註22。
『那覇市史』資料篇第2巻中4の126頁、408号文書。同頁の406号文書のように伊地知貞馨に対し与那原親方は、明治6年「琉球国体政体永久不相替、且清国交通是迄通被仰付候段先達テ外務卿并貴様ヨリ御達ノ趣」について「以後証拠」として文書による確認を伊地知に求めるのであるが、これに対して「清国交通是迄通被仰付候」については文書による確認を行なっていないので、進貢貿易を置藩後も積極的に公認していたとはみなし難い。


琉球処分論
『新・沖縄史論』(沖縄タイムス社1980.7.25)
安良城盛昭
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『新・沖縄史論』目次
第1部
 第1論文 前近代の沖縄歴史研究をめぐる2、3の問題
 第2論文 沖縄史研究の諸問題(その1)1古琉球の辞令書と日琉同祖論/2近世琉球の石高/3「旧慣温存」期の理解について
 第3論文 沖縄史研究の諸問題(その2)/1沖縄歴史研究と伊波普猷/2首里王府による祭祀の禁止と再編成
 第4論文 ユイの歴史的性格とその現代的意義/1沖縄のユイ/2世界史的規模で存在するユイ/3ユイの歴史的性格/4消滅の傾向にあるユイ/5/本来のユイのもとでの労働交換/6奥部落の現行ユイの特質/7ヴェラ・ザスリッチへの手紙/8奥農業の課題

第2部
 第1論文 古琉球の「さとぬしところ」/1「さとぬしところ」をめぐる批判と反批判/2『沖縄県旧慣租税制度』批判/3渡口説批判
 第2論文 進貢貿易の特質――転期の沖縄史研究――/伊波普猷の「唐一倍」説批判/進貢貿易の特殊構造
 第3論文 地割制度の遺構としての津堅島の短冊型耕地形態/1地割制度研究史からみた本稿の課題/2文献史料からみた津堅島/3津堅島の短冊型耕地形態
 第4論文 勝連間切南風原村における地割制度/南風原村の地割制度史料/南風原村の地割制度

第3部
 第1論文 琉球処分論
 第2論文 「旧慣温存期」の評価――金城篤・西里喜行氏の見解の吟味――/1金城=西里説の基本的枠組/2基礎的史実の検討/3「旧慣温存期」の沖縄統治策の推移
 第3論文 「旧慣温存期」の評価・再編――西里喜行氏の反論にこたえて――/明確に存在した明治政府の旧慣改革方針/明治政府と沖縄産糖/国税徴収額と国庫支出の県費
 第4論文 『沖縄県史』刊行の意義と残された課題/1『沖縄県史』刊行の歴史的前提/2『沖縄県史』の特徴と編輯上の問題点/3『沖縄県史』の琉球処分論・「旧慣温存」論の批判的検討

第4部
 附論1 沖縄歴史研究のこれまでと今後――新里恵二・安良城盛昭
 附論2 沖縄と歴史研究――転形期の課題を語る――高良倉吉・安良城盛昭
 附論3 九学会連合沖縄調査委員会編『沖縄-自然・文化・社会-』を読んで
 附論4 これからの沖縄研究

第3部第1論文「琉球処分論」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/arakimoriaki78.htm

はじめ

 明治12(1879)年に強行された琉球処分は、形式的にいえば、明治5(1872)年に置かれた琉球藩が沖縄県に改められたものであり、そのかぎりでは、明治4(1871)年に本土で実施された廃藩置県が、やや遅れて沖縄においても達成されたことを示している。しかしながら、この琉球処分を沖縄における廃藩置県として、形式的にだけ理解し、本土の廃藩置県と一括して処理するだけにとどまるならば、琉球処分にみられる全く異例ともいうべきその特殊性を、廃藩置県一般のなかに解消してしまうこととなり、琉球処分の理解について欠くべからざるその独自性・特殊性について認識する途を見失うこととなってしまうのである。
 すなわち、琉球処分が、本土の諸府県における廃藩置県一般と一括しては論じられない、その独自性=特殊性は次の4点によく示されている。
 第1は、その前史についての特殊性である。本土における明治2(1869)年の版籍奉還から明治4(1871)年の廃藩置県にいたる過程は、明治維新をして今日われわれの知る明治維新たらしめた決定的な政治過程であって、版籍奉還が廃藩置県という権力の実質的な中央集権の平和的な達成を可能ならしめた歴史的・論理的前提であり、その現実的出発点であったことは、明治維新史についての初歩的常識に属するといっても過言ではあるまい(1)。ところが、沖縄においては、廃藩置県の歴史的前提ともいうべきこの版籍奉還の歴史過程を欠如したまま、廃藩置県が強行されたところに、琉球処分の第1の特質が存在するのである。
 第2に、本土における廃藩置県は、各藩それぞれが千差万別の異なった内情をかかえていたにもかかわらず、そしてまた、?長土3藩から供出された歩騎砲3兵合計8000名の親兵=中央直轄軍の軍事力の存在を背景として実現されたとはいえ、ともかく、表だった反対=反抗なしに平和裡に実現されたところに1つの特質が存在するのであるが、琉球処分はこれとことなって、戰火こそ交えなかったが、明治政府の軍事力・警察力の行使による強圧によって、琉球藩庁主流の反抗を押しきって強行されたところに、その特殊性がよくうかがわれるのである(2)。
 さらに第3の特殊性は次の事実によく示されている。置県直後の明治13(1880)年、日清間で一応合意をみた分島改約案は、清国における欧米列強なみの通商権の獲得と引き換えに、古琉球以来数百年にわたって沖縄固有の構成部分であった宮古・八重山の両先島を清国の主催下に委ね、このことによって、琉球処分強行の結果生じた日清間の琉球をめぐる緊張の解消をあわせて図るものであったが、置県後の領土が外交上の取引の具となった事例は他に全く存在しないのである。この分島改約案は清国側の態度変更=拒否によって流産したとはいえ、このような沖縄分割案が実現寸前にまでいたったこと自体、琉球処分後の沖縄県の地位の特殊性を象徴的に示すものといえよう。
 第4に、琉球処分後の旧慣改革が極めて遅々たるものであったところに、沖縄における廃藩置県後の歴史過程のきわだった特質が存在するのである。すなわち、本土においては、廃藩置県後には明治維新をして維新たらしめた諸改革が雪崩をうって進行してゆくのであるが、沖縄では、教育面を除くと、その改革の歩みはまことに遅々たるものであって、日清戦争終了までは、改革の過程というよりは、ヒユ的にいえば「不改革であった」(3)といった主張を生みだすほどの特殊性が存在したのであって、明治23(1890)年に成立する明治憲法体制から、ほぼ明治年間全般(4)を通じて疎外されていた全国唯一の県としての特質が存在するのである。
 以上、4点にわたって、琉球処分=「沖縄における廃藩置県」を本土における廃藩置県一般によっては律しきれないその特殊性を指摘したのであるが、これらの特殊性がどの様な歴史的理由によって生じているのか、そしてまた、これらの特殊性の相互関連はどの点にあるのか、さらに、このような特殊性をもった琉球処分が、沖縄近・現代史の展開にどのような特質を賦与したのか、を究明し、明治政府の沖縄統治政策の歴史的変遷とこれに対する琉球藩庁=支配階級ならびに人民の対応を明らかにすることによって、琉球処分の歴史的意義を科学的に解明することが、琉球処分論の本来の課題であろう。
 ところで、琉球処分は沖縄近・現代を通ずる歴史の出発点であるだけに、沖縄歴史研究の開拓者でもあった伊波普猷以来、その実態と歴史的意義をめぐって、すでにさまざまな琉球処分論が提起されている。とくに1960年代に入って昂?してきた沖縄の本土復帰運動の展開にともなって、琉球処分の研究は飛躍的に発展し、琉球処分の歴史的評価をめぐって井上清・下村富士男・新里恵二氏の間に論争(5)が先ず生じ、この論争点を解明する学問的課題を継承した金城正篤・西里喜行・我部政男氏等の『沖縄県史』・『那覇市史』の琉球処分をめぐる諸論稿によって、琉球処分の歴史具体的過程が、その前史から日清戦争までのいわゆる「旧慣温存期」(6)までを含めて、すでに明らかにされている。
 しかしながら、ここ2、3年来、筆者が指摘・強調しているように(7)沖縄歴史研究は1つの転換期にさしかかっており、この点は沖縄近代史研究も例外たりえないのである。たとえば、琉球処分についての有力な見解の1つと目されてきた、『沖縄県史』『那覇市史』に公表された金城正篤・西里喜行両氏の論稿における、いわゆる「旧慣温存期」の史実についての両氏の具体的認識とその評価の両面にわたって、すでに筆者は詳細な批判を加えてきたのであるが(8)、両氏の見解には、再検討すべき余地が多く遺されているのである。
 このような研究状況の下で、筆者の琉球処分論を全面的に展開するには、なお若干の前提的予備作業の積み重ねを必要とするように思われる。というのは、筆者の金城・西里批判のなかで具体的に指摘しておいたように、今後の沖縄近代史研究には、発想そのものの転換が必要なだけではなく、一見明々白々で異論をさしはさむ余地がないかの如く見える基礎的史実についても、その洗い直し・再吟味を必要とする場合も多々存在すると考えられるからである。
 したがって、この小論では、与えられた紙数の制約も考慮して、筆者の琉球処分論を全面的=総括的に論ずるのではなく、これまでの沖縄近代史研究では全く看過されてきた2つの論点、すなわち、1つには、先に琉球処分の4つの特殊性を指摘した際に、その冒頭で先ず指摘した、版籍奉還なき廃藩置県、という論点と、2つには、琉球処分についての現代的通念の歴史的源流を、ソテツ地獄と琉球処分論、という視覚からさぐる論点、の2つの論点をとりあげることによって、全面的=総括的な琉球処分論を遠望しながら、これまでの琉球処分論ひいては沖縄近代史研究に発想の転換を促したいと考えるものであるが、さらに、琉球処分の歴史的評価についての井上清・新里恵二論争を批判的に検討し、この論争の止揚をはかることとするが、関連論文として「<旧慣温存期>の評価」(1977年・「沖縄タイムス」紙掲載・本書第3部第3論文)「<旧慣温存期>の評価・再論」(1977年「沖縄タイムス紙掲載・本書第3部第3論文」)「<沖縄県史>刊行の意義と残された課題」(「沖縄史料編集所紀要」第3号所収・本書第3部第4論文)を参照・併読していただければ幸甚である。

