漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 1(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授

其の一

はじめに

 パリ大学をはじめとして、のち国立高等研究院の宗教学部でフランス人の学生たちに漢文入門講座を担当しだ してから、早くも十五年以上になる。一年間で終わるこの入門講座は、大学で「日本文学」という専門コースを選んだ学生にとって必須科目なので、パリ東洋語学校の学生を含めて、毎年十人位を相手に講義する。
  担当者として、日本語の学生に漢文を教えることの主な困難は、まず漢文の勉強の必要性を理解させることで ある。ここで漢文というのは、いうまでもなく中国の古語(中国語では「文言」と呼ばれるもの)を指すだけでなく、歴史を経て日本語の発音と文法に順応させられた、「返り点」を使っての「訓読」を中心にした日本独特の言語現象を意味するので、この言語現象に対する一般学生の反動はもっとも当然であろう。つまり「日本語を専攻している僕等がいったいなぜ漢文のようなややこしいものに煩わされなければならないのか。つまり古典中国語を読みたいなら、中国語を直接に勉強した方がずっと分かりやすいのではないか」等の意見がしばしば聞かれる。長年の経験から、私は最近、まず講義を始める前に「漢文の弁護」とも名付けられる短い話をすることにした。
  そこで、誰でも分かる簡単な譬喩で説明する。もし日本歴史の初期から明治時代まで文字で表記されたすべての文章を、漢文か仮名まじり文で書かれたものによって二つの部分に分けた上、それぞれを天秤に乗せるならば、漢文の塊の方が仮名書きの塊よりはるかに重いという事実に注目させる。ということは、広義の文学、すなわち詩や美文だけでなく、医学、数学、工芸などの技術と科学に関する文章や古文書と碑文の様な史料を含めた意味の日本文学を顧みると、漢文で書かれたものがその大部分を占めていることがわかる。それが故に日本人が作った漢詩、歴史、美文の漢文文章はともかく、一般の明治以前の社会の勉強を目指す学生にとっても、漢文の知識が不可欠だということで話を結ぶわけである。
  今日でもフランスの中学校でラテン語の教育が行われている。十七世紀までのヨーロッパに於ける学問の共通言語としてのラテン語と東亜に於ける漢文の位置を比較すると、学生たちは何となく漢文学習の重要性を納得するのであるが、なぜ「訓読」というとんでもない読み方に従ってそれを解読せねばならぬかという理屈を分からせるのはなかなか困難である。そこで、私は次の三つの理由を並べて、訓読の価値を説明する。
  第一の理由は、日本語学の範囲を超えた一般的な学問上の論拠である。すなわち、寡聞ながら、返り点による 日本式の漢文訓読に類した言語現象は東西にわたってどこにも存在しないものである。朝鮮半島とベトナムで漢文が存在していても、その読み方はむしろ日本でいう素読や棒読みに似たものであり、朝鮮漢文の場合、送り仮名に近いものがあるが、返り点は使わない。また返り点の起源について、確かに古代朝鮮説が有力であるが、それがかなり早い時期に放棄され、より簡単な仮名まじりの棒読みが広がったために、返り点付の訓読を現代まで生かしたのは日本だけだという事実は否定できない。したがって、その言語現象は唯一無二のものであるだけに学者の注意を引くに充分である。いわば、一つの文法に随う書面言語(古典中国語)が、もう一つの、文法的には完全に違う口頭言語(日本語)で表現されるという不思議な工夫が日本式の漢文である。類似した現象を全ユーラシアに探してもなかなか見つからない。敢えてそれに近いものを見出だそうとすれば、古代中近東のヒッタイト文字と、中世ペルシャのパフレビ文字の例が挙げられる。前者の場合、セム語族が表記するアッシリア・バビロニアの楔型文字を借りて、インド・ヨーロッパ語族に属しているヒッタイト語の言葉でそれを口頭で読んでいた。日本語でいえば、漢字で「山」と書き、読む時は「やま」と発音する習慣に非常に近いと思われる。後者の場合、やはりセム語族が普段表記するアラム文字をインド・ヨーロッパ語系の中世ペルシャ語に当てはめられたものであるが、先の楔型文字と違って、アラム文字がアルファベットであるにも関わらず、パフレビ語話者がそれを表意文字として利用することはなかなか興味深いものである。平たく日本語でいえば、ローマ字で 「mountain」と書いて、それを「やま」と読ませる様な工夫と変わらないのである。その二つの場合も、日本語の漢字の音読と訓読の方法に酷似しているが、日本式の漢文訓読、すなわち漢文の「読み下し」とは本質的に違うことに留意しなければならない。
