AKB48文明論

 今をときめくAKB48。海外にも姉妹グループが産まれつつあります。最近のニュースによれば、秋元康氏の海外増設構想は、上海のSNH48、タイワンのTPE48、マニラのMNL48、バンコクのBNK48、ジャカルタのJKT48、とひろがる見込みだと言ひます。この地理的分布の特徴、皆さんお分かりでせうか。

 古代の稻作文化圏、民俗學の所謂海上の道、中世晩期からの海のシルクロード、ポルトガル人の進出地、近世の朱印船貿易圏、そして江戸時代長崎貿易には遠く印度人も來てゐたさうです。

 秋元氏の構想はこの歴史に重なります。そこにはチャイナ本土(北部)が含まれません。長崎唐館にもチャイナ本土の人は來てゐませんでした。偶然ではありません。世界五大文明の歴史を考へれば分かります。

 メソポタミアで始まった古代文明は、西に流れてエジプト、ギリシア文明となり、東に流れてインダス、黄河文明となりました。稻作文化圏の北側には黄河文明のチャイナが有り、南の長江流域は次第にチャイナの殖民地となりました。チャイナ本土(北方黄河流域)の歴史は大きく三段階に分けることができます。
   一、黄河文明時代。漢字創成から前漢まで。(西暦紀元前)
   二、印度文明圏時代。後漢から唐末まで。(同紀元十世紀まで)
   三、中華思想時代。北宋から現代まで。(同紀元十世紀以後)
第一時代のチャイナ人は西アジアの大文明の存在をほとんど知りませんでした。チャイナ東側と南側の稻作文化圏にはまだチャイナ文明が大きく浸潤せず、漢字もほとんど使用されませんでした。
 第二時代には西の大文明が陸のシルクロードを通じてチャイナに流入し、チャイナは大印度文明圏の一部分となりました。東南アジアから日本までの稻作文化も、大印度文明圏の南部と重なります。
 第三時代には中華思想が陸のシルクロードの西方文明を拒絶し、一方でイスラム乃至ヨーロッパ文明は、海のシルクロードを通じて流入し、チャイナ文明との戰(たたか)ひが東南沿岸で繰りひろげられます。

 時空を俯瞰すれば、第三時代では中華思想が大印度文明圏から離脱を圖(はか)り、アジア諸國がそれを取り圍(かこ)む形を形成してゐます。第二時代だけはチャイナ本土(北部)が排除されてゐません。なぜなら陸のシルクロードの時代であり、チャイナは大印度文明圏内の一部分だったからです。

 日本が取り入れた漢文圏文化は、基本的に長江以南のチャイナ殖民地文化です。第二時代までは北のチャイナ本土の文化も併せて取り入れてゐましたが、第三時代では日宋貿易、茶、禪宗(ぜんしゅう)、長崎唐人など、ほとんど例外無く長江以南の文化です。肉饅頭や饂飩(うどん)など非米食はもともと北方文化ですが、長江以南の流儀に進化してから日本に流入しました。

稲作漁撈文明p135図
安田喜憲『稻作漁撈文明』より。雄山閣、平成21年


 AKB48グループの進出地は、第一時代の稻作文化圏であり、第二時代の大印度文明圏の東南部であり、第三時代のチャイナ包圍網の海側です。秋元氏はそれを意識してゐないかも知れませんが、いつの間にかさうなったわけです。自由で開放的な空氣、文化的共通性、親日と目される若者たち、貿易の興隆など、全てが古來の文化圏からうけつがれた結果であり、AKB48を受けいれる土壤となり、秋元氏の眼は必然的にそちらに向いたのです。

 麻生元首相及び安倍首相はかつて「自由と繁榮の弧」構想を公表しました。日本から東南アジア、インド洋、アラビア、地中海へとつながる外交構想です。秋元構想と同じく、稻作文化圏から西洋に伸びる海のシルクロードの歴史に重なります。チャイナ本土を含まないのは偶然ではありません。
(長崎純心大學ホームページ掲載)(平成28年4月18日作成)
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/information/gakka/hikaku_news/post_363.html

關聯:
http://senkaku.blog.jp/2016032757304880.html


http://web.archive.org/web/20160426100526/http://senkaku.blog.jp/2016042659002822.html
http://archive.is/SY07t

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