村山等安。

「長崎貿易をめぐるイエズス會と村山當安」
中央公論社「歴史と人物」昭和53年9月號。
桐生敏明著。  (原文要確認)

イエズス会の経済活動
いわゆる大航海時代というものは、アジア及び新大陸に対し「富とキリスト教徒」を要求した。このためイエズス会の東洋に対する布教活動も、ポルトガル本国の政治的・経済的進出から切離しては考えることのできない性質を有している。イエズス会の布教活動は、ある場合には軍事侵略の良きパートナトーであり、またある場合には貿易活動の良きアドバイザーとさえなった。特に日本においては、イエズス会士の貿易活動がその顕著な傾向として特長づけられる。
ザビエルによって拓かれた日本布教の道は、その後継者達によって踏み固められていくこととなるが、彼等が布教拡大にあたって採った方法も、この貿易という手段を最大限に利用するということであった。それは海外貿易という餌によって西国大名達に領内布教を認めさせ、場合によっては大名達を信徒となし、上からの教化を推し進めようというものである。イエズス会士ペドロ・ダ・クルスは言う。「日本人をしてわれわれに連合させるための独特な手立がある」(1)。それは、ポルトガル国王が貿易船のカピタン達に対し「われわれ(イエズス会)に敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは自領にパードレを迎えたり改宗を許したりしようとしない者には貿易に参加させないように命ずることである」と(2)。
さてこういったイエズス会の貿易介入は布教活動が進展するにともない新しい展開を見せることとなる。これまでは貿易介入はあくまで信徒獲得の手段であったが、布教費用の増大に伴い資金の涸渇が問題となり、利潤追求のための貿易参加がおこってくる。これにはイエズス会が自己資金でマカオで買付け、日本で販売するという形以外に、依託貿易として資本を預り生糸貿易に介入し、利鞘をかせぐというブローカーまがいの事まで行われた。高瀬弘一郎氏の研究によれば、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、イエズス会の純然たる布教用年間経費は八〇〇~一万二〇〇〇クルサド、これに対し貿易用資金としてマカオヘの送金額は九〇○○~一万四〇〇○クルサド(3)、ほぼ両者の配分は一対一の割合であったようである。
このように日本イエズス会にとって貿易は布教活動のため、なくてはたらぬ重要な一事業となった。そしてこれに伴い、プロクラドールいわゆる会の財務担当係の職が、他の場所以上に、日本・マカオでは重要なものとなったのである。このため日本においては、かつてイルマン(助祭)がプロクラドールを務めていたものが、司祭却ちパードレがこの職を務める事となった。イエズス会では「本来プロクラドールには四盛式立誓司祭を起用しない」(4)事が定められていたにも拘わらずである。いかに日本においてこの職が重要視されたかが察せられるであろう。
ところでこのようなイエズス会の経済活動はさまざまな弊害をもたらした。その最たるものはイエズス会自体の宗教的堕落である。一五八三年十月五日付マカオ発カブラルの書翰には、マカオのプロクラドール事務所について次のように記されている。
「人々が教会の門を潜って、ミサにあずかるのと同時に、一方ではその傍の門から生糸や綿織物の梱が運びこまれ、良心問題や霊的な事柄のために来た人々がプロクラドールと一緒に、シナの財や商品を梱包しているのを眺める、というような事が度々起っている」(5)と。
ここにいたってイエズス会の経済活動は布教のためというよりも、利潤を追求する事に没頭したかの感がある。ところが、十七世紀に入るや日本イエズス会は経済的に破綻をきたし、布教資金にも窮するという事態に追いこまれた。それは新たな敵-オランダが東アジアに姿をあらわしたためであった。オランダ船は、いたるところでスペインやポルトガルの基地を攻繋し、また貿易船を襲った。対日貿易の拠点マカオもその例外ではない。
一六〇三年七月三十一日、マカオから長崎へむかう貿易船三艘がオランダ船によって襲われた。長崎へのポルトガル年航船がオランダの攻繋により中止となった最初の事例とされる(6)。更に一六〇四年六月、再びオランダ船によるマカオ攻撃が行われ(7)、ここに二箇年にわたり長崎貿易は麻癖するの止むなきにいたったのである。
この影響をまともに受けたのがイエズス会であった。先にも見た通り、イエズス会は資金の半分をマカオに送り、それを翌年商品(主に生糸)として長崎で受取り、これを売った金を布教資金と貿易資金に分け、その一半をマカオに送り商貨に投資する。ところが、マカオからの年航船が二年にわたって途絶え、ためにイエズス会の資金はマカオに凍結されることとなってしまった。しかもオランダ船の妨害はこれで終ったわけではなく、むしろこれから益々激しさを加えていくのである。

ジョアン・ロドリゲス
さて、この困難な時期にイエズス会日本布教管区の財務を担当したのが、ジョアン・ロドリゲス・ツーヅ(通事)であった。