  もう一面から見ると、蒙古の仏教寺院で行われていた僧侶の教育方法には、日本漢文の訓読に漠然と似た練習 があったそうである。二十世紀の蒙古の偉い学僧の回顧録を読むと、子供時代の仏教経典が読めるまでの勉強を描写する場面が出てくる。蒙古人にとって聖語だったチベット語を把握することが優先であったので、その目的に達するためにかなり有効な練習法を発展させた。初心者の小坊主が先生のもとで、まず経典の原文をチベット語で一句ずつ読み、次にその一句を蒙古語に翻訳させられる。また逆に蒙古語訳を読み、それをもとのチベット語に直させる。そういう集中的な訓練をして、蒙古の学僧たちが自分の母国語より、学問の聖語だったチベット語で驚くべき量の論文を数世紀かけてしたためた。奈良時代の大学寮で行われた漢文教育がその方法に近かったのではないかと、私は時々想像するのであるが、蒙古寺院の場合、漢文訓読との著しい相違は蒙古語(蒙古文字)とチベット語(チベット文字)がはっきりと区別されていることである。日本の漢文では、完全な二重的構造を有する一つの言語であることを強調しなければならない。奈良時代にはまだそうでなかったと思われる。古典中国語で書かれた文章をまず当時の中国の発音になるべく近い音で読み、次に当時の日本語に口頭で直す習わしであったそうであるから、蒙古の僧侶の練習に似たものだったかも知れないが、後期に行われた日本式の漢文訓読とは非常に違う。そういう理由だけでも、言語学、文字歴史、あるいは広く人間の精神史、文化史に興味のある人ならば、独創性の強い日本式漢文を一応勉強する甲斐があることが明白になる。
  二つ目の理由として、より直接に日本文化史と関係している。日本の古典の文化を支えてきた古代中国人によ る古典中国語の「四書五經」などは中国語のままで読めば忠実な理解が得られると常識として考えがちであるが、そこでもヨーロッパ文化史と實相を比較すると、その常識だけでは足りないということが分かる。たとえば誰か がプラトン哲学を真面目に勉強しようとする。もしその人が古典ギリシア語を知っているならば、プラトンの作品を直接に熟読し、あらゆる資料を参考にすることによって、プラトン自身とその時代についてできるだけの知識が得られる。それはもっとも効果的な方法であろう。もしギリシア語の知識が皆無であれば、フランス語、ドイツ語、英語などで出版された翻訳を集めたり、それを比較しながら自分なりの解釈を立てるのも、現在の哲学の一段階としては、それだけの価値を有するもう一つの方法として可能性がある。それに対して、ルネサンス時代のヨーロッパにおけるプラトン哲学の受容と展開を研究しようとするものであれば、前の二つの方法はどちらも無駄になる。この場合、まず不可欠なのはフィレンツェのマルシリオ・フィチーノによって十五世紀に行われたプラトン全集のラテン語訳を熟読する事である。現代的な方法に随う校訂者が出版したプラトンのギリシア語原文も、またその原文を基準にして行われた現在の翻訳もそういう勉強にはあまり役に立たない。ルネサンスの当時に流布した写本を使い、当時の理解に基づいたフィチーノのラテン語訳か、また当時その翻訳からヨーロッパの話し言葉(イタリア語、フランス語など)に直されたプラトンの重訳を参考にしなければ、目指している研究を有意義的に果たせないことは論を待たない結果である。
  日本式漢文もまたしかりである。例えば江戸時代の儒教史を勉強しようとする学生にとって、春秋時代の古代 中国語をなるべく忠実に訳述した英・仏語の現代訳や古代中国の歴史と言語を標準にする解釈だけを利用するだけでは、江戸時代の儒教者の解釈が分からなくなる。簡単な例を挙げると、論語の最初にある名文「孝弟也者其為仁之本與」の後半を「それ仁のもとたるか」または「それ仁をおこなうのもとか」のどちらかの訓読にしたがって読めば、意味が多少変わってくる。江戸の儒教者の注釈史を目指す人は、まず顧みなければならないのがその人の訓読の仕方である。論語の場合、前漢の時から出来た集成の原文が一方に存在する。それを早く言えば永久不変の文章であって、それをなるべく正しく理解しようとすれば、春秋時代の中国語から漢朝の思想史までの研究をもとにして勉強を進めなければならない。もう一方、日本の思想史に包摂された論語の受容に重点を置こうとすれば、ある程度まで(あくまでもある程度までであるが)原文中心主義的の「偏見」をさて置き、その代りに歴史を経て変遷した日本人的な訓読(読み下し)を重視しなければならないのも最も当然である。
