(關聯舊記事リンク)
http://senkaku.blog.jp/2016122768286450.html


門外漢ながら、スペインに尖閣關聯史料はあるか。
直接尖閣はほぼ難しい。何故ならマニラでは西暦千五百九十七年になっても臺灣の地理すらよく分からずに、秀吉がマニラに攻め寄せる可能性を議論してゐる。(尖閣獺祭録で論及濟み。)

西暦千六百二十四年、八重山キリシタン事件。石垣永將。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

その後、西暦千六百二十六年に臺灣最北端の鷄籠を占領したが、尖閣の地理認識を持った形跡は無く、「レイスマゴス」から進歩しない。
とはいへ、直接尖閣でなくとも、尖閣西方海域及び臺灣東岸情報ならば、スペイン古文書の中から得られる可能性はある。

「聖ペドロ・バウティスタと織豊期の日西関係」
伊川健二  待兼山論叢. 文化動態論篇44
http://hdl.handle.net/11094/9077
まづはこの伊川論文に出てゐる未公開史料の確認が必要。
秀吉の使者はスペイン人とともに朱印船航路を南下北上したと考へられる。朱印船航路はそのまま日本と明國との最前線勢力均衡線であるから、それをスペイン人がどう認識したか、記述された史料があれば重要だ。

さらに家康時代の1608年にはマニラに三浦按針を派遣してゐるので、そのあたりまでのスペイン古文書の中から何かが出る可能性はあある。問題はスペイン語よりも、手書き古文書がさっぱり讀めない。活字スペイン語にさへなってくれれば、「Formosa」「Japón」附近の記述を辭書引き引き讀める。

國立メキシコ文書館。
Archivo General de la Nación
https://www.gob.mx/agn

メキシコ・デジタル圖書館
Biblioteca Digital Mexicana - BDMx
http://bdmx.mx/

西暦千六百二十六年にスペインが臺灣東岸を北上した記録は活字になってゐる。日記ではあるが、あまり詳しく書いてない(尖閣獺祭録で論及濟み)。その後でスペインは臺灣全島地圖を作成する。そのあたりの關聯古文書でも、尖閣西側海域情報が得られるかも知れない。一般的な書は確認したので、必要なのは手書き古文書だ。

「豊臣秀吉とルソン総督間の交渉」以下の歴史概要。
http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb313c/
1591.9
秀吉はスペインのルソン総督に宛てた入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。
豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。

1592.7
ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスはドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信を返し友好関係樹立を標榜する一方で使節に高い身分を要求する等して時間を稼いだ。また秀吉に贈物を届けた。
他方、日本人来襲を恐れ、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

1592.7
秀吉はコポスを総督宛返信を届ける使者に起用したが、コポスが帰路遭難したために秀吉の返信は総督に伝わらなかった。

1592.10
秀吉は再度総督宛に返信を届けるため原田喜右衛門を起用し、原田は翌年4月マニラに到着した。
この頃在マニラ中国人約2000名の一斉蜂起があり、政庁の要請でマニラに在住していた日本人多数が反徒鎮圧に協力した。

1593.5
総督は新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に起用し日本に派遣した。
朝鮮出兵中の秀吉は名護屋で特使を引見し、重ねて服従と入貢を強要するとともに、10月には来航した船の船長ペドロ・ゴンザレス・カルバハルにも同様の内容の記した書簡を持たせて総督に送った。

1594.4
新しく総督となったルイス・ダスマリニャスはアウグステイン・ロドリゲスを使者とし、口実を設けて回答を引き延ばしする返信を持たせて日本に派遣した。
使者は9月に日本に到着したが秀吉は朝鮮出兵に忙殺されていて交渉は進展しなかった。
この年ヘロニモ・デ・ヘスス以下フランシスコ会の修道士4人が布教を目的としてルソン総督より日本に派遣され、到着後布教を開始した。

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb3229/
1596年 9月
マニラ発太平洋を東航中のガレオン船サン・フェリペ号が途中暴風雨により船体を破損し、その修理のため土佐、浦戸に向い、港内に入る際に座礁した。船長が上洛してフランシスコ会士を介して交渉中に、同船の舵手が当局を威嚇するために世界地図を見せてスペイン王の勢威に言及し、新しく土地を征服するには始め宣教師を送って人々を改宗させ後に軍を送りこむなどと日本も征服するが如き暴言を吐いた。これを知って秀吉が激怒し、サン・フェリペ号の臨検により発見した銃砲、火薬、財宝等の船荷を没収し、また乗客、乗組員のマニラ帰還を命じた。
更に12月には先の1587年(天正15年)に下した外国人宣教師の国外追放令にも拘わらず京都ほかに潜伏していたとして宣教師、日本人キリシタン等24人(後日2名が志願して加わる)を捕らえて死刑を言渡した。
たまたまフィリッピンでの三年にわたる布教活動を終えサン・フェリペ号に乗船して帰国途次にあったメキシコ生まれの宣教師フェリペ・デ・ヘススもこの際に捕らえられた。

