漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 2(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)


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(承前)

「死語」の生存と復活

 先ず蛇足かも知れないが、誤解を避ける為、「死語」の定義について一言述べておこう。今の日本語、特に新聞、雑誌、テレビでは、「死語」を「昔はよく使われて、現在は流行らなくなった単語または表現」という意味だけでとらえ勝ちである。たとえば、「文化包丁」、「モボ」、「モガ」、「アドバルーン」というような単語がこの定義に応じる狭義の死語である。その意味では「廃語」という単語を使った方がよろしいのではないかという気がするが、習慣に逆らうことは難しい。それに対して、広義の方が西洋語(仏 langue morte, 英dead language)の直訳として、恐らく「死語」の本来の意味であろうが、「現代使われていない言語」である。もちろん、ここでは後者の意味で「死語」を使うことにする。
  もう一つの区別を加える必要がある。「死語」の範囲には二種類の言語が入る。古代に開花した文明、文学の 言葉として盛んに使われた言語が、その文明の滅びるとともに消えてしまった死語である。先に言及したスメル語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語等々が第一種類であり、文字通りの死語に違いない。現代人には、その諸文明の末裔と自称するものがおらず、だれもその言語を自分の伝統的な財産として生かしたり、復活させたりしない。たまたま風変わりな学者が遊びとしてその種類の言語を現代的に生かそうとしており、たとえばあるフィンランド人の言語学者がエルヴィス・プレスリーの歌をスメル語に翻訳して、CDまで出したという話があるが、それはあくまでも学問上の奇癖にすぎない。そのたぐいの死語にはここで触れないことにする。
  第二種類は、もう普通の話し言葉ではなくなったと同時に、ある形では現代人によってまだ言語として使用されるものである。その使用にもいくつかの違う形があると注意しなければならないが、その点はあとに論じることにする。先にも述べた通り、この場合には死語という名前は適していない、ただ一般の人(言語学者を含めて)がその単語を使っているのでここで使うことにした。皮肉的な呼び方とみても差し支えがない。特にヨーロッパで死語と呼ばれているのは古代ギリシア語とラテン語であるが、あとで示す通り、ラテン語が「死語」の中で一番生命力を有している言語である。そういうことから見ると、この第二種類の死語が、むしろ「ほとんど文章だけに使用される古代言語」と呼んだ方がいいと思う。しばしば(特にサンスクリット語、ラテン語の場合)その書き言葉専用語が会話、講義、宗教論の為、口頭上の役割を果たしているが、この口頭の形が書面の言葉を標準にしているので、口頭言語の次元が完全に二流的である。現代に生きている「死語」がほとんど書き言葉であることに注意されたい。
  また注意したい点がある。「死語の復活」という現象をそれぞれ特別な形で代表する二つの言葉にはここで言及しないことにするが、それはアラブ語とヘブライ語である。周知の通り、ヘブライ語は今世紀の一種の言語的奇蹟としばしば言われてきた。二千年以上前から言語学者の定義に従えば「死語」と呼ばれるべきこの言葉が、二十世紀に入って、政治的、文化的にも多様多彩な過程を経て復活し、イスラエルという新国家の国語となった。国語になってから、世界の各国からイスラエルに移住してきた人々の話し言葉として使用され、二、三世代だけで、生まれてから両親と周りの環境の中で学んだ他の国の言葉並みにその人々の母国語になり得た。生語になったので、現代ヘブライ語がこの話しの枠外にあるが、これだけ注意しておきたい。