  普通子音だけで表記するアラブ語やヘブライ語では、母音を言葉の上下に小さな点と線で書き加える。アラブ の文法学者はその母音の役割を、骨である子音に対して血か魂に例えるそうである。骨の間に血が流れるとようやく言葉が生きてくる、という象徴に富んだ譬喩である。日本式訓読の場合、日本人にとって漢文の原文を生かしている力は返り点と送り仮名である。まさに漢文の血または霊魂に喩えられる。中国人、少なくとも古典的な教育を受けた中国人にはもちろん白文で充分であるが、日本人にとって訓読という媒介がなければ、文章が死んでいるとも言えよう。それ故に、一定の時代の日本における中国文化の影響を理解しようとする人には、その時代の訓読をも顧みる必要がある。

  第三の理由は日本人によって作られた漢文の作品に関するものである。いわば、第二の理由の対称と言っても良い。元来中国人の頭でしたためられた文章を日本人の語感に移す過程としての訓読に対する段階、日本人の頭でできた文章を今度は古典中国語に直す段階である。漢文から訓読への移行が逆に訓読から漢文への移行となる。この場合、日本式の漢文訓読を充分に勉強する必要はそれ以上論ずるに及ばないが、日本語の読み下しでなければ、その文章のリズムや余韻などを味わうことが不可能になり、また、和臭漢文、変体漢文になると、日本式訓読が第一の条件になってしまう。私のように、日本天台宗の論義に興味のある人ならば、数多い論義集を正しく理解するために、日本語で読まなければならない。私の講義に出席する中国語の学生にとって、古典中国語の知識だけで、日本の資料を読もうとすれば必ず誤解が生じる。例えば、室町時代の『柏原案立』という論義集の冒頭にある句を引用してみると、「二佛並出不可有云事」(二佛並出あるべからずということ)の前半には「不可有」まで中国語で解読しようとすれば、あまり問題はないが、後半の「云事」が前半にどういう風に連なるかと正しく判断するために、日本語の訓読「ということ」にしなければ、とんでもない意味になってしまう。無理に「二人の佛陀が同時に出てもいうことができない」というようなわかった様なわからない文になる。正しい漢文では、この文は「所謂二佛不可並出者」のようなものになると思う。弘法大師の美文「三教指歸」はもともと何語で読むべきだったかさだかでないが、かなり早い時期から日本の僧侶が漢文の原文に素晴しい読み下しをつけたので、その日本訓読をもって読まなければ、文学的にも、思想的にも誤解の生ずる恐れが大きい。
  以上の三つの理由を並べて、漢文入門の講座を受ける日本語科の四年生に日本漢文の重要性を心得させる。ほかにもいくつかの理由が上げられる。特に平安時代からはやりだした和漢混淆文から、第二次世界大戦まで学問、歴史、法律などの専門分野に認められた「普通文」に至るまで、また場合によって幸田露伴のような大作家の文 体を充分に鑑賞し分析するために漢文訓読の基本知識が非常に重要な道具であることを理解させ、講義中に文例(たとえば露伴の「運命」の初頭の部分)を見せる。

 前にも書いた通り、学生たちに東亜に於ける漢文の地位と、欧州に於けるラテン語の地位とを比較してみせる と、一見してごく不自然に見えた日本漢文の現象が初めてより広く、ユーラシア全体の枠に位置付けることができる。極東の漢文=欧州のラテン語という簡単な方式が成立した以上、やはり比較を他の文化圏に広げようとしてみるのは、おのずから合理的な方法と思われる。言語文化史の観点よりユーラシア大陸の文化の歴史的展開を一瞥すれば、興味深い事実が目につく。非常に古いスメル文明やエジプト文明の時代から、現代のアラブやイスラムの世界に至るまで、そのもろもろの文化圏はみな、普段の話し言葉と相当離れた形をもち、どんな民族にも属していない伝統的なまたは聖なる性格を有した言語を専ら使用してきた。