沖繩の歴史は日本ではないといふ誤った言説が教科書にまで採用されてゐる。
 そもそも日本はある日突然生まれたのでなく、次第次第に形成されたのであって、沖繩だけが日本の外だったのではない。神武東征の傳説(近畿)、日本武尊の南征(熊襲)と東征(靜岡・關東)の傳説、坂上田村磨(奧州)、琉球(慶長十四年正式統合)、北海道(松前藩が正式統合)、とひろがった。

 日本だけではない。國家といふ制度は約五千年前にメソポタミアで生まれ、東西に擴散した。黄河流域では約三千七百年前に國家が生まれた。五大文明中で黄河とギリシャが遲い。メソポタミアから遠かったからだらう。國家といふ制度は人類十五萬年史の中で比較的に新しい。次第次第に發展した。日本だけではない。
 しかし驚くべきは北海道から與那國に至る繩文文化の統一性の高さだ。最近の遺傳子研究により證明される趨勢らしい。世界中で日本よりも廣域に統一性の見られる文化は、疑ふらく印歐語族だけだらう。勿論日本の統一性の中の多樣性を否定してはいけない。逆に共通度が高いからこそ、「我々の文化」として内部的多樣性を大切にしたい。
 一方、チャイナの長江文明は、漢字以前には黄河流域と全く異なる系統の文化だった。長江以南はチャイナの殖民地である。だから臺灣香港などで今でも反チャイナ運動が盛んだ。

 日本領土形成史を教科書で記述すべきだ。琉球だけを特殊な外國扱ひで差別せず、他の領土形成史と平等に扱ふ。一度でも外國の統治下になったのは長崎ポルトガル領だけであり、他の國土は全て固有の領土であることを正しく記述する。琉球と同じく日本各地の文化にも平等に言及する。

勅使河原彰縄文時代ガイドブック2013
 圖は勅使河原彰『縄文時代ガイドブック』2013より












https://www.youtube.com/watch?v=cWICZ2Q8-7Y





以下、千島列島の繩文文化について最新の論文。

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(3)特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 3, 163-178, 2018
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol3/

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(2)特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 2, 83-110, 2017
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol2/

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(1)特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , 竹原 弘展 , スコヴァティツィーナ V. M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 1, 53-72, 2016
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol1/


以下個人頁より。
 千島列島における縄文遺跡の発掘から、北海道から伝播した縄文文化は、少なくとも列島中間に位置する新知島(シムシル島)まで及んでいることが分かっている。列島最北端の占守島(シュムシュ島)、その直南の幌筵島(パラムシル島)では縦穴住居、貝塚、北海道のオホーツク文化に属する遺物が発見されている。占守島の住民はアイヌ語を話していたことが分かっている。また、カムチャツカ半島南部では、寛永通宝、擦文文化、アイヌ文化に特徴的な内耳土鍋が発掘されている。これらのことから、縄文人やアイヌ民族は北海道から千島列島を渡りカムチャツカ半島南部まで入植していたことが分る。1696年にカムチャツカ半島南部に進出したロシア人は、この地で陶磁器、漆器、木綿服その他の高度な技術で作られた日本製品に接している。カムチャツカ半島南端に住むアイヌ民族を、後にロシアはクリル人と呼び千島列島をクリル諸島と名付けた。千島列島全島にアイヌ語の名称が付けられている。
http://afthistory.info/ryodo.htm