一般人の話し言葉でなくなった(正確にその時代がいつだったのか定められないが、大体の学者は紀元前後を指している)ヘブライ語は口頭言語でなくなっただけで歴史から消えたという妙な(言語学的な)偏見のせいで、この二千年の間の発展が無視され、いかにも晴天霹靂のごとく死語の状態から蘇って、紀元前後に消えてしまった言葉が三百万人の日常言語に変身したという錯覚に陥る人が少なくない。ありていにいえば全然違う。まず現代ヘブライ語は聖書に使われた古代ヘブライ語とずいぶん違うものである。その違いを浮き彫りにする為、ある人が現代言語を「ヘブライ語」でなく、「イヴリット語」と呼ぶ程である。ヘブライ語からイヴリット語への変化過程を理解しようとすれば、ヘブライ語がもっぱら書面言語であった二千年の歴史を無視することができない。中世時代のユダヤ人の宗教家、哲学者、詩人の功績を経て、十九世紀になってヘブライ語を自分の作品に選んだ学者、小説家、新聞記者の業績に至るまで、普通の言語学の観点から「死語」と呼ばなければならないこの言葉が驚く程の生命力を顕わした。宗教儀式以外にほとんど口頭には使用されなかったこの言葉が普通の話し言葉並みの変化を示していたと認めざるを得ない。文法から見ると、動詞の活用(特に時制)も、所有代名詞の系統も、名詞の限定の系統も、聖書のヘブライ語と比べるとたいへん変わってきた上、語彙の面も、新語、外来語、意味展開のいろいろな発展が、「生きている言語」とまったく同様に、その長い歴史を経て示された。二十世紀の話し言葉としてのヘブライ語の復活が奇蹟的に見えたのは、この二千年の書面言語としての歴史が無視されたからである。しかし、現代のヘブライ語が話し言葉のイヴリット語としてまた言語学者の研究の対象になったので、ここで触れないことにした。
  アラブ語も立派に生きている「死語」だと言わなければならない。周知の通り、アラブ語の世界は二つの次元 を含む。一方は日常会話の手段となっている、アラブ各国でそれぞれ互いに違っている諸方言である。大雑把に言うと、シリア、レバノン、アラビア半島、エジプトなどの東の方言群と、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、すなわち北アフリカの方言群との二大部分に分けることが出来ると思う。アラブ人の本当の母国語であるもろもろの方言は比較的に少ない例外を除いて、文面に表わされていないものである。もう一方、日常の生活を超えた次元の話題について、例えば宗教的、学問的、哲学的な問題を口頭で扱う時には、同じアラブ語と言いながら、違う次元の言葉を使用しなければならない。それは古典アラブ語、または筆記アラブ語、書面アラブ語などと呼ばれ、コーランが出来た七世紀から数世代の間に文学言語として開花した古代アラブ語とさほど変らない言語である。いくつかの発音上の習慣が十三世紀の間に変転したとはいえ、文法的にも多少簡単化されたが、数多い現代用の新語を除けば、今日刊行されているアラブ世界の新聞、雑誌、書物のすべての文体は古代のと大同小異である。またアラーの神の言葉そのものとされているアラブ語は、アラブ諸国を超えてイスラムの布教により、非アラブ語圏の国々にも波及し、そこで本当の意味の聖語制hieroglossiaが支配したと言える。アラブ語が聖語であり、その国の本来の言葉、すなわちペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語等々はアラブ語を最終的指南にしている俗語である。
  アラブ諸国で見られる言語状態は明白に英語でいうダイグロシー「二重言語制」という現象に当たるので、私のここで扱っている「死語」の生存とはかなり違う気もする。日本と比べると、二十世紀初期まで使われていた書面言語としての文語と口語の違いと見た方が適当である。もう一面、加えて述べてみると非アラブ諸国で行われているアラブ語の使用が私の対象にしている「聖語制」に当たるとは言え、他の場合よりかなり複雑、かつ曖昧なので、アラブ語の専門家に正確な評価を任せた方がよろしい。
