長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1184559X
   陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。
  釣魚嶼(てうぎょしょ)
  黄毛嶼(くゎうもうしょ)
  赤嶼(せきしょ)
後の琉球和名は次の三つである。
  よくん(いゆぐん)
  くばしま(こばしま)
  あかしま(くめあかしま)
比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。
 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。
 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。
 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。
 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。しかし何故ここだけ湯桶讀みとなるのか分からない。
 平成十四年平凡社『日本歴史地名大系』第四十八册「沖繩縣の地名」第五百四十四頁には、慶良間諸島の久場島を「くぼーじま」といふ讀みで載せてゐる。「黄毛嶼」は「くぼーじま」を湯桶讀みで記した可能性がある。  
 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄茅嶼が、福建で黄麻嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは普遍的に同音となる。
 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉じ易い。
 そもそも日本の地名を福建人が福建字音で記すことは、當時の普遍的通例であった。西暦十六世紀末の航路書『順風相送』では、長崎を福建字音で「籠仔沙磯」、佐賀の名護屋を福建字音で「隴車仔」と記す。晩明の『西湖二集』末卷では、徽王汪直の控制の地を列し、博多を福建字音で花脚踏に作る。
 夏子陽『使琉球録』卷前「琉球過海圖」でも、粟國島を「安根尼」及び「翁居里山」に作る。翁居里は福建字音である。「琉球過海圖」は北京圖書館出版社『國家圖書館藏琉球資料彙編』影印「會稽夏氏宗譜」活印本『使琉球録』に載ってゐる。
 一方、チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。
 結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。日本の地名を福建字音で記すことは、國土を領有することに繋がってゐないことは確かである。
 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外として刊行したのだらう。
長山樗園大日本唐土輿地全圖横濱市立大學藏1
 長山氏圖では臺灣北方諸島の一つ彭家山が「彭化」の名で載ってゐるが、尖閣と距離が近く、區別できてゐない。もともと朱印船史料は尖閣と臺灣北方諸島とを明確に懸隔させて區別してゐたが、歐洲製地圖では西暦千七百五十一年のゴービル(Gaubil)製圖以後、兩者を混同する。またゴービル以後の歐洲製圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗る。長山圖はこの二點で歐洲製圖の地理認識の浸潤を受けたと考へられる。幕末の歐洲の最尖端認識ではなく、西暦十八世紀後半から十九世紀初期までのやや舊式の認識である。
 尖閣未編入時だから、長山圖は着色の一例に過ぎない。しかし歐洲の普遍的尖閣認識を日本人としても知悉してゐたことを示し、それなりの歴史的意義がある。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。
長山樗園大日本唐土輿地全圖横濱市立大學藏2
 次に明治二十六年漂流事件と大いに關はるのは、『大阪朝日新聞』明治十八年(西暦千八百八十五年)九月二十二日第二面記事である。國吉まこも氏が尖閣との關はりを發見し、平成二十七年八月二十七日及び九月一日『八重山日報』第四面に「尖閣諸島雜考」(上下)と題して、國吉まこも・石井望聯名で公表した。
 この朝日記事に引かれた同年の文匯報の紙面は現存が確認できない。しかし朝日新聞及び申報記事「臺灣警信」を併せみれば文匯報の原意はほぼ明らかになる。朝日新聞から直接的に分かることは、
1、文匯報が注意を促したのは尖閣附近の宮古諸島(宮古八重山諸島)であり、申報の言ふ東北側の尖閣ではない。
2、五年前(明治十三年)の分島改約案ゆゑに沖繩の領有を記者は憂慮している。
3、文匯報は宮古八重山と別に尖閣を清國領土とはしてゐない。
4、文匯報の長い報道を申報が短く摘録した。
以上四點である。そこから推論できるのは、
5、文匯報の宮古八重山諸島が、かりに尖閣を含むならば、尖閣が清國の臺灣附屬島嶼だとの主張を文匯報が否定したことになる。
6、朝日の「東側」に對し、申報は「東北側」となってゐる。當時のイギリスなどの地誌では八重山諸島を往々臺灣の東北側とするので、文匯報の原文は東北となってゐた可能性もある。
7、申報は短く摘録したに過ぎず、文匯報のイギリス人記者に較べて清國人は關心が低かったと分かる。
8、日本政府は尖閣が清國領土だから恐れたのでなく、分島改約案との關聯ゆゑに、列強乃至清國を刺激することを恐れたのである。そもそも井上馨山縣有朋間の密書では、尖閣を「清國國境に接近」つまり清國境外としている。
以上四點である。明治十三年の分島改約案以後、清國は沖繩縣設置につき承認してゐなかった。しかし明治二十六年、井澤漂流事件で清國側公文に「沖繩縣八重山島」も文字が出現することは、朝日新聞及び井上馨が憂慮した八重山領有問題について、清國が承認したことを示す。(終)
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以上、長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。
次に、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。
八重山20170515グロ4
國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船時代(四終)
               長崎純心大學准教授 石井望
 今一つ、西暦1810年の山田詠歸齋(えいきさい)「地球輿地全圖」でもほぼ朱印船海圖と同じ位置に尖閣を配する。印本數種が現存し、宮城縣圖書館及び横濱市立大學藏本は無着色、德島大學藏本は日本から清國まで黄に塗るので、色は問題ではない。注目すべきは「釣魚臺」の名だ。釣魚臺の名を尖閣諸島の中に確定した最古の史料である。チャイナ史料では確定できず、釣魚嶼(しょ)・釣魚臺(だい)を臺灣北方諸島の西側に置くものが約半數を占める。
 山田圖の釣魚臺をチャイナ名だと勘違ひする人が多い。しかし釣魚嶼の最古は、西暦1534年に琉球職員が明國の使節陳侃(ちんかん)を案内した記録であるから、琉球側が命名した可能性が99%となる。琉球の漢文名であってチャイナ名ではない。陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。
  釣魚嶼(てうぎょしょ)
  黄毛嶼(くゎうもうしょ)
  赤嶼(せきしょ)
後の琉球和名は次の三つである。
  よくん(いゆぐん)
  くばしま(こばしま)
  あかしま(くめあかしま)
比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀(よ)みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。
 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。
 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。
 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來(でんらい)し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬(ぞく)する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經(どきゃう)するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。
 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。
 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄麻嶼が、福建で黄茅嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは普遍的に同音となる。
 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉(てん)じ易い。
 チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。
 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外としたのだらう。
 西暦十九世紀前半までの歐洲製地圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗るので、長山圖はそれを採用した可能性がある。勿論尖閣未編入時だから、着色の一例に過ぎない。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。
 末尾ながら、八重山日報五月四日第六面に元空將織田邦男氏の重要な指摘があった。大意に曰く、「先に自衞隊を出すと、チャイナは日本が先に軍を出したと國際社會に宣傳(せんでん)する。日本は輿論戰にやられてしまふ」と。精到の論だ。自衞隊常駐のために必要なのは世界的輿(よ)論戰に勝つことである。それには國際法でも安全保障でも足りない。歴史戰こそ勝負の鍵となる。
 宏闊にして悠久、嗚呼偉なるかな尖閣史。世界の九割の人々がそれを理解した時、自衞隊は世界的支持のもとで尖閣に常駐できる。歴史をマニアだとか趣味だとか馬鹿にするやうでは尖閣を守れない。尖閣の主役は歴史である。
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以上、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。

