八重山日報 歐洲史料 尖閣獺祭(だっさい)録 連載第二十一囘 平成二十八年三月二十四日第四面掲載 

八重山人が水先案内した尖閣、
英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず
 ~~西暦千八百五十五年
    ローニー『支那導航書』(英)
 第十八囘で述べた英國ベルチャー船長のサマラン艦は、西暦千八百四十五年に尖閣を探査し、記録は西暦千八百四十八年に刊行された。すぐに倫敦の『エコノミスト』誌にも紹介された。阿片戰爭直後の探査であるから注目を集めてゐたのだらう。
 航海録では「Hoa-pin-san」(和平山、花瓶山、今の魚釣島)について述べて曰く、
  「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」
と。また曰く、
  「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」
(圖47)。これは八重山の案内人が「Hoa-pin-san」でなく地元の島名で尖閣を認識していたことを示してゐる。認定を急ぎ過ぎたといふのは、地元名を正式認定すべきだとの意である。八重山こそが尖閣の地元だと、英國の將軍らが認識したことが分かる。
 しかしチャイナ清華大學の劉江永氏らは、文中の「知らなかった」だけを切り取って「八重山人は尖閣を知らなかった」との虚構を散布してゐる。阻止せねば日本は敗北するだらう。
 航海録刊行から四年後の西暦千八百五十二年、東印度會社『印度志』第六版でサマラン艦の記述が採用され(連載第十九囘)、ついで三年後の西暦千八百五十五年に第七版も刊行されるが、今のところ私は第七版原書を閲覽できてゐない。しかし同じ年、ロバート・ローニー著『支那導航書』第一册が英軍水路局から刊行され、尖閣部分では同じくサマラン艦の記録が採用された………
(以下は新聞オンラインにてご覽下さい。) 
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

圖47_1848刊Samarang_vol1_p315八重山pilot
圖47 エドワード・ベルチャー(Edward Belcher)著
『Narrative of the Voyage of the H.M.S. Samarang』
(王家サマラン艦航海録)より第九章、第三百十五頁。
倫敦にて西暦千八百四十八年Reeve氏Benham氏共刊。
「Patchung-san」は八重山のチャイナ字音。
「Meia-co-shimah」と「Madjicosima」は宮古諸島。
「Y-nah-koo」と「Kumi」は與那國。  グーグル

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『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
基本的に火曜と木曜に掲載されるが例外もある。
今迄の掲載日一覽は以下の通り。
第一囘 一月十四日(木曜)。 
第二囘 一月十六日(土曜)。 
(一月十九日火曜休載)
第三囘 一月二十一日(木曜)。 
第四囘 一月二十六日(火曜)。 
第五囘 一月二十八日(木曜)。 
第六囘 二月二日(火曜)。  
第七囘 二月四日(木曜)。 
第八囘 二月九日(火曜)「ラペルーズ以後の新認識 尖閣は琉球に屬す ロンドンでも流布開始~~西暦千八百八年 クラットウェル『世界各地名新辭典』(英)」
第九囘 二月十一日(木曜)。 
第十囘 二月十六日(火曜)。  
(二月十八日木曜休載)
第十一囘 二月二十一日(日曜)。 
第十二囘 二月二十三日(火曜)。  
第十三囘 二月二十五日(木曜)。  
第十四囘 三月一日(火曜)。  
第十五囘 三月三日(木曜)。  
第十六囘 三月八日(火曜)。  
第十七囘 三月十日(木曜)。 
第十八囘 三月十五日(火曜)。
第十九囘 三月十七日(木曜)。
第二十囘 三月二十二日(火曜)。
第二十一囘 三月二十四日(木曜)「八重山人が水先案内した尖閣、英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず~~西暦千八百五十五年、ローニー『支那導航書』(英)」
第二十二囘 三月二十九日(火曜)。

今後は
第二十三囘 三月三十一日(木曜)。
第二十四囘 四月五日(火曜)。
……まだまだ續きます。