『那覇市史  資料篇』 第1巻 家譜資料第三册。首里系。那覇市企画部市史編集室, 1982年。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01541373 
長崎純心大學藏。
向氏家譜・具志川家。
那覇市史向氏家譜2

那覇市史向氏家譜1

那覇市史5
以上書影は長崎純心大學藏本。以下は論文から關聯部分。
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いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるか
ーー明治から文政に遡って反駁する」

https://www.spf.org/islandstudies/jp/journal/00006/
島嶼研究ジャーナル4の1。
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

https://www.amazon.co.jp/dp/4905285399
5、文政2年、最古の公式上陸調査記録  
 國吉まこも「尖閣諸島の琉球名と中國名のメモ」(註32) によれば、嘉靖24(1819)年、即ち文政2年、具志川家『向姓家譜』・「十二世尚鴻基」に尖閣の俗名「ユクンクバジマ」の記録が有る。曰く、
「嘉慶二十四年己卯年四月初六日、太守樣の中將の位に升るを慶賀する事のため、命を奉じて使者となる。…(中略)…五月初六日、恭しく國翰を捧げて舟に登る(此れ薩州の船なり。)七月十五日、那覇より開船す。十八日、風の不順により、運天港に到り抛泊す。…(中略)…駛せて鳥島の西洋に到り、風雨猛起し、船帆、風に吹損せらる。針路冥冥として去向を知らず。…(中略)…九月初一日、鴻基、掌上に膏を焚き、聞得大君を望んで願を許す。…(中略)…十七日に至り、天氣方に晴れ、高山を看得たり、猶ほ地名を知らず(後に聞く、此の山、俗に「魚根久場島」と呼ぶなり)。十八日、駛せて該山の下に到り灣泊し、用水を汲まんと欲すれど、並びに泉の湧く無し。一連三日、彼の處に風を候す。忽然として暴風大いに作こり、抛つ所の碇索、ことごとく海浪に磨斷せらる。船隻、風に隨ひて海洋を漂蕩し、船上の人數頻りに神佑を求む。幸ひに二十三日に至り、又た遠く高山を看る、二十四日、漸く其の山に近づく。只だ看る山上に一個の人有り(此の人、八重山島の奉公人、安里仁屋なり)、手を舉げて船を招く。又た五六人有り、旗を搖らし港を示す。即ち船人をして高聲に其の地名を問はしむるに、答へて曰く「與那國島」と(此の時、安里仁屋、村人五六名を率同して杉板に坐駕し、來りて該處の地名を告ぐ)、是に於いて方(まさ)に本國の屬島なりと知る。…(下略)…」(註33)
と。これは薩摩に往く船であり、「鳥島」は琉球最北端の硫黄鳥島に擬すべきである。そこから暴風雨に流されて、魚根久場島に到達する。國吉氏はこれを「ユクンクバジマ」の島名の最古の記録だとする。次にヨナクニ島に到達することから見ても、確かに尖閣諸島中の一島である。かつ「高山」であるから、標高117mの久場島でなく、362mの魚釣島であった可能性が高い。飲み水が無かったわけは、魚釣島に流れる尾瀧溪・小溪・大溪・道安溪は全て島の北側に在り、南側の和平泊附近から上陸したならば飲み水を得られない。嘗て上陸した佐々木類氏(産經新聞)のお話によれば、地形峻峭のため南北間を歩いて繞るのは困難だとのことである。
 但し、淡水が全く無い久場島の可能性もある。宮島幹之助「黄尾島」第2章「地理及地質」(註34)および上引伊沢眞伎女史口述には久場島に流水湧水の無いことを述べる。ただ久場島からヨナクニ島に到達する前に大きな魚釣島を望見しないのは少々不可解だ。
 ベルチャー『サマラン艦航海記』(Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang)第9章「バターン・花瓶山・琉球」(註35)によれば、西暦1845年6月16日、Tia-usu(ここでは久場島)の洞窟に遭難者の臨時ベッドが有り、刳り舟や棕櫚葺き屋根などの材料で作成されたものだと述べる(註36)。向鴻基らが留めた痕跡を26年後にベルチャーらが目撃した可能性もあるが、向鴻基の船は刳り舟ではあるまい。刳り舟を操る琉球漁民の痕跡の可能性が高い。
 これが慶良間諸島の久場島であった可能性は無い。なぜなら該島から慶良間島まで約2kmに過ぎず、歴々目視できるので方向喪失は有り得ない。されば尖閣諸島中の一島であることほぼ確かであり、これを「魚根久場島」を呼ぶ人々が存在した。尖閣諸島で碇泊した最古の記録である。碇泊のみならず、三日間上陸して淡水をさがした可能性も極めて高く、イギリス人よりも早い最古の上陸記録としてほぼ疑義は無い。向鴻基の次の日本人(含琉球人)上陸は古賀氏の明治17(1884)年であるから、65年引き上げることになる。幕末に魚釣島に碇泊した大城永保は上陸しなかった。チャイナ人の上陸記録はひとつも無い。
 清朝への朝貢船であれば、ほぼ毎年尖閣海域を航行するので、尖閣に無知だとは想像しにくい。しかしこの船は薩摩太守(藩主島津齊宣)の官位昇進を慶賀するために北航して漂流したのだから、船員は尖閣に無知だったのである。向鴻基(今歸仁朝英)は琉球王族であり、この漂流の一件は『中山世譜』附卷五尚灝王嘉慶25年にも去年の事として略載されるが、尖閣にまでは言及しない。王族の公務中として法的意義の有無は不明だが、しかし歴史認識は大きく改まる。期せずして最古の公式上陸調査となったのである。
 鞠德源『日本國竊土源流・釣魚列嶼主權辨』(註37)では、魚根久場島を尖閣以外の不明島嶼だとする。理由はふたつ。「後に聞く」は不確かであること。硫黄鳥島から魚根久場島までの間に漂流22日間であり、長過ぎること。
 鞠氏説には反駁できる。後に聞いた事を疑問無く記載したのは、逆に外間の普遍的認識にもとづいたことを示す。個人の記録よりも信頼性は幅ひろい。ヨナクニ島の案内人の周到ぶりをみても、北からの漂流者を受け容れる態勢が存在し、尖閣諸島の地形植生水流等は多くの漂流者から聞いて熟知した筈である。上引サマラン艦航海録の前段でも(註38)、魚釣島を指す「Hoa-pin-san」(花瓶山)について「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」(註39)、また「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」(註40)と述べて、八重山の船のりが別の島名で尖閣を熟知したことを示す。
 次に、漂流すれば時間が長いのはあたり前だが、向鴻基は9月21日に魚根久場島を離れて更に漂流し、早くも23日にヨナクニ島を望見する。僅か漂流2日間だからヨナクニ島から遠くないと分かる。この附近海域中、無人の孤島にして高さが有り水が無いのは、尖閣以外に基隆北方の彭佳嶼だけだが、昔も今も彭佳嶼には草本しか生育せず(註41)、クバ(即ち蒲葵)は無いので、クバジマと誤認する可能性は極めて低い。鞠德源氏は他にそれらしい島を指定できない筈だ。
 歴代冊封使録からは那覇久米村三十六姓が尖閣を熟知したことが分かるが、向鴻基の記録からは八重山諸島の人々と尖閣とのつながりが分かる。大きく取り上げるべき史料だ。

