贈右大臣大久保公哀悼碑  
うわ、こりゃ名文だ!と思ったら重野安繹撰。流石です。

嗚呼、此贈右大臣大久保公殞命之所也。
公之在世、身繋天下之安危、天子倚以為重。
一朝變生不測、溘焉長逝。
悲夫、自古忠臣烈士、死于非命者何限。
然概在喪亂之世・擾攘之際。
乃公則功成名遂、遇國家方隆之運、
將永享太平之樂、而遽罹此禍。
宜乎 九重震悼、天下識與不識、無不惋惜痛歎也。
抑公既以身許國、死生禍福、一聽于天而不悔。
而其所施爲、赫赫在人耳目。
則公雖死乎、猶有不死者存焉。
距公之薨七年、過此地者咨嗟歎息、往往低徊不能去。
於是僚友義故、胥謀建碑、以表追悼、亦情之不可巳也。
公之勲業、藏在太史、勒在桓珉、此特記建碑事由、以告來茲。
明治十七年十月 編修副長官從五位勲六等重野安繹撰。
内閣大書記官從五位勲五等金井之恭書。

清水谷大久保公哀悼碑
寫眞はこちらから拜借。
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以下、圓滿字二郎氏の和訓と現代語。
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 嗚呼ああ、此ここは贈ぞう右大臣大久保公の殞命いんめいの所なり。公の世に在るや、身は天下の安危を繋つなぎ、天子は倚りて以もって重きと為す。一朝いっちょう、変、不測に生じ、溘焉こうえんとして長逝ちょうせいす。悲しき夫かな
 ああ、ここは、没後に右大臣の位を贈られた、大久保利通公が命を落とされたところである。大久保公はこの日本において、国家の命運を背負い、天皇陛下も頼りにして重要な役目を託しておられた。それが、ある日、予想もしていなかった事件が起こって、かき消えるように亡くなってしまった。悲しいことであった。

 古いにしえより忠臣烈士の非命ひめいに死する者、何ぞ限りあらんや。然しかれども、概おおむね喪乱そうらんの世、擾攘じょうじょうの際に在り。乃すなわち公、則すなわち功成り名遂げて国家方隆ほうりゅうの運に遇い、将まさに永く太平の楽しみを享けんとして、遽にわかに此の禍に罹かかる。宜むべなるかな、九重きゅうちょう震悼しんとうし、天下の識ると識らざると惋惜わんせき痛歎つうたんせざる無きなり。
 昔から、忠義を尽くす家臣や行動力のある武士たちが、数限りなく、悲劇的な死を遂げてきた。だがそれは、天下が混乱しているときや、世の中が大騒ぎしているさなかのことだった。それなのに、大久保公は、功績を挙げ名声も得て、国家が隆盛に向かっていく中で、これから末永く、落ち着いた時代を楽しもうというところで、急にこの悲劇に見舞われたのだ。宮中の奥深くまで悲しみに震え、直接の知り合いであろうとなかろうと、世の人がみんな残念がって嘆いたのは、当然のことであった。

 抑そもそも公は既に身を以て国に許し、死生禍福一たび天に聴まかせて悔いず。而しかも其の施為しいする所、赫赫かくかくとして人の耳目じもくに在り。則ち公は死すと雖いえども、猶お死せざる者有りて存するがごとし。
 とはいっても、大久保公は、一身を国家に捧げ、死のうが生きようが、不幸になろうが幸せになろうが、すべてを天に任せていて、後悔はしていなかった。それに、その業績は燦然と輝いて、だれの目にも明らかだ。だから、大久保公は亡くなったけれども、死なないで生き続けているのと同じなのである。

 公の薨こうずるより距へだたること七年、此の地を過よぎる者、咨嗟しさ歎息、往往にして低徊ていかいして去る能あたわず。是ここに於いて、僚友義故ぎこ、胥ともに謀りて碑を建て、以て追悼を表すも、亦た情の巳むべからざればなり。公の勲業は蔵おさめられて太史たいしに在り、勒きざまれて桓珉かんびんに在り。此に特に建碑の事由を記して以て来茲らいじに告ぐ。
 大久保公が亡くなってから、7年の歳月が流れた。この場所を通りかかった人はため息をついて悲しみ、なかなか立ち去ることができないことも多い。このたび、一緒に仕事をした人や親類縁者が一緒になって、相談して石碑を建てて追悼の意を表すというのも、このままでは気持ちが収まりきらないからである。大久保公の業績は、歴史家がしっかりと記録しているし、公の墓碑にも刻まれている。ここには建碑の経緯を特に記して、後世に伝えることとする。