外のブログが尖閣古史のデマを流してゐるので、コメントを書きいれました。

http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/17647996.html
 最古の1534年記録より前について、極めて低い可能性を、やたらと可能性が高い高いと持ち上げはいけませんね。先行研究を讀んでからにして下さい。

 鄭和はイスラム航海士に頼って印度洋を渡ったので、琉球とは關係ありませんよ。こじつけないで下さい。といふより鄭和を根據とするならば、印度洋ではイスラム航海士、尖閣では琉球航海士、と推測されてしまふのです。そして實際、1534年以後は近代に至るまでずっと琉球航海士に頼ったことが明記されてゐます。

 楊載は琉球情報が無いので册封が遲れたことは史料に明らかな定説です。そして楊載が日本人から琉球航路を教はった可能性が高いことも先行研究があります。勿論尖閣史料出現以前の歴史ですから、誰でも推測しかできないわけですが。元朝末年から大陸沿岸に倭寇が多數群がってゐて、同年代の琉球にはわづか一人二人の福建人だけしか確認できないわけです。可能性としては壓倒的な差です。出土品はどの地域の商人が持ち込んだのか、全然確定されてません。

 「二重国籍を禁じるまでは二重国籍を保有していた」といふのも成り立ちません。そもそも海禁の法は洪武年間に定められたので、二重國籍が發覺した時に、「それはもともと違法だ」と、嘉靖皇帝が確認しただけです。嘉靖皇帝が立法して禁じたのではありません。いちいちこんな細部まで何故私が言はねばならないのか。少し常識で勉強して下さい。面倒なんですよ。 

 「琉球はチャイナに册封されたので、琉球職員の發見はチャイナに屬する」とのお説、それは琉球がチャイナに屬するか否かの問題であって、尖閣だけ單獨でチャイナに屬するのではありません。三十六島の明細が記録されたのは、後の清國時代のことです。そもそも琉球(除臺灣)そのものの最古の記録が洪武實録ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、琉球は永遠にチャイナ領土だとなります。また倭國そのものの最古の記録も後漢書ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、日本國は永遠にチャイナ領土だとなります。しかし1461年から1873年まで、チャイナは大陸海岸及び臺灣海岸に國境線を引き續け、同時に尖閣航路の西の入口の馬祖列島に海防線を引き續け、要するに尖閣はチャイナ國外だと宣言し續けるのです。

 1534年の時に、古文書が既に燒けてゐた件について。陳侃の原文をよく讀んで下さい。造船過海と、海道交際と、二種に分けて書いてあります。古文書が無くても、造船及び過海については故老から聞き出すことができて、海道及び交際については誰も知らなかったと、分けて書いてあります。つまり海道について福建の故老はもともと知らないのです。

 基本的にこのブログは先行研究を無視してゐるので、讀む人は信じてはいけません。どちらが誤りといふ判斷は、みなさん先行研究で確認して下さい。このブログを私がいちいち直してゐたら切りがありません。とにかく先行研究ですよ。先行研究・最新研究が反映されなければ、全然無意味です。以上私が書いたコメントも全て先行研究にもとづいてゐるので、學術的に引用する人はこのコメントから引用せず、しっかり先行研究から引用して下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html

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更に三つコメントを書き入れました。
http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/12625402.html
『台海使槎録』の近海港口は反時計回りだとの話はどこから出たか存じませんが、これは中ー南ー北といふ順序です。先行研究に出てます。そもそも最重要の三縣名「臺灣・鳳山・諸羅」を何故無視してゐるのですか。先行研究ですよ先行研究。研究を無視したいのなら、最初からこのブログ全體の斷定的な態度は宜しくありませんね。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/13579776.html
ちょっと待って下さい。臺灣部分で描かれてゐないのは、釣魚嶼だけでなく、臺灣中央山脈以東は全部描かれてません。鷄籠から東側の三貂角も葛瑪蘭(宜蘭)も描かれてません。描いたのは清國領域内だけ。描かなかったのは清國領域外。當り前です。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/16304180.html
 「臺灣全島之圖」の彭佳山は、今の花瓶嶼の北緯25度25分27秒、東經121度56分47秒にぴたり合致します。その東北側の無名の二島も、經緯度は今の綿花嶼・彭佳嶼に合致します。全て臺灣北方三島であって、尖閣とは無縁です。
 また『臺灣水路誌』には尖閣が臺灣附屬諸島と分けて別途記載されてゐます。しかも出兵先の牡丹社に近い附屬の七星岩が記載されてゐません。また『臺灣水路誌』は他の南島水路誌や日本水路誌と併せて全體を成すための編纂途中のものであり、全體は英軍水路誌にもとづきます。英軍水路誌は臺灣卷にも尖閣を併載しますが、主な記述は尖閣を日本卷に載せてゐます。これらは八重山日報連載『尖閣獺祭録』で細かく論じ、有料電子版も全世界向けに出してます。先行研究ですよ先行研究。
 どうもこのブログは、讀む人が細部を確認せず「何となく道理がありさうだな」と見えてしまふことを前提としてゐますね。



參考:リンク先に使はれてゐる「皇輿全覽分省圖」及び「康煕皇輿全覽圖」から、臺灣最北端。米國議會圖書館藏。
皇輿全覽分省圖臺灣北congress
https://www.loc.gov/resource/g7821fm.gct00232/?sp=6
https://www.loc.gov/resource/g7820m.gct00265/?sp=30