ヨーロッパでは十七世紀から、東亜では二十世紀に入ってからようやくその情勢が変わったため、わずかにこの二、三世紀の新しい状況に慣れてきた多くの人々が、五千年間ユーラシアを支配していた文化情勢をあたりまえと思わなくなった。五千年の間、司祭、学者、文人、官吏は自分の民族の話し言葉とは直接関係のない言語を採用して、大事なことをつづるためにそれを使用してきた。その文化現象を、私は敢えてhieroglossiaと呼ぶことにして、日本語では「聖語制」と呼ぶことにした。必ずしも適する呼び方でないかも知れない。「聖」と言えば、宗教的な次元と密接につながりすぎる嫌いがあるが、ここでは「俗」の反対語と考えていただきたい。
  このような「聖語制」という現象を出発点として、ユーラシア全体の文化をより総合的に考えられるのではな いかと私は思う。特に俗語と聖語の関係、後者の前者における影響とその逆の影響を調べると、いろいろな共通点が現われてくる。言わば、仏語、英語、独語に於けるラテン語の影響と、日本語(韓国語、ベトナム語)に於ける漢文の影響が立派な比較研究の対象になりえると私は確信している。
  残念なことに、その聖語制はいまだに総合的な研究の対象になっていない。なぜ無視されていたか、その理由 は非常に簡単である。そのような研究を行うはずの言語学者が原則として、生きている言語のみを研究の対象としているという方法的前提なのである。「自然言語」、すなわち生まれながら両親とまわりの環境から身につけた言葉だけが科学的な研究の価値があるという妙な偏見が言語学の方法論に強く傾いているのは否定し難い事実である。古代から生存し、豊富な文化上の役割を果たしてきたもろもろの古典語(聖語)が「死語」という呼び方で侮られて、文献学者の専攻に任せられるようになった。最近の言語学において、確かにラテン語の研究が盛んになってきたように思われる。学会、論文集、単行本でもラテン語を扱う研究活動が少なくないが、そういう研究は飽くまでもラテン語がまだ生きていた時代の現状しか顧みないものであり、むしろ言語学の新しい学説を、 そしてラテン語を実験台として試してみるのが目的である。中世、近世のラテン語を蔑ろにするものである。が、それと対照的に、インドのある言語学者が現代サンスクリット語を調査して、それについていくつかの研究報告を発表したが、まだまだ限界のある傾向を見せているのである。「死語」の中で、現代サンスクリット語だけが特別に言語学者の注意を引いた理由として、インドの人口調査に依ると、今でも数千人のインド人(主にバラモンのカースト出身)がサンスクリット語を母国語と申請した事実があるかも知れない。この様な統計はどこまで信頼できるか疑わしいが、現在に於いてもサンスクリット語を現代語の如く話す人がいることは正当な言語学研究にふさわしい対象と言えよう。
  二十一世紀の漢文の可能性を述べる前に、東亜に於ける漢文というもの自身がいかにも独立した、いや変態な 文化現象ではなく、ユーラシア全体に広がる「聖語制」の一角とみなさねばならないということを改めて強調したい。また面白いことに、数百年、場合によって数千年もの伝統を保ってきたその「聖語」の中には、最近驚くべき復活過程を経ているものもある。この復活過程を一番忠実に反映している情報手段は他でもない、インターネットである。たとえば、英語でOld Tongues Revived(復活された古代語)という単語で検索してみると、世 界中の学者や愛好者が普通「死語」とされているいくつかの言語に新しい生命力を与えようとする努力が明らかに存在しているのである。インターネットという最も現代的な手段が古代言語の復活に利用されるという意外な展開であるが、無視することのできない事実である。
  これからいくつかの「死語」の生存と復活の諸相を調べた上、その復活運動の中で漢文が国際的にどんな役割 を果たしているのであろうか、そしてインターネットという革命的な新情報手段がどういう風にその復活を助けることができるかという問題に言及したいと思う。


http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn122.html
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