彼は一五六一年、ポルトガル・ラメゴ司教区セルナンセレに生まれ、十四歳にして既にインドに渡っている。その彼が日本の土を踏んだのは十六歳の年、一五七七年のことであった。そして彼が日本イエズス会に入会を許されたのは一五八○年、ロドリゲス十九歳の時である(8)。以後豊後府内サン・パウロのコレジオを皮切に、ラテン語・哲学・神学と彼のイエズス会士としての研鑽と布教の生活がはじまる。その彼が近世日本史に大きな影響を与えるようになったのは、天正遣欧使節の日本帰還がきっかけとなってであった。このとき、印度副王の使節として巡察師、バリニャーノは二度目の来日を行ない、一五九一年、伊東マンショを始めとする遣欧使節を引率して秀吉に謁見した。この時通訳にあたったのがロドリゲスである。彼は既に滞日十四年に及び日本語に通暁し、のちには今日の日葡辞書の原形ともいえる『日本大文典』まで編纂した程である。そして彼は、その語学力と商才、つまりはポルトガル貿易の仲介者としての重要さの故に以後秀古の罷愛を得ることとなり、二十六聖人殉教のおりにも、秀古はロドリゲスの身の上だけは案じ保護したという。そして秀古臨終の十四日前、外国人としてはただ一人ロドリゲスにのみ最後の謁見が許されたのである(9)。
秀吉の死後、日本イエズス会はロドリゲスに家康への接近を命じた。また家康の方でもこれに応ずる姿勢を示した。というのも、当初家康は「貿易の局面から宣教師を排除するのでなく」(10)これを幕府の統制の及ぶところまで近づけ、商取引の円滑な運営のために宣教師を利用しようとしたのである。
一六〇三年マカオでポルトガル船がオランダ船に襲われ、イエズス会が財政困難に陥ったおり、ロドリゲスを通じ大幅な経済援助の手をさしのべたのは、ほかならぬこの家康であった。家康はイエズス会に対して「まずあいさつとして三五〇タエルを贈り、ついでイエズス会が頼みもしないのに、五〇〇〇タエルを貸しつけた」(11)のである。
更に家康は、ロドリゲスの讒言を入れ、非切支丹商人に与した長崎奉行寺沢広高をその職から排した。「(家康は)永年長崎を統治してきた寺沢を斥けて、その代りに村山当安ら五人のキリシタンに統治を委ね、重要な問題についてはロドリゲスとイエズス会の日本準管区長パシオに相談するよう」(12)命じたのである。つまりイエズス会は以後長崎の町政にまでその指導力を奮う事となったわけである。
さてこの年即ち一六〇四年、家康により糸割符の奉書が発せられた。幕府による貿易統制の第一歩といえよう。にも拘わらず、イエズス会の貿易の場における発言力は一向に衰えなかった。なぜなら貿易の場において、この糸割符を実際に取り仕切ったのは、なんとイエズス会プロクラドール・ジョアン・ロドリゲスだったのである。一六〇六年十月十八日附副管区長の書翰には、彼の活躍ぶりが次のように紹介されている。
「(ロドリゲスは)将軍から非常な寵愛を受けている。そうしてその御命令によって、ポルトガル人の商船に関する交渉に携わり、ポルトガル人と日本人との間に立って平穏和協裡に首尾よく処置することに努力している」「殊に本年の如きは、両国商人間の商談がほとんど絶望の状態に陥り(中略)、きわめて困難であったにも拘らず、ついに能くこれを成立せしめた」(13)と。
しかし、このような貿易の場におけるイエズス会の発言力の増大や、長崎町政への介入等は、日本人の間に大きな不満を引起す原因となった。そしてそれはやがて長崎代官村山当安と、イエズス会上ロドリゲスの対立となって表面化することとなるのである。

当安のイエズス会離反
当安とロドリゲスの関係はいつ頃から始まるのであろうか。一六〇三年、ロドリゲスは等安を伴い家康のもとを訪ね、秀吉以来の代官の職を当安に対し安堵してもらっている。しかしこれ以前、秀吉時代における村山当安の長崎代官就任も、このロドリゲスの力によるものと思われるふしがある。当安が長崎乙名達の依頼を受け、征韓のため肥前名護展に滞陣していた豊臣秀吉を訪ねたのが、一五九二年のことである。伝承によれば、この時出安は持前の機知と弁才によって秀吉に取入り、長崎外町の代官に任ぜられたという。ところがこの同じ年、イエズス会士ロドリゲスがやはり秀吉のもとを訪ねている。この年入港したポルトガル船々長を伴っての謁見であり、日本巡察師バリニヤーノの指図によるものであった。伴天連追放令以来、ポルトガル船の入港はなく、この度の入港は、イエズス会パードレの貿易の場における発言力を否応なく秀吉に認めさせたものであった。ポルトガル貿易にイエズス会パードレ仲介の不可欠を知った秀吉は、この時もロドリゲスを厚く遇した。そしてこの同じ年、イエズス会信徒である村山当安を長崎外町代官に任命しているのである。当安の長崎代官就任は、どうやら彼一人の力によるものではなく、その背後にイエズス会、特にロドリゲスの力が大きく働いているようである。イエズス会士フランシスコ・ヴィエイラは言う。
