『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
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有料ですが、今囘だけ特別サービスで全文轉載します。特に後半、第38囘にご注目。

『八重山日報』五月三十一日(火曜)第四面。歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第三十七囘 
東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)

 連載第二十囘で、英軍水路誌の底本となった西暦千八百二十七年の東インド會社『印度志』第二册の第三版について述べた。「尖閣は琉球であらう」といふ肯定的推測が書中に書かれてをり、後の英軍水路誌中の尖閣認識に繋(つな)がって行った。
 その時は書き逃したが、西暦千八百十七年刊行の『印度志』第二册第二版で既に「尖閣は琉球であらう」の語が出現してをり、尖閣(Hoa―pin―su及びTy―ao―yu―su)は臺灣島(Formosa、フォルモサ)の後ろに置かれてゐる(圖83)。臺灣(たいわん)北方三島及びラメイ島(Lamay、小琉球嶼)は臺灣島の段落中で記述されるが、尖閣だけは改行して別小段を立ててをり、附屬(ふぞく)と附屬外との差を見せてゐる。ならべれば、
  一、臺灣島及び附屬島嶼
  二、尖閣
  三、澎湖(Pehoe)
  四、八重山
  五、宮古島
  六、琉球本島
  七、日本列島
といふ順序になってゐる。澎湖諸島は日清戰爭の下關(しものせき)條約でも臺灣(たいわん)附屬外に別途記述されてをり、臺灣と澎湖との間に尖閣が置かれても附屬とはならない。

圖83_1817_India_Directory_vol2尖閣Hathi
圖83 東印度會社『印度志』(india directory)、西暦千八百十七年第二版、第二册。ホースバーグ(Horsburgh)著。倫敦にてブラック氏刊。ハーティ・トラストより。「3 isles」は臺灣北方三島。

 その前の西暦千八百十一年初版は、『印度志』(インディア・ディレクトリー)と題せず、『印度支那新和蘭喜望峰航路志』と題する。「航路志」の原語は「ディレクション・フォー・セイリング」となってをり、編者は同じくホースバーグ氏である。「尖閣は琉球であらう」といふ肯定的推測も既に書かれてをり(原版第三百六頁)、西暦千八百八年のクラットウェル(連載第八囘)に次いで早い。臺灣島の後ろに置かれるのも第二版と同じである。
 注目すべきは、ホースバーグ初版、第二版、三版、四版ともに漢字の釣魚嶼をローマ字「Ty―ao―yu―su」に作ることである。もともと西暦十八世紀の地圖では「Ty―ao」でなく「Tiao」だったので、ホースバーグは少しく特殊である。
 同じ「Ty―ao―yu―su」のローマ字形を他書に求めると、西暦千八百二十一年ボウディッチ著『米國製新實用導航録』第五版に出逢ふ(圖84)。上から順に、
  フォルモサ(臺灣島)
 →澎湖諸島(Pehoe)
 →八重山(Patchow)  
 →與那國(Kumi)  
 →宮古島(Ty―pin)  
 →琉球(LieuChew)  
 →尖閣  
 →薩南諸島  
 →九州(長崎等)  
と列してゐる。尖閣「Ty―ao―yu―su」のローマ字は特殊なので、明らかにホースバーグ書の浸潤を受けてゐる。しかし尖閣が琉球本島の後ろに移動してゐるのだけはホースバーグと異なる。

圖84_1821_Bouwditch_New_American_Practical_Navigator尖閣
圖84 『米國製新實用導航録』(The New American Practical Navigator)。ボウディッチ氏著(Nathaniel Bowditch)西暦千八百二十一年第五版。第二百八十六頁、經緯度表。ニューヨークにてブラント氏(Edmund March Blunt)刊。グーグル・ブックス

 ボウディッチ書の初版は西暦千八百二年に刊行され、尖閣は通例の「Tiaoyu―su」に作り(圖85)、記述の順序は
  與那國(Kumi)
  尖閣
  琉球(Lieukieu)
  薩南諸島  
  日本本州(能登等)  
となってゐる。臺灣は全く別に前の頁で呂宋から繋(つな)がる島として扱はれてをり、尖閣は臺灣附屬から遠く離れてゐる。その後第二、第三版を經(へ)て西暦千八百十七年の第四版まで全て同じである。

圖85_1802_Bowditch_New_American_Practical_Navigator尖閣白黒
圖85 ボウディッチ氏著『米國製新實用導航録』西暦千八百二年第一版より經緯度表。頁數なし。ニューベリーポートにてブラント氏刊。archive.orgより。

