奥原先生06
       ▲奧原敏雄先生遺影 平成二十四年八月


巨星隕(お)つ 尖閣史研究の開祖
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2016010700697
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2016010802000185.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A7%E5%8E%9F%E6%95%8F%E9%9B%84
 奧原敏雄。おくはら、としを。日本熊本縣人、國士舘大學名譽教授、國際法。平成二十四年より島嶼資料センター資料調査委員會委員。昭和七年大連生まれ、平成二十七年12月30日歿。享年八十三歳。尖閣諸島(古名釣魚嶼)の研究に力を盡くし、日本尖閣史學の開祖とされる。
 昭和四十年代後半、京都大學教授井上清との間で戰はされた奧原井上論爭は、後の尖閣史論爭の原型となった。
 井上は赤尾嶼(久米赤島、大正島)まで歴史上のチャイナ領土だったとしたが、奧原は清國官製の臺灣(たいわん)地誌に清國臺灣府の北限が鷄籠(基隆)までと記載されてゐることを以て井上の主張を否定した。
 また琉球册封使最古の記録である陳侃『使琉球録』に、琉球國王からの派遣人員が水先案内をつとめたと記載されてゐることに奧原が最も早く論及し、明國側が尖閣諸島の發見者であることを否定した。

[時事通信] 奥原 敏雄氏(おくはら・としお=国士舘大名誉教授・国際法)2015年12月30日午後1時23分、前立腺がんのため千葉県柏市の病院で死去、83歳。熊本県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻美津子(みつこ)さん。(2016/01/07-17:16)
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 本日、島嶼資料センターの高井晉先生より、奧原敏雄氏訃報をお知らせ頂いた。
 故奧原氏が尖閣を研究し始めた當初の經過については、「島嶼研究ジャーナル」創刊號に、「尖閣列島研究の背景と原點・對談」と題して掲載されてゐる。話し手奧原敏雄・聞き手高井晉。
http://www.naigai-group.co.jp/_2012/07/post-11.html
 奧原氏がどういふわけで昭和四十五年といふ早い時期に尖閣を研究し始めたのか、私は訪問して取材したいと思ってゐたのだが、平成二十四年の八月にそれが實現し、お宅にお邪魔した處、直前の七月に上記對談が出たばかりであったので、座右から一册頂戴した。
 これより先、平成二十四年三月、私は『和訓淺解・尖閣釣魚列島漢文史料』を
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB09937668
刊行した。收録史料の内、特に西暦1683年の汪楫『觀海集』に「東沙山(馬祖列島)を過ぐれば、是れ閩山(福建省)の盡くる處なり」
http://heiwagaikou-kenkyusho.jp/opinion/565
との重大な一語があり、報導に出したいと思ってゐた。臺灣海峽内でチャイナ領土が終り、尖閣はチャイナの外だと示してゐる。
 さらに六月頃、西暦千五百六十一年の郭汝霖『石泉山房文集』に、赤尾嶼(久米赤島、大正島)で「琉球境に渉る」と書かれてゐるのを見つけて、二史料を併せて報じて頂きたいと産經新聞に持ちかけた。その際に僭越ながら奧原先生のコメントを頂きたいと思ひ、國士館大學に問合せた處、快く奧原先生のご聯絡先を教へて頂いた。失禮ながら昭和四十年代に活躍された大先生がなほご健在だとは思はなかったのだが、問合せてみるものだ。
 早速奧原先生にご聯絡した處、是非とも漢文畑から尖閣を研究すると良い、島嶼資料センターが丁度發足したばかりだから、次の年度あたりから參加できるやう取り計らってあげよう、との有り難いお言葉を頂いた。
 産經の記者も奧原先生にご聯絡し、コメントを頂いたとのことであった。結局紙面の都合でコメントは掲載されなかったものの、久しからずして平成二十四年七月十七日産經第一面に兩史料が掲載された。
http://senkaku.blog.jp/archives/35885963.html
奧原先生のお力で實現したと言ってよいだらう。その後の八月に上記の通り先生のお宅を訪問したわけである。
 翌年度より私は島嶼資料センターにて資料調査委員を仰せ着かることとなった。委員會には錚々たる顔ぶれがならぶ。今思へば若輩者をよく受け容れて下さったものだ。そして島嶼研究ジャーナルへの投稿を始めとして、樣々に活動の機會を與へて頂くこととなった。奧原先生のお力無くしては、この三年間あまりの私の活動は實現しなかった。といふより、そもそも奧原先生無かりせば、尖閣研究の興起はかなり遲れただらう。
 私に對してだけでなく、奧原先生は常に學閥などにとらはれぬお人柄だと聞くし、ご自分もそのつもりだとお話されてゐた。當初誰も研究してゐなかった尖閣を研究し始めたのは、まさしく正義の人である。正義の人に世間は冷たい場合があり、東大教授や大きな學會長などをつとめられなかったのは、世間の側の鈍さゆゑであらう。
 奧原先生は今から三十年あまり前の昭和五十六年に、オックスフォード大學から尖閣史料『順風相送』のマイクロフィルムを取り寄せてゐた。現在島嶼資料センターに藏せられてゐる。私は奧原先生及び尾崎重義先生のご意見を頂戴しつつ、センターにてフィルムを見せて頂き、原本の上下卷が全く別物であることを發見した。
http://www.ssri-j.com/senkakus-j-index.html
奧原先生、尾崎先生、高井先生のご助力に負ふ所が大きい。これについては既に幾つか論文などを書いたが、中々世間にはひろまってゐないので、大手報導に出したいものだ。
 謹んで奧原敏雄先生に感謝申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。

奧原敏雄履歴奥原島嶼研究ジャーナル



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