日本安全保障戰略研究所は、内閣官房にもリンク(最下方)が出てゐます。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/links/links.html

(日本安全保障戦略研究所 平成28422日掲載 リンク)
http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-9-20160422.pdf
http://www.ssri-j.com/Island.html
http://www.ssri-j.com/
中国外交部発言「西洋の地図では尖閣の中国名を使用」
 平成28(2016)年4月19日、中華人民共和国外交部の華春瑩(かしゅんえい)報道官は定例記者会見で下の通り発言した(リンク):
http://www.mfa.gov.cn/web/fyrbt_673021/t1356705.shtml
   甲午(日清)戦争前まで久しい間、西洋の地図中では
   広く「釣魚島」の名称を使用し、同時に明確に中国に
   属すると標注していた

と。

   *  *  *  *  *  *    

速報コメント  石井望(長崎純心大学准教授、漢文学)・談

 尖閣が中国に属すると標注した地図はひとつも存在しないが、島名には確かにチャイナ式漢字音が使用されていた。18世紀半ば以後、欧米の地図・地誌で尖閣諸島は、
  「Tiao-yu-su」(釣魚嶼、今の久場島)
  「Hoa-pin-su」(花瓶嶼、和平嶼、今の魚釣島)
  「Hoan-oey-su」(黄尾嶼、今の久場島)
  「Tche-oey-su」(赤尾嶼、せきびしょ)
と書かれる。チャイナ北方の字音である。これらが欧米で採用されたことは何を示すか、7ヶ条で分析しよう。
1、まず釣魚嶼(ちょうぎょしょ)などは日本の漢文名である。最古の釣魚嶼の記録には琉球人が水先案内したと書いてある。
2、宣教師は日本の鎖国下の琉球から情報を得られず、結果としてチャイナ音のローマ字がひろまった。
3、チャイナ字音で世界にひろまったのは尖閣だけでなく琉球全土の諸地名である。
4、チャイナ字音は逆に鎖国下の日本が琉球を実効統治していたことを示す。
5、琉球主要島嶼は後に和名が普及したが、尖閣は知名度が低いため和名が普及しなかった。
6、多くの欧米製の地誌・地図では、尖閣をチャイナ字音で呼びながら同時に琉球諸島の内とする。
7、ジャパンもジパングも近世チャイナ字音であって、領有と無縁だ。

 以下に逐一詳説しよう。
1、日本の漢文名  
 「釣魚嶼」等の最古の記録は西暦1534年、陳侃(ちんかん)『使琉球録』に見える。文中、釣魚嶼の前の段で、福州から琉球航路へ出航準備中、海路が分からず陳侃は困惑していた。そこへ琉球王派遣の水先案内人らが入港し、明国の使節船に同乗して出航可能となる。そして釣魚嶼を経由したのが最古の記録である。水先案内の琉球人が明国人に釣魚嶼を告げたことはほぼ確実に推測できるから、琉球人の命名した漢名であって、明国人の命名ではない。中華人民共和国の公式見解では水先案内の段を無視している。

2~4、逆に実効統治を示す  
 18世紀後半、欧米人は「釣魚嶼」をチャイナ北方字音で書くようになった。その情報源は、フランスの宣教師ゴービル(Gaubil)が西暦1751年に北京からパリに書き送ったローマ字である。
 そもそも琉球全土は日本の鎖国下であり、最西端の与那国島まで禁教令が施行されていたため、宣教師が琉球に入境できず、欧州では琉球地元情報が欠乏していた。そこへ北京のゴービル情報が届いたため、全面採用されるに至ったのである。
 ゴービルのローマ字が適用されたのは尖閣だけでなく琉球全土にわたる。例えば大宜味は「Ta-y-ouey」、八重山は「Pa-tchon-chan」、今帰仁は「Kin-koey-gin」というローマ字で出現する。日本字音が国外に流布しなかったのは、逆に琉球全土に日本の実効統治が貫徹していたことを示す。