「長崎市に当安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧しい生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたので、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシタンたる代官の一人になるに至りました」(14)と。
当初イエズス会が当安に抱いていた期待の程が窺い知れる。しかし両者の蜜月期間は永くは続かなかった。当安はやがてイエズス会から離反していくのである。何故だろうか。ヴィエイラは、当安の道徳的堕落がその離反の原因であるとしているが(15)、ではイエズス会自体には原因がないのだろうか。前述したようにイエズス会は、日本とマカオの貿易のことに深く関わり、キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずしてしまった。しかもイエズス会はこの貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教という枠で大きく制限したのである。このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」(16)日本商人達の不満が常に存したのである。しかも、このマカオ~長崎間貿易の全般にわたって、日本人とポルトガル人の仲介にたち、終止大きな指導力をふるった、プロクラドール・ジョアン・ロドリゲスは、「しばしば法外な糸値段をつけたらしく、宣教師ですらそのやり方を適切でない」(17)と指摘した程であり、加うるにイエズス会は、長崎町政にまで関与しようとしたのである。
当安のイエズス会離反もこのようなイエズス会の商業活動に原因している。言わば商業ナショナリズムの台頭ともいえるものではないだろうか。ためにこれ以後当安は、イエズス会商業活動の中心的存在である、このロドリゲスの日本追放を画策するようになるのである。例えば当安は、ロドリゲスを貞潔の誓願を犯したと言いたてこれを陥れようとしているし(18)、またイエズス会を危険な存在として機会あるごとに、長崎の主要な人物や「王宮の重要人物たち」に説いてまわっている。
「諸パードレに騙されないようによく注意しなさい。そして神などは存在しないし、総ては生命と共に終ることは確かであると考えなさい。パードレが霊の救いがあるといってい
るのは全くの偽りであり、パードレ自身もそれを知っているが、この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」(19)と。
このようにして当安とロドリゲスの対立は次第と根深いものとなり、ついに一六一〇年マードレ・デ・デウス号事件の発生をむかえて決定的なものとなるのである。

17世紀のマカオマードレ・デ・デウス号事件
デウス号が長崎へ入港したのは、一六〇九年六月二十九日のことである。これ以前一六〇七年、八年と二年続けてマカオからの年航船は中止されており、今回はその二年分の積荷を満載しての入港であった。当然この間、日本イエズス会は資金の涸渇に苦しんだ訳で、ついにはデウス号入港を予定して、その積荷を空売りしてしまった程である。
ところでこの前年、有馬晴信の占城(チャンパ)派遣朱印船が帰途順風を失いマカオに寄港した。おりから東京(トンキン)から帰航途上遭難した日本人達もまた中国ジャンクによって、このマカオに寄港していた。二つの日本人グループは合同してマカオ市中をポルトガル官憲の注意も聞かず、隊を組み弓矢・刀鎗・銃器等を携帯して練り歩いた。そのため中国人やポルトガル人の反感を買い、これを制止しようとしたポルトガル官憲と衝突、ついに武力沙汰となり、多くの日本人が殺され、捕えられるにいたった(20)。そしてこの日本人騒擾事件を鎮圧した張本人が、デウス号船長アンドレア・ペッソアだったのである。部下を殺された有馬晴信は、家康に願い、このぺッソアの処分を任された。明けて一六一〇年一月、有馬軍は長崎沖にマードレ・デ・デウス号を包囲した。戦闘は四日にわたって繰広げられ、ついに一月六日、最後を悟ったペッソアによって火薬庫に火がいれられ、デウス号は長崎沖に沈没するにいたったのである。
以上がこれまで多くの史書に記されてきたデウス号事件の概略である。しかしこれでは有馬晴信とペッソアの対立だけが中心に述べられており、この背後に隠された村山当安とイエズス会の対立が無視されている。
イエズス会士ロドリゲスが言うように、この事件の真因は、当安が長崎奉行長谷川左兵衛と組んで、デウス号積荷に対しイエズス会の仲介を排し、彼等の手で価格統制を行なおうとした点にある。このため生糸を中心とする積荷の多くが差押えられ、許可なく荷揚げをすることが禁じられた。しかしペッソアはあくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかしたのである。ここにいたって当安らはマカオにおける日本人騒擾事件を利用、ペッソアの滅亡を計画したのである。