 次に、以下はたまたま今日(平成三十年五月三日)見つけた匿名ブログ。國吉まこも先生の匿名ブログかも知れない。みなさまご參考にどうぞ。
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尖閣諸島の領有権問題・ブログ 2013.07.30 Tuesday ホーム「尖閣諸島の領有権問題」は http://senkakujapan.nobody.jp/ へ移動しました。
http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
☆久場島考察
 ☆なぜ「久場」とされるのか 
 尖閣諸島や慶良間の「クバシマ」はなぜ「久場」島と書かれるのであろうか。なぜこういう字になるのだろうか。クバには様々な漢字のあてかたがある。蒲葵、古把、久葉、久波、古場などが使われている。コバは九州に特に多い地名であり、古場、古庭、木場、木庭、木葉、小場と書かれることが多い。しかし沖縄のクバシマは久場島とされる。記録をみる限り、ほぼ例外なく、そうである。久場とあてるのは「久しい場」という意味づけが行われていると考えるのが妥当である。つまり悠久の場である。でたらめに当字がなされているわけではない。慶良間の久場島は古史料のなかで古場島とされる例があったのを思い出した。しかしやはり「古い場」となる。久場と同じ意味である。これは偶然ではないと思う。
 琉球の伝説を思い起せば、天地創造の当時の状態を保っているという意味となるであろう。いにしえはすべての島にクバがおいしげっていたのである。
 
 ☆久場島の中国名――黄尾嶼という呼び名
 中国人はかなり後になってから琉球海域に入ってきた。漂流は古来からあったであろう。しかし琉球に対して継続的な意図的渡航を試みはじめたのは十六世紀頃からである。
 記録を見る限り形式的には中国名の方が古くからあることになる。しかしそれは自然的歴史的条件からありえないことである。
 島の中国名は、先に存在していた琉球名と関わりがあるのでないだろうか。解析してみよう。
 クバを手がかりとして島の中国名を分析していくと、琉球名の方が中国名よりも先にあったということをはっきりと理解することができる。  
 すでに分析した結果でわかる通り、尖閣諸島の古名は間違いなくクバシマである。しかし現在、クバシマという呼び名は諸島の内にある一島、つまり久場島に固定されている。これには明確な理由があるのであるが、それについては後述する。
 久場島の中国名は、現在においては黄尾嶼である。黄尾嶼の初出は、いつかは明確にはつかめないが、私が見た最古の例は1579年(万暦七年)の明末の史料のなかにあった。蕭崇業と謝杰の使琉球録をみるとその琉球過海図のなかに黄尾嶼があらわれている。
 この島には黄毛嶼、黄茅嶼、黄麻嶼などの名があった。この一連の名には何か共通の意味があるのであろうか?確かに黄という漢字が共通している。しかしそれだけであろうか?
 記録されている順番をきちんとみると黄毛が古く、次に黄茅、それから黄麻となり、黄尾となる。順番に変化したわけではなく、一時は混在して用いられていた。黄茅や黄毛は古い時代にしか使われていない。明代の殊域周咨録には黄花嶼とある。これは特異な例である。
 最初に記録があるのは黄毛嶼である。陳侃の使琉球録にでてくる。初出型で考えてみよう。
 
 ☆黄毛嶼の発音
 黄毛嶼はどうよむのであろうか。黄の漢音はクワウである。毛の漢音はボウである。クワウボウである。聞き慣れた感じがする。
          ↓
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【黄】《音読み》
コウ(クワウ)[漢],オウ(ワウ)[呉]〈hu・ng〉
 
 毛】《音読み》
モウ[呉],ボウ[漢],モ[慣]〈m・o〉
――グランド辞スパ
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 クワウボウとはクバであろう。陳侃は、クバといった琉球の人々の発音を、黄毛と漢字をあてて書きとめたのだろう。
 これはこじつけではない。実は、この島の中国名のどれを考えてみても、同じようなことがいえるのである。
 