一 版籍奉還なき廃藩置県

 先に、琉球処分の特殊性を示すものとして四つの特質を指摘したのであるが、そのうちの第2から第4の三つの特質は、真境名安興(9)・太田朝敷(10)以来の沖縄近代史研究によって繰りかえし指摘・強調されてきたところであるが、第1の特質として本稿が指摘した、版籍奉還の過程を欠いたまま廃藩置県が強行されたという論点は、これまでの沖縄近代史研究によって、戦前・戦後を通じて全く取り上げられることのなかった視点であるだけでなく、私見によれば、この第1の特質が第2の特質を生み出し、さらに、一面では、第3・第4の特質を媒介的にもたらしたという意味で、琉球処分の特質を考える上で要ともいうべき不可欠の視点と考えられるので、以下、この点についてやや具体的に論ずることとしよう。
 周知のように、幕藩体制下の琉球の地位はいわゆる「日支両属」(11)といわれてきたようにきわめて特殊なものがあった。琉球はたしかに島津の「領分」であり、そのかぎりにおいて、薩摩・大隅・日向諸県郡の島津領と同様に島津の領主権がおよんでいることは疑問の余地がなく、島津の実質的な支配下にあったのであるが、にもかかわらず、形式的には、琉球王は中国皇帝の冊封をもうけており、その意味から、島津の「領分」でありながら琉球は「異国」=「外国」(12)とみなされていたのである。島津藩に対する実質的な従属と中国皇帝に対する形式的な服属という特殊な状況(13)は、戦前いち早く伊波普猷が「王国のかざり」と指摘したように(14)、進貢貿易存続=維持の必要から生じているのであって、琉球は、長崎・対馬とならぶ鎖国体制下での幕府公認(15)の海外への窓口の一つであったのである。
 このような琉球の特殊な地位は、明治2(1869) 年の版籍奉還の時点でどのように処理されたのであろうか。
 これまでの沖縄近代史研究は、この点について全く考慮の外において、明治4(1871)年11月の訪欧米岩倉使節団の重要調査条項に 「琉球」(交際始末)がふくまれていることと、明治5(1872)年5月の井上馨による琉球帰属についての「建議」を視野のうちにおさめながら、廃藩置県直後の明治4(1871)年9~10月にかけて、琉球王府より在鹿児島の琉球館出向役人にあてた指令か、あるいは、明治5(1872)年正月の奈良原幸五郎・伊地知貞馨の琉球遣使から、琉球処分の前史を説きおこすのが通例であった。
 僅かに、真境名安興が、戦前にその『沖縄現代史』のなかで、

    (1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断して」(16)

いたと指摘し、さらに、

    (2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けたり」 (17)