  ヘブライ語の二千年の歴史を無視して、あたかも二十世紀に話し言葉として突然復活したごとくが奇蹟と看做されたように、今日行われた数多い古代言語の復活の試みにしかるべき注意を払わなければ、将来起こりうる幾つかの「奇蹟」に驚かされるかも知れない。
  次に、日本でもいろいろな角度から批判の的となっている漢文、特に日本式の漢文訓読はより広く、全ユーラシアに渡っている文化現象の一面に過ぎないという事実を明らかにしたいと思う。

 現在観察されうる古代言語の復活運動は、その性格と原因によって区別して次のABC三組に分けることができるのではないかと思う。
A.昔、他の民族と言語の政治的、文化的な圧迫のため完全に消えた言葉が、その話者の子孫によって、主に自己意識を元に現在復活させる。そういう言語は完全に断絶されたために、滅びた時から再び使用される時までの間、筆記言語としても使われたことがなく、その場合全くの復活とみなしても良いと思う。その点では他の二種類と性格が多少違う。また、政治的な動機も無視してはならない。この種類の言語として、次の二つだけ挙げておこう。

1.コーンウォル語(コーニッシュ語)は、英国のコーンウォル地方に一八〇〇年頃まで話されたケルト系の言葉で、現在数万人の話者を有しているフランスのブルターニュ地方のブルトン語に非常に近い。中世時代に話されたようであるが、文学作品は非常に少ない。英国の他のケルト系の言語、すなわちスコットランドのゲール語とウェールズのウェールズ語が(後者の方がコーニッシュ語に比較的近い)古い文学(ゲール語の中世文学がアイルランドで黄金時代を迎えた)を誇り、現在でもそれぞれ違う形で生きているのに対して、コーンウォル語を母国語にしていた最後の女性が十八世紀末になくなった時、この言葉が本当に死語になってしまったといってもいい。しかし、今日のインターネットを参考にすると、コーンウォル語の復活に関するサイトが数十箇所あるという驚くべき事実がわかる。その他にも、コーニッシュ語でしか書かれていない月刊誌が一つ、多数の教科書と書物が出版され、いくつかの会話クラブもできた。
  コーニッシュという死語の復活運動がより広く、ケルト文化の復興という一般的な枠に位置付けなければならないと言っても、その復活運動に参加している人々の動機について決定的な原因を指定することは難しい。漠然ながらも、自分がケルト人の末裔の意識をもっている人であるならば、なぜ生きているケルト系の言葉を勉強して、それを復興することに全力を捧げないのであろうか。たとえば、消滅する寸前のスコットランドのゲール語をなるべく生かした方が文化上に役に立つのではないかという気がする。一種の流行の影響はコーンウォル語の場合には否定できない。また、合衆国の市民でありながら、コーンウォル出身者の子孫という自己意識のある人々が、インターネットのサイトから見ると、その復活に有意義な力を加えているようである。思うに、その復活活動の動因が文化的、知識的、精神的であり、またある意味の自己意識(アイデンティ)の象徴と言えるであろう。しかし政治的な要素が少ない。インターネットのお蔭か、昔の言語学の教科書で滅びた言葉の例としてよく挙げられるコーニッシュ語が、かなり限られた規模であるが、復活することのできた死語の例としてこれから挙げられるのであろう。