 ☆漢音で考える
 中央から派遣されてくる明国の官吏は北京語を使った。琉球の人々の発音を聞取って書く場合には、北京語の音で当字したであろう。呉音ではなくて漢音を用いたであろう。
           ↓
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 官吏が、都の北京の地方語を、それぞれの地方の赴任さきで使用した。(-233)
△――熱河日記2 東洋文庫
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 ☆黄茅の発音
 陳侃の後に来琉した郭汝霖の册封録には黄茅がでてくる。
 茅の漢音はボウ(バウ)である。  
        ↓
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【茅】
《音読み》
ボウ(バウ)[漢],ミョウ(メウ)[呉]〈m・o〉
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 これは黄毛とほぼ同じように読める。黄茅もクワウバウあるいはクワウボウであろう。つまり黄茅もクバ(島)であろう。陳侃の聞いた黄毛と同じ音を郭汝霖は聞いたのだろう。
 琉球の人々の迎接使や夥長がクバというのをやはりそのままかきつけているにちがいない。陳侃は黄毛とし、郭汝霖は黄茅と書いたのである。黄茅の下に嶼も島も山もついていないところをみると相当、遠くからみたのかもしれない。嶼なのか島なのか郭汝霖には判断できなかったのであろう。
 
 ☆鄭若曽の黄麻嶼
 鄭若曽の『籌海図篇』では黄麻嶼となっている。黄麻嶼という名を最初に用いたのは鄭若曽のようである。『籌海圖編』は鄭若曽が十六世紀に編んだ有名な海防書である。
 
 ☆黄麻の発音
 黄麻の麻は、どう読むのか。漢音はバである。すると黄麻はクワゥバとなる。

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【麻】
《音読み》
マ[唐],メ[呉],バ[漢]〈m・〉
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☆クバに似た音で呼ばれる島嶼
 黄毛だけではなく、黄茅、黄麻という漢字名もクバを思わせる発音を聞取ったと思われるものである。久場島にあたる島のあるところに、中国史料においては、クバによく似た漢音をもつ島名が頻りにででくる。偶然であろうか。いやそんなはずはない。  

☆黄花嶼
 これもクバ(島)に関係のある名前であろう。
 おもろそうしの巻十三の百をみてみよう。
          ↓
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  本文                 訳
聞え、あけしのが       名高いアケシノ神女が
東方の蒲葵杜         久高島の蒲葵御嶽の
蒲葵の花の咲き居れば     蒲葵の花が咲けば
うら~~と若夏使い      のどかに神女をお招きする
又響む、あけしのが      有名なアケシノ神が
蒲葵(びろう)の花は黄色の粒を吹きあげたように雄大で南島の若夏の特徴のある風物である。
――南日本の民俗文化Ⅶ 増補南島の古歌謡 小野重朗 1995年 第一書房
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           ↑
 
 琉球の人々にとっては、クバの花はこのように印象的であった。四月から五月にかけて咲くのであるから、丁度、琉球船が沖縄に帰る頃である。ただ中国人にとってはみても余り印象的ではなかったかもしれない。しかし黄花嶼とされる例があるのが気になる。黄色い花が島をおおうさまをみて、そのようにいわれたのだろうか。とするとそれはクバの花を指すのは間違いない。久場島が黄花嶼とみられたとしても不思議ではない。
 
☆黄尾嶼
 黄尾嶼を考察してみよう。現在においても使われている。今出されている日本製の地図のなかにさえ、この名が記されているものがあるほどである。定着した名である。
 黄尾という呼び名はどこからでてきたのか? またどうして定着したのか?
 
 ☆黄毛→黄尾の変化
 これは毛が尾に変化したのであろう。
 紅頭嶼は、明代には紅豆嶼と呼ばれていた。つまり豆が頭に変化したのである。十九世紀の海防書・洋防輯考では、釣魚嶼が約魚嶼と表記されていた。岩崎卓爾は「ひるぎの一葉」のなかで尖閣列島を光閣列島と記している。当時の地学雑誌を読んでいると確かに、収録された地図に光閣と読めるように島名が印刷された例がみられる。デフォルメしすぎて光閣とも読める字体になったのであろう。岩崎もたぶん光閣と見たのであろう。このようなことはよくあることである。黄毛嶼が黄尾嶼に変化したということもありうることである。いや間違いなくそうであると私は思う。
 黄尾はクバには似た音とはならない。しかしこれは黄毛の変化した名だったのである。
 
 ☆なぜ黄尾嶼は定着したのか
 台湾総督府の出した「台湾語大辞典」には、ンベェ=黄尾 として 
 
1.葉または梢が黄ばんで枯れる
2.悲惨な状態になる
 
 ……という意味が記されている。
 この2の意味、悲惨な状態になるというのは、册封録を読んでいると、納得できる。中国人にとってはまさに落?(←そこで水が下に落ちているとされていた)にむかう荒々しい海にまで来った気持をあらわすのにぴったりである。黄茅、黄毛というような名よりも、黄尾という名の方が定着してしまったわけである
 赤嶼も赤坎嶼と表記されることがかなりある。(赤嶼とは別に赤坎嶼という島があるとされている例もある。)この坎という字にも困難な状態に陥るという意味がある。赤坎嶼は黄尾嶼と同じ意味あいをもつ島名だったのである。
 
 ☆黄麻嶼も消えない
 清代においては、黄尾嶼がもっともよく使われる。しかし、黄麻嶼と記載された例もかなりある。一応、この二つの名が定着していた。
 黄麻はクワゥバと読めるわけだから、クバという発音を黄毛や黄茅よりも正しく写し取っていることになる。このため黄麻嶼がそれなりに定着する理由もわかる。
 
