伊藤俊幸氏「尖閣接續水域の航行の自由は認めて、相互主義にせよ」
http://www.sankei.com/column/news/180119/clm1801190006-n4.html
大間違ひです。
第一にチャイナ濳水艦は日本の領海に接近を意圖したのでなく、チャイナ領土としての尖閣に接近したのです。日本の領土を奪ふべく宣戰布告して接近するに等しい。これは民船、官船、軍船を問はず急迫不正の侵掠意圖です。そこを伊藤氏は無視してゐます。
伊藤氏は單に武器を持った徘徊者としてゐますが、正しくはさうではなく、「俺自身の家にいつでも這入るぞ」と大聲で喚きながら武器を持ってゐます。相互主義ならば日本も「福建は俺の家だから這入るぞ」と喚かねばなりません。
日本は尖閣先制防衞を國内制度として定めるべきです。侵掠意圖を明示する國の全船舶を所定水域侵入の瞬間に撃沈します。この制度が公布されるとチャイナは完敗するので、民間船すら接近しなくなります。インドネシアやベトナムでも撃沈してゐます。
第二に假に相互主義ならば、前提として日本の軍艦が福建接續水域に頻繁に行かねば意味がありません。自衞隊は行ってません。まづ自衞隊が毎日福建に行く實績を積み重ねてから相互原則の交渉が始まります。行かないのに相互原則だけ作ったら實質的にチャイナの自由權だけが行使されます。
しかも、相互主義の協定を結ぶ前提は尖閣を日本の領土とすることです。これを「武器を持った徘徊者」が認めるわけがありませんから、協定は成立しません。今の所謂「尖閣相互聯絡システム」なる茶番が尖閣を明文化できないのと同じことです。伊藤俊幸氏は完全に空論です。これが自衞隊幹部の水準です。
何故自衞隊幹部や專門家が毎度こんな他愛も無い空論に陷るのでせうか。それは歴史意識が缺如してゐるからです。480年の歴史(下方にまとめ)を見れば、尖閣には確かに領土問題が存在せず、チャイナはゼロなのです。自衞隊幹部や專門家は、領土問題存在せずと口先では言ひながら、實質的に領土問題が存在するといふ思ひ込みを前提として議論する。だから誤るのです。
下は伊藤氏が論説と同じ趣旨を語ったビデオ。14分から16分ほどまで。
https://www.youtube.com/watch?v=fXIAUQ6QS9A
以下は伊藤氏論説より。
「他人の庭に平気で入り込む中国軍には相互主義で対応せよ」伊藤俊幸
http://www.sankei.com/column/news/180119/clm1801190006-n4.html
武器を持った徘徊者に等しい
抗議の仕方を誤ると、日本も「航行の自由」を認めない国になってしまう。今回の日本政府の抗議は、「新たな形での一方的な現状変更で、事態の重大なエスカレーションだ」としたが、接続水域での軍艦の法的な取り扱いには一切言及していない。付言するならば、尖閣諸島の接続水域での活動に対して抗議したのであって、宮古島での活動は言及していないともいえる。
日本の国有化宣言以降、中国は、尖閣諸島周辺海域に中国海警局の政府公船「海警」を遊弋(ゆうよく)させ、時には領海侵入さえしている。これは「この家は自分のものだ」と主張する他人が、家の前の道を頻繁に徘徊(はいかい)し、時々庭に入ってくる状態だといえる。
他人が公道を歩くことは違法ではないが、この徘徊者が武器を持って公道を歩きだし、いずれは武器を持ったまま庭に入ってくるかもしれないと考えると、今回の中国の潜水艦と艦艇の行動を黙って見過ごすことはできない。
では、どうすればよいか。それは「相互主義」で対応することである。「相互主義」とは「2国間で相手国内で認められた権利を自国内でも認める」考え方だ。日本政府も中国に対しては、領海内では「事前許可」を、接続水域や排他的経済水域では「事前通告」を求めることである。もちろん中国以外の国に対しては何もする必要はない。今こそ中国には「相互主義」の適応を宣言すべきである。
下は八重山日報、平成30年1月21日、「尖閣大航海時代」談話連載第14囘。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0180121.html
必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。
歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。
國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。
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