アベマTV。宮臺眞司氏が「クヅ」といふ罵語を繰り返してゐる。注目は、ビデオ6分20秒から宮臺眞司氏曰く、「琉球王朝はチャイナが作った」。
 これは違ひます。宮臺氏は如何なる定義で言ってゐるのか。考へられるのは三つ。
1、チャイナからの影響で琉球人が國家意識を持ち、三山が生まれ、後に統一琉球國となった。
2、明國の册封を受けて琉球國の國號が生まれた。
3、三山を統一した中山王尚巴志の時代、歸化人家系の三十六姓の人々を重用した。

反駁。
1、國家といふ制度が生まれたのは、メソポタミア文明に始まり、後の諸文明の諸國家は全てその影響を間接的に受けてゐる。日本が國家として統一されて行ったのも、周邊に國家といふ制度が先に到達してゐたため、その影響を受けたと考へられる。朝鮮もチャイナも西方文明からの影響を蒙らずに成立した國家は無い。そのやうな間接的影響を「誰々が王朝を作った」とは呼ばないのが一般常識である。
 琉球は繩文時代以來、日本文化の地域であり、日本の南北朝の各地勢力が亂立する時代に中山國を産み出した。源氏などの武士が南九州から南下して中山國を作ったことは、近年の研究により傳説を超越して史實に近づきつつある。一方でチャイナ人が西から來て琉球を作ったといった傳説は皆無である。民俗學的な方向性としては、琉球は日本から生まれたとしか言ひやうが無い。

2、琉球國が最初に册封を受けた記録は『皇明實録』洪武五年(西暦1372年)に見えるが、琉球といふ國號を下賜したとは書かれず、册封使を琉球に派遣したと書かれてゐる。玉偏の「琉球」は中山國(沖繩)側の自稱にもとづく可能性が高い。
http://senkaku.blog.jp/2017031970019415.html
明國からわざわざ國號を下賜したならば、下賜したといふ書き方になる筈だ。後に西暦1429年に三山が統一されたが、『皇明實録』宣德四年(西暦1429年)以後に國號琉球を下賜した記載も無い。洪煕元年(西暦1425年)に册封使柴山が尚巴志を册封した記述でも、琉球といふ國號を下賜したと書かず、琉球國中山王を嗣ぐやう册封したと書かれてゐる。
 後に『中山世譜』卷三の察度王紀には、洪武皇帝が「瑠求」を「琉球」に改めたと書かれてゐるが、もとの『皇明實録』はさう書いてゐないので、『中山世譜』の附會に過ぎない。『中山世譜』はチャイナの記録から衍生する附會の多い書である。例へば元朝が侵掠した琉球即ち臺灣西南部を、沖繩であるとして、中華に親近することを喜ぶが如くである。『中山世譜』のチャイナ關聯記述はこの傾向が強いので、史實として信頼することはできない。

3、三十六姓は王ではなく臣下である。また、三十六姓は福建人(含客家人)であり、民族としてチャイナ人ではない。リンク:
http://senkaku.blog.jp/archives/19112464.html
 初期琉球國の宰相亞蘭匏及び懷機は唐人だとするのが定説だったが、最近になって地元琉球人だったと分かった。

附記。琉球の正史『球陽』に引く『遺老傳』によれば、尚巴志時代から歴仕した國相懷機は、尚金福王の二年(西暦1452年)に長壽神社(浮島神社)を創建し、天照大神を祭ったと書かれてゐる。琉球で創建年代の記録の殘る最古の神社である。懷機は三十六姓だとされてゐたが、三十六姓の大臣が天照大神の神社を創建するのは普通ではない。このたび懷機は三十六姓に非ずと分かり、謎が解けた。
 懷機は道教本山に護符を求めてゐるが、護符を求めるのと神社を創建するのとでは、信仰の重さが全く異なる。

附記二。
ビデオの後ろの方で(分秒失念)、宮臺氏は「周邊國の信頼釀成」の後に重武裝すると言ってゐる。これは空論だ。周邊國が信頼できないから現状の危機に立ち至ったのである。宮臺氏の言ふ重武裝は永遠に實現しない。宮臺氏自身も永遠に實現しない前提で格好をつけてゐるだけだ。「クヅ」を繰り返した自信家がこんなものか。

附記三。
9分40秒から12分50秒まで、琉球及び尖閣についてトンデモ發言が相繼いでゐる。別途書くのでお待ち頂きたい。