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb32a8/
1597年 2月5日
(メキシコの聖人フェリペ・デ・ヘススが殉教者中に含まれていた)
秀吉はキリシタン禁制の断固たる決意をキリシタンの多い九州に示すために、捕えたパウロ・三木以下イエズス会、フランシスコ会修道士、日本人キリシタン等を各地を引き回し、長崎に連行して2月5日公開磔に処した。 この時の殉教者の一人がフランシスコ会のフェリペ・デ・ヘスス修道士であり、1862年にメキシコ人としてはじめて列聖されることとなった。
(1961年クエルナバーカ市のカテドラルー当時フランシスコ会の修道院であったーの修復中に、その内部壁面 下に長崎26聖人殉教の場景を描き太閤様が死を賜ったと記されたフレスコ画が石灰で塗り込められているのが発見された。)

1597
ルソン総督フランシスコ・デ・テーリョは事件の発生に遺憾の意を表明し、船の残存備品、没収された積荷及び修道士の遺体の返還を求める書簡を送ったが、秀吉はイスパニア人達が国法を護らなかったからと責任を回避する回答を送った。 この際、総督の使者は秀吉への贈り物として日本に初めて象を運び入れた。


http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb33f6/
1598
秀吉死去。天下統一事業は家康が引き継いだ。
フランシスコ会士のヘロニモ・デ・ヘススが、通商に関心を持っていた家康と会談した。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明した。一方で日本船のルソンとヌエバ・エスパーニャでの受け入れ方を要望、その実現のため造船技術者、航海士、また鉱山開発のための技師の日本への派遣を要請した。
ヘロニモ・デ・ヘススはマニラ総督テーリョに宛てて書簡で家康の要請を報告した。総督はヌエバ・エスパーニャの上司に本件を伝達するも特段の反応が得られなかった。

1600
この年の春、2年前に西回りで東洋に向けて出発したオランダ東インド会社の船隊の生き残りの一艘リーフデ号が豊後に漂着した。その航海長であった英人ウイリアム・アダムスはその後家康の顧問となった。

1601
家康は再度スペイン植民地との通商関係樹立を図ろうとしてマニラ総督にペドロ・ブルキーリョ修道士を使者として送り込み、日本人海賊数百人を捕らえて処刑したので日本近海の制海権が確保されたことを知らせ、ヌエバ・エスパーニャとの通商を要請する旨を伝えさせた。また、ヘロニモ・デ・ヘススもマニラ総督に回答を促進させるために送り込んだ。

1602
ペドロ・デ・アクーニャルソン総督は日本との通商関係を結ぶことに好意的な返信を送り、実際に家康の希望に沿って商品を積んだ商船を関東に送る手配をしたが、船舶建造等のための技術者派遣は自分の権限外としてヌエバ ・エスパーニャ副王とスペイン国王宛に報告を送った。
家康は総督に対し返信を送り、その中でガレオン船が通商目的で、あるいは悪天候から避難するために日本の港への入港することを認めることを伝え、他方日本船のルソン、ヌエバ・エスパニャでの受け入れ方を要請した。 ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船は家康の支配下の関東でなく、九州の港に到着した。
この年のナオ・デ・チナの一隻エスピリツ・サント号が暴風雨で難船し土佐清水に入港した際に積み荷の一部没収等当局の不適切な取り扱いがあった。
10月、抗議を受けて家康は没収品の返還を命じた文書を発行し、再度 マニラ総督に宛て日本の港への緊急避難時の入港と船の修理を保証する書状8通 と入港許可書を送付した。

1603
ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船サンテイアゴ号でフランシスコ会士ルイス・ソテーロ等が日本に到着し、ソテーロは家康から布教する許可を得た。
イエズス会の布教活動開始からは凡そ半世紀遅れたが、フランシスコ会は関東を中心に本格的布教活動を開始し、京都、大分、大阪、浦賀に聖堂、修道院を建てた。 この年、ヌエバ・エスパーニャ、スペインとの直接交易を望んでいた家康 の命を受けたウイリアム・アダムスがマニラに赴き、家康の直接支配下の地方との通 商関係樹立についてスペイン側に説得を試みた。

1604
アクーニャ総督、友好を求める書簡を贈物と共に家康に送る。

1605
家康、アクーニャ総督に書簡の受領と贈物への謝意を述べた返信を送る。
この中で家康は日本でキリスト教の布教は許されないとの見解を表明した。

1605
ロドリーゴ・デ・ビーベロ総督代理は家康に派遣されてマニラに滞在していたウイリアム・アダムスに託して家康と秀忠に宛てて書簡を送り、友好関係の継続を望み、日本船のマニラ入港を歓迎する、また天候によってはスペイン船が徳川幕府の支配下の日本全土への入港が認められるべきこと、キリスト教布教活動を行う宣教師への待遇改善等の要請を行った。

1606~08
マニラ在住の日本人約1500名が武力蜂起したが、修道士達により慰撫されて事なきを得た。日本人の暴動は1607/08両年にも発生し、武力鎮圧されて日本人はマニラ市外に追放された。ビーベロ総督代理は日本からの来航船を制限して欲しい旨家康に要請し、同時に暴動時に捕らえていた日本人を送還した。

