かつて京大教授井上清氏が尖閣を利用して政治煽動を行なってゐた。それを今なほ一種の「論點」として評價する人がゐるが、そもそも論點と呼ぶべきではない。もう四十七年も前の煽動言論がなぜ今なほ幽靈のやうに甦るのか。今の我々があまりにも不勉強だからだらう。
 井上氏の煽動は全てウソにもとづく。ウソとは何か、それは例へば一つの事柄のうち半分だけ切り取って提示し、のこる半分を無視すること。例へば寶石が二顆ある。一顆はもとの持ち主の手元にあるから、竊盗行爲は無かったと主張する。今一顆は犯人の手中に在るので犯罪は確かに行なはれたのだが、それは無視する。このやうな主張はウソと呼ぶべきである。

 井上氏の煽動第一條:「琉球の國境線は久米島までなので、久米島以西は全てチャイナである。」
この煽動に對し、清國臺灣府側の國境線を奧原敏雄氏が提示し、久米島の國境線との間は無主地だったと明らかにしたが、井上は無視した。

 井上氏の煽動第二條:「冊封船が久米島に着く際に琉球人は歸國を喜んだから、久米島が琉球の西限であり、その西側はチャイナだ。」
この煽動に對し、喜舎場一隆氏は册封船が大陸附近に到着した際の喜びを提示し、兩側の喜びの中間は公海及び無主地だったと指摘した。井上は無視した。

 井上氏の煽動第三條:「黒潮の急流に逆らって琉球人が尖閣に行ける筈が無い。」
この煽動に對してはわざわざ反論するまでもなく、琉球の朝貢船が那覇福州間を毎年往復してゐたのだから、井上氏のはウソである。あまりにも人を馬鹿にしたウソだ。

 井上氏の煽動第四條:「日本には近代以前の尖閣史料が一つも存在しない。」
この煽動に對し、奧原敏雄・尾崎重義は朱印船史料のトリシマが尖閣であることを提示した。朱印船史料のトリシマは、それ以前の中村拓『御朱印船航海圖』で提示されてゐた。井上は無視した。

 井上氏の煽動第五條:「琉球人はチャイナ人から尖閣航路を教へられた。」
この煽動に對し、奧原敏雄は最古の尖閣記録たる西暦1534年の陳侃録に、チャイナ船中で琉球人が水先案内pilotをしてゐたことを提示した。井上氏は無視した。

 以上のやうな煽動に騙されぬやう、私も近年大量の史料を擴充した。代表的なものだけは内閣官房委託調査報告書に盛り込まれたが、それはほんの斷片に過ぎない。私に反論したい人は先行研究をしっかり讀んでから騷いでもらひたい。こちらのリンクなどでも
馬鹿騷ぎが繰りひろげられてゐる(3012-3146)。我々の著述を讀まずに騷がれても困る。私がわざわざ先行研究を提示して差し上げる必要は全く無い。

 ▼井上清氏とチャイナ共産黨幹部 新華社
井上清


 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


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