と戦後の沖縄近代史研究が深めようとしなかった、興味深い史実を紹介しているにとどまっているのである。
 ところで、版籍奉還は、本土の全ての藩主がその領内の土地・人民に対する支配権=領主権を天皇に返上することを意味するものであって、このような大名の個別領主権の天皇への返上=[権力の観念的・形式的中央集権化] が、先にも指摘したように、論理的・歴史的前提となってはじめて廃藩置県という実質的な中央集権が達成されたのである。したがって、版籍奉還は、慶応3(1867)年の将軍徳川慶喜による大政奉還を、法的に一歩進めたかたちで再確認し、本土の大名の全領主権を天皇の権力の下に集中したことを意味するものであって、したがってまた、版籍奉還の行なわれた明治2(1869)年には、版籍奉還とあい前後して、諸藩が外国と直接通商=交渉してきた幕末政争期以来の外交上のアナーキー状況に終止符がうたれ、外交権が明治政府の下に掌握されてゆく注目すべき歴史過程が存在するのである(18)。すなわち、幕末開港以後の倒幕過程で、西南雄藩を中心に多くの藩が西欧列強と直接の外交・通商交渉をもち、軍艦・大砲・鉄砲等の武器類が藩内の特産物を引き当てに購入=輸入され、藩によっては多額の外債をかかえる状況が存在したのであるが、明治2(1869)年の一連の措置は、諸藩の外債を明治政府が引き継ぐとともに、外交・通商権を諸藩より取り上げ、明治政府のもとに集中的にこれを掌握したのであった。
 このようにして、明治2(1869)年は、内政・外交の権が明治政府に掌握されていく重要な年であり、版籍奉還はその象徴的事件というべきものなのである。
 さてこの明治2(1869)年の版籍奉還に際して、琉球王国はどのように処理されたのであろうか。
 この点についての具体的検証は全く今後の課題というほかはないのであるが、その後の歴史的推移からみて、琉球は版籍奉還から客観的には除外されていたと考えるべき十分な根拠が存在するのである。以下この点を検討しよう。
 先にも指摘したように、琉球は薩藩領の一部分であって、したがって、島津氏の琉球領知は、代々の将軍による領知判物によって確認されていた(19)。したがって、本土の諸藩の通例を以てすれば、薩摩藩主島津久光の版籍奉還は、島津の琉球に対する明治2(1869) 年の島津久光の版籍奉還は琉球をも含んでいた筈である。しかしながら、その版籍奉還は、島津久光の琉球支配権の返上=放棄ではありえても、そのことが直ちに、琉球国王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しないところに、当時の琉球の歴史的地位の特殊性が浮彫りされているのである。
 たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていたのである。かかる歴史的事実は、本土諸藩の通例を以てしては、その版籍泰還を論じられないことを暗示しているのであって、島津久光の版籍泰還によって琉球の版籍泰還が完了しているとは単純にみなし難いのである。
 事実、本土の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県に移行するにともなって、一応鹿児島県の管轄下に置かれていた琉球王国を、明治5(1872)年、外務省の管轄下に移し、改めて琉球藩とし藩主ならぬ「藩王」という沖縄だけにみられる特殊身分=地位に琉球国王尚泰を任じ、さらに、副島種臣外務卿は、「御国体・御政体永久不相替」と上京した藩吏に約束しているのである。(20)そしてまた琉球藩設置後一応は、「先年来其藩二於テ、各国ト取結候条約、並ニ今後交際ノ事務、外務省ニテ管轄候事」(21)と琉球藩に指示しながらも(明治5年9月28日)、進貢貿易について、明治政府はこれを積極的に公認しないまでも(22)ともかく容認しており、明治7年(1874)年秋に沖縄を出帆した進貢船二隻には進貢使国頭親雲上外17名が搭乗しており(23)、翌明治8(1875)年3月一行は北京に現われ、明治7(1874)年10月31日の台湾事件についての日清和議成立以来、琉球の日本帰属の確定を信じて疑わない北京の日本公使館員を驚かせているのである。(25)
 以上の事実に象徴的に示される琉球藩の状況は、まさに版籍泰還以前の本土諸藩の状態に比定されるべきものであって、したがって、明治8(1875)年3月以降、明治政府はこのような琉球藩の半国家的=疑似国家的事態を解消するため積極的な行動を開始するのである。
 台湾出兵の大義名分を確保する必要上、すでに明治7(1874)年7月12日、琉球藩の管轄を外務省より内務省に移管(26)し終えていた明治政府は、明治7年10月31日の台湾事件の日清和議条約である「日清両国間互換条款」のうちに、遭難琉球藩民を「日本国属民」、台湾出兵を「保民義拳」と書きこむことに成功(27)したため、大久保俊通内務卿直々の出馬によって琉球藩の半国家的=疑似国家的実態の解消が図られるのである。琉球に「鎮台支営」を設立し、「藩治職制」を改革するなど国家権力の琉球藩における滲透をめざす明治政府のこのもくろみは、必然的に、琉球の半国家的=疑似国家的実態のシンボルともいうべき清国の冊封体制からの琉球藩の離脱―「支那へノ進貢・慶賀並彼ノ冊封ヲ請候儀被差止」・明治年号の採用―を基本目標としてともなっていた(28)。しかしながら、このような明治政府の企図は、琉球藩吏の執拗な抵抗によって容易に達成されず、「鎮台支営」の設置を始めとする内政面についての改革の了承は漸くえられたものの、清国の冊封体制からの離脱については、明治12(1879)年の琉球処分の時点まで遂に琉球藩の承諾をうることはできなかったのである。
 本土の諸藩の諸外国との直接通商=外交関係の成立は、たかだか安政開港以後の幕末政争過程においてはじめて発生したものであって、その直後通商=外交関係が絶たれるにいたった明治2(1869)年まで僅か10数年間の幕藩体制瓦解の過程における非常例外の事態であったのに対して、琉球の進貢貿易を中心とする清国冊封体制との関わりあいは、数百年の歴史の重みを負っていたところに、本土諸藩と琉球藩における本質的な相違が存在したのである。このようにして廃藩置県以前に、琉球「藩王」尚泰自身による自発的な版籍泰還が行なわれなかっただけではなく、明治政府のヘゲモニーの下における事実上の版籍泰還の達成―清国冊封体制からの離脱による明治国家への琉球藩の組込み完了―さえも実現できていない、という二重の意味で、琉球処分の前史の特質は、廃藩置県の前提としての版籍泰還の欠如として把握されねばならないのである。
 ところで、このような琉球処分以前の時点での版籍泰還の欠如は、何によって生じたのであろうか。
 一つには、これまで指摘してきた琉球藩の負っていた特殊な歴史的経緯が大きく作用していたことはいうまでもない。すなわち、日本の本土社会とは別個・独自に国家形成を遂げ、薩摩の琉球征服後も、島津の「領分」でありながら「異国」=「外国」であるという特殊な地位にあり、清国の冊封体制とかかわりあいながら進貢貿易を数百年にわたって続けてきたという歴史的経緯である。第二は、幕末期の琉球王府上層部を震憾させた牧志・恩河事件の帰趨が、王国支配層の保守・守旧派を強化し、宜野湾朝保・津波古政正のような開明派が少数派として孤立する状況を生み出していたことも考慮に入れるべきであろうが、さらに第三に、幕末・維新の動乱の渦中になく、その局外に安住しえていた琉球王府の特殊状況をカウントに入れて、この問題を判断すべきものと思われる。この点もまたこれまで具体的に論ぜられることのなかった問題であるので、以下簡単にふれておこう。
 本土における版籍泰還は、薩長土肥四藩主連名の「上奏」=提唱に始まるのであるが、その提唱が短時日のうちに本土の全藩主の274藩主すべてを捲きこんでしまったのは、次の二つの理由にもとづくものと戦後の明治維新史研究は明らかにしている。すなわち、その一つは、幕末政争・戊辰戦争による厖大な財政負担が、藩財政を建て直し不能の大幅赤字に追いこみ、過半の藩では藩体制の存続・維持がもはや不可能な状態にまで立ちいたっていたこと、したがって廃藩置県以前に自発的に廃藩を余儀なくされた藩が十数藩に及んでいること、その二つには、幕末以降激化の一途をたどった百姓一揆・世直し騒動の激発によって、民衆支配すら容易ではない政治的・社会的危機状況におちいっていたこと、これである。
 これに対して、琉球王国の事情は全く異なっていた。琉球王国が幕末・維新の激動の政局のなかで、まったく局外にあったこと、したがって戊辰戦争等の戦費の負担は一切存在しなかったのであって、僅かに、天保2(1831)年より嘉永5(1852)年の間に薩藩への貢米2800石の代納として砂糖75万斤の上納が強制され、文久2(1862)年より一時中断していた砂糖75万斤の代納が復活し、さらに元治2(1865)二年より砂糖代納22万斤の増額があり、結局貢米3600石の代納として、砂糖97万斤の上納という形で、不利な貢糖の代納強制によって経済的負担の若千の増大がみられたにすぎないのであって(29)、本土諸藩の幕末・維新期における支出の激増とは比較すべくもないのである。
 たしかに、琉球王国は、明治5(1872)年の琉球藩の設置前後の時点で、金4,848両・銀805貫目・銭346,835貫文余の薩藩に対する借金(30)の他、在鹿児島の琉球館出入の御用達よりの「高利付ノ借金」が20万両=20万円(31)存在していたのであり、その意味では琉球王国も財政赤字に悩まされていたのではあるが、前者は廃藩置県に際して全額返済を免除され、後者は、琉球藩設置の際に明治政府の斡旋によって東京の第一国立銀行の低利賃金に切りかえられ、琉球処分当時には、4万円の借金を残すのみとなっており(32)、琉球処分後、明治政府が引きついだ旧琉球藩負債は全体として11万6639円余(33)で、財政状況は、明治5(1872)年より明治12(1879)年の間に好転しており、財政難から、したがって上から、藩解体=版籍泰還を余儀なくされる状況は、琉球藩には存在していなかったのである。しかも、他方、琉球藩内においては、本土の諸藩を悩ました百姓一揆・世直し騒動の激発のような、下からの要因によって、藩体制の解体が必然化される状況も、「家内倒れ」「村倒れ」の農村荒廃にもかかわらず、全くといってよい程存在しなかったことは、これまでの沖縄近代史研究によって十分に確認されているのである。
 要するに、琉球藩では、上からの要因からみても、下からの要因からみても、版籍奉還が行なわれる歴史的条約は全く未然なのであって、このような事情が、先に指摘した、数百年間中国の冊封体制とかかわり続けてきた歴史的経緯と、藩庁中枢を守旧・保守派が握っていた政治的条件と結びついて、「版籍泰還なき廃藩置県」という琉球処分のきわだった特質が生じてきているのである。
このようにして、版籍泰還の実施をもたらさざるをえないような社会的状況にたちいたっていない社会展開の未熟さの故に、藩籍泰還を欠いたまま実現された廃藩置県が、琉球にとっては全く他律的なものとなって、明治政府が外から琉球藩を押しつぶしてしまう結果となったのは必然的といわねばならないのである。
 本稿冒頭で指摘した、琉球処分の四つの特質のうち、版籍泰還なき廃藩置県という第一の特質こそが、明治政府の軍事力・警察力にもとづく廃藩置県の強行という第二の特質を生み出したものであり、清国との外交上の合意を踏まえないで明治政府が琉球処分を強行したこと、さらに、琉球藩庁がいわゆる「日支両属」の半国家的=疑似国家的形態を清国の支援によって維持したいと清国に積極的に働きかけたこと、この二点を抜きにしては、第三の特質として指摘した明治13(1880)年の分島改約案は考えられない以上、この二点を媒介的にもたらしたのも、第一の版籍泰還なき廃藩置県であり、旧慣存続が長期間にわたったという第四の特質も、その基本要因に、琉球処分に反対する土族の脱清行動がからんでいるという事実からみても、第四の特質もまた第一の特質の延長線上において理解さるべき側面があることは、もはや多言を要すまい。
 すなわち、版籍泰還なき廃藩置県という第一の特質が、第二の特質を生み出し、一面では、第三・第四の特質を媒介的にもたらしているとみなす所以である。

