内閣府、尖閣輿論調査が報導された。
http://www.asahi.com/articles/ASKBW5D7CKBWUTFK00C.html
平成二十九年
http://survey.gov-online.go.jp/tokubetu/tindex-h29.html
平成二十五年
http://survey.gov-online.go.jp/tokubetu/h25/h25-senkaku.html

各社報導には何故か「歴史」の二文字が出て來ないが、實際には國民が高い關心を示してゐるのは「歴史」「根據」である。

内閣府尖閣調査平29b


内閣府尖閣輿論調査平25


尖閣世論調査八重山日報赤

唯一、八重山日報だけは「歴史」に關心が高いことを正確に報じてゐる。流石だ。左側は昨日沖繩で講演した百田尚樹氏。

 國民が尖閣常駐完全防衞を支持するか否か、最後の勝負は大きな歴史で決まるのだ。勿論、世界輿論が支持するか否かも、平和にして悠久にして重厚なる尖閣歴史ロマンで決まる。
 「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」