沖繩の最近の歴史本を翻(ひもと)くと、西暦1372年に明國洪武皇帝から琉球國の名を賜はったと、往々にして書いてある。全くの嘘だ。原史料にそんなことは書いてない。ただ沖繩を琉球國と呼び始めた最古の記録が、明國の洪武實録に見える、それだけに過ぎない。
 命名者は誰なのか、記録は無いが、推測はできる。洪武皇帝は周邊各國に對して明國の建國を通知する使者を派遣した。主立った國には全て通知し終へたが、琉球國に對してだけは遲れた。何故なのか。
 洪武皇帝が琉球に派遣した使者楊載は、その前に日本に派遣された。二百年後の鄭若曾「琉球圖説」によれば、楊載は日本からの歸途、琉球を經由したため、その後すぐに使者として琉球に派遣されたといふ(楊載使日本、歸道琉球、遂招之)。二百年後ながら一定の説得力があると、研究者らは認めてゐる。
 つまり明國には沖繩情報が無く、日本から情報を得たのである。その時に初めて玉偏の二字「琉球」が使はれ始める。それ以前は流求や瑠求などに作り、基本的に臺灣を指し、沖繩を指さない。最も早い流求は『隋書』に見える。
 元國(モンゴル)以前は、臺灣以東の地理情報が全く無く、元國が沖繩を攻めるのが不可能だったことは、楊載自身に贈られた文「贈楊載序」(胡翰の撰)に書いてある。正德五年(西暦1510年)刊『皇明文衡』卷三十八に收められたものだが、原文は楊載の同時代に成ったので信頼度の高い史料として知られる。
http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=D7861500&order=rn_no&no=01717&im=0150029
http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/file/D7861500/1200/0150029.jpg
http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/file/D7861500/1200/0150030.jpg

「贈楊載序」が「流球」に作るのも古さを感じさせる。
 日本では、沖繩は夜光貝(やく貝、螺鈿)を産する島々として古代から近代まで知られた。玉偏の二字「琉球」は隋書の古典に附會するとともに、夜光貝を産する美稱として、日本との關はりの中で創始されたと推測できる。古典に附會したがるのは漢字文化圏全域に共通の現象であるが、チャイナ領土外の國々が古典を美稱として用ゐるのも、その例にならって自美の意である。中華思想のチャイナ側から外國を美稱したがる現象はほとんど無い。
 日本側の情報で沖繩の美稱「琉球」が創始された。明國から賜はったのでなく、沖繩人がまづ自稱した可能性が極めて高い。琉球といふ漢字名をチャイナ名だと勘違ひして捨ててしまふと、現チャイナ側だけが琉球(チャイナ式ローマ字Liuqiu)を流布させてしまひ、結果的に琉球といふ名が今後はチャイナのものになってしまふ。我々は積極的に琉球Ryukyuを使ふべきだ。

 なほ、玉偏は別として、流求・瑠求・琉球が次第に地理的に遠くへ及んだ結果だとの考へ方も近年あると、先日或る會合で聞き及んだ。初めは福建沿岸附近を琉球と呼び、次第に臺灣を琉球と呼ぶやうになり、明國の時にそれが沖繩にまで及んだ、といふ考へ方である。しかし福建沿岸附近の琉球は明國中葉の文人の呼んだ史料である。それよりも千年も前に隋書の流求は澎湖の東を指したので、福建海岸から次第に地理認識がひろがったといふ考へ方は成り立たない。明國の文人は海に出ることもなく、ただ海岸線の外をまとめて幻想的に琉球と呼んだだけだらう。漢詩にありがちなことだ。
 さらに、元國の周致中『異域志』にも大小琉球が出てゐるが、王子が太學に留學したなど明國の内容なので、元國の原本ではないとされる。

 そもそも隋の流求のみならず、天皇も神武も扶桑も神社も全部漢文だ。しかし隋唐文明の正統的繼承者は日本であり、且つ隋の流求の名は東南百越の地の産物なので、チャイナではない。そもそもチャイナ(黄河文明)に海の文明は無かったので、海中の「しま」を示す漢字すら無かった。島の本義は臨海の山々を指す。嶼は後漢以後の東南百越の地で産まれた漢字だ。黄河文明には「洲」といふしまが有るのみ。川の中洲である。媽祖も福建沿岸で宋の統治のほとんど屆かぬ湄洲嶼に生まれた女である。禪文化も茶もうどんも全部東南だ。鑑眞も揚州人だからチャイナ人ではなく、長崎唐人屋敷にもチャイナ人は一人もゐなかった。要するに東南海洋文明の産物はどれ一つチャイナではない。流求も同じだ。一言で言へばチャイナは小さいので、我々が大きく見て差し上げる必要は全く無い。
 今話題の聖德太子。教科書では厩戸の皇子に改めるといふので反對の聲が高まってゐる。しかし漢文を拒否するならば、聖德は漢文なので拒否して、逆に厩戸の皇子だけ使はうといふ話になってしまふ。漢字にしても、卑彌呼時代には既に使ってゐるので、疑ふらく稻作彌生文化の時には長江文明から流入したと私は推測してゐる。黄河文明からではなからう。文明戰の全勝を目指すために私はチャイナで滅んだ漢文を書いてゐる。
 基本理念は、長江流域以南はチャイナ殖民地である。唐末菅原道真以後の黄河文明は新チャイナである。秦漢南朝隋唐百濟の文明繼承者は日本である。後漢から唐までのチャイナは大印度文明中の小文明なるがゆゑに、日本はチャイナ文明を取り入れた。日本は東南百越の友邦である。臺灣に渡った福建人も百越だから、出エジプトした非チャイナの仲間である。以上の正しい概念を是非ひろめるべきだ。
https://www.youtube.com/watch?v=er8otWlsuRA

以下參考資料。

陳侃『使琉球録』曰く、
「閩中士夫常曰、霽日登鼓山、可望琉球。蓋所望者小琉球也。
若大琉球、則雖離婁之目、亦豈能明見萬里之遠哉。」
(鼓山は福州市内の小山。)

明國中葉の福建興化知府、陳效の「海上點兵詩」に曰く、
「極目大東青一點、問人云是小琉球。」
弘治修『興化府志』卷33藝文志に見える。興化府の海邊(或は沿岸小島)から遠く望むのが大東海域であり小東と呼んでゐない。小東は知府陳效の眼中では沿岸小島の小島に限られ、臺灣にも屆いてゐない。
https://www.thenewslens.com/article/23177

元・周致中『異域志』
「大琉球國。在建安之東、去海五百里。其國多山洞、各部落酋長皆稱小王、
至生分、彼此不和。常入中國貢、王子及陪臣皆入太學讀書。」
http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=83886&page=51
http://library.ctext.org/s0840005/s0840005_0051.png
http://library.ctext.org/s0840005/s0840005_0052.png
(至生分は至生紛擾などか。)

陳宗仁『雞籠山與淡水洋』(既に購入濟)第58-59頁。元・周致中『異域志』は明國で改竄された書。校注本も同じ認識。
https://books.google.co.jp/books?id=eiY9CwAAQBAJ

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2008/07/post_bc1e.html

http://senkaku.blog.jp/archives/21330800.html

陳宗仁淡水洋

琉球
https://web.archive.org/web/20170319071906/http://senkaku.blog.jp/2017031970019415.html
http://archive.is/CPNzP



異域志ctext夷門廣牘1


異域志ctext夷門廣牘2