二 ソテツ地獄と琉球処分論

 琉球処分について、はじめて歴史的評価を与えたのが「沖縄学」の父としての伊波普猷であること、そしてその評価が「琉球処分は一種の奴隷解放」(34)という一言に要約されること、以上の二点については、あまりにも周知の事実に属しているといえよう。
 伊波のこの琉球処分観は、その極く初期の述作『古琉球』初版(1911年)にほの見え(35)て以来、最後の著述『沖縄歴史物語』(1947年)にいたるまで、一貫して変えることはないのであるが、にもかかわらず、ソテツ地獄(大正9年の糖価暴落以降、昭和恐慌期まで十数年連続した慢性不況)のさかなの大正末期を境に、伊波の広い意味での歴史観は一大転換をとげるのであって、伊波の琉球処分観にも事実上の修正がこの時期以後加えられているのである。
 この転換については、比屋根照夫氏の「啓蒙者伊波普猷の肖像」(36)によって具体的な検討がやっと緒についたばかりであるが、ここでは、筆者の観点から、伊波の広い意味での歴史観の一大転換について具体的に指摘してみよう。
 まず第1に、アイヌに対する伊波の理解が、ソテツ地獄を境に大きく転換しているのである。たとえば、『古琉球』に収められている「琉球史の趨勢」(1907年)のなかで伊波は、
    「……ところが此琉球民族といふ迷児は2000年の間、支那海中の島嶼に彷徨してゐたに拘はらず、アイヌや生蛮みた様に、ピープルとして存在しないでネーションとして共生したので御座ゐます。……(中略)……アイヌを御覧なさい。彼等は、吾々沖縄人よりも余程以前から日本国民の仲間入りをしてゐます。併し乍ら諸君、彼等の現状はどうでありませう。やはりピープルとして存在してゐるではありませんか。不相変、熊と角力を取ってゐるではありませんか。彼等は一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。」(37)

とのべている。ここには部族的な歴史的発展段階にとどまっていたアイヌに対する一種の蔑視にもとづいた(熊と角力をとっている、という伊波の表現をみよ)、沖縄人・伊波のアイヌに対する一種の優越感が率直に表明されているのであるが、しかしながら、このようなアイヌに対する優越感は、伊波が一生求めてやまなかった、それぞれの民族・住民が個性ある発展を可能とする世界、すなわち、伊波をはじめ沖縄人を悩ませた、いわれのない本土人の沖縄差別を克服する志向、と両立する筈がないこともいうまでもない。他人を差別する人間は、本質的にいって、他人からの差別をはねかえしえないからである。
 ところで、このような伊波のアイヌ蔑視は、大正14(1925)年の時点では、伊波の脳裡から消え去っているのである。この年の「メーデの夜(38)」、伊波は感激の興奮さめやらぬていで、この年の3月29日のアイヌ学会において知己となったアイヌ青年違青滝次郎との出会いと交友について、「目覚めつつあるアイヌ種族」の一文を草している。そこでは、かつての、アイヌと沖縄人との違いという視点から、逆に、アイヌと沖縄人との共通性という視点が全面的におしだされているのである。伊波はいう。

     「我々の同胞も、アイヌと同じく、虐げられたものだが、日支両国の間に介在したお陰で、両文化を消化して、自家の個性を発揮させることが出来、その上幾多のよい示導者が輩出した為めに、漸く日本国民の仲間入りをして参政権まで獲得したが、300年間の奴隷的生活に馴致された彼等は、その為に甚しくその性情を傷つけられてヒステリックとなり、アイヌと同じように、外に対しては疑深いと共に、内に対しては兎角反目嫉視して、党争に日もこれ足らずたうたう共倒れの状態となり、今やその経済生活も行詰って、国家の手で救済されなけれぱならない羽目に陥っている。……(中略)……彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたように、ユーカリという美しい詩をのこしてゐます。そして今日のアイヌの村落でも美はしい民謡が盛んにうたわれてゐるとのことです。……(中略)……私たちはこれまでアイヌを甚しく誤解してゐました。大方の人は彼等をその価値以下に見てゐるだろうと思います。どうか貴誌を介して、アイヌの真相を県下の教育家諸君に知らして下さい。これひとりアイヌの幸福ばかりではないと思ひます。」(39)(?点は筆者)。

 アイヌの幸福は沖縄人の幸福に連なるという伊波の言外の含みには、もはやかつてのアイヌ蔑視は、かき消えてしまっているのである。
 第2に、明治32(1899)~36(1903)年という20世紀初頭に実施された土地整理についての歴史的評価にも、大きな変化が生じているのである。
 大正6(1917)年の「読書余録」においては、伊波は、福田徳三の著書『経済学研究』に収められている論文「経済単位の発展に関する旧説と新説」を興味深く読んで、

    「原始の経済生活は、独立独存の個人で始るのでは無く、多数の血属が相合して作った共同生活で始り特に土地に対する関係は全然共有主義共産主義によって支配されたもので、それが個人所有個人耕作に移ったのは、数百年に渉る経済的発展の結果である。そして今日でもこの発展の行程はなお継続されつつあるので、つまり古往今来幾千年の人類の歴史は、要するにこの大なる経済単位が益々縮小して大家族となり、家となり、終に今日のやうな個人制度にまで発展して来た行程の謂に外ならない。そして個人を以て其の単位とせない所の生産共有の経済組織の著しい例は、現にスラヴ民族の間に見出されるのであるが、なほ他に類似の経済組織を有する民族は世界に沢山あるのである」(40)

と紹介しながら、
    「思ふに土地整理以前の沖縄の土地の制度も亦其の一列に過ぎないのであろう」(41)

と指摘し、
     「兔に角種々の方面から見て、沖縄では経済単位の発達の甚だ後れてゐたことがわかるのである。経済史の教へる所によれば、経済単位の縮少が徴細に進めば進む程、其の国民経済の生産力は発達するとのことだから、長年月の間社会上経済上共産主義的の状態にあって、個人性といふものが充分に発達せず、従って個人の責任個人の活力が重ぜられないで、人間の値段が甚だ低廉なる沖縄で経済上の進歩の遅々たる理由は茲にある。個人全盛の時代は経済的進化に欠く可からざる一段階であって、発展中の此の段階を経過せなければ、到底今日欧米諸国に於て見るやうな進歩した経済組織を見ることが出来ないから、経済政策の最大の職分はこの経済上凡ての進歩の根本である経済単位の発展を早めるにあるのである。かういふことを知った後で、福沢諭吉翁の思想と事業とを顧ると、今更のやうにその卓見に驚くのである。それから10年前奈良原繁県知事によって実行された土地整理なども経済史上有意義になってくるのである。成程明治政府は明治12年法制上では沖縄人を解放して、真正の個人性を喚起す可き位置に置いたが、経済上では土地整理によって始めて土地を解放して資本化して呉れたのである。是に於て百数年来の土地共有制は廃れて、土地私有制が起った。これとりもなほさず経済単位の発展を早めたもので、琉球史上の一大事件といはれなければならぬ。さうして男爵の銅像もその記念だと思って見たら目障りにもなるまい」(42)

とのべている。やや長文の引用を敢えてしたが、それは、ニュアンスをも含めて大正6(1917)年時点の伊波の土地整理観を正確に読者に伝えたかったためである。
 これに対して、僅かに5年後の大正11(1922)年に刊行された『古琉球の政治』のなかで、伊波は、
    「琉球に於ける地割制度が慶長役前からあった」(43)

と主張しつつ、
    「琉球人は参政権を要求する前提として共有地を分配して了ったが、これだけはどうにかして遺しておくとよかったのに!」(44)

と、大正6(1917)年時点の指摘とは全く逆転した主張に転ずるのである。この『古琉球の政治』の伊波の土地整理観は簡単にすぎるので、その後の伊波自身の言葉によってその真意を確かめておこう。この短かい主張の前段は、大正15(1926)年刊行の『孤島苦の琉球史』における、
    「……目醒めた被治者階級は、国政県政に参与する権利が未だ認められないことに気がついて、その代表者は、しばしば中央政府に参政権の附与を請願したが、法規上参政権は個人の納税額を標準とするが故に、沖縄県民の大多数に対しては、その個人的納税額を認めることが出来ないといふ理由で、その都度拒絶された。そこで彼等は之を獲得する前提として、建国以来採用し来った地割制度を廃止して、各個人の土地所有権並にその納税額を確認して貰ふこととした。かうして、土地整理の事業は、明治36年に於いて終了した。」(45)

