平成二十八年五月二十四日、日本安全保障戰略研究所掲載
http://www.ssri-j.com/Island.html

http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-11-20160524.pdf


明治26年胡馬島史料「人民日報」高洪氏論説
 本年(2016年)4月15日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は平成27年度の調査結果を公布した。これに対し4月19日、中華人民共和国外交部発言人(報道官)華春瑩女史は定例記者会見で発言した:

華春瑩
http://www.mfa.gov.cn/web/fyrbt_673021/t1356705.shtml
「日本は苦心して幾つかの資料を捜し出し、断章取義を施している」
と。「断章取義」は該室が公布した第「8」号史料を指すと見られる(リンク。pdfファイルでは1ー8):
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku02.pdf
第 8号は明治26(1893)年の日清間公文である。この年、熊本県人井澤彌喜太ら3人は、尖閣に渡航する途中で暴風に遭って清国沿岸に流れ着いた。福建海 防当局はこれを救助し、日本の駐上海領事館を通じて日本に送り返した。その後領事館は外相陸奥宗光の命により、感謝状を福建の海防長官陳氏に送付し、陳氏 はこれに返信した。
 関連公文は4件で一式となっており、外務省外交史料館に蔵せられる。
第1、2件は、井澤ら漂流民が駐上海領事館に送還された際の同送文書。清国における井澤らの供述の中で、「胡馬島」(久場島或は魚釣島)は台湾に近い無人島だとする。清国政府から日本政府宛ての公式信書ではなく、同送の参考資料に過ぎない。
第3件は、日本政府から駐上海領事館を通じて福建の海防官へ送った感謝状。胡馬島を目的地として「航往」(航し往くこと)した結果、福建へ漂流したことを述べる。
第4件は、福建海防当局から領事館への返信。胡馬島を目的地として航往したとする日本政府感謝状全文を引用し、そのまま受理し、清国内関係諸役に周知させると述べる。
 外交部の発言以後、5月3日に人民日報が清楚華大学劉江永氏の論説を掲載するなど、宣伝戦を強めている。5月14日には社会科学院日本研究所の高洪所長の論説が人民日報海外版に掲載された。
「人民日報」海外版2016年5月13日高洪氏論説、2016年05月16日10:43、人民網による和訳
日本の釣魚島「新史料」、不条理な論理・歴史の歪曲(リンク)
http://j.people.com.cn/n3/2016/0516/c94474-9058218-2.html
胡馬島航往史料につき、高洪氏の主な見解は、
1、歴史学でも胡馬島が尖閣諸島の魚釣島か久場島か特定できない。
2、日本は秘密裏に尖閣窃取を進めたので、清国側は胡馬島が尖閣だと気づき得ない。
3、原文の「航往」は胡馬島方向に航行したに過ぎず、島に接近すらしていない。
4、清国の善良な救助に感謝しながら、日本は卑劣にも戦争の準備をしていた。
以上4点である。