デウス号入港するや、マカオにおける事件はポルトガル使節マテオ・レイタンによって何より早く家康に報告されるはずであった。しかし当安や左兵衛は、あろうことかイエズス会をつかってその中止を説得させたのである。「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは絶対に適当ではない。非常な打繋をうけられ苦しまれるにちがいないし、内府様を納得させるに足る理由も弁明もあろう筈がない」(21)。更にこの事は「決してポルトガル人の利益にはならない」(22)であろうと。
こうしてマカオにおける事件はポルトガル人の口からは家康へは知らされないこととなった。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうとしたかのような印象をあたえたのである。イエズス会は当安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり出してしまった。次に当安らば有馬晴信にゆさぶりをかけた。イエズス会土モレホンは言う。
「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引入れるために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらないならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇した」(23)と。
晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の一切を報告するにいたった。ポルトガル側の報告は左兵衛や当安らによって阻止されており、有馬晴信の報告が一方的に受入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の捕獲、ペッソアの逮捕を晴信に命じたのである。
ところで家康がポルトガルに対しこのような強硬措置に出たのには、それなりの理由があった。それはオランダの対日貿易参加である。家康がイエズス会を好遇したのは貿易の場にその仲介がぜひとも必要だったからで、キリスト教の教えを歓迎したためではなかった。むしろキリスト教思想は、家康の目指した中央集権体制とは相入れないものなのである。そこへ布教と貿易を切離したオランダがあらわれた。家康のポルトガルに対ずる風あたりが強く次るのも当然と言えるであろう。
とまれ事件はデウス号の爆沈という形で結末を見た。しかし当安のロドリゲスに対する闘いは終らなかった。家康の怒りを背景に、日本イエズス会の立退きをほのめかしたのである。そこで日本管区長パシオは、当安や左兵衛に和解工作を講じた。当安らは「ペソア来朝中の行動に関する責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の決議の結果によると家康に伝えること」(24)。この二つを条件にパシオの和解工作に応じたのである。
おさまらないのはイエズス会である。当安らにさんざんふりまわされた挙句、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオヘ追放しなければならなくなった。しかもこのデウス号沈没で、イエズス会は一万二〇○○ドゥカド相当の生糸を失い、莫大な負債をかかえこむこととなったのである。一イエズス会士は言う。
「われわれは想像も出来ない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない許りか、既に二万二〇〇〇タエルの負債を負っておりしかも毎年さらに負債を重ねて行くことになろう」(25)と。
イエズス会の当安に対する反感は、この事件で決定的なものとなった。この後一六一四年、当安が切支丹として処刑された時、フランシスコ会やドミニコ会がその殉教を認めたのに対し、一人イエズス会のみが彼を「悪徳」の徒であるとし、殉教説を否定したのであった。
最後にこの事件以後、管区長パシオによりイエズス会宣教師の貿易介入が禁じられた事をつけ加えておくこととしよう。

(1)(2)高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」
(3)同「キリシタン教会の資金調達」
(4)(5)(6)同「キリシタン教会の財務担当パードレ」
(6)(7)C・R・ボクサー、小木曽福也訳「十七世紀初頭の日葡交通」
(8)(9)(13)(24)土井忠生「通事伴天連ロドリゲスの一生」
(10)(18)高瀬弘一郎「大航海時代とキリシタン」
(11)(17)朝尾直弘「鎖国」
(12)高瀬弘一郎「キリシタンと統一権力」
(14)(15)(19)アルバレス・タラドゥリース編註、佐久間正訳「村山当安に関するヨーロッパの史料(一)」
(20)「長崎市史・通交貿易篇・東洋諸国部」
(21)(22)(23)アビラ・ヒロン、佐久間正・会田由訳「日本王国記」
(25)高瀬弘一郎「キリシタン教会の資産と負債」