の記述が対応しており、その後半は、昭和3(1928)年の『沖縄よ何処へ』の、
    「今となって考へると、吾々琉球人に取っては、参政権という美名を得て蘇鉄地獄に落ちるよりも、この特殊な土地制度を保存して置いて、徐ろに次の時代を待つ方が気が利いてゐたのではないか、といふ気がしてならない。それから私は、地割制度の為に貯蓄心の欠乏を来たしたといふ意見にも讃成しかねる。……(中略)……独立心の欠乏の原因に至っては、もとより地割制度に帰すべきものでなく、自分の国でありながら、自分で支配することの出来なかった、奴隷制度の罪に帰すべきことは論を俟たない。」(46)

に対応しているのである。地割制度という「特殊な土地制度を保存して置いて、徐ろに次の時代を待つ方が気が利いてゐた」とか、地割制度を「これだけはどうにかして遺しておくとよかったのに!」という伊波の主張から、大正6(1917)年のロシア革命によって、社会主義がこの世に始めて実現されたという歴史的現実をみて、土地共有の地割制度も「次の時代」=社会主義に引き継がれやすいのではないか、という旧ロシアのナロードニキ的発想(47)に近い考えを伊波がいだいたことをわれわれは知ることができるのである。このようにして、ソテツ地獄を境とする、伊波の整理観の逆転は見紛うこともできないほど明らかなのである。
 第3に、伊波がグルモンの「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」という言葉を引用し、しばしば「しまちゃび」=孤島苦=インゼルシュメルツについて語るようになるのも、沖縄がソテツ地獄に見舞われるようになった大正末年からであるように思われる。この点については、伊波の全著作にあたりなおす文献的精査が必要と思われるのであるが、ソテツ地獄以前に公刊された、『琉球人類論』(1911年)(琉球史の趨勢)(1911年)『古琉球』初版(1911年)『琉球の五偉人』(1916年)『古琉球の政治』(1922年)には、このグルモンの言葉が引用されないだけでなく、しまちゃび=孤島苦=インゼルシュメルツについての論及も見られないのである。それだけではない。『古琉球』の再版(1916年)3版(1922年)には、かのニーチェの「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という言葉が巻頭にかかげられていた(48)のに対して、大正15(1926)年に刊行された『孤島苦の琉球史』から「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」というグルモンのあの言葉が巻頭にかかげられるような変化がおこり、昭和3(1928)年の『沖縄よ何処へ』でもグルモンのこの言葉がかかげられ、戦後刊行の『沖縄歴史物語』(1947年)も同様であるが、昭和16(1941)年の『古琉球』改訂初版では、あのニーチェの言葉はわざわざ除かれているのである。伊波の沖縄の歴史・文化を視る眼が「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という明るい面から、ソテツ地獄を経過して「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」というきびしい面に焦点が移動していることは明瞭であろう。大正10(1921)年に来沖し、伊波を始め沖縄研究に決定的ともいえる影響を及ぼした柳田国男の同年2月の講演「世界苦と孤島苦」(49)が、当時の沖縄のソテツ地獄の現実と結びついて、しまちゃび=孤島苦=インゼルシュウメルツという伊波の沖縄をとらえる新しい視点の獲得にとって、基本契機となったように筆者には思えるのである。
 第4に、明治39(1906)年の、

     「そこで私は、明治初年の国民統一の結果、半死の琉球王国は滅亡したが、琉球民族は蘇生して、端なくも2000年の昔、手を別った同胞と邂逅して、同一の政治の下に幸福な生活を送るやうになった」(50)

というような甘い琉球処分観――それは、大正3(1914)年の「琉球処分は一種の奴隷解放」という見解に連なり、その原型であるのだが――も、ソテツ地獄を経過して一定の事実上の修正を余儀なくされているのです。ここで「事実上の」という限定を附するのは、伊波は琉球処分=奴隷解放論を生涯主張し続け、自ら明確にその修正を自覚的に発言していないと筆者には思えるからである。すなわち、伊波は、大正13(1924)年の「琉球民族の精神分析」のなかで、

    「私は優生学の研究に没頭してゐたので、遺伝に重きを置き過ぎた結果、肉体上の解放--馬手間の如き悪内法を全廃して、雑婚を奨励し、吾人の重荷なる精神上肉体上の悪素質の復現を減じ、その上盛に善種を輸入して、本県人の素質を上進させなければならないといふこと--を唱導して、一生懸命に民族衛生の運動をやったが、私はこれには相当の効果があったやうに思ってゐる。けれどもその後唯物史観を研究して、人の意識が人の生活を決定するのではなく其反対に人の社会的生活が人の意識を決定する、といふことを理解するに及んで、私は環境といふことをおろそかにしてはならない、といふことを考へさせられるようになった。従って沖縄がかうなった原因をその制度に求めなければならないやうになって来た。」(51)
「あれだけの税金を国庫に納めてゐるのにそれに対する報酬が余りに少ないではないか。……(中略)……兎に角今のうちにどうにかして救済して貰はなければならないやうな気がする。本県は毎年500万円の国税を納めてゐるが、本県が受ける国庫の補助金は僅170万円に過ぎない。つまり300万円以上の大金が国庫に搾上げられる勘定になる。搾上げられるとふと語弊があるが、国防や教育や交通など国家に必要な設備に使はれるのだ。けれども本県人はその恩恵に与ることが至って少ない。もし琉球と鹿児島が地続きだったら、本県人も他府県人同様に、国家の酒盛りに列なって、思ふ存分に御馳走を戴けたに相違ないが、七島灘があるためにいつも孤島苦(インゼルシュメルツ)ばかり嘗めさせられてゐる。気の毒だと思って高等学校の一ッ位はたてゝ貰へないものだらうか。困ったことには中央政府には沖縄の事情が能く知られてゐない。」(52)
とのべている。ここには、かつての甘い琉球処分論は影をひそめ、したがってその甘い琉球処分観から導き出された伊波の啓蒙活動の双軸となっていた精神革命論と民族衛生論に自己批判がなされ、さらに琉球処分観にも一定の事実上の修正がみられるところに、ソテツ地獄の渦中にあった伊波の変貌の一端が象徴的に示されているのである。
 以上、四点にわたって、伊波普猷のひろい意味での歴史観の転換について検討し、伊波普猷が生まれながらにして伊波普猷ではなかった所以を指摘したのであるが、ソテツ地獄が沖縄社会に与えた衝撃は図りしれないものがあって、現代のほとんど全ての歴史家の琉球処分観の源流は、このソテツ地獄のさなかに成立した歴史認識=琉球処分観に遡ると筆者には考えられるのである。この点もまたこれまで指摘されることのなかった視点なのであるが、読者は試みに、沖縄近代史に関する様々な通史もしくは通史的叙述を一瞥されたい。
 比嘉春潮『沖縄の歴史』(53)宮城栄昌『沖縄の歴史』(54)井上清「日本歴史のなかの沖縄」(55)新里恵二・田港朝昭・金城正篤『沖縄県の歴史』(56)といった、世代・立場を異にする著者たちの沖縄近代史理解の要に、共通して、上杉県令時代に池田政章書記官が松方正義に提出した上申書、

    「夫れ北海道は東北の鎖■なり。為めに毎歳国庫の金100余万円を消費せり。沖縄は西南の要地に非ずや。毎歳地方の金20万円を収括す。何ぞ東北西南厚薄反異の甚だしきや。若し北海道は地広く物饒かにして、100万円を消費するも尚ほ多からずとせば、沖縄は地狭く物寡くして、20万円を収括する亦少しとなさず、徒らに苛歛の旧慣を墨守するに止り、絶えて倒懸を解くの期なく、蠢民を教化するの日なくば、是則ち琉球を以て琉球に易ゆるなり。今より以て往数十百年を経るも、民心何をか感じ、何をか喩る所ありて、能く我教化に服従せんや」(57)

