平成30年3月31日、那覇市で惠隆之介先生をお招きして共同講座をしました。
http://senkaku.blog.jp/2018032775515326.html
私のお話した内容を八重山日報でまとめておきました。毎週日曜の連載です。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamahontoban0180408.html

八重山300408連載23電子

尖閣大航海時代(二十三)  石井望(談)  
天皇の艦長の遠祖   薩摩から米二百俵   

 先日(平成三十年三月三十一日)、著名評論家惠隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏をお招きして講座を行ないました。惠氏の名著『昭和天皇の艦長―沖縄出身提督・漢那憲和の生涯』は、昭和天皇晩年の愛読書として知られています。
 かねて惠隆之介氏から、漢那憲和(かんなけんわ)の祖先が琉球福州間貿易の船乗りだったとお聞きしていました。そこで私も漢那氏の祖先について勉強して講座でお話しました。
 惠氏の著書によれば、憲和の父は憲慎です。『人事興信録』第六版(大正十年)以後にも見えます。そして『昂姓家譜』(那覇市史・家譜資料4、泊系、216ページ)によれば、憲慎の遠祖憲興氏は、西暦1795年に公式貿易船の「直庫」に任命されました。直庫という職は、副船長級の乗員として史料に散見しますが、文字通りなら倉庫番(宿直)です。
 長崎くんちの唐人行列では「てっこ」が棒を手に演武します。福建南部の字音で直庫は「てっこ」そのものなので、長崎と琉球の船中で共通の武職だったのでしょう。
 家譜のつづきによれば、翌年(1796)四月と十月に、憲興らの船は福建沿岸で海賊に遭遇し、見事に退治しました。さらに翌年(1797)帰国します。歴代記録では尖閣航路から帰国するので、この時も尖閣航路だったと考えられます。漢那憲和の祖先はほぼ確実に尖閣諸島を目撃したことがここから推測できます。
 帰国後、海賊退治の忠義に対して薩摩藩主から膨大な褒賞が有りました。船中の役人は米各二百包(俵)、水夫は米各百包です。福州貿易を薩摩資本が管理したことがよく分かります。
 福建沿岸に海賊が群がっていた記録は多数あります。明国清国の使節船も沿岸の馬祖列島までは海賊に遭遇しますが、琉球海域では遭遇しません。琉球船も清国船も、武力行使の海域は常に福建沿岸でした。
 鎖国日本の制海権が福建沿岸に及んだことが、漢那氏家譜と併せて他史料からも分かりますが、それは次回。
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徳川後期『長崎名勝図絵』巻之三「直庫振りの図」。長崎史談会印本、284ページ。.
長崎名勝圖繪卷三直庫振り圖1931活字本google