2.古代プロシア語。この言葉はリトアニア語、ラトビア語とともに十六世紀から筆記されている所謂バルト系 語の一つであるが、最近旧ソ連から独立したリトアニアとラトビアの言葉が数百万人の話者を誇っているのに対して、ゲルマン族、そしてスラブ族の侵略を受けたプロシアの言葉は十八世紀からこの世から消えたので、それは古代プロシア語と呼ばれるものである。周知の通り、バルト系諸言語、特にリトアニア語は、スラブ語系に非常に近くありながら、古代インド・ヨーロッパ語と多くの共通点をもっている。ルーテル教の教理問答集やいくつかの語彙集でしか知られていない古代プロシア語がリトアニア語よりもたいへん古い単語と文法を伝えている。有名な例として、サンスクリット語のkrsna「黒」とほとんど同一の単語kirsnaを保ったヨーロッパ言語は古代プロシア語だけである。古いプロシアの地方に住んでいたバルト系の民族がゲルマン人やスラブ人と次々と混じってきたので、現在プロシア人であることがいったいどういう意味を有するのか分からないが、先のコーンウォルと同様に、その地方に住んでいる何人かの人々が古代プロシア語を復活させることに自分の使命感を抱いた。インターネットで調べると、PRUSAという会がそういう計画を実現するためにできたということが分かる。この会の会員の大部分の人々が言語学に従事しているらしくて、まずプロシア語の現代用語を作ろうとしている。プロシア語の現代語彙を成立させるために、一番近いリトアニア語をある程度まで見本にしているが、この二つの言語の間になるべく区別をしようとして、言語学の原則にしたがって「プロシア語らしさ」を忠実に伝えようと努力する。古くから数百単語しか伝わらなかった古代プロシア語に、他の言語並みに現在の世界に対応する数万語の語彙を作り上げることはいかにも風変わりな学者たちの遊びに過ぎないとかたづけられがちであろうが、この運動にも無視することのできない政治的な次元がある。インターネットのサイトを見ると、プロシア民族の国土として、ロシアの領土でありながらリトアニアを真ん中に挟んで地理的にロシアから切り離れているカリニングラード(カントの故郷として有名、戦前のケーニヒスベルク)の地方を要求していることが分かる。学問上の遊びと見なさず、ロシア、ドイツ、ポーランド、バルト諸国間の複雑な領土・文化紛争の一面として古代プロシア語の復活運動と看做した方がふさわしいかも知れない。今日カリニングラード地方をめぐって強まってきたドイツ人とロシア人の対立を突破するために、プロシア語復活運動ができたとも言えるが、所詮コーニッシュ語ほどに成功するかどうか疑わしい。

B.前の範囲が政治的、民族の自己意識を中心にしている現象であったのに対して、第二のはむしろ純粋な学問 上の関心からできた「死語」の復活運動を含む。学者の遊びか、語学実験とそれを呼んでもいい気がするが、この方面の試みが飽くまでも書面またはインターネットの枠を出るはずはなく、政治的、民族的な動きに連なる見込みはまったくない。興味深いことに、インターネットができたからこそこのような実験ができたのである。インターネットがなければ、世界中に四散している当言語の専門家たちがおそらくそれほど簡単につながり、即席に自分の提案を実現させることもできないであろうし、また専門家以外の人にも彼等の業績に注目させることはできなかったであろう。非常に限られた範囲であるので、ここで短く二例だけを挙げよう。

1.一番驚くべき例がゴット語の復活運動である。この言葉がゲルマン系諸言語の中で歴史上最も古い跡を残し たもので、はやくも四世紀にウルフィラという人物によってなされた新約聖書の翻訳が残された外、十八世紀に東ゴット族の末裔がまだ生き残っていたクリミア半島でしたためた語彙集によってしか知られていない。最近、主に合衆国とスカンジナビアで活躍しているゲルマン語学専門の少人数の学者がインターネットでサイトを作り、それを通じてかなり面白い実用語学の実験が行われつつある。特に注目されるのは、この動きの裏には学問上の動機しかないということである。どう考えても、ゴット語を復活させて得られそうな政治的効果がないので、純粋な語学実験とみなすしかない。電子メールのことをsprautme、ljan、コンピューターをgarahnjaと訳して、現代生活を反映する多数の新語をつくる事は、その語学的遊びの楽しみの一つらしい。