☆至黄麻嶼
 後に詳しく考察するが、あの有名な『籌海図篇』において、琉球に向かう針路の条のところに、至黄麻嶼という表記がみられる。ここから後の島にはずっと至るとつけられている。大琉球那覇までそうである。なぜこんなところで至が使われるだろうか。至黄麻嶼は大琉球の地に至るの意味ではないか。間違いなく至クバ島の意味である。
 クバシマが琉球の一部であることを明人はよく知っていたのではないか。明代からすでに中国の知識人はそう知っていたはずである。『籌海図篇』が余りにも有名であった。それが流布していたのであるから、疑う余地がない。ある地点から突如、はじまる「至の連鎖」を他に解釈することはできない。
 再三いうが、クバシマは琉球の伝統的領域であることが、これまでの分析により明らかである。琉球の人が間違いなく琉球の領域と考えたところで、中国人が至黄麻嶼としているということの意味をよくよく考えねばならないのである。
 
☆魚釣島の名の由来
 魚釣島は尖閣諸島最大の島である。主島といってもいい。この島の名前の由来について考察してみよう。
 
 ☆釣嶼
 魚釣島は、釣嶼という名で最初に記録されている。陳侃の使琉球録にはそうなっている。島の現在知られている中国名は釣魚嶼或いは釣魚台である。史料をみる限り、釣魚嶼の方が、魚釣島よりも四世紀も早く記録されていることになる。またしてもそうである。
 
☆琉球起源の名
 釣嶼(釣島)という呼名に注目すれば、魚釣島の名の由来が琉球起源であることがきちんと解明できる。魚釣島も実はクバシマと深い関わりのある名である。
 クバシマを歌っている「おもろ」が琉球王府によって採録されている。これが手がかりとなる。考察してみよう。
 
 ☆おもろとは何か  
 まずオモロとは何か。確認してみよう。
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「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(ノ)り奉るの意)
沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ一二世紀から一七世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(二二巻、一五五四首、一五三一~一六二三年)がある。
――『広辞苑』
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おもろ(標準語の「思う」に対応する沖縄方言の「うむれ」からとも、「あもり(天降)つく」の「あもり」からともいう)琉球古代の歌謡。神事や宮廷の祝宴などに謡われた叙事詩。内容は神、労働、恋愛など雑多である。日本の神楽歌や「万葉集」にあたる。
c &  1987-1996 Microsoft Corporation. All rights reserved.
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) c Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)c小学館 1988.
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☆クバシマのおもろ
 クバシマのおもろがおさめられているのは「おもろそうし」の第十三巻である。この巻は「船ゑとのおもろ御そうし」となっている。天啓三年(1623年)に、とりまとめられ成立したとされている。
 
 この「船ゑと」から蒲葵島がでてくる部分を抜出してみるとこうなる。
    ↓
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》蒲葵島の神々
》おさんしちへ 守りよほ
》つれ島の神々
》おさんしちへ 守りよほ
 
註釈
   おさん為ちへ →   鎮座して。ましまして。
   守りよわ  →    守り給え
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 この蒲葵島は久高島をさし、つれ島は津堅島とされている。
 原註に「久高津堅しまの事なり」とされている。
 
 尚貞王が編纂を命じた沖縄の古辞書、混効験集にも「久高津堅両嶋名なり」とされている。この混効験集は手書きの草稿しか見つかっていない。表紙の中央に評定所と書かれている。この評定所というのは、首里城にあった。行政の要であった。そこに大事なものとして保管されていたのである。公刊されなかったということは、何を意味するのであろうか。重要な秘密だったのであろう。このオモロが重要な歌であったことはいうまでもない。混効験集の混は渾の意味である。単なる古辞書ではなく、神聖な言葉の辞書なのである。
 このオモロで、人々は二つのクバシマの神々に航海の安全を祈っている。いうまでもなく、クバは神のよりしろである。
 
 沖縄本島の東南部の沖にあるこの二つの島は、ともにくばしまと呼ばれていた。くばが全島をおおうばかりに生い茂っていたのであろう。
 津堅島はつれ島ともいわれていた。二つの島を区別しなければならない場合には、久高島の方をくば島とし、津堅島の方をつれ島と呼んでいたのである。渡島する場合には、必ず区別が必要である。この「つれ」とは日常的に使う「つれ」という意味で使われていると思われる。お供ということであろう。津堅島の名のもとは、この「つれ島」にあるものと思われる。
 久高島の方が琉球発祥の地とされていた。だから「つれ」島は津堅島にあてられたのである。津堅久高は併称されることが多い島であった。
 
 ☆当時の発音
          ↓
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 「おもろさうし」は変体仮名を含む平仮名で書かれ、漢字はほんの少ししか用いられていない。これは島津の琉球入り以前から成立していた表記法で、当時の発音と表記との関係はまだ充分明らかにされていない。(-50)
 
――沖縄語事典 国立国語研究所編 昭和38年 大蔵省印刷局
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 当時の発音が正確にはわからないというのは、やっかいなことである。とくに琉球方言は地域差が余りにも大きく、一概にはいえない。しかも時代とともに音は変化しているはずであるから考察は極めて厄介である。五母音から三母音へと変化したのはいつ頃だったのであろうか?これまた明確ではない。
 しかし琉球方言の母音変化の一般的な原則では、母音オは母音イに変化するはずだから、レはリとなるはずである。だから、つれ島はつり島と発音されていた可能性が極めて高いと思われる。断定してもいいと思う。
 この「つり島」というのが気になる。
 尖閣諸島においてもクバシマの隣りにつり島がある。偶然だろうか。
 
☆つれ島→つり島
 尖閣諸島にもクバが生茂る二つの島があった。久場島と魚釣島である。二つのクバの生茂る島を共にクバシマと古くは呼んでいたであろう。二つを区別する場合には一方をつれ島といったのではなかろうか。
 或る時、つり(=つれ)に、釣という漢字があてはめられてしまったのであろう。漢字を当てる場合につりが釣となるのは自然である。本土の人がそうした可能性が高い。ここに釣島が生じてしまったのである。
 