 ボウディッチ書の第四版までは、一見すれば尖閣が琉球に屬するかの如くである。しかし八重山を載せず與那國(よなくに)だけ載せるのは、西暦千七百八十七年ラペルーズ(Laperouse)の航路であるから(連載第三囘)、單に航路の順序によって與那國の次に置かれたとも言へる。
 ボウディッチ書の第五版では、ローマ字形も配置の順序も上述の通りに大きく變更される。ホースバーグ書にもとづいて變更したのである。しかしボウディッチ書の第四版までとホースバーグ書とは、ともに尖閣を琉球本島の前に置いてゐる。ボウディッチ第五版で尖閣を琉球本島の後ろに移動したのは何故なのか。かりに航路の順序にもとづくならば、琉球本島から遙(はる)かに西方の魚釣島まで行って、次に薩南諸島へ跳ぶのは非現實(じつ)的である。
 答案はただ一つ。ボウディッチ第五版は、ホースバーグの「尖閣は琉球であらう」の語にもとづいて、尖閣を琉球本島の後ろに移したのである。西暦十九世紀前半の經緯度表中、尖閣を琉球の後ろに置くのは稀有であり、漫然と入れ替へたのではない。ホースバーグの語を肯定的に理解して、尖閣は琉球だと認識したことが分かる。

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『八重山日報』六月二日(木曜)第四面。歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第三十八囘  
米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)

 第三十七囘では米國人ボウディッチ氏が、東インド會社『印度志』の尖閣を琉球の一部と理解して、琉球本島の後ろに置いたことを述べた。こんな有り難いボウディッチとは如何なる人物なのか。
 書誌によれば、『米國製新實用導航録』の著者ボウディッチ氏は數學者にして航海術學者である。該書は「ボウディッチ導航録」として著名になり、版を累(かさ)ねた。米國軍艦にはボウディッチ導航録を攜帶(けいたい)するのが通例となり、西暦千八百六十七年には米海軍水路局が版權(はんけん)を購入するに至ったといふ。
 となるとペリー提督が浦賀琉球に來航した際にも船中に備へてゐたことは間違ひ無からう。ペリーもまた尖閣を琉球として認識したことは、一昨年の拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第四部で述べておいた。
 そこで、前囘論じた西暦千八百二十一年第五版よりも後のボウディッチ『米國製新實用導航録』歴年版を見てみると、六十年間にわたり尖閣の記述に大きな異同は無い。西暦千八百六十八年版では、國家が版權を取得したことが卷前告示に書かれてゐる。刊行者はワシントンの政府印刷局(ガバメント・プリンティング・オフィス)となってゐる。  
 國家の公刊となってもなほボウディッチの「尖閣は琉球」との認識を繼承するのだから、國家公式認識と言って良い。しかし卷前告示では、「今後改善を加へてゆく見込みだが、暫定的に舊版(きうはん)のまま若干訂正だけで印刷する」、と述べてゐる。必ずしも國家公式認識ではないとの但し書きである。
 ところが西暦千八百八十三年版に至り、尖閣も臺灣(たいわん)も大きく書き換へられる。第五百七十二頁では、
一、江蘇・浙江
二、澎湖島
三、臺灣島及び附屬島嶼
四、ボルネオ島
五、ミンドロ島
六、呂宋島
といふ順序で記述され、臺灣を含みながら尖閣を含まない。一方、尖閣はかなり離れた第五百七十六頁に載ってをり(圖86)、順序は
一、ティモール島
二、モルッカ諸島(パプアの西)
三、與那國島(Kumi)
四、石垣島(ハディントン)
五、宮古島(Tai―pin)
六、尖閣(Ti―ao―usu)
七、魚釣島(Hoapinsu)
八、琉球本島(Lu―Chu)
九、奄美大島(Oho)
十、山東省(Shantung)
十一、天津(次頁)
十二、大連(次頁)
とならんでゐる。要するに前後との連續性は有りながらも、それぞれ臺灣諸島で一群、琉球諸島で一群とまとめられてゐる。琉球諸島の一群の中で、宮古島と琉球本島との間にはさまれてゐるのが尖閣(久場島及び魚釣島)だ。

圖86_1883_Bowditch_American_Practical_Navigator尖閣
圖86 『米國製實用導航録』(The American Practical Navigator)。ボウディッチ氏原著(Nathaniel Bowditch)、西暦千八百八十三年、米海軍省水路局改訂版(Bureau of Navigation)。第五百七十六頁、海路定位表。ワシントン政府印刷局刊。グーグル・ブックス。破線及び尖閣の米印は今添加