2.1に酷似している古代英語(Old English)の場合もある。インターネットに古代英語の日常会話(挨拶など) を教えるサイトが現われた。イギリスらしいユーモアをおびるもので、かなりアングロ・サクソン語の知識を必要とする言語遊びのようであるが、ある程度まで十九世紀で始まった英語の本来の語彙から、十一世紀のノルマン侵略とともに渡来したラテン・フランス語系の単語を淘汰する試みとつながっているのではないか。そういう意味で、世論調査に依る二十世紀の最大英人作家J・R・R・トルキーンの言語思想とは切り離せない、いかにも文学的、いや時代小説的な娯楽とみなした方が適すると思う。

C.第三種類は前の二者と比べてはるかに広いものである。これをより正確に分析するのに、幾つかの下種類を 区別する必要があるが、まず共通の定義を試みるなら、前両者との主な相違は、第三種類の言語が古代に遡る豊富な文学をもっているとともに、現代に至るまで絶えることのなかった伝統を特色としている。これらの言語は聖語として、文化集団の中心になっていると言ってもいい。聖語としては宗教礼拝の専用語の役割を果たしている限り、保存されてきたのに疑いない。たとえばソ連が滅びた後、古代スラブ語(教会スラブ語とも呼ばれる)が東欧のギリシア正教のスラブ言語圏で復興過程を歩んでいるように、また古代アルメニア語(グラバル)が二十世紀初期までアルメニア文化の中心地であったウ[ンとベニスで書面言語として盛んに利用されて、アルメニア文化の現代化のため大いに活性化し、二十世紀に地中海のほとりに離散されたアルメニア移民がいわゆる西アルメニア語と、本場のアルメニアに残った民族が東アルメニア語の両方言を使う様になり、古代語が今日ほとんど新作品と翻訳のために使用されなくなってしまったが、礼拝式用語としてアルメニア内外の教会に保存されてきたようである。それにもかかわらず私の知っている限りを述べると、次の二言語と違って、教会スラブ語と古代アルメニア語が復活の対象となっていないのである。

 それに対して、シリア語とコプト語は生命力を取り戻しつつあると言える。両方とも非常に古い言葉である。紀元後二、三世紀に筆記される様になったシリア語が東アラム語の方言であり、その時から十三世紀の蒙古侵略まで、キリスト教に染まり豊富な文学を生みだした。七世紀のイスラム台頭により徐々に中近東の話し言葉としてアラブ語が押しつけられたが、十三世紀の博学作家バル・ヘブレウスがシリア語文学の最後を遂げたと一般に考えられていたが、旧東ドイツの学者マクッフ氏の研究によると、古典シリア語の文学が二十世紀まで存続してきた事実が分かる。この半世紀にシリア語研究家として有名だった故アブロホム・ヌロ神父が古典シリア語で詩を即興的に作り西洋の学者を驚かせていた。それに加えて、最近の中近東における政治状態のため、レバノンのキリスト教信者による、古典シリア語が見直されるようになった。イスラム教徒とキリスト教徒との関係が悪化すると同時に、アラブ語がますますイスラムの専用言語とみなされるようになってきた。十八世紀に始まったアラブ文学のルネサンスではレバノンのキリスト教の学者の果たした役割が非常に大きかったが、中近東のキリスト教信者の自己意識の象徴としては曖昧になってしまったと言える。また、レバノン人が好んでフランス語をつかっていたにも関わらず、植民時代が終わった後、ヨーロッパの言語としてのフランス語が中近東の民族に適しないという反感が強くなってきた。レバノンのキリスト教信者が非回教徒として自分が一応アラブ語の世界から排除されると感じるようになった(またイスラムの原理主義者がイスラム以外の人によるコーランの聖語であるアラブ語の使用禁止を主張することもある)。一方、非ヨーロッパ人としてもっぱらフランス語に頼ることも物足りないと思うのであろう。そういう両刀論法に挟まれるレバノンのあるキリスト教信者が古典シリア語に戻ることを主張しだした。特に八十年代に戦争のためレバノンから亡命してアメリカなどに住み着いた集団の中に、アラブ語圏と縁が疎くなったので、シリア語を自分の言語にする傾向が目立つ。興味深いことにインターネットでは古典シリア語の会話講座が流されることがある。また、その運動における復興されたヘブライ語の成功の影響を無視することはできない。