☆クバシマとつれ島のおもろ
 くば島とつれ島のでてくるおもろの全文を見てみよう。
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はつにしやが節(←唱え方を指定したもの)
 
御宣り人が もちよる
神にしやが もちよる
で 吾 言ちへ 走りやに
選ぶ~~ 選ぶ
百選びの親御船
選ぶ~~ 選ぶ
八十選びの親御船
百人 乗る 船子
七十人 乗る 船子
いや~~真ころ子が
一の楫 真強く
蒲葵島の神々
おさん為ちへ 守りよほ
連れ島の神々
おさん為ちへ 守りよほ
 
那覇泊 ぬき当てゝ
親泊り ぬき当てゝ
 
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         単語の註釈↓
 
御宣り人      神女名
神にしや      神女様 「にしや」は接尾敬称辞
もちよる      きらびやかに美しいこと。
で いざ。     さあ。感動詞。
言ちへ       言って。囃して。唱和して。
 
百選びの親御船・
八十選びの親御船  数多くのなかから選びすぐった立派な船
                    
いや~~真ころ子  立派な、あっぱれな男子。「いや~~」は美称辞。
一の楫       立派な楫
おさん為ちへ    鎮座して。ましまして。
守りよわ      守り給え
ぬき当てゝ     目ざして。……に船先を向けて。
 

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 このオモロは久高渡を歌っているとされている。久高島(古名はクバシマ)にティンガナシー(琉球王)と聞得大君が隔年毎に渡るという定例の儀式があった。久高島は琉球の発祥の地とされていた。アマミキヨが島々を創造し、始めて穀物の種子をまいたのは久高島であった。神聖なクバシマなのである。そこへ渡ることになっていた。
 聞得大君の即位儀式は、真夜中に知念の斎場御嶽で行われていた。クバで葺かれた仮屋に一泊する。やはり、古くはこの儀式は久高島で行うこととされていたのではなかろうか。
 
 17世紀の中頃からは、ティンガナシー等は渡島せず、知念村の斎場御嶽から島を遙拝してすますことになった。羽地朝秀が進言したためである。しかしそれまでは古来から必ず渡島することになっていた。
 
 久高島の人々は水夫としてティンガナシーと聞得大君をのせる船に乗り込んで久高渡をしていた。よりすぐりの船と人が選び出されたのである。ティンガナシーと聞得大君が乗り込むのであるから、この航海は比類なき大事な航海であった。この渡海は海が荒れることが多く非常に難路であるとして知られていた。津堅渡も久高渡と同じように恐れられていた。
 航海の安全を津堅島や久高島の神々に切実に祈るわけがわかるのである。ティンガナシーと聞得大君を連れて帰る復路も、また久高島の水夫が活躍したのである。
   
☆労働歌
 このクバシマのおもろは、労働歌であるとされる。人々が労働する場で歌われていたのである。このことは重要である。
 
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 ゑとはイトとも発音し、労働作業歌の意である。作業をするとのエートという掛け声に由来する名だという。労働作業といっても一人で歌うものではなく、共同の結作業の場で多人数で歌うもので、音頭取り(根取り)がいて、それに衆和する形で歌うのである。(-167)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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 久高島の水夫は渡唐船や紋船や馬艦船にも乗り込んでいた。つまり「唐渡」もし、「大和渡」もし、先島方面にも航海していたのである。このため貢租を免除されていたという。馬艦船や渡唐船にのりこんだ久高島の男たちは尖閣諸島を望見することも多かったのである。
 琉球の船乗りは尖閣諸島が見える辺りで供え物をして海神を祭ったと册封使李鼎元は報告している。いつもそうしていると琉球の船長が話したと。常にそうしていたはずである。琉球の人々はこの折りにクバ島を祭っていたのではないかと思われる。そのときにこのおもろが歌われたとしても不自然ではない。このオモロが、渡唐船のなかで歌われたとしても何らおかしくはない。繰り返すが、久高島の船乗りが多数、渡唐船にのりこんでいるのである。
 久高島の水夫たちは、久高渡りのときと同じく、唐渡の際にも間違いなく、歌っていたはずであると思う。これは労働歌なのである。
 
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 ゑとオモロはすべて船上の労働に歌われたものばかりということになる。
 このことは、沖縄本島でこれらの船ゑとが歌われた十五世紀から十六世紀中葉までは、琉球の海外貿易の盛んであった時代で、人々は中国へ日本へ、南蛮の島々へと船で広く雄飛して、沖縄の歴史の大きな進展期にあたる。そうした基盤の上に、これらの船ゑとは立派な海洋文学として花開いたのである。(-167-168)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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ゑとオモロは庶民化したオモロで、最も新しい形をもつものが多い。(-149)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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☆神女たちの祈りの歌
 このオモロは、航海安全を祈る予祝行事の際に神女たちによって歌われていたと、池宮正治は「琉球古語辞典混効験集の研究」(1995、第一書房)のなかで述べている。労働歌ではなかったのであろうか?
 