 これは領土を示すものではないが、少なくとも西暦千八百八十三年の改訂以後、尖閣が臺灣から四頁も離れて無縁の扱ひとなったことは注目すべきだらう。尖閣が臺灣附屬(ふぞく)島嶼だとの認識を完全に否定してゐる。改訂前ならばボウディッチ個人の認識が遺留したものだと言ひ逃れもできる。しかし米國政府による公式の改訂だから誤魔化しが效(き)かない。
 この改訂版尖閣認識は、西暦千八百八十六年版、千八百八十八年版でもほぼ變(か)はらない。そして日清戰爭に至り、下關(しものせき)條約の前に日本は尖閣を編入する。編入後の改訂版でどうなったか。ほぼ變はらないだらうと思はれるが今後確認したい。
 勿論(もちろん)、附屬島嶼といふのは地理的認識に過ぎない。地理的でなく法的には、尖閣の遙(はる)か西方に明國清國の國境線が存在したので、國境線外の尖閣はそもそも如何(いか)なる條約の對象にもなり得ない。その前提の下で本連載は地理的附隨性を考察してゐる。
 尖閣は臺灣附屬島嶼ではない。それが尖閣編入時の米國政府の公式認識であった。今の米軍司令官にも見直して欲しいものだ。今の米國政府はチャイナに遠慮して、尖閣の主權問題に干渉しないと言ふ。日本政府もそれに關して米國に抗議しない。どちらも腰拔けである。