  シリア語はレバノンをはるかに超える広い地帯に渡る。カトリック(マロン教)、ヤコブ派、ネストリウス派などの色々なキリスト教の宗派の聖語となっている。非常に古い時期から南インドのケララ州に住んでいるキリスト教信者(昔は聖トマスのキリスト教徒という名で知られていた)の話し言葉がタミル語と同系であるマラヤラム語なのに、聖語は昔と変わらず古代シリア語に他ならない。最近までその地方の聖職者は、少なくとも礼拝式に参加する程度のシリア語の知識を身につけなければならなかった。学問を修めた僧侶たちがシリア語で自由に文章を書いたり、会話をすることもできた。そのため、十九世紀になるとマラバル(ケララ州の別名)のキリスト教信者をわが宗派に改宗させようとして西洋からインドに派遣させた。そのカトリックやプロテスタントの宣教者たちには古代シリア語の知識が必修であった。しかし、ケララ州の本来のキリスト教集団の間では、礼拝と神学の用語としてその聖語を、州の公用語であるマラヤラム語に取り替えようとする運動が非常に強くなったため、限られた学僧と研究者の間だけにとどまり、シリア語の知識とその重要さの認識が徐々に減ってきたのは事実である。代々宗教を異にするゆえに、同じシリア語を聖語として使っていながら、相互関係がたいへん悪かったこの諸々の宗教集団が、かなりの親近感を抱く様になったことはこの時代の特徴と言えるかも知れない。特に欧米に亡命した人々の場合はそう言える。
  コプト語は国際的な聖語とも称するシリア語とは対照的に、一つの民族と一つの宗派に限られていて、現代エジプト人の一割に達している。周知の通り、コプト語は聖刻文字で表記されていた古代エジプト語と根本的には違わない、聖刻文字からギリシア系のアルファベットに表記法を替えた言語である。紀元後二、三世紀ごろに流布されたこの言葉は、古代の多神宗教の象徴であった聖刻文字から完全に切り離され、そしてキリスト教徒の特別言語となった。文法上、古代エジプト語の最後段階を表記したデモチック文字の言葉に最も近い。三世紀から七世紀にかけて、ギリシア語のキリスト教文献の翻訳を中心として、豊富な文学が生まれた。また、コプト人自身が作った教会歴史、聖者伝に関する文献も多かった。七世紀のイスラムの侵略のため、シリア語の場合と同じく、アラブ語が政権の言語となった後、次第に日常の話し言葉の役割も奪われた。多くの言語学者に依ると、コプト語が息絶えたのは十七世紀ごろであろうが、何人かの学者やコプト人の証言によると、コプト語をまだ話していた農村や家族が二十世紀まで生存していたそうである。いずれにしても、古代エジプト語からのコプト語は、 四十六世紀という世界一の長い生命をながらえた言語である。十九世紀に、コプト教会はコプト語の知識を神父と僧侶の間に再び広げようとし、今世紀の七十年代から積極的な復活運動が生まれた様である。勉強用の録音テープも作られたし、コプト学の国際会議に於いて、コプト語で発表するエジプト人も現われた。イスラム化が過激化したためエジプトから脱出するコプト人が増加し、欧米の国々に住み着くようになった為に、エジプトの国語であるアラブ語との縁が疎くなると同時に、コプト人の自己意識の柱石となるコプトのキリスト教とその聖語なるコプト語がおのずと重視されるようになってきた。コプト人の文化復興の大なる記念ともいうべき、アラブ語、仏語、英語の「コプト百科辞典」が出版された。