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 神女が航海の安全を祈るのは、古琉球から行われていて、これらは『おもろそうし』の巻十の「ありきゑとのおもろ」、巻十三の「船ゑとのおもろ」となってまとめられ、前者が王府の船の沿岸航路、後者が同じく王府の船の外洋航路の、航海の安全を祈る祭祀歌謡を集めたものであって、これに従事したのが聞得大君以下の神女だった。(-6)
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 この貿易は国家事業として営まれていたから、これもありそうなことである。よりすぐりの船と人を選び出して、唐へ送出したのである。大事な航海であった。
 神女たちの歌が、いつしか水夫たちに伝わるというのはありうることである。昔は神女たちが船に乗り込んでいたはずである。聞得大君だけが久高島に渡るわけではない。
 人々はこぞって祈りを捧げたであろう。
 労働歌でもあったと考えて不思議ではない。
 
☆尖閣諸島の歌?
 このオモロを更に掘り下げて考えていくと、大きな疑問が生じてしまった。本当に、この歌は久高渡の歌なのだろうか。
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『おもろさうし』巻一○の「ありきゑとのおもろ」(四五首)と巻一三の「船ゑとのおもろ」(二百三十六首)が航海のおもろといわれ(-207)
――王と王権の周辺   /新琉球史 古琉球編 琉球新報社
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「一般に船を帆走させることを走る、漕行することを歩くということから、これも船漕ぎ歌の意とされている」(-149)
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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両者は巻一○が、沖縄本島と周辺離島といった比較的に近海の航海を歌ったもので、巻一三は、唐(中国)や南蛮(東南アジア)や本土といった遠洋の航海を歌ったもので、両者にはそれなりに違いがある。(-207)
――王と王権の周辺   /新琉球史 古琉球編 琉球新報社
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 巻一三は遠洋の航海を歌ったものなのである。巻十「ありきゑのおもろ」は近くの島に行くための船漕ぎ歌を集めたものである。津堅島と久高島がでてくる歌であれば巻一○におさめられるはずではなかろうか。
 ここにでてくるくばしま、つれしまは、最初から久高島、津堅島をさしているのではないのかもしれない。これは尖閣諸島の久場島、魚釣島を歌いこんだ歌なのではないか。
「蒲葵島の神々おさんしちへ、守りよほ」の「おさんしちへ」は、原註に「遠~~とみろるして也」とされている。この遠々というのが気になる。やはり大洋を航海する歌であると思われる。池宮は、この言には高いところから見下ろすという意味があるとしている。久高島も津堅島も平均海抜は低い島である。平らである。いうほどの高地はない。尖閣諸島の二島はかなり高い島である。しかし見下ろすという言葉が、象徴的な意味で使われているかもしれないので断定は出来ない。万葉集にでてくる天香具山も、山ともいえないような低い丘である。
 
 混効験集坤巻には、「さやはだけみたけ」という言葉が取り上げられている。斎場御嶽のことである。次のような註釈がなされている。「知念間切有御嶽也。神歌ありきゑとの御さうしに見えたり。此御嶽霊地にて昔知念行幸の時は御拝賀有也。聞得大君加那しあらおれの砌も御参詣」。「神歌ありきゑとの御さうし」という表記が再三、この混効験集には見える。また「船ゑとのおもろの御さうし」についての言及も目に付く。しかしこちらには神歌とはつかない。神歌とされるのは、「ありきゑとの御さうし」の方である。
 「おもろさうしの巻十ありきゑとのおもろ御さうし」だけが神歌とされている。
 先述したように、この御嶽からは久高島が見える。遙拝するということでここから聞得大君とティンガナシーは礼拝したはずである。その斎場に伝わった神歌が、「神歌ありきゑとの御さうし」におさめられてはいないのが気になる。久高渡りを歌った歌であるというのは疑問になってきた。
 
 今、検討してきたオモロのなかにでてくる、つれ島、くば島はやはり尖閣の島々なのではないだろうか。渡唐の歌ではないのか。編纂した人は尖閣諸島の歌だと考えて巻十三に収めたのではないか。しかし今、早急に断定することはできない。
 当時としては久高渡は大洋の航海として受け取られていたのかもしれない。今の感覚でみれば近いといっても、過去においてはそうではないはずである。
 だがここでまた気になることが一つでてきた。それはおもろの以下の部分である。
 
那覇泊 ぬき当てゝ
親泊り ぬき当てゝ
 
 那覇泊をめざして、親泊をめざして、とはどういうことであろうか。親泊も那覇のことであろう。久高島に親泊があるのではない。久高渡りをするのに、那覇から出発するというのも妙である。沖縄西岸にある島に行くのだから……。知念あたりから久高島をみて出発するのがいいであろう。その方が安全であろう。久高渡りは帰路の方が危なかったのであろうか。いや久高島から対岸の知念あたりに渡る方が、まだしも安全であろう。久高島にわたる方が危険がより大だったように思う。目標が小さいということはそれだけ危ないはずである。なぜ那覇泊ぬきあててとのみ歌われるのであろうか。帰路のみを歌うのは……。
 
 しかし渡唐船の無事な帰りを祈るのであれば、那覇泊をめざしてとわざわざ歌われるのがわかる。大陸に向かうには、岸のどこかに着けばいいということからすれば、気が楽である。西方には、かなりおおざっぱに行くことになっていた。しかし帰路は、目標が小さい。往路でも帰路のことを考えていたであろう。
 
混効験集には
 こがねぐち 津口の事なり。「まはへまはへ。や(を)らおせ、ごがねぐちはりやさ」。とされている。那覇は黄金口とされていた。
     池宮は「○こがねぐち 黄金口。那覇港のこと。港や船溜まりのことを口という。」と註釈している。
 
 もともと久高渡と渡唐という二つの航海にかけてつくられた歌なのかもしれない。津堅久高、そして久場魚釣という両方の島々を読み込んだ歌かもしれない。
 
 このオモロが、もともとは久高と津堅の島々の神々に対する祈りを歌ったとしても、後に、尖閣の久場島、釣島を歌ったものとしても理解されるようになったとしてもおかしくはないのではないか。自然、そのようにとられるようになったと考えても無理はない。混集が編纂されたのは、かなり後になっている。古い伝承が、このオモロと結びつけられて、誤解を招く註釈になっていったのかもしれない。
 