1608
この年初めてルソン発商船の関東の港(浦賀)への入港が実現した。
家康・秀忠はビーベロ総督代理の書簡に対し交易拡大を望む旨書き送った。

1609
フアン・デ・シルバ新総督が着任し、マニラの日本人の行為について不快であることを家康に書き送り、家康は返信で不穏分子の処罰を促した。
新総督はまた日本における宣教師の取り扱い、日本のガレオン船受け入れに謝意を表した。

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb3538/
サンフランシスコ号漂着事件
1609年(慶長14年)9月
太平洋を東航中のスペイン船サンフランシスコ号、サンアントニオ号、サンタアナ号が大暴風雨に遭遇し全三艘が難破し、その中でも乗員・乗客373人を乗せたサン・フランシスコ号が9月30日上総沖、岩和田(大多喜領、現御宿)で座礁 した。住民が救出に向かい、317名が救助された。
城主本田出雲守忠朝(家康の功臣本田忠勝の次男)自身も現場を訪れて遭難者が必要とした衣類等を提供と、一行の保護を命じ、37日間の滞在中厚遇した。岩和田村民の物心両面 にわたる援助は遭難者から大いに感謝された。同船にはたまたま帰国途次のロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・ベラスコ前ルソン総督代理が乗船しており、日本滞在中ビーベロは江戸に出て二代将軍秀忠に会見し、また翌年には駿府の家康を訪問した。
当時日本に居たフランシスコ会士ルイス・ソテロを介して初めて日本の支配者とスペインの高官の対話が実現し、ここに両国間通 商交渉が開始された。
家康はヌエバ・エスパーニャとの交易を望むこと、また銀採掘のための冶金技術者50名をヌエバ・エスパーニャから招請したいとの希望を述べた。
これに対してビーベロはスペイン船の海難への救助協力と宣教師の保護、家康とフェリペ三世間の友好関係の維持、及びスペインの敵オランダ人の日本追放を要請した。
イスパニア、ヌエバーエスパーニャ間の通商開始のため、以下内容の協定案が家康ービーベロ間に作成された。
・ビーベロは家康の要請をスペインの支配者に進言する
・メキシコからの鉱山技師派遣と、採掘された銀の関係者間配分の規定
・フランシスコ会宣教師の日本でのキリスト教*布教の容認
・日本の港におけるスペイン船の入港許可と保護、及び商館設置等
(オランダ人の日本からの追放は受け入れられなかった)
家康はビーベロがヌエバ・エスパーニャに帰還出来るよう、ウイリアム・アダムスに洋式船の建造を命じ、サン・ブエナベントウラ号120トンの建造とその艤装に必要な経費4000ドウカート相当を幕府より提供した。
*この頃日本の総人口は2000万人と推定され、内キリシタンの数は凡そ75万に達していたとされる。

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fc1a3c/
家康、ヌエバ・エスパーニャへ使節派遣
1610年8月
ビーベロ他を送り届けるためウイリアム・アダムスの指導で日本で始めて(慶長15年)建造された洋式船サン・ブエナベントウーラ号(日本名安針丸)は8月 1日浦賀を出港、10月27日ナヤリット州マタンチェルに到着し、その後アカプルコへ回航された。同船には家康の使者としてビーベロとアロンソ・ムニョス神父を、また通 商開始を期待して京都の商人、田中勝介、朱屋隆成、堺の商人、山田助左右衛門等23人を乗船させた。
帰着後ビーベロは副王に日本各地の見聞について詳細な報告を行うと共に「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を著した。
更に、太平洋横断に際して嵐に多く遭遇するロス・ラドローネス諸島(グアム・マリアナ)経由でなく、船の補給、修理に都合良い、また交易の可 能性も高い日本経由航路の開設 と鉱山技師の日本派遣について副王、イスパニア皇帝に意見具申した。これに対しスペイン本国は、日本との通商はイスパニア領のフィリピンを窓口にするとの意向を示した。

http://www.mex-jpn-amigo.org/category.id/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2



Formosa Hernando Rios Coronel_1597
西暦千五百九十七年、スペイン人の描いた臺灣島及び呂宋島。
地圖とともに送られた書翰は西暦千五百九十七年六月二十七日と署する。臺灣(Hermosa)征討を説く。
「Memorial que dirigió al Rey desde Manila con fecha de 27 de junio de 1597 Hernando delos Rios Coronel」。インディアス綜合古文書館。ES.41091.AGI / 23.6.13 // FILIPINAS, 18B, R.7,N.68。 リンク:

http://pares.mcu.es/ParesBusquedas/servlets/Control_servlet?accion=3&txt_id_desc_ud=421141
http://pares.mcu.es/ParesBusquedas/servlets/Control_servlet?accion=3&txt_tipo_busqueda=dl&txt_correo=S&txt_id_desc_ud=421141

書翰の全文活字と解説。

https://www.upf.edu/asia/projectes/che/s16/rios.htm