http://mainichi.jp/shimen/news/20150702ddm003070197000c.html
木語:南沙は西沙だった=金子秀敏
毎日新聞 2015年07月02日 東京朝刊
 <moku−go>
 南シナ海をめぐる米国と中国の対立は6月下旬の米中戦略・経済対話でも解決の糸口が見つからなかった。どちらも軍部が強硬で、スプラトリー(南沙)諸島の緊張は高まっている。
 スプラトリーの南、フィリピン・パラワン島では海上自衛隊のP3C対潜哨戒機がフィリピン軍と共同訓練をした。隣では米比合同演習。国会の集団的自衛権論議はホルムズ海峡を舞台に頭の体操をしているが、もっと南シナ海を想定した議論をしたほうがいい。
 それにつけても中国はなぜ大陸からはるか離れたスプラトリーを、古くからの中国領土だから埋め立ては勝手だと言えるのだろうか。
 ネット上に公開されている嶋尾稔・慶応大学言語文化研究所教授の「20世紀前半のスプラトリー諸島に対する中国の関与に関するメモ−海南漁民と『申報(しんぽう)』論調」という論文で納得がいった。戦前の中国の新聞記事や史料、中国の地図を詳しく比較してスプラトリーを中国領・南沙諸島だとする領土意識が形成される過程を論じている。
 結論はこうだ。はじめ中国政府はスプラトリーの存在を知らず、パラセル(西沙)諸島と誤解して領有権を主張した。誤解に気が付くと、領有権主張を撤回するのではなく、未知の島に「団沙」(後に南沙に改称)の名前を付け「昔からの領土」と主張した。
 どういう心理なのか。1933年、ベトナムを植民地にしていたフランスがスプラトリー7島の領有権を宣言した。日本が満州に軍事侵攻して間もないころだ。中国の世論はフランスが「西沙9島」を火事場泥棒したといきり立ち、政府も領有権を主張して抗議した。
 ところがフランスの言う緯度経度は、西沙のずっと南だった。それなら安心。だがそうならないのが中国人の心理だ。列強に領土を奪われてきたので、列強が領土だと宣言したところは中国領に違いない、というナショナリズムに火がつく。「フランスは位置をごまかしてまで西沙を奪うつもりだ」と解釈した。
 1935年、政府の地図審査委員会が外国で出版された南シナ海の地図を調べて中国語地名の地図を作った。
 フランスの言う緯度経度に確かに島があるが、それまで中国の地図には西沙と東沙(プラタス)諸島、つまり南シナ海の北部しか描かれていなかった。そこで中国の地図も南沙まで拡大された。誤解による領土意識が地図の上に描かれた。(客員編集委員)


http://mainichi.jp/shimen/news/20151126ddm003070045000c.html
木語:ナンシャって何じゃ=金子秀敏
毎日新聞 2015年11月26日 東京朝刊
 <moku−go>
 東アジアサミットでまた米国と中国が南シナ海をめぐってさや当てを演じた。
 中国は南シナ海のほぼ全域が自国の領土領海だと押すが、米国は「領土問題で特定の立場はとらない」と引く。そのせいか米国メディアのなかにもスプラトリー(中国名・南沙)諸島が昔から中国領だったという錯覚がある。
 米CNNテレビの女性アンカー、クリスティアーヌ・アマンプール氏が中国の崔天凱(さいてんがい)・駐米大使と対談した。「なぜナンシャ(南沙の中国語読み)に人工島を造るのか」と迫った。大使は「自国の領土だ」と突っぱねた。
 アマンプール氏は中国名「ナンシャ」ではなく「スプラトリー」と中立的な呼び方をすべきだった。もっとも、日本のメディアも「南沙(英名・スプラトリー)」、「スプラトリー(中国名・南沙)」とまちまち。舌をかみそうなスプラトリーより南沙のほうが言いやすいが、それが錯覚の一因だろう。
 アマンプール氏は「古い地図を持ち出して領有権を主張すべきでない」と言った。南沙の古地図があると思いこんでいるのだ。大使が言い返した。「米国がなかったころからの領土だ」。ぎゃふん。
 実は2人とも間違っている。古い地図はスプラトリーと書いてあるのだ。中国が「南沙」の実測地図を作ったのは戦後、1947年以後だ。蒋介石政権が日本軍の占領していたパラセル(中国名・西沙)諸島や、日本領「新南群島」(スプラトリーの日本名)に軍艦を派遣して接収した。初めてこの地の島々を測量して南沙と命名した。主要な島には軍艦の名前から「太平島」「中業島」など中国名をつけた。このころ、南シナ海全域に「十一段線」(後に九段線)という線引きをして領有宣言した。
 48年に上海・申報(しんぽう)館が発行した「中国分省新図(戦後訂正第五版)」には「南沙群島」の文字がある。戦前の「中華民国新地図」には南シナ海南部は日本領だからそもそも出ていない。
 崔大使の言う「米国がなかったころ」は、中国人もスプラトリーを知らなかった。なのに中国人はなぜ「祖先から継承した」と思うのだろう。
 戦後まもなく台湾で発行された「中華民国地図集」(国防研究院)の序文に蒋介石総統の発言が掲載されていた。いわく「南シナ海は、漢や唐の時代から明の鄭和の遠征に至るまでわが祖先が航海を重ねた地」。43年のカイロ、テヘラン両会談後の発言とある。中国はこの時、戦後の南シナ海領有権を主張したのだろうか。(客員編集委員)