が据えられ、近代沖縄が論じられているのである。このような異口同音の通念の源流は何処に求められるのであろうか。筆者の知る限り、これまたソテツ地獄のさ中に新城朝功によって執筆された『瀕死の琉球』(大正13年)以前には遡りえないように思えるのである。新城は大正末期の沖縄経済の窮境を、中央政府の沖縄収奪(沖縄に投下された国家資金を遙かに上廻わる国税徴収)の帰結とみなし、このような事態は琉球処分期にまで遡ぼるとして、明治15(1882)年の池田上申書を引用しつつ、自らの主張を補強している(58)のであって、先に指摘した戦後沖縄近代史の通念の原型をここにみることができるのである。つまりソテツ地獄のさ中に成立した新城朝功の広い意味での琉球処分観は、親泊康永の『義人謝花昇伝』(昭和7年)に引き継がれ(59)、さらに、戦後の沖縄近代史の通念となっていったと思われるのである。
 しかしながら、この通念によって、琉球処分後のソテツ地獄までの沖縄近代の歴史を総括するには、はるかに沖縄近代の歴史は複雑な屈折に富んでいたのであって、その史実については、別の機会に詳しく指摘したところであって、ここで具体的に再論はしないが、いわゆる「旧慣温存期」を通観して見れば、明治24(1891)年までの国庫支出の沖縄県費と沖縄での国税徴収額のプラス・マイナス関係は、明らかに明治政府にとって赤字であって(60)、このような赤字は、沖縄を除くと全国どの府県にも見られないという意味で、沖縄は唯一の例外的な県であったのである。したがって、新城朝功の判断は、彼のソテツ地獄の現状認識を単純に過去の歴史に投影した誤断にすぎないこととなるのであるが、新城朝功のみならず、仲吉朝助(61)・伊波普猷(62)等の有識者が一致して主張し、県当局もこれに同調している(63)、ソテツ地獄の原因として、国庫支出を遙かに上まわる国税徴収という事実を重視する視点は、再検討の余地がないのであろうか、そしてまた琉球処分とソテツ地獄はどのような関連にあるのであろうか。ソテツ地獄と琉球処分観を論じきたってここにいたれば、改めて、ソテツ地獄と琉球処分という新たな視点の浮上に想いを馳せざるをえないのである(64)。

むすび

 琉球処分は、「侵略的統一」か、あるいは「上からの民族統一」か、という60年代初頭に端を発する井上清・下村富士男・新里恵二氏の論争は、未だに決着をみていないと思われる。というのは、単に論争当事者の間で論争の終結が確認されないままに論争が中断されているというその経過からだけではなく、琉球処分の歴史的評価について積極的な見解を提出された井上・新里説ともに、その見解に内容的な不備を伴なったまま論争されてきたと筆者には考えられるからである。
 すなわち、「侵略的統一」を主張する井上説が、廃藩置県一般では処理しきれない琉球処分の特異性をその歴史評価のうちに含めようとしているその主観的意図はよく了解できるのであるが、井上説にとって不可欠の前提ともいうべき琉球王国=「独自の国家」(65)説に難点が存在するのである。というのは、「独自」ならざる国家なるものは普通には存在しないはずであって、あえて「独自の国家」とみなすその「独自」の内容がはっきりしていないのである(66)。ヒユ的に言えば、「独自ならざる国家」という規定ならば、井上氏の旧説であった「独立の国家」の修正として理解し易いのであるが、「独自の国家」と「独立の国家」は字句表現上の違いをこえて本質的にどう違うのか、第三者を当惑せしめるところに井上説の難点=内容上の不備が存在するのである。
 他方、「上からの民族統一」(67)を主張する新里説には、そもそも明治維新そのものが「上からの民族統一」にほかならないことを考慮外においている難点=内容上の不備が存在しているのである。すなわち、琉球処分をただ単に「上からの民族統一」と規定することは、理論的には、明治維新一般のうちに琉球処分を解消することにほかないのであって、琉球処分の特殊性をどう歴史的に評価すべきかが論争点となっている。その核心的論点について、新里説は客観的にはその無視に陥っているとみなさざるをえないからである。
 私見は、琉球処分を明治維新の必須の一構成要素とみ、さらにそれを、琉球社会が日本国家に二段階的に(薩摩の琉球征服と琉球処分の二段階)組みこまれる(薩摩の琉球征服後の琉球王国と琉球藩は、半国家=疑似国家と考えている)その最終局面ととらえ、したがって琉球処分を、「上からの民族統一」としての明治維新の特殊な局面とみるものであるが、この特殊な局面の本質を、沖縄における廃藩置県として琉球処分が、琉球社会にとって基本的に他律的であった(本土の廃藩置県が自律的なものであったことを想起されたい)、「版籍奉還なき廃藩置県」においてとらえるものである。
 したがって琉球処分は、「上からの・他律的な・民族統一」(68)と規定すべきであろう、というのが、この小稿の結論にほかならないのである(69)。


