https://www.youtube.com/watch?v=NN36PNgMfT8
 とても勉強になる。勉強になったついでに、チャイナといふ歴史的存在について、私も勝手にブログで議論に加はりたい。
 15分半から、「琉球もチベットもウイグルもチャイナの影響下」と仰せである。東南アジア諸國および一時的にはオランダも朝貢した。しかし琉球はチベットウイグルと違ふのではないか。諸國は大きく海陸二種に分かれる。
 海側の諸國(朝鮮・日本・琉球・ベトナム及び東南アジア)は明國の始祖洪武皇帝の遺訓により「不征の十五邦」と呼ばれ、征討されることは無かった。明國の統治力も兵力も海外にとどかなかったからである。そのひとつ琉球も、チャイナ統治外であったことが分かる。
 陸側の諸邦は明・清と相互に討伐を繰り返し、しばしば明・清の半統治下となり、清では「藩部」と呼ばれ、「理藩院」の管轄となった。そして清の末には内陸の諸邦を「五族共和」と呼んだ。五族とはチベット・ウイグル・モンゴル・滿洲・チャイナを指す。これらの内に、琉球など海側から朝貢する諸邦は含まれなかった。
 清國では陸側(西南・西北・東北)のチベット・ウイグル・モンゴルなどは全て「藩部」と呼ばれ、「理藩院」(自治省)の管轄であった。海側の諸國は「禮部」(外務省兼文部省)の管轄とされ、形式的に王位を授けるだけであり、統治が及ぶことは無かった。明國の「不征の十五邦」の形がそのまま承けつがれたのである。
 但し李氏朝鮮とベトナムとだけは例外的に、時により統治力が及んだり及ばなかったりした。清末の西暦1884年に清朝はベトナムをめぐってフランスと軍事衝突し、西暦1895年には李氏朝鮮をめぐって日本と軍事衝突した。それは海側と陸側との境目だったからである。
 このやうにチャイナにも「くにのかたち」が有る。チャイナの周りの諸邦は西南・西北・東北の陸側と、東南の海側とに分かれる。

參考1:いしゐのぞむ「琉球王朝はなぜ中華思想にゆさぶられたのか」、『日本戦略研究フォーラム季報』66、pp.3-7、平成27(2015)年10月。
http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho66/66-3page.htm

參考2:『さうだったのか沖繩!』所收「琉球國はチャイナ領土だったのか」
http://senkaku.blog.jp/archives/19112464.html

 
 
さて引きつづき織田先生講演會。ビデオ16分半から、南支那海二千年について。ローマ帝國の領土と比較なさってます。しかしそもそも、二千年前の南支那海を、チャイナはローマ帝國のやうに支配したのだらうか。私が史料で勉強した限りでは、話は全く逆で、南沙諸島に最も早く進出したのは西方の貿易船であって、チャイナはゼロであった。
參考:
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html

次に織田先生講演ビデオの20:30、米國のマティス國防長官は、「現チャイナは明國の册封體制復活を期してゐる」と。誠にその危險は高い。但し忘れてならないのは、明國は南沙を支配してゐなかった。支配してゐたとするのは全部ウソである。
參考:
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
http://senkaku.blog.jp/2016091565883977.html

我々は「三戰」に對して果敢に戰はねばならない。勉強になる講演ビデオであった。



他にも、高橋洋一氏講演會。痛快。
https://www.youtube.com/watch?v=xd-S7feR7g8

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