☆つれ島→釣魚嶼
 釣島が、中国人のいう釣嶼となったとみるのが自然である。釣嶼のもとはつれ島であろう。
 先述したように、中国史料においては、陳侃が釣嶼と記しているのが最初である。次に来た郭汝霖も釣嶼としている。その後も册封録のなかで釣魚嶼は釣嶼と表記されたことがある。釣魚嶼が魚嶼と略される例は皆無である。
 つれ島→つり島→釣島→釣嶼→釣魚嶼と変化するのは自然である。ありうることである。この釣魚嶼がまた変化して魚釣島になったと考えられる。いや、そうではなくて釣島からいきなり魚釣島に変化した可能性がある。そしてそれが釣魚嶼となったとみることもできる。いずれにせよ、釣魚嶼は、琉球名が変化して生じた名であることは間違いない。
 
 册封使は釣魚嶼という漢字名をみたときにどう感じただろうか。魚の豊富な琉球地域の島という意味で理解したことは想像にかたくない。だから釣魚嶼が呼び名として定着したのであろう。十五世紀の西洋の記録をみると、琉球は魚が豊富であると西洋人にまで知られていたことがわかる。中国人からの伝聞と思われる。当時、西洋人は、まだ琉球にまで達していない。それなのにそう言及しているのであるから、琉球は魚が豊富だというのは非常に有名だったのである。
 
 おもろそうし巻十三の一七に、1517年に真南蛮(タイ)へ行く船に対して、オギヤカモイ=尚真王が祈りをささげたおもろがのっている。
 そのなかに「ぶれしまのかみかみ あよ そろて まぶりよほ」と歌われている。「群れ島の神々心を揃えて守りたまえ」と訳すことができる。このぶれしまとは何であろうか。
 
 △☆……中では、次のような新説が展開されている。このツレシマ、クバシマのオモロについてこう説明する。コバシマは慶良間諸島のクバシマであり、ツレ島は慶良間諸島全体のことをいったものだと。ツレシマはブレシマの意味であると。だから、おもろそうしや混集の註記は誤りだというのである。
 しかしこの新説はついては、まだ証明が十分ではない。にわかには信じがたい。これは王家の久高渡の際に歌われたオモロとされている。そのはずであろう。なぜそこに慶良間諸島がいきなりでてくるのであろうか。ティンガナシーが古来には慶良間に渡ったことがあるのであろうか。そのような解明もなしに、これらの島は久高島と津堅島を指すのではなくて、慶良間諸島をさすのだといきなりいわれても納得できない。オモロ全体の検討がなされていない。
 確かにこれが久高渡りの歌にしては変だと私にも思えていたのは事実である。だから検討した。
 
 この新説が正しいとすると、ツレ島はブレ島の意味であることになる。
 慶良間全体をさしてクバシマともいい、ブレシマともいったということになるのではないか。当時は、このクバシマは、現在の慶良間の最西にある久場島に特定されてはいなかったと思う。
 慶良間諸島とともに、尖閣諸島全体が群れる島と言う意味で、ツレ島と呼ばれても不思議ではないと思う。
 そのツレ島という名前がいつしか、尖閣諸島の魚釣島に固定されてしまったということになる。尖閣にも慶良間と同じように久場島があるのである。これは慶良間諸島を指すのではなくて尖閣諸島を指すとみてもいいのではないか。慶良間諸島と尖閣諸島とをだぶらせているとも考えられる。この歌は、渡唐の帰りに歌われる歌ではないか。
 しかしもっと研究が必要である。
 この新説が妥当なものであるかどうかは、今はこれ以上考察しない。
 
 ☆久場島の方がなぜクバシマとされるのか
 尖閣諸島には、クバの生い茂る島が二つある。なぜクバ島という名前が久場島の方についているのであろうか。より大きな魚釣島にもクバが繁茂していたのである。こちらが久場島といわれるのが本当ではなかろうか。
 二島を合わせてクバシマと琉球の人たちは呼んでいた。しかしクバ島として一島を特定する場合には、魚釣島ではなく「久場島」の方をクバ島と呼んだのである。二島の内ではなぜ小さな方の久場島を久場島としたのであろうか。必ず理由があるはずである。なぜであろうか?
 よばれはじめた時には、クバは魚釣島には繁茂していなかったと考えると説明がつきやすい。だが自然条件からみてありそうにないことである。台風の直撃を受けて、1日にして塩害により植物が大量に枯死するということは八重山の島ではよくあることである。しかし、その場合には二島とも同じであろう。
 クバシマは島の果てにあることが多いことを考えると、与那国から見て遠い方がクバシマになるのではないかと思える。与那国の人がそう呼んだのではないか。
 魚釣島には与那国島から人が移り住んだことがあるのではないか。だとするとその先が果ての島クバ島となるのがわかりやすい。しかし考古学的調査は十分なされていないから、断定することはできない。
 
 いや別様に考えることができる。魚釣島のクバは北側からみた場合にめだつ。北斜面にとくに繁茂している。南側は断崖をなしている。久場島の方はそうではない。どこからでもクバの繁茂しているさまが見える。琉球の人達が最初に尖閣に接近したのは、南や東からだと思われる。すると久場島の方がクバシマとなるわけであろう。もう一つがつれ島となるはずである。
 漁民は尖閣諸島をイーグンクバ島と呼んでいた。イーグンは銛であるとされている。魚釣島にはイーグンを思わせる尖塔があったが、クバシマでもあった。久場島の方はどう見てもイーグンとはいえず、クバの繁茂するシマであった。(そしてここらへんにある島のなかで久場島だけがイーグンには見えないのである。)このため、いつしかクバ島という名が、現在、久場島と呼ばれる島の方に固定したのではないか。そう考えることもできる。
 琉中航路が開かれるかなり前から、すでに魚釣島ではなく、久場島の方がクバシマと呼ばれていたのではないか。すっきりと説明がつく。
 
