薩摩藩の家老、調所廣郷(づしょひろさと)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7
 琉球は薩摩の統治下であり、清國への朝貢は表向きに過ぎず、清國もそれを知ってゐると、藩當局者自身の言葉で述べてゐる。現代人の論斷でなく、當局者自身だ。西里喜行『清末中琉日関係史の研究』(京都大学学術出版会、平成十七年)第百二十一頁に見える。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA70911072

西里氏曰く、
 「薩摩務主の斉興は、四六(1846)年七月一八日(弘化三年間五月二五日)再び家老の調所を幕府老中阿部のもとへ派遣して内談せしめた。……阿部との内談における調所の説明・提案は、ほぼ『琉球秘策』の方針に即しているけれども、ここで注目しておきたいことは、第一に琉球の現状が次のように認識されていることである。
「琉球之儀ハ南海之孤島、格別ノ品モ無之、……抑、嘉吉年間ヨリ領分ニ被下置難有、今以テ領地之事ニ御座候。然共、中山王代替ニハ、清国ヨリ封王使者差渡、封爵ヲ請ケ、朝貢致シ来候国ニ御座候得者、国許〔薩摩〕ヨリ差渡置候在番奉行、其外役々、清国之者共へ面ヲ合候事ハ、遠慮致シ候往古ヨリノ仕来ニ御座候。乍然内実ハ、清国ハ素ヨリ、英吉利国・仏郎西国其外国之者共、琉球ハ日本へ致通商候儀、相聞得候……」。
つまり、琉球が表面上は清国の属国であっても内実は薩摩藩支配下にあることは、清国をはじめ西洋各国にも周知の事実で、フランスもこの事実を承知の上で、……」

と(以上西里氏著より)。
 調所廣郷の原語は『大日本維新史料』第一編之一、第七百五十一至七百五十五頁に載ってゐるさうだ。琉球は日清兩屬ではない。嘉吉年間とは室町幕府から島津氏に琉球國を下賜したことを指す。嘉吉の第一次史料が無いため疑ふ人が多いが、しかしとにかく幕末の薩摩藩家老は嘉吉の史實として江戸幕府に對して述べたことも分かる。琉球史の研究者にとっては常識なのだらうが、素人の私には勉強になる。『琉球秘策』も薩摩藩の重臣五代秀堯(友厚の父)の著。
  しかし「中琉日關係史」といふ標題はどうにかならぬものか。内容から懸け離れた標題ではないか。

調所廣郷像