい施設を紹介する宣伝に気がついた。その新施設の全体を「タウン・モビリティという名前で呼んでいるらしい。私は日本人でないからそれに当たる上手な日本語表現を考え出せないが、「動きやすい町」の様な意味だろうと思う。なお「タウン」はともかくも、「モビリティという単語をいったい誰が分かるのであろうか。そのキャンペーンのおもな対象であるはずの老人は中高年時代に英語を勉強した人が多いかも知れないが、日毎にそれを練習するわけにも行かないので、大部分の語彙を忘れて「モビリティの意味をすぐには理解できないかも知れない。片仮名で書いていることから見ると、まさか外国人の観光客のためでもなかろう。
  そこで微妙な比較がふと頭に浮かんでくる。カンボジア文化史の専門家を久しく悩ませてきた謎がある。それ はなぜ数多い古代カンボジアの史跡に刻み込まれた石碑がカンボジア語でなくて、サンスクリット語で認めてあるのか、という疑問である。極く限られた人数を除けば、カンボジア人は遠い国インドの聖語であったサンスクリット語に不案内であった。その石碑の文章を作ったのがカンボジア人でなくて、朝廷に招かれたインド人のバラモンであった可能性が強い。もし当時(紀元後六~八世紀)の東南アジアではサンスクリット語が国際語だったことが原因であると言えば、なぜインドの文字でなく、カンボジア人にしか通じないカンボジア文字で表記されたのかという疑問が生じる。カンボジア人のためでもなく、インド人のためでもなければ、その石碑文は誰を相手に刻まれたのであろうか。ある学者に依ると、誰もわからないその文章の目指している相手はほかでもなく、 ヒンズー教の神々(デヴァ:諸天)、すなわちこの世を超えた存在者であった。こういう超自然的存在にふさわしい表現がサンスクリット語にしかないという考えから発生した現象である。おそらく、「タウン・モビリティという、日本人が分からなく、外国人が読めないスローガンが選ばれたのは、プロテスタントの神様「ゴッド」の注意を引くためであったのではないかと考えたくなる。
  同じ発想から生まれた習慣かどうか決定し難いが、最近妙な傾向がはやってきた。日本文化風俗の非常に代表的と思われるもの、それも昔から日本語で名付けられたものをますます英語に基づく片仮名語で呼ぶ癖が頻繁になってきた。たとえばあるところでは武道が「マーシャル・アーツ」といわれ、華道が「フラワー・アレンジメント」といわれるようになった。なかにはたいへん逆説的としか思われないものもある。この二十年にわたって欧米に普及した日本の漫画の流行りには驚く程の風雲の情勢を示している。英語とフランス語を始めとして、ローマ字のmangaを国際語にしたのである。同時に、漫画の本場、日本の書店を訪れてみると、不思議な発見をする。「推理小説」、「時代小説」云々の名札の内では、もう「漫画」という単語が見えなくなって、ほとんど全部「コミック」に変わったということである。全世界が漸く「漫画」という日本語を覚えて自由に使う時期に、日本人の方がその単語を捨てて、代りに英語にしてしまった論理はどうしてなのか分からない。国際化の独創的な理解に基くものであろうか。
  時々、その不条理としか思えない言語政策を次の理屈を以て説明しようとする人がいる。日本人の大部分が英 語に疎いので、なるべくたくさんの英単語を日本語に無理に入れれば、日本人が無意識にも少しずつ英語を身につけるのであろう、とのことらしい。その理屈が根本的にまちがっていることを証明するに及ばないと思うが、敢えて証明する必要があるならば、ここにそれについて一言をいっておこう。
  まず音声学上の問題がある。日本語と英語の間では、完全に合致する音がほとんどないと言ってもいいすぎで はないと思うのだが、母音の場合みなそれぞれ違う。英語音声の特長である二重母音化のせいで、日本語かイタリア語の純粋母音の様には、共通なるものはあまり存在しない。また、英語に溢れている子音連続(cl,pr, ct, blなどの類)は仮名を以て表記できない。もし片仮名語の「トラブル」を、日本語の分からない英米人に向かって言ってみれば、彼が本来英語のtroubleのことだと気がつく可能性は少ない。若し正確な英語を覚えようとすれば、偽りの共通感を与える片仮名語を避けることを第一条件にする。その錯誤を超えて、英語が日本語と関係のない外国語だと覚悟してから初めてその勉強に正式に着手することができると思う。
  一方、外国語を覚えるのはただ単語を連ねることだけではない。語彙よりも、文法と構造を正しく理解する方 がはるかに重大である。片仮名語をたくさん知っている日本人が、それを並べる(しかも日本語の順序にしたがって並べる)だけで何とか英語らしくなるだろうと思うらしくて、とんでもない文を組み合わせてしまう。テレビで、あるアメリカ人の教授が取り上げた例をそのままここで繰り返すが、車やトラックに張ってあるもので、「アイドリング・ストップ」というスローガンがよくある。その文を作った人の意図がはっきりしていて、「エンジンの空転を止めましょう」というつもりなのであろうが、実際の英語から言えば、まるで反対の意味になってしまう。"Let's stop idling"のような言い方が適当だと思う。「アイドリング・ストップ」は変な英語だが、確かに「空転しながら止まっている」という意味にしかとらえられない。
 以上の二つの理由だけでも、片仮名語の理不尽な舶来が英語の習得にも、日本語の表現力においても害しかも たらさない習慣であることが明白であると思う。日本語と比べて外来語の使用を自動的に制限している中国人と韓国人は平均的に英語が上手という話をよく聞くが、その理由はまさに自分の母国語と英語との差異を明晰に意識しているという事実にあるのではないかと思う。逆説的に言えば、英語の習得への鍵はほかならぬ自らの母国語の熟知である。その熟知に達するため、漢語と漢文が今でも不可欠である。