 だが中国史料をよくみていくと、クバシマとツレシマは入れかわったことがあったのではないかと推定できる史料が複数ある。どちらが「つれ」なのかが揺れ動いていたのでないか。そうともみえる。しかし今は、これ以上考察しない。
 
☆二つのクバシマ
 程順則の『指南広義』には、黄麻と黄尾という二つの嶼がでてくる。黄麻については、釣魚台前面黄麻となっている。この黄麻は久場島を指すはずである。釣魚嶼から四更離れているとされる黄尾嶼の方は存在しない。程順則は、伝本を記しているのであるが、なぜ存在しない位置に島があると書かれているのかは後述する。今、問題にしたいのは二つのクバシマが記されているということである。
 
 黄毛と黄茅という二島が存在していることになっている例もある。鄭若曽の万里海防図にはそうなっている。鄭若曽の著作をみると、黄毛山、黄茅山、黄麻嶼等の名が用いられているのがわかる。黄毛と黄茅、黄茅と黄麻というように使われている。鄭若曽が、二つのクバシマがあるかのように記しているのはなぜであろうか。
 
 尖閣諸島にはクバが生茂る島が二つ存在する。そのことと、黄麻と黄尾というように、あるいは黄茅山や黄毛山というように、図や針路に二つの島(=クバシマ系の名前の島)が記されることとの間には関係があると思われる。そして航路上に尖閣諸島の「久場島」と慶良間諸島の「久場島」が存在することにも関係があると思われる。慶良間の久場島もいれると、三つのクバシマがあることになるからである。
 慶良間の久場島と尖閣の久場島とを、中国人はとくに混同しやすいと思われる。同じ航路上に同名の島があるというのは混乱のもとである。
 魚釣島と久場島は相望む関係にある。尖閣諸島の久場島と慶良間の久場島の間はかなり離れている。
 これらのクバの島の位置関係が、認識に混乱を招いているのである。
 
☆四更離れる――針路の条の混乱
 釣魚嶼と、黄尾嶼或いは黄麻嶼は四更離れていると中国人が記述しているのをよくみかける。十九世紀末までそう繰り返されている。図に黄麻嶼と黄尾嶼の二つを登場させた場合もある。そのときは、黄麻嶼を釣魚嶼の全面におくとしながらも、黄尾嶼をそこから四更離れたところにあるともわざわざするのである。
 一更は六十里である。日本里ならば六里であろう。四更ならば二十四日本里離れていることになる。これはそれほど近いとはいえない。
 この誤りはどこから生じたのか? そのでどころは『籌海図篇』であると思われる。
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釣魚嶼北辺過十更、船南風用単針、東南風用単卯針、或用乙卯針四更、船至黄麻嶼
――『籌海圖編』使倭針経図説 鄭若曽
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 上の記載をみると、釣魚嶼と黄麻嶼は何更離れているのであろうか。四更? 十更? 十四更?
 十更或いは、十四更離れているとすると、この
黄麻嶼は慶良間の久場島を指すのではないかと思われる。しかしそうだとするとそこから姑米山に戻るというのはおかしい。やはり尖閣諸島の久場島をさすはずである。鄭若曽は混乱しているのである。二つのクバシマについての知識がいり混ざってしまっている。鄭若曽は、この水域に関しては、正しい認識を確立していないことがわかる。この混乱はずっとひきづられる。
   
 これより後世においては、なぜか二島は四更離れていると、理解されることになった。必ず四更離れていると記述されている。指南広義の針路でも四更になっている。指南広義がこのようにしたために、ますますこの四更離れているということは定説となっていった。なぜ琉球の人々が存在しない島を記したのかといえば、あえて訂正する必要を認めなかったからであろう。正しい地理的認識をことさらに与えないようにしているとも思われる。勝手に入ってきてもらっては困るからである。

 いやそれもあるかもしれないが、もっときちんとした説明ができることに気付いた。季節風の力をかりて黒潮の流れに逆い、尖閣諸島の沖を大陸に向かうことはかなりあったと考えられる。ここの海を乗り切るのは大変だった。この逆走は大変だったはずである。この場合、近いようにみえても、久場島が見えてから魚釣島が見えるまではだいぶかかったと思われるのである。これが四更の意味である。中国人が来琉する場合には黒潮の流れに乗ることが出来るから、二島は同時に見えるはずである。四更離れているとするはずがない。鄭若曽が、『籌海図篇』に記したことが後世に、四更離れているという誤解を生んだもととなったのではないようである。四更というのは琉球の人たちの認識をきちんと反映するものだったのである。『籌海図篇』の記載は不明瞭であり、なぜ四更離れていると後世において理解されるようになったのかが、うまく説明できない。
 
 籌海図編系の海防書「洋防輯要」(1838年重刊)をみると、「約魚嶼北過十更或四更至黄麻嶼五更赤嶼」とされている。著者には間が十更なのか、四更なのか判断できなかったのである。著者は彭佳山と約魚嶼をひとところにおいている。釣魚嶼と黄麻嶼が相望む位置関係にあるとは思わなかったのである。二島は離れていて、魚釣島から先に進んで、至黄麻嶼となると思ったのである。
 二島が相望む関係にあるとは一度も中国人は記していないのである。正しい位置関係を把握していないのである。とするとこの二つの名を命名したのは誰であろうか?中国由来の名でないことは明かである。
 
☆魚釣島と久場島
 航海の際に航路を正しく進んでいるかどうかの目印として見るだけであれば、この二つの島をとくに区別する必要はなかった。まとめて一島とみて十分なのである。相望む位置にある。区別されたのには理由がなければならない。私が行ったように解析すれば、なぜ区別されたわけがわかる。琉球の人々がこれを区別したのだとわかるのである。




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