5、近代以後の和名
  
 ゴービル以後19世紀前半まで、西洋製地図では鎖国下の琉球地名を全てチャイナ語ローマ字で標記しており、和名は知られていなかった。近代からやっとMeiako(宮古)、Ishigaki(石垣)、Iriomote(西表)など和名が西洋に伝播し始める。その過程では往々両者が併記された。例えばジョンストン地図の和名「宮古」にはチャイナ字音「Tai-Pin-San」(太平山)が併記される(図1)。
 また、先に知名度の高い島から和名に置き換はり、知名度の低い島は往々前代のままチャイナ字音だけ標記された。例えばジョンストン図の久米島はチャイナ字音Kumisang(古米山)のままである。
 ドイツのデベス地図(図2)では宮古八重山の和名にチャイナ字音を併載して、「Chin」(支那)と注記する。しかし尖閣はチャイナ字音「Tai-a-usu」(釣魚嶼)及び「Hoa-pin-su」(和平嶼)にChinと注記しない。和名「ゆくん・くばじま」「くめ・あかしま」等の知名度も低かっため併載されない。デベスの尖閣はジョンストンの久米島と同じ段階に属する。
 以上のように、琉球和名が西洋に知られるようになったのは比較的晩期であり、それまで日本の鎖国統治が貫徹していたことを示す。
島名圖1_Jonston1893_Miyako_Rumsey3287040
図1 Jonston(英)「China and Japan」 1893年刊 ラムゼー地図ネット3287040番 davidrumsey.com


島名圖2_Debes_Ost-asien_1898Rumsey8002084尖閣
図2 Debes「Ost-Asien」(東アジア) 1898年刊 ラムゼー地図インターネット8002084番 davidrumsey.com


6、チャイナ字音の尖閣を琉球の領土とする地図・地誌
 19世紀初頭から、欧米では尖閣を琉球諸島の内とする地誌・地図が多いが、同時に尖閣をチャイナ字音で標記しており、チャイナ字音は領有を示すものと考えられていなかった。
 例えばジェディディア・モースは米国地理学の父とされるが、その著『世界地名新辞典』(1823年版)では、
    「Tiaoyu-su(釣魚嶼)。琉球諸島の一つ、シナ海に在る。」
と述べる(図3)。
島名圖3_Tiaoyusu_1823Morse氏New_Universal_Gazetteer
図3 Jedidiah Morse(モース)等共編、『A New Universal Gazetteer or Geographical Dictionary』(世界地名新辞典) ニューヘイブンにて Sherman Converse(コンバース)氏刊。1823年四訂版。グーグル・ブックス


 明治元年(1868年)ドイツのシュティーラー地図でも、尖閣諸島の西側に国境線を引きながら、「Tiao su」(釣魚嶼)、「Hoa pin su」(和平嶼)などチャイナ字音を用いる(図4)。領土と島名とは別扱いだったことが分かる。
圖2_stieler1868切東大藏
図4 『シュティーラー氏世界地図冊』(Adolf Stieler's Hand-Atlas)内「チャイナ・コリア・日本図」(China Korea und Japan) 明治元(1868)年製、東京大学総合図書館蔵、登録番号0005298948。いしゐのぞむ著『尖閣反駁マニュアル百題』より。


7、ジャパンもジパングも  
 ジャパン・ヤポンなどは広東(カントン)字音に起源する説が有力である。今の広東字音でも「日本」の二字をヤップンと読む。ジパングが元朝の北方漢字音に起源するのは研究でほぼ確定している。尖閣だけでも琉球だけでもなく、日本そのものが近世のチャイナ字音で読まれていた。
 そもそも五大文明はメソポタミアから東西に伝播した。東にインダス、西にエジプトが産まれ、さらに東に行って黄河文明、西に行ってギリシャ文明となった。ユーラシア東半部の高度な文明は常に西方から来たのが大きな歴史である。東方は僻地なので、西方の名で呼称された。
 西洋から見て、チャイナ文明はインド文明よりも遠い僻地だったため、梵語China(チーナ、支那)で流布した。マルコポーロは陸路で北京に到達して日本を知ったため、元朝北方字音でジパングと書き記した。近世ポルトガル人は海路で来航して日本を知ったため、広東字音「ヤポン」が普及した。
 だからと言ってチャイナはインドの領土ではなく、日本も広東の領土ではない。同じ道理で、東方の釣魚嶼を、西方から来た宣教師がチャイナ字音で紹介した。文明伝播の地理的方向性を示すもので、領有とは無縁である。

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關聯リンク:
http://senkaku.blog.jp/archives/37712591.html