「琉球尖閣近著雜録」『純心人文研究』第二十一號。平成二十七年春。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10486493
以下に一部分を節録。

明國は併合に同意した  
 西暦1609年に薩摩が琉球を併合してから八年後の西暦1617年、福建に日本の使者明石道友が渡航し、福建の海道副使(海防兼外交長官)韓仲雍がこれを訊問した。訊問記録は國立公文書館の内閣文庫にのこる寫本『皇明實録』(中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條に見える(圖五)。
福建海道副使琉球
圖五 内閣文庫藏『皇明實録』より

韓仲雍が「日本はなぜ琉球を侵奪したのか」と質問すると、明石道友は供述して曰く、
「薩摩酋・六奧守、恃強擅兵、稍役屬之、然前王手裏事也。……但須轉責之該島耳。」
〔薩摩の酋・陸奧守、強きを恃み兵を擅にし、稍やこれを役屬せしむ、然れども前王(家康)の手のうちの事なり。……ただ須らく轉じてこれを該島(薩摩)に責むべきのみ〕
と。薩摩が琉球を併合したのは家康の世で濟んだ話であり、この件は薩摩を追究して欲しい、との意になる。家康は前年(西暦1616年)に亡くなり、それを理由に申し開きめいた供述である。これを承けて韓仲雍は次の通り諭告した。曰く、
  「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、
   亦皆吾天朝赦前事。當自向彼國議之。」
  〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球の
   ひそかに汝に役屬するは、また皆な吾
   が天朝(明國)の赦前の事なり。まさに
   みづから彼の國(琉球)に向かひてこれ
   を議すべし〕
と。「并」とは併合である。薩摩が併合したといふ認識は、現代人が考へ出したのでなく、この時すでに存在した。「役屬」とは納税や兵役などを以て服屬することを指す。役屬の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったと韓仲雍は理解したのである。「赦前」とは萬暦四十二年(西暦1614年)に皇帝が天下を大赦したより前を指す。日本(薩摩藩)が琉球を併合したのはその五年前である。即ち大赦の前に日本が琉球を併合したことを不問に付したことになる。
 「亦」とは、過去の家康の事だとの申し開きを承けて、明國側でも恩赦以前の事だと迎合した語である。琉球併合は既に過ぎたことだから、お互ひに追究しないこととなった。その上でさらに「議すべし」とは、役屬について日本が自分で琉球と議せよとの意である。この一語が決定的に併合同意を示してゐる。華夷秩序は歴史の現場に適用できないのが通例だが、その好個の證佐がこれである。
 この語は韓仲雍が日本の使者に言明したのであり、更に原史料の下文によれば福建の高官黄承玄および李凌雲が中央朝廷にも上奏した。同じ記録は黄承玄『盟鷗堂集』所載の上奏文にも見えるほか、『東西洋考』や『皇明經世文編』など、明國の通行史料の中に早くも見える。しかし併合同意を告げた一語が朝野の批判を浴びることは無かった。なぜなら根本問題として琉球に援軍を送ることが不可能だったからである。
 この史料により、朝貢開始から薩摩併合まで二百年の差は解消され、琉球に於いて薩摩と明國との立場は形式的にも對等となった。言ってみれば西暦1617年に、明國は日本と琉球との婚姻に一度は同意したのである。さらに後の清國と較べれば、薩摩が先行者となる。薩摩から清朝に通知する必要は無く、統治を掩蔽したか否かを質される筋合ひも無い。  
 明國は清國とは別の國家だが、兩者は國際法上の繼承國に相當するのか否か。清國最初の使節・張學禮の著『使琉球記』によれば、明國が瓦解して間もない順治三年(西暦1646年)、清國は明國が琉球國に下賜してゐた國王印を清國に返すやう求め、同十一年(西暦1654年)に琉球國から返納された。そして康煕二年(西暦1665年)七月十七日に、使節張學禮は琉球國の王城で册封の典禮を行なひ、新たな國王印を琉球王尚質に下賜したといふ。ほぼ同じ記録は琉球國側の『中山世譜』などにも見える。
 これを現代國際法でどう解釋するか、私には分からない。かりに清國が明國の繼承國となったのであれば、日本による琉球國併合に明國が同意した事實はそのまま清國に引き繼がれ、清國も同意したことになる。かりに繼承國でないのならば、清國よりも先に琉球國は日本の實効統治下に這入ってをり、後から來た清國がそこに干渉することはできない。どちらに解釋してもチャイナの主張は通じない。
----------------

 以上の内容は、平成二十五年の五月に一度産經新聞全國版で報導される筈だった。その直前の五月八日に人民日報は琉球主權に論及し、日本政府が抗議したので、
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/world/2013-05/08/c_124677463.htm
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE94801O20130509

それを承けて私は産經に報導を依頼したのである。しかし寸前で内部事情により取りやめとなった。産經が取りやめて以後、この史實はほとんど世間に知られてゐない。かくして日本は世界の輿論戰に負ける。