  思うに、シリア語とコプト語の現状はイスラエルの国家成立以前のヘブライ語の状態にかなり似ている。母国 の政治・経済的条件のために亡命し、西洋に四散した中近東のキリスト教徒にとって唯一の繋がりを象徴として残すのは聖語しかない。これからこれ等両言語がヘブライ語と変わらぬ素晴しい宗教的、哲学的、詩歌的な文学を生みだすか、あまりにも昔との条件が変わったとはいえ、インターネットで調べられたところでは、曾てなかった大規模の活躍が行われていることは否定できない。それにひきかえ、生存している古代言語の中でサンスクリット語は特別な地位を占めている。ここで挙げる言葉の中で国家によって正式に認められたのはサンスクリット語だけである。戦後、独立したばかりのインドがまず直面しなければならなかった問題の中で、言語問題が決して末梢的だったとは思われない。言語学者によって数百種類の言語を誇り(?)とするこの国に一つの公用語を決定させようと計画しいち早く断念せざるを得ないと見た政府は、ヒンディ語を一応国語と指名しながら、言語的に統一される国家ができるまで十五ケ語を公用語にした。ヒンディ語、ベンガル語、タミル語、テルグ語など、インド・アーリャとドラヴィダの両系統に属している現代言語が主に代表される中で、驚くべきことにそれらと肩を並べて入っているのがサンスクリット語である。なぜ新しい国家がこんなに歴史の逆方向に向かう政策に乗ったかという疑問をインド内外にたちまち生じさせた。その決議の原因として、インドに於ける非常に複雑な言語状態が挙げられる。北方のインド・アーリャ系に属しているヒンディ語を国語にしようとする政策がドラヴィダ地方の南インドを中心に強い反対運動が起こり、その言語の対立を突破する言葉を探さなければならなかった。全国の具体的な用を足すため、止むを得ず植民主義の形見として残っていた英語をしばらく公用語として利用する他に統一する方法がなかったので、政治的にも文化的にも独立した新インドを統一するための要素を三千余年まえ印欧民族がもたらしたサンスクリット語に求めたのは実に珍しい発想であった。しかし實のところ、植民言語の英語と平衡をとる役割を果たす唯一な言葉がサンスクリット語だったことは確かであった。インド学者のピーエル・シルヴァン=フイリョザの言葉を借りると、「サンスクリット語はインドの統一された文化伝統を最もよく象徴するものである」。
  サンスクリット語の現代的発展を遮るいくつかの困難がある。イスラムの侵略から比較的に守られた南インドのタミル地方には話し言葉としてサンスクリット語がバラモン族の間で最も流布されていたが、独立後に台頭してきたタミルの民族主義がまず批判の的に選んだのはタミル民族のサンスクリット化の前衛隊とみなされたバラモン人であった。また、タミル語に入っている数多いサンスクリット語を追い払おうとしている。その新しい過激主義によって、サンスクリット学問のとりでであったタミル州に於いて現在サンスクリット語の状態が危うくなっている。また、各州の学校教育に於いてインド政府は「三ヵ国語制」を実行しようとしている。その政策に随うと、インドの子供たちは学校で三つの言語を勉強しなければならない:すなわち、第一にその母国語(大体の場合、その州の言語にあたる)と、第二に臨時公用語の英語、第三に本当の国語にならんとするヒンディ語の三ヵ国語を学ばなければならない。もしカルカッタの生徒の例をとれば、彼等は英語とヒンデ黷xンガル語を身につけなければならない。こういう「三ヵ国語制」の下では、サンスクリット語はどうしても第四位しか占められず、 その立場が非常に弱くなり、充分な勉強の対象になり難い。
  そういう困難にもかかわらず、サンスクリット語の復活は意外な方面で目に留る。以前から、インド国営放送 局オール・インディア・ラジオが毎日サンスクリット語のニュースを流している上、一社の新聞と児童月刊誌を含めて数多くの定期刊行物も出版され、新しい演劇作品も上演され、流行歌も作られている。現代生活に応じる日常会話を中心とする教科書も編集されている。最近では、ヒンズー教系の過激派が発展するにつれて、宗教象徴としてもサンスクリット語が政治家に重視されてきた。
  インターネットにも関連のサイトがいくつか作られたが、次に言及するラテン語と比べると、サンスクリット語の復興過程はまだまだ初段階にあるとしか言えない。

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