「琉球王国と戦国大名 : 島津侵入までの半世紀」
    黒嶋敏著    吉川弘文館 2016
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB2070225X

 この時代の薩琉交渉を扱った書は少ないので、讀んでとても役立つ。しかし叙述方法に一貫して問題がある。
 常に琉球を「アジア」「異國」と形容し、薩琉交渉を「外交」と位置づける。そもそも戰國大名はほぼ獨立國であった。琉球も獨立國であった。世界の封建時代と較べれば、これは常態であり、戰國と琉球との地位にはわづかな差しか無いのだが、黑嶋氏は兩者を截然と分けるかの如き叙述が多い。あたかも國内と國外といふ近代的基準をあてはめるかのやうだ。
 
 
 しかし政治化を避けるためか、黑嶋氏は明確に琉球獨立思想を支持するわけでもない。あたかも冷靜な學術性を裝ふかの如くである。しかし用語は常に「強引で凶暴な薩摩及び秀吉」と、「獨立維持に苦心する弱者琉球」との對比のやうに見える。弱小諸侯はみな獨立維持に苦心したのであって、琉球だけではないのだが、何か現在の沖繩縣内の政治に配慮するかのやうに見える。要するにそこはかとなく政治的だ。
  やや明確な一例を擧げよう。第百三十七頁。西暦千五百九十二年朝鮮出兵の際に秀吉が島津に送った書状。島津義久が琉球服屬を取り次いだので、
「その筋目にまかせられ、異儀無く立て置かれ」
といふ原文。これを黑嶋氏は
「これまで通りに國家の存續を許し」
と現代語譯する。ここで「國家」といふのは封建時代的諸侯國でなく、近代的國家のつもりで黑嶋氏は使ってゐるやうに見える。だとすれば論理のすり替へだ。そして秀吉が琉球を薩摩大名の下屬として扱ひ、琉球から朝鮮に出兵させたことを、「一方的な理屈」と形容する。そもそも戰國の習はしは常に一方的な爭ひである。ところが何故か琉球だけが一方的に何かを押しつけられたといふ特殊な叙述になる。これは現代政治を言外に反映させようといふ試みのやうに私には見える。
 黑嶋氏は物事は單純でない、複雜だと繰り返し述べる。ならば叙述方法もこのやうに單純化すべきではないだらう。黑嶋氏が單純でないといふのは言ひ譯に聞こえてしまふ。人によっては言ひ譯でなくアリバイ作りだと捉へるかも知れない。
 書中では隨處に琉球と朝鮮とを等しく異國として扱ふ。勿論そのやうな要素はこの時代の琉球に存在した。しかし朝鮮と違って日本國内的要素も更に濃厚に琉球に存在したのだが、黑嶋氏はそれを目立たぬやうに小さく扱ふかの如くである。例へば秀吉の唐入り。秀吉は朝鮮に借道を要求し(結果は討伐に至る)、琉球には共同出兵を要求した(結果は出糧のみ)。兩者は全く異なる要求及び結果だが、黑嶋氏は故意か忖度か、兩者を同列に扱ふ。
 
 借道は、丁度同じ年から數年間、秀吉がマニラに派遣した使節の好例がある。この時、秀吉の使者原田氏は琉球を經由したと考へられる。そして五年後に二十六聖人處刑でマニラに宣戰布告すると、秀吉は琉球經由でマニラに出兵すべく準備したが、實現せずに命數が盡きる。かりにマニラ出兵が先で朝鮮出兵が後であったならば、琉球は西暦千五百九十二年に借道を拒絶したであらうか。兵力の懸絶からみても、中華思想的に見ても、マニラ使者往還から見ても、まづ拒絶しなかっただらう。しかし朝鮮は借道を拒絶した。琉球と朝鮮とでは全く異なる。同列に扱ふ黑嶋氏は近代的基準で歴史を單純化しようと試みてゐる。
 慶長十四年に統一事業が明確に琉球に及ぶまでの數十年は、特に封建的國家とは何か、近代的國家と對比する好材料である。そこに本書の主題の價値がある筈だ。しかし黑嶋氏はそれを愼重に避けつつ、實際には場合により恣意的に近代基準をあてはめてゐる。近代的讀み替へを否定しながら、自らこれを犯してゐる。
 但し琉球の日本國内的要素にも黑嶋氏が言及してゐることは多とせねばなるまい。第二百頁、慶長十四年に琉球を服屬させたのは、國内の大名を服屬させる手法と全く同じであり、對外戰爭とは言へないと、黑嶋氏は評價してゐる。このやうな記述は本書の中で稀だ。
 この時代の日本では、戰國の餘燼未だ已まず、國家の内と外との區別は明確ではなかった。逆に古代律令制の方が内と外とは明確だった。鎖國以後は再び國の内と外とが明確化する。安定の時代には明確化し、戰亂の時代には不明確となるのは、當り前である。不明確だから中世なのである。明國は世界的に見れば中世でなく近世に屬し、内と外とがかなり明確な國家であった。尖閣は明確に明國外であったことも附言して置かう。
 琉球史學界の中ではこのやうな批判を相互にすることはほとんど無いであらう。相識となってしまへば批判しないのが世の常だ。私は門外漢ゆゑにブログに批判を書く。黑嶋氏はまだ増しな方だらう。たまたま讀んだから批判するだけのことだ。

琉球王国と戦国大名島津侵入までの半世紀黒嶋


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