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速報コメント 長崎純心大学准教授、石井望・談
  外交部コメントで断章取義と評したのは、どの史料を指すかを明示していなかったが、高洪氏の文中では胡馬島航往史料について断章取義(和訳:都合よく解釈)であると明言している。高洪氏らが外交部の見解を起草したのだと推測される。当該史料は数百種の調査結果中わずか一種に過ぎず、報告書でもわずかに 「清国は問題視せず」と注記したに過ぎないが、それに対して外交部、劉江永氏、高洪氏らが次々に見解を発表するわけは、調査結果中で唯一清国に関連する文 書だからである。4点につき逐一反駁しよう。
1、領土は法で定まり、歴 史で定まらない。しかし日本政府の公式見解では、歴史的にも法的にも固有の領土として並列言及している。法的に島の経緯度などを特定できない史料でも、歴 史的意義は有る。胡馬島が魚釣島か久場島かを特定する必要は無く、ただ尖閣諸島中の一島であることが確実であれば尖閣史料となる。
2、 史料4件中の第1、第2件では、井澤らは胡馬島に漂着して、近くの台湾に行って救助を求めようと思ったと供述している。救助を求める以上、清国側は胡馬島 を無人島として理解したはずである。石垣島から台湾に近く、無人とされた島は、台湾北方三島か尖閣諸島だけしかない。かりに台湾島の東北方面に自国領土が 存在すると清国側が認識していたならば、胡馬島は尖閣諸島の内の一島だろうと思い至るはずである。そして胡馬島はどの島かと、引き続き訊問するはずであ る。実際には尖閣は数百年にわたり明国・清国の国境線外に存在し、清国側は当該海域に領土があるとは思いも寄らなかったであろう。よって胡馬島について引 き続き訊問しなかったのは当然である。
3、かりに「航往」が方向に過ぎ ないならば、目的地はどこなのか。尖閣方向で尖閣以外に目的地は有り得ない。清国側は、日本から通知されるまで、井澤らが島に上陸したと認識しており、島 に接近しなかったとは知らなかった。しかし尖閣への漂着か上陸か目的地かを問わず、清国は何の反応もしない。そもそもこれ以前の数百年間の史料によれば、 明国清国は尖閣を発見せず、命名せず、海防線に入れず、上陸せず、領有せず、完全にゼロだったから、反応するはずが無い。前提は数百年間の史実である。
4、 井澤らは清国沿岸で二度の窃盗に遭遇し、一度目は追い払ったが、二度目は全ての財物を奪われた。海賊の群がる沿岸の実態にもかかわらず、井澤は清国官吏の 強い勧めにより船を離れた結果、二度目の窃盗を蒙ったのである(九州日日新聞、1893年10月13日版に見える)。結局井澤らは無一文の中で清国当局及 び福州・上海の民間日本人の助けにより帰国した。清国民間人の助けは、水を分け与えた以外に記録されていない。
  二か月後、日本からは陸奥大臣の命で感謝状を清国当局に寄せた。清国民間人による窃盗等の犯罪について日本政府からは言及しなかった。日清開戦前夜の時期 にこのような救助と感謝の友好的往来が有ったことは、後人の景仰すべき所である。わざわざ日清戦争に結び付け、日本が清国を騙したかのような高洪氏の議論 は、現代の友好をも故意に損なう目的であろう。我々はただ尖閣が諸外国の国境外の無主地であった史実を、数百年間の諸史料の最後の年代でもまた客観的に見 いだすに過ぎない。
 以上4点が反駁であるが、そもそも前提として、それまで数百年間、尖閣の西側に清国明国の領土線が存在した。西暦1461年の『大明一統志』によれば、明国の領域は大陸海岸までとされており、海南島を除くあらゆる島嶼は原則として領土外とされていた。
  また尖閣最古の史料は西暦1534年の陳侃『使琉球録』であるが、琉球国公務員が尖閣航路で水先案内したことを記録している。水先案内人を主に構成した琉 球久米村の「福建三十六姓」の一族が、海禁政策にもとづき早くから明国国籍を離脱していたことは、明国の『皇明実録』西暦1547年12月の条に見える。 尖閣を発見命名したのは誰であるか明確な記録は無いが、琉球人が発見命名した可能性が極めて高い。
  また同じく『皇明実録』西暦1617年8月の条では、福建の海防長官が日本の使者に対して、明国海防線は大陸沿岸の馬祖列島を含む南北島嶼線までだと明言 し、その外側は自由に航海できると宣布している。類似史料は枚挙に暇ないが、一方で明国清国による命名・海防・上陸・領有・漁業などをわずかでも示す史料 はただの一つも存在しない。
 今度の井澤史料に近い時代で関連する史事は主に下の通り。
西暦1871年、宮古島民が台湾に漂着。清国は宮古島民が清国民であると主張。
西暦1879年~1880年、宮古八重山を清国領土とする案を交渉するも中断。
西暦1885年9月、上海の英字紙「文匯報」(上海マーキュリー)に、宮古八重山の帰属を問題とする記事掲載(現在逸失)。
西暦1885年9月22日、大阪朝日新聞第2面で文匯報記事を略述。
西暦1885年10月以後、日本政府は尖閣編入を暫時延期。
などである。文匯報(朝日略述)では尖閣に言及無く、宮古八重山の帰属だけが問題にされていた。日本が尖閣編入を延期した原因は、尖閣単独での帰属問題ではなく、尖閣の動きにより宮古八重山の帰属が再度新聞などで問題となることを恐れたためである。
  かりに高洪氏の言うように、日本政府が清国から尖閣を窃取しようと密謀していたならば、西暦1893年に胡馬島に「漂入」した供述を「航往」と訂正したり せず、逆に胡馬島を避けて言及せぬよう感謝状の文面を作成するだろう。しかし実際は、宮古八重山の帰属問題から既に年数を経て、特に問題が無いため、何の 顧慮も無く胡馬島に言及し、しかもわざわざ「航往」と訂正した文面を作成した。
 しかも文中では石垣島について「沖縄県八重山島」と明記し、清国返信でもそのまま引用して問題視していない。宮古島民漂流時とは全く異なる反応である。八重山が清国の属地であるとの主張はこの時点で既に雲散霧消していたことが分かる。
  そして約1年後、既に十年前とは時勢が異なるとして日本政府は尖閣を編入した。時勢が異なるとは、日清戦争の優勢を指すというのが外交部や高洪氏らの一貫 した主張である。しかし胡馬島航往文書を朝日新聞と併せみれば、宮古八重山の帰属が既に確定していた時勢を指すと分かる。戦争の優勢を特に指すのではない ことが推測できる。