- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。沖繩平和協力センター受託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

昨日の一般社團法人日本沖繩政策研究フォーラム講座「琉球王族尖閣上陸史料の真相」の配布資料です。PDFはこちらから
https://drive.google.com/open?id=0B2MwcvRggQjpZThzUFNPQlNEYzA
ダウンロードして下さい。講座ビデオは後日ユーチューブより配信致します。
下は、講座でご紹介した對蘭條目五箇條の第五條琉球附則です。
通航一覽243阿蘭陀琉球

『通航一覽』卷二百四十三より。詳細はPDF及び後日のビデオをご覽下さい。
事前の講座預告は下リンク:
http://senkaku.blog.jp/290527ikebukuro.html




魚釣久場南北航空sankeinews2

魚釣久場南北航空sankeinews1


尖閣諸島、久場島側から魚釣島を遠望する映像。
産經ニュースSankeinews、一分二十二秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=Wj5wYe0Mqsc#t=1m22s
標題「探訪 東シナ海尖閣諸島 空から見張る緊張の海」



久場島の映像は案外稀少です。兩島の距離の近さがよく分かります。
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0527講座内閣官房半


0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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眞榮平房昭先生とは、こちらリンクの委員會でも
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
ご一緒しましたが、多くの素晴らしい論文を書かれてます。
その一つを、勝手ながら以下に轉載します。

眞榮平房昭「17世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」
誌名『經濟史研究』第四號、第36至47頁。平成十二年三月。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000379563
http://www.osaka-ue.ac.jp/research/nikkeisi/lab/contents/04.html
http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/4218
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110000379563.pdf?id=ART0000816937
最近pdfも公開されたやうです。以前コピーしてゐたので、以下に主要部分。

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 ▲ここで臣下だとしてゐるのは、琉球だけでなく清國及び李氏朝鮮の船をも含むのだらうか。長崎オランダ商館日記西暦1689年4月8日の原蘭文を確認してみたい。但し、オランダ商館がどう記述するにしても、琉球に對しては單なる「意識」でなく、實効統治が行なはれてゐた。清國及び李氏朝鮮に對して臣下とするのは、實効統治を伴なはぬ單なる「意識」であった。それは史實で誰でも分かることだ。
  追記。この個所の引用元を眞榮平先生は明記してゐない。出處を確認すると、ニコラース・ウィットセン(Nicolaas Witsen)著、生田滋節譯『朝鮮國記』(平凡社東洋文庫)第128頁の注39(第141頁)に引く長崎オランダ商館日記の生田滋譯であった。ウィットセンはオランダ東印度會社の幹部で、東洋の地理學を研究した。第128頁によれば、ウィットセンは日本のオランダ商館の1689年の記録を閲覽し、次の記述を見つけた。ほぼ曰く、「高麗や琉球は日本の臣下なので、高麗や琉球の船に損害を與へてはならぬと江戸幕府は要求した」と。そして生田氏の註39によれば、『出島オランダ商館』1689年4月8日に當該記述がある。眞榮平氏の引くのは生田氏の譯文そのままだ。この時、江戸幕府は五箇條の祖法をオランダ側に言ひ渡した。その第五條が眞榮平氏所引である。
  これにより分かるのは、ウィットセンの理解では、「かれらが日本の臣下だ」といふ語句は朝鮮及び琉球を指してをり、チャイナを含めてゐない。眞榮平氏はチャイナを含めると解してゐる。これについては原蘭文を確認する必要があらう。門外漢の私には少々手間が必要だ。しかし原文も代名詞であらうから、常識的にはウィットセンの理解が正しいといふ結論になることが預測される。
  眞榮平氏の解釋により、江戸幕府の祖法第五條は單に諸外國に對する優越意識とされた。しかし朝鮮及び琉球だけだとなれば、かなり色彩が異なる。しかもこの第五條は、眞榮平氏が上文で引く『通航一覽』などの條目と同一文書だと思はれる。出島オランダ日記だけが他寫本と異なって、朝鮮を對象として含んでゐるといふことだ。出島オランダ日記の記述