(註32)『地域研フォーラム』40、沖縄大学地域研究所、平成25(2013)年1月。
(註33)もと漢文、今書き下す。『那覇市史・家譜資料・首里系』活印本、那覇市企画部市史編集室、昭和57(1982)年、p.280所載。ほぼ同文はp.285にも見える。
(註34)『地學雑誌』12(12)、通144、明治33(1900)年12月、pp.692-693。
(註35)ロンドン、Reeve, Benham, and Reeve刊、1848年、p.319。
(註36)原文:Some distressed beings had evidently visited this island, not Europeans, as their temporary beds were constructed of materials which belonged to canoes, palmetto thatch, &c. 
 (註37) 首都師範大學出版社、平成13(2001)年、上册、pp.568-569。
 (註38) Belcher, supra note 34, p.315 
 (註39) 原文:not known by this name by our Pa-tchung-san pilots. 「Pa-tchung-san」は八重山。
 (註40) 原文:the names assigned in this region have been too hastily admitted.
 (註41) 川上瀧彌「彭佳嶼(あじんこーと島)ノ植物」、『植物學雜誌』236、東京植物學會、明治39(1906)年9月、pp.193-206。



尚鴻基譜の原寫本は下記論文に卷影を載せる。
「琉球尖閣近著雜録」第187頁。
 Miscellany of Latest Works on Ryukyu and Senkakus
        いしゐ のぞむ        純心人文研究 (21), 232-187, 2015        長崎純心大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020360401


八重山日報。
http://senkaku.blog.jp/2017050970833586.html
八重山毎日新聞。
http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html



0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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