「尖閣諸島問題と先住民族の権利 : 先住民族の視点から領土問題を考える」
 上村英明 恵泉女学園大学紀要26。ページ133 - 156 発行年2014-02
http://id.nii.ac.jp/1294/00000708/

文中に曰く、
「先占」の法理を考えれば,「尖閣諸島」はそもそもこの法理が適用可能な地域に位置するのだろうか。中国政府の主張によれば,「尖閣諸島」は1534年中国から琉球王国に派遣された使節である冊封使の記録『使琉球録』以来,その歴史的文献に現れている。また冊封使が,中国から琉球に最初に派遣されたのは,1372年のことであり,福州(図2参照)から那覇に至るその航路から考えれば,さらに古い時代から「尖閣諸島」がその標識島として使用されていたことは容易に想像できる。その点,「先占」の法理の適用そのものがまず,「尖閣諸島」を語る論理として不適切である。

と。これは奧原敏雄氏の昭和四十年代の論文を完全に無視してゐる。
故意に無視してゐるならば讀者に對する詐欺行爲であり、
無知であったならば恥ぢて訂正すべきだらう。

西暦1534年陳侃『使琉球録』には、琉球航海士が
册封船に乘り組んで導航したことが歴々と書かれてをり、
昭和四十年代に既に奧原敏雄氏が論及してゐる。
私も更に詳細にこれを論じた論文は、
上村氏よりもずっと早く刊行されてゐる。
1534年より以前は史料が無いが、上村氏流儀で想像するならば、
古來琉球人が航路の標識としてゐたことは容易に想像できる。

上村氏論文の「先占は成り立たない」といふ論點が全て
西暦千五百三十四年陳侃使録に頼ってゐるだけなので、
そこを訂正するならばこの論文を撤囘するに等しい。

また上村氏は、平成二十五年(西暦2013年)一月に
讀賣新聞全國版で大きく報導された『皇明實録』を知らない
のだらうか。『皇明實録』では明國海防限界線が
馬祖列島の東湧島までで盡きることを明記してゐる。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2023.html
他にも膨大な史料の内容を上村氏は全く知らぬかの如くである。

今一つは、慶長年間以來、琉球全土を薩摩藩が統治してゐたことを
上村氏は完全に無視して、明治政府が沖繩縣を設置したことを不當として、
從って明治政府が尖閣を編入したのも不當だとする。
薩摩による統治が少々緩やかだったから無視するのだらうか。
かりにさうであれば、上村氏は近代中央集權的基準を
遡及適用したことになる。近代を否定しながら、一貫性も何も無い。
遡及適用でなく、單に無知だったならば訂正すべきだ。
そこを訂正すれば根本からこの論文は存在し得ない。

琉球が列強と外交を行なったことを上村氏は誇張するが、
ならば薩摩長洲は軍事を以て列強と交戰し、和議を成した。
外交よりも強力な國家的行爲であり、國權行使である。
その薩摩長洲が日本國内なのだから、まして薩摩統治下の琉球が
日本國内であったことは言ふまでもない。
そもそも琉米條約は、近代的軍艦で強制的に入港の上で交渉し、
琉球が自己の貿易法を制定することを制限した不平等條約である。
上村氏は都合の良い時だけ近代基準を遡及適用したり、
俄かに近代基準を否定したり、話にならない。


上村氏さらに曰く、
もし,「尖閣諸島」一帯が生活圏として使用されてきたとすれば,
台湾宜蘭県などの漁民,また伝統的な漁民である蘭嶼島の原住
(先住)民族であるタウ民族などが黒潮に乗って伝統的に利用していた可能
性も否定できない。そうであれば,ひとつのアイデアは,琉球
人民・民族と台湾原住(先住)民族の領土権を確認しながら,日本,中国,
台湾の各国政府が従来の領土論を取り下げ,先住民族の権利を尊重し,

云々と。
臺灣人が十九世紀末までに尖閣に到達した記録は一切存在しない。
遙かに蘭嶼まで持ち出すならば、
朱印船地圖と朱印船航路簿で蘭嶼はタバコシマと呼ばれ、
西暦十九世紀の歐洲人は「シマ」の名を以て
蘭嶼が日本の勢力圏だらうと推測した。そこを無視しては話が始まらない。

他にも根據無き妄言だらけの論文だ。逐一批判してゐては切りが無いのだが、ロバート・D・エルドリッヂ「だれが沖繩を殺すのか」(PHP研究所、平成二十八年)の中で、上村氏が國外で琉球ほぼ獨立論を助けてゐると知ったので、少々批判を書き留めておく。

關聯:
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-238345.html
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-248890.html
http://senkaku.blog.jp/2018012274621504.html
http://senkaku.blog.jp/archives/1453610.html



Botel_Tobago_1905_wikipedia
 
  ▲蘭嶼のドイツ製地圖。西暦1905年。ウィキペディアより。西暦十七世紀までの地圖では「Tabaco Xima」(タバコシマ)と出て來る。


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