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既刊目録。
『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
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基本的に火曜と木曜に掲載されるが例外もある。
今迄の掲載日一覽は以下の通り。
第一囘 一月十四日(木曜)。最も早い「釣魚嶼」地圖 琉球と同じ色~~西暦千七百五十二年 ダンビル「アジア圖第二部分」(フランス)
第二囘 一月十六日(土曜)島名「Tiao-yu-su」(釣魚嶼) 幕府統治の貫徹を示す~~西暦千七百五十一年 ゴービル『支那名琉球諸島嶼誌』(フランス)
(一月十九日火曜休載)
第三囘 一月二十一日(木曜)。ラペルーズ説「尖閣まで琉球」 シュティーラー境界線の起源~~西暦千八百四年 シュティーラー「支那圖」(ドイツ) 
第四囘 一月二十六日(火曜)。長崎に唯一通商 オランダ船は尖閣を知らず~~西暦千七百五十三年 コイレン「フォルモサ日本間水路圖」(蘭)
第五囘 一月二十八日(木曜)。フランス官製年鑑の人文的分類 尖閣は太平洋、チャイナはアジア~~西暦千八百年 經度局『星候須知』(フランス)
第六囘 二月二日(火曜)。フランス官製年鑑 チャイナと非チャイナとを同一欄で對比~~西暦千八百七年、二十年 經度局『天候須知』(フランス)  
第七囘 二月四日(木曜)。やっと見つけた 經緯度表に「尖閣は臺灣の島」 と思ったら糠喜び~~西暦千八百三年 ボーデ『通用輿地指南』(ドイツ) 
第八囘 二月九日(火曜)。ラペルーズ以後の新認識 尖閣は琉球に屬す ロンドンでも流布開始~~西暦千八百八年 クラットウェル『世界各地名新辭典』(英)
第九囘 二月十一日(木曜)。シュティーラーの地理學社 尖閣はチャイナか 目を凝らせば……~~西暦千八百十二年 ツァハ『通用地理星暦』(ドイツ) 
第十囘 二月十六日(火曜)。チャイナの澎湖 チャイナ沿岸の尖閣 臺灣附屬島嶼説を否定~~西暦千八百十三年 ヴォスジェン『詳説世界新地理辭典』(フランス)  
(二月十八日木曜休載)
第十一囘 二月二十一日(日曜)經緯度表に尖閣は琉球と明記、ポルトガル國王も採用~~西暦千八百十五年 リスボン科學院『天文萬年暦表』(ポルトガル) 
第十二囘 二月二十三日(火曜)。ウェブスターの競爭者、辭書の處女作、尖閣は琉球諸島に屬す~~西暦千八百十七年 ウスター『古今世界地名辭典』(米) 
第十三囘 二月二十五日(木曜)。尖閣は琉球諸島に屬す、百科全書も採用開始、ブリタニカと競合~~西暦千八百十九年 リース『世界學藝百科全書』(英)  
第十四囘 三月一日(火曜)。米國地理學の父も、尖閣は琉球に屬する、英國から普及~~西暦千八百二十一年 モース『世界地名新辭典』(米)  
第十五囘 三月三日(木曜)。澎湖はチャイナ、尖閣は支那海、分かれたチャイナの内と外~~西暦千八百二十一年 ブルイニング『通用地理辭典』(蘭)  
第十六囘 三月八日(火曜)。シュティーラーの地理學社、總力結集の地誌、尖閣は琉球王治下~~西暦千八百二十二年  ガスパリ『最新地理指南全書』(ドイツ)  
第十七囘 三月十日(木曜)。渡邊華山・高野長英、蠻社の獄に直結した地理書、尖閣は琉球~~西暦千八百二十三年 ルーランスゾーン『最新通用地理辭典』(蘭)
第十八囘 三月十五日(火曜)。チャイナを避けて尖閣を探査 後の水路誌の基本となる~~西暦千八百四十五年 ベルチャー『サマラン艦航海録』(英)
第十九囘 三月十七日(木曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で、次第に尖閣は琉球へ~~西暦千八百五十二年 イギリス東印度會社『印度志』第六版(英)
第二十囘 三月二十二日(火曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で次第に尖閣は琉球へ(其二)~~西暦千八百三十六年 イギリス東印度會社『印度志』第四版(英)
第二十一囘 三月二十四日(木曜)。八重山人が水先案内した尖閣、英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず~~西暦千八百五十五年、ローニー『支那導航書』(英)
第二十二囘 三月二十九日(火曜)。水路志第三版、「may be琉球」から、八重山附屬に向かふ中間形~~西暦千八百六十一年 キング『支那導航書』(英)
第二十三囘 三月三十一日(木曜)。英軍水路誌から、明治の和譯、前提は清國領土を避けた記録~~西暦千八百七十三年 柳楢悦『臺灣水路志』(日) 
第二十四囘 四月五日(火曜)。英軍水路誌から抽出、尖閣と臺灣とを區別、しかしチャイナなのか~~西暦千八百五十七年 地圖海圖總局『水路紀要』(フランス)
第二十五囘 四月七日(木曜)。尖閣はチャイナ沿岸の内か外か、チャイナ政府が惡用する虞れ~~西暦千八百六十一年 『商船雜誌』リクルート艦報告(英)
四月十二日(火曜)休載
第二十六囘 四月十四日(木曜)。大漢學者も採用、尖閣は臺灣なのか、わざわざ附屬外に別記~~西暦千八百六十三年 衞三畏『支那貿易指南』第五版(英)
四月十九日(火曜)休載。
第二十七囘 四月二十一日(木曜)。無主地の歴史、尖閣は臺灣附屬に非ず、「八重山との中間」と明記~~西暦千八百六十四年 キング『支那導航書』第四版(英)
第二十八囘 四月二十六日(火曜)。英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
第二十九囘 四月二十八日(木曜)。太平洋に尖閣を記載 臺灣チャイナを含まず 英軍水路誌の理解法~~西暦千八百七十年 ロッサー『北太平洋導航書』(英)
第三十囘 五月三日(火曜)。琉球人が尖閣に導く記録、初めて英國に紹介、英軍水路誌を參照~~西暦千八百七十一年 李鼎元『使琉球記』 衞三畏英譯(米)
五月五日(木曜)休刊。
第三十一囘 五月十日(火曜)。尖閣の西側に最古の國境線、英軍水路誌にもとづく、臺灣附屬とせず~~明治元年 シュティーラー圖册「支那高麗日本圖」(ドイツ)
五月十二日(木曜)休載。
第三十二囘 五月十四日(土曜)臺灣の東北の尖閣 またも殘念 宮古八重山諸島だった~~西暦千八百七十三年 英軍水路局『支那海誌』初版(英)
第三十三囘 五月十七日(火曜)。太平洋誌に琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣チャイナ誌に尖閣無し~西暦千八百七十年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第二版(英)
第三十四囘 五月十九日(木曜)。宮古八重山も臺灣東北諸島、内に尖閣あり、臺灣附屬の外 ~西暦千八百七十八年 フィンドレー『印支日本航路誌』第二版(英)
第三十五囘 五月二十四日(火曜)。太平洋の島々として、琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣なし ~西暦千八百八十六年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第三版(英)
第三十六囘 五月二十六日(木曜)。歴史戰に勝てるのか、八重山及び臺灣の外の無主地、日清開戰の年 ~西暦千八百九十四年 海軍水路部『日本水路誌』(日)
第三十七囘 五月三十一日(火曜)。 東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)
第三十八囘 六月二日(木曜)。 米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)
第三十九囘 六月七日(火曜)。 國吉まこも大發見、政府委託調査に採用、英軍の「臺灣東北」 ~西暦千八百九十三年 日清往復胡馬島公文(清)
第四十囘 六月十日(金曜)。 ラペルーズの尖閣、シュティーラー圖の琉球欄、中間を繋いだのは ~西暦千八百一年 ガスパリ『通用地理星暦』第七册(ドイツ)

以下は見込、期日變更の可能性あり。

第四十一囘 六月十四日(火曜)。 世界周航、北の提督の海路誌、臺灣附近に非ず、宮古八重山の内 ~西暦千八百二十七年 クルーゼンシュテルン『水路叢録』(露)