http://mainichi.jp/shimen/news/20151203ddm003070083000c.html
木語:こんな所に尖閣=金子秀敏
毎日新聞 2015年12月03日 東京朝刊
 <moku−go>
 スプラトリー(中国名・南沙)諸島が「古代から中国領だった」と錯覚している話の続き。
 「南沙」が中国の地図帳に登場するのは、戦後の1948年に上海・申報館(しんぽうかん)が発行した「中国分省新図」の「戦後訂正第五版」からであると前回書いた。
 中国大陸に近い「西沙(英名・パラセル)」「東沙(英名・プラタス)」については記録があるから、似た名前の「南沙」にも記録があると思いこんだのだろう。だが、南沙は大陸から遠く離れている。ほとんどが半ば暗礁で飲料水は出ず、人は住めなかった。だから記録もない。
 中国は、漂流漁民以外行ったことがないような場所に関心がなく戦前、南沙を管轄したことはなかった。戦後、中華民国がそれまで日本が領有、占領していた南シナ海の島々を接収した。西沙、東沙の接収は主権回復と言えるだろうが、南沙は旧中国領ではない。だが中国人は、昔からの領土を取り戻すのだと錯覚して接収した。中国でも台湾でも錯覚に気づく人はなく、「祖先から受け継いだ土地は断じて譲らない」(習近平国家主席)と米国と対立している。
 さて、「戦後訂正版」の中国地図帳。旧版と比べると南沙と旧満州、台湾のページが増えている。抗日戦争に勝利した結果、取り戻した領土だと地図帳序文はうたっている。「戦後改訂」で、南沙は目玉のひとつだ。
 もうひとつの目玉「台湾省」のページをめくってみた。尖閣諸島(中国名・釣魚島(ちょうぎょとう)、台湾名・釣魚台)はどうなっているか。探したが、ない。「台湾省」に描かれているのは、台湾北部・基隆(キールン)の北東沖にある彭佳嶼(ほうかしょ)までだ。その先にある尖閣は入れていない。
 不思議ではない。「蒋介石日記」を読めばわかるが、蒋介石総統(当時)が釣魚台という地名を使うのは70年代からだ。68年に尖閣周辺に石油があるという国連機関の報告書が出るまで総統は「台湾省」の地図にない島、尖閣の存在を知らなかった。
 念のために申報館の地図帳の旧版(34年発行)を開いてみた。日本領だった台湾のページがないのは当然だが、「第19図」(浙江(せっこう)省周辺)の下の方に東シナ海と台湾北端の地形が顔を出している。おーっ、そばに尖閣諸島がある。「釣魚台」でも「釣魚島」でもなく「尖閣諸島」の漢字表記。そうだったのか。戦前は中国人も尖閣を釣魚島と呼んでなかった。中国人が中国の領土と思いこむのは戦後、それも70年代以後なのだ。古い地図帳は知っている。(客員編集委員)

金子秀敏


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