(1)この小稿における本土の版籍奉還・廃藩置県についての指摘は、井上清『明治維新』(中央公論社版『日本の歴史』1965年)、田中彰『明治維新』(小学館版『日本の歴史』1974年)の啓蒙書によって確かめることができる。
(2)第2~第4の琉球処分の特質は、比嘉春潮『沖縄の歴史』(沖縄タイムズ社・1956年)、宮城栄昌『沖縄の歴史』(吉川弘文館・1977年)、新里恵二・田港朝昭・金城正篤『沖縄県の歴史』(山川出版社・1972年)等の概説書によって指摘されている。
(3)金城正篤「<琉球処分>と農村問題」(沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』1970年、47頁)。
(4)衆議院議員選挙が、とにもかくにも施行されるのは、やっと明治45年であり、参政権・府県制が本土なみになるのは、大正7年である。
(5)この論争の関連論文は、新里恵二編『沖縄文化論叢』1歴史編(平凡社・1972年)に収められており、新里氏の立場からする論争の要約が、その「解説」でのべられている。
(6)「旧慣温存」における「温存」という表現は、戦後の前掲比嘉春潮『沖縄の歴史』における「旧制温存」に始まると思うのであるが、この「温存」という表現には、明治政府が<積極的に>旧慣を存続せしめたという意味内容がこめられている。しかし、筆者が別掲「<旧慣温存期>の評価」(「沖縄タイムス」1977年7月13日~16日・本書第3部第2論文)「<旧慣温存期>の評価・再論」(1977年10月11日~11月27日・本書第3部第3論文)で具体的に指摘したように、琉球処分後日清戦争終了までの旧慣の存続は、明治政府にとってはやむをえざる次善の策であって、決して、明治政府が<積極的>に旧慣を「温存」したわけではない。いわゆる「旧慣温存」とのべる所以である。
(7)たとえば、「転期の沖縄史研究」(「琉球新報」1976年8月13・14日・本書第2部第2論文)「前近代の沖縄歴史研究をめぐる2、3の問題」(第6回南島史学会報告、後に「琉球新報」1977年12月7~9日掲載・本書第1部第5論文)。
(8)前掲「<旧慣温存期>の評価」「<旧慣温存期>の評価・再論」。
(9)真境名安興『沖縄現代史』(1923年、戦後、1967年に琉球新報社より覆刻された)
(10)太田朝敷『沖縄県政50年』(1932年・国民教育社)。
(11)安良城「日支両属」(『沖縄県史』第24巻・1977年・446頁・本書補注(5))。
(12)『通航一覧』(国書刊行会本第1巻2頁)。なお、下村富士男氏がその「<琉球王国>論」(前掲『沖縄文化論叢』所収)において「近畿以外は、日本の領域でありながら外国と書かれた」(443頁)とか「確かに幕府は<附庸><異国><外国>とした。しかし、それはその時代の意味での<附庸>・<異国>・<外国>とし、そう書いたのである。当時は、<国>や<国家>が藩を意味する場合があった。今日の意味でのそれとは差がある」(447頁)と主張されるのは、自説を擁護するための牽強附会の説であって、徳川期に琉球を「異国」・「外国」と指摘する場合、その意味は「今日の意味でのそれ」にはなはだ近いのである。
(13)1967年、筆者は新里恵二氏との対談「沖縄歴史研究のこれまでと今後」(「沖縄タイムス」1967年10月30日~11月4日、後に、「歴史評論」259号に転載・本書第4部所収)のなかで、「いわゆる<琉球処分>をどうみるかの問題があります。この問題を解明する前提として、薩摩の<琉球征服>後の琉球が独立国であったのか、<独自の国>だったのか、さらに<附庸国>であったのかを明らかにする必要があります。この点については、理論的には琉球王国における特定の階段関係を現実に支えた武力装置をだれがにぎっていたかをまず考えなければならないと思います。中国から独自に冊封を受けていたということは、形式的な問題にすぎない。琉球王国の階級関係を維持しうる根拠をだれがにぎっていたかが基本的なきめ手だと思う。私はこのきめ手を薩摩がにぎっていたと思いますから、琉球王国は独立国でもなければ<独自の国>でもないし、<附庸国>でもない、特殊とはいえ、幕藩体制社会内部に位置づけられた一つの藩と考えています。」と指摘したことがあるが、この指摘は、末尾の「特殊とはいえ、幕藩体制社会内部に位置づけられた一つの藩と考えています」を「幕藩体制社会内部に位置づけられた藩に近い特殊な存在と考えています」と修正しさえすれば妥当なものと現在も考えており、その特殊な存在を半国家的=擬似国家的存在と本稿はとらえているのである。
(14)『伊波普猷全集』(平凡社)第1巻49頁。以下、本稿では『伊波全集』として引用。
(15)伊波の進貢貿易論は、第1に、琉球王国を鎖国制度の下の密貿易機関とみなしたこと、第2に、「唐1倍論」によって進貢貿易が常に厖大な利潤をもたらし続けたとみなしたこと、の以上2つの重大な誤謬をおかしている。第1の点は、本文で指摘したように琉球は長崎・対馬とならぶ幕府公認の海外への窓口であり、第2の点は、前掲「転期の沖縄史研究」で具体的に指摘したように、伊波は、中国へ持ちわたる渡唐銀を進貢貿易の利潤と誤認しており、その誤認は『南聘紀考』の「齎」(もたらす)を、<もってゆく>と正しく解釈せず<もってきた>と正反対に誤断したために生じているのであるが、現在でもなおこの種の誤解が、宮城栄昌『琉球の歴史』(吉川弘文館・1977年)のような最新の通史にもみられる(同書123~124頁)のは、残念である。
(16)前掲真境名『沖縄現代史』15頁。
(17)同右書16頁。
(18)原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店・1968年)55頁以下。
(19)前掲下村「<琉球王国>論」
(20)『那覇市史』資料篇第2巻中4、126頁。406号文書。
(21)同右書121頁。389号文書。
(22)同右書126頁。408号文書。前掲406号文書のように伊地知貞馨に対し与那原親方は、明治6年「琉球国体政体永久不相替、且清国交通是迄通被仰付候段先達テ外務卿并貴様ヨリ御達ノ趣」について「以後証拠」として文書による確認を伊地知に求めるのであるが、これに対して「清国交通是迄通被仰付候」については文書による確認を行なっていないので、進貢貿易を置藩後も積極的に公認していたとはみなし難い。
(23)たとえば、明治8年3月進貢使の一行が北京に到着する事件について、寺島外務卿より榎本駐魯公使にあてた同年5月24日の公文には、「一体琉球島主即中山王ヨリ、従来隔年ニ清京エ貢使ヲ派出候旧典有之、此度差出候モ、新帝践詐ノ慶賀等ニモ無之、矢張例年ノ貢使ニテ、其実ハ昨年台蕃御処分巳前ヨリ既ニ国許ヲ発シ居候モノニテ、結局同島我藩属トノ名義未タ充分ニ無之以前ノ事ニテ、強テ追咎難致、加之清政府トノ引合モ出来兼」(『沖縄県史』第15巻36頁・9号文書)とあり、台湾問題をめぐる和議が成立する明治7年10月31日以前の進貢使は容認されていたことがわかる。なお、同上書23頁4号文書も参照。
(24)『沖縄県史』第15巻24頁。
(25)同右書。13頁。2号文書。
(26)前掲『那覇市史』資料篇第2巻中4、131頁。
(27)『大日本外交文書』第7巻186号文書(同右書211頁)。
(28)同右書449号文書以下。136頁以下。
(29)『沖縄県史』第12巻63頁以下。
(30)前掲『那覇市史』資料篇第2巻中4、109頁354号文書。
(31)前掲『沖縄県史』第12巻68頁以下。
(32)同右書400頁。
(33)同右書223号文書398頁以下。242号文書481頁以下。277号文書546頁以下。303号文書657頁以下。
(34)『伊波全集』第1巻493頁。
(35)明治39年の「琉球人の祖先に就いて」(『伊波全集』第1巻所収)参照。
(36)外間守善編『伊波普猷 人と思想』(平凡社・1976年)所収。
(37)『伊波全集』第1巻61頁以下。
(38)同右書第11巻312頁。
(39)同右書310頁以下。
(40)同右書262頁。
(41)同右書262頁。
(42)同右書263~264頁。
(43)同右書第1巻449頁。
(44)同右書449頁。
(45)同右書第2巻261頁以下。
(46)『沖縄よ何処へ』(世界社・1928年)67~68頁。
(47)安良城「共同体と共同労働」7、ヴェラ・ザスーリッチへの手紙(『新沖縄文学』33号・1977年・本書第1部第4論文)。
(48)この点について、高良倉吉氏より教示・助言をいただいたことを感謝したい。
(49)『伊波全集』第11巻555頁。
(50)同右書第1巻47頁。
(51)同右書第11巻297頁以下。
(52)同右書300頁。
(53)沖縄タイムス社刊・1958年。
(54)日本放送出版協会刊・1968年。
(55)「沖縄タイムス」1971年11月16日~11月21日、後に『<尖閣>列島』(現代評論社・1972年)所収。
(56)山川出版社刊・1972年。
(57)新里恵二『沖縄史を考える』(勁草書房・1970年)26頁以下。
(58)湧上聾人『沖縄救済論集』所収の『瀕死の琉球』12頁以下。
(59)親泊康永『義人謝花昇伝』(新興社・1935年)28頁以下。
(60)前掲安良城「<旧慣温存期>の評価・再論」、なおこの点については、笹森儀助『南島探験』(1894年)がいち早く指摘し(347~9頁)、さらに前掲真境名安興『沖縄現代史』も1923年時点で再確認しているところであるが(210頁)、戦後の沖縄近代史研究の大方は、そして、金城・西里氏は、この明白な事実と先学の指摘を無視してきているのである。
(61)『伊波全集』第11巻299頁。
(62)同右書299頁以下。
(63)「沖縄救済関係資料」(『那覇市史』資料篇第2巻中の5所収)。
(64)ソテツ地獄の解明は、沖縄近代史の科学的把握にとって、是非確保されねばならない「管制高地」と考えられるが、その解明は全くといってよい程今後の課題に残されている。
(65)井上清「沖縄」(前岩波講座日本歴史「近代」3・1963年、後に前掲『沖縄文化論叢』歴史編に所収)。
(66)前掲下村論文もこの点をついているが、井上氏の反論はないように思われる。
(67)前掲新里『沖縄史を考える』331頁以下。
(68)「上からの・他律的な・民族統一」という規定について附言すれば<上からの>は階級的視点、<他律的な>は民族的視点からの内容規定である。すなわち、<上からの>は、前近代社会における支配階級がヘゲモニーを握って民族統一が実現されることを表現しているのであって、「非民主的」等々はその必然的属性となる。他方<他律的な>は、その民族統一の民族的視点からみた客観的条件・主観的条件の未熟さを表現しているのであって、これまで<真の民族統一か>どうか、といった次元で論議されてきた内容がここに集約して表現されているのである。
 あらゆる歴史上の民族統一は、この<上から>か、<下から>か、<他律的>か、<自律的>か、の2面を、前近代社会のブルジョア的改編――経済的には、上からの資本主義育成か、下からの資本主義発展か、政治的には、上からのブルジョア的改良=反動か、下からのブルジョア革命か――と関連させて追求すべきものと思われる。
 なお、「上からの・他律的な・民族統一」の「民族統一」についていえば、琉球文化にみられる本土文化との異質性――その距離に注目して、琉球人の異族性を強調する見解が沖縄では根強いが、この異族論を科学的につきつめれば、琉球人が琉球処分によって日本帝国の少数民族に転化したという見地に立って、異族論は少数民族論として展開されねばならないのではなかろうか。だがしかし、アイヌ問題は疑いもなく日本における少数民族問題ではあるが、沖縄はこれと異質である。
 というのは、支配民族と少数民族との間には、それぞれが負っている歴史・文化の差違も大きく作用しはするが、より基本的な自然の差異が決定的と思えるからである。アイヌと日本人、ゲルマン人とケルト人、等々、人間が自然の中に埋没していた太古の昔から、一歩自然と対立する人間に転化したその時点における、自然からうけとった母斑である種族・言語の差異という自然的差異が、少数民族論の基底に据えられなければならないからである。
 しかしながら、沖縄における異族論は、少数民族論として、科学的につきつめられていず、感情・思考・行動様式といった文化の差違という、いわば、自然の差違ではなく、1000年・2000年といった長い時間によって作り出された同一種族の歴史の差違――それはしばしば恰かも自然的差違と誤断され勝ちなのであるが――を根拠に主張されているように思われる。
 アイヌ語と日本語、朝鮮語と日本語といった、差異が、琉球語と日本語の間に見出されない限り――このことはこれまでの言語学的研究によってはほとんど不可能なことに属するのだが――科学的な基礎をもった異族論は容易に展開し難いのであって、そしてまた、考古学の最新の知見もまた、異族論=少数民族論に左担していないのである。
 さまざまな異族的表象をもってしても、異族論を科学的に構築しえないとみなす所似である。
 琉球文化の歴史的個性をそれ自体としては認識できず、本土文化とつながる限りにおいて、その文化的価値を容認する中央指向的な本土ベッタリ的思考の対極としての異族意識が、体制批判の有効なイデオロギーたりうるためには、少数民族論としての異族論の科学的構築が不可欠の前提と思われるのであるが、果してそれは可能なのだろうか。
(69)西里喜行氏は、筆者の金城正篤・西里喜行氏の見解に対する批判(前提「<旧慣温存期>の評価」)に対して、「さて、そこで最後に<旧慣温存期>の評価にかかわる第4の論点、すなわち、旧慣温存路線は<沖縄>にとってなんであったか、という論点の検討に移らねばならないのであるが、この論点については安良城氏の論及を待って別の機会に検討したい。ただ、ここでは、旧慣温存路線が日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果していたのか、それとも、沖縄を旧態依然たる<前近代>的社会におしとどめることによって、近代日本における沖縄の植民地的位置を決定的にしたのか、という問いにどのように答えるかによって、琉球処分の評価ともストレートに直結することだけを付言しておきたい。とりわけ、旧慣温存路線が沖縄の旧支配層にとってではなく人民にとってなんであったのか、という論点こそが<旧慣温存期>の評価にかかわる最大のポイントであるばかりでなく、沖縄近代史の原点としての琉球処分をも視野のなかへおきつつ、この論点について論及して頂ければ幸甚である」〔「沖縄近代史と研究の視点と論点――安良城盛昭氏の問題提起に寄せて――」(「沖縄タイムス」1977年8月23日~9月8日)〕と筆者に宿題を課されたのであるが、すでに指摘したように、琉球処分そのものの歴史的評価は、「上からの・他律的な・民族統一」と筆者はみなすものであって、これについての西里氏の積極的な批評をえたいと考えるものであるが、「旧慣温存路線は<沖縄>にとってなんであったか」という西里氏の設問について簡単にふれておこう。西里氏は、いわゆる「旧慣温存路線」[この点については註(6)参照]が、(A)「日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果たしていたのか」それとも、(B)「沖縄を旧態依然たる<前近代>的社会におしとどめることによって、近代日本における沖縄の植民地的位置を決定的にしたのか」という二者択一の「問い」を私に投げかけ、その解答をせまっているのであるが、この二者択一の「問い」自体のうちに、西里氏の沖縄近代史理解の難点が端的に表現されていると私は思うのである。西里氏は、この(A)と(B)を相互排除的なものと一途に思いこまれ、だからこそまた二者択一の解答を私に迫られているのであるが、私見によれば、(A)と(B)とは相互排他的なものではなく併立的なものである。というのは、明治政府が、やむをえざる次善の策としてとった「旧慣存続」が、(A)「日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果していた」からこそ、沖縄は、松方デフレの荒波を受けず地割制度も存続し、その故に本土では、1890年代初頭にみられた農村再編=地主制の成立・展開が20世紀初頭においても本土と違って沖縄では全くみられず、だからこそ、沖縄は(B)「旧態依然たる<前近代>的社会」でありえたのであって、(A)か(B)かではなく、(A)も(B)も、「旧慣存続」の帰結なのである。(A)か(B)か、という西里氏の設問は、或る意味からいって戦後の沖縄近代史の常識的発想なのであるが、その発想の転換を主張する私見の妥当性は、ここでも論証されたかの如くである。
 なお沖縄は、琉球処分以後、日本の植民地になったのでは決してない。沖縄は、たしかに、本土の諸県と同一に論ぜられないさまざまな特殊性をもっているが、このことは、沖縄が台湾・朝鮮と同様な植民地であったことを全く意味しないし、北海道のような内地植民地でもない。唯一例外的ともいうべき特殊な県ではあるが、にもかかわらず県であることを抜きにして、琉球処分後の沖縄を論ずることは全く不可能なのである。
 西里氏のいう「沖縄の植民地的位置」なるものも、以上の脈絡――すなわち、語の厳密な意味での植民地ではなく、植民地<的>のヒユ的意味でしか解しようがないのであるが、その沖縄の後進的・被疎外的地位も、「旧慣存続」が「決定的にした」のではない。かりに、10数年にわたる「旧慣存続」が存在しなかったにせよ、その後進的・被疎外的地位に本質的な変化はなかったであろう。というのは、「旧慣存続」の有無によって、沖縄の地位に質的な変化がありえたかのようにみなす西里氏の判断には、日本資本主義の構造と天皇制の体質について、しかるべき配慮がなされていないと筆者には思えるからである。
 総じて、西里氏の沖縄近代史の理解のなかには、色濃く「差別史観」が根付いているように思うのは、筆者の<ひが目>であろうか。どんなにすぐれた「差別史観」といえども、歴史における差別の1側面を鋭くえぐり出すことに成功しはするが、その差別面の全体歴史における位相を、科学的に確定しえない難点を本質的にもっていることを、われわれは想起すべきではあるまいか。
 「旧慣温存路線が沖縄の旧支配層にとってではなく、人民にとってなんであったのか」という西里氏の問いかけに対しては、次のように指摘するにとどめたい。下からの人民大衆の直接要求行動に基づかない、したがってまったく上からの、また、まったく外からの、改革(琉球処分後、ささやかではあるが、やはり、人民大衆に対して改良=改革が多方面にわたって実現されている)はその改革のテンポ・内容を、人民大衆とは無緑の「上」「外」が恣意的に変更しうるという歴史の教訓を、「旧慣存続」期を通じて沖縄の人民大衆にのこした、と。
(1978・2・5/「新沖縄文学」第38号(1978年5月)所収)

補注(5)日支両属
 明治5(1872)年の琉球藩設置から明治12(1879)年の廃藩置県の間の琉球処分期に、琉球は論議の余地なく日本固有の領土である、とみなす明治政府の強圧的主張に対し、首里王府は、琉球王国はもともと日本・中国の両国に両属していた、すなわち、「日支両属」の国柄であると執拗に抗弁した。この抗弁の背後には、琉球王国の地位という歴史的に複雑な問題がよこたわっていた。慶長14(1609)年の島津による琉球征服以後から琉球処分までの約2世紀半の間の琉球王国の地位は、極めて特殊であった。すなわち、この間の琉球王国は、島津に征服された結果として、第1に、島津の「領分」であり、したがって、検地をうけ、石高制の下におかれ、王位継承・三司官任免は島津の承認を要し、軍事力は制限され、仕上世の貢納が義務づけられ、貿易も統制下におかれる等、実質的に島津の支配下にあり、将軍もまた、島津にあてた領知判物に琉球を加えて、琉球が島津の「領分」であることを確認している。しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確であるが、琉球王国が日本社会の一環に名実ともに繰りこまれた場合、支配階級としてのユカッチュの、階級としての存続が保証されえないであろうことを、本能的に自覚していた琉球王国の支配階級のイデオロギー的表現として、琉球処分期の「日支両属」論を理解すべきであろう。第2次大戦後の沖縄の現実は、琉球処分を中心とする沖縄近代史研究の飛躍的発展をもたらしたが、その過程で琉球王国の地位を、独立国のちに独自の国(井上清)・附庸国(新里恵二)・日本の一部(下村富士男)とみなす見解の対立が生じ、論争が交されたが、三説ともに島津の「領分」でありながら「異国=外国」であるという琉球王国の二面性のうちの、いずれか一面の強調にとどまっている難点がみられる。

〔参考〕井上清「沖縄」(前岩波講座『日本歴史』16・1963年)、下村富士男「<琉球王国>論」(「日本歴史」第176号・1963年)、新里恵二「解説」(『沖縄文化論叢』1・1972年)



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以上が安良城盛昭氏の著書からインターネットで拾ったもの。清國交通云々は同じ文書が松田道之『琉球處分』にも收録されてゐる。
下は安良城盛昭氏の寫眞。
http://ryubun21.net/?itemid=9498

安良城盛昭
1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏

ついでに、安良城西里論爭のリンク。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/bunkenshiryo4.htm