沖繩縣知事選舉で佐喜眞淳候補の對抗馬とされる玉城デニ-候補。
昨日尖閣について發言したさうだ。ビデオ: 
https://twitter.com/take_off_dress/status/1045568213868634112
 早速、氏のツイッターに以下文面を送信しました。 
https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1046168115082670080
 https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1046169597299372034
 玉城殿。内閣官房委託の尖閣特別研究員石井より申し上げます。昨日ご發言「明清琉球日本を尖閣史を檢證する話し合ひが必要」。歴史檢證は學術討論であって、既に行なはれてゐます。一例が東京財團、チャイナ社會科學院共催論壇で、私も參加しました。「話し合ひ」は政治的になるので宜しくありません。
 政治でなく學術討論を玉城殿が開催するなら喜んで招きを受けます。近代以前の尖閣史は明清琉球日本でなく、臺灣海峽の東印度會社、スペイン・ポルトガル・イギリスと朱印船との覇權史です。臺灣・オランダなどの研究者を中心に純粹學術でやりませう。日本全勝になりますが惡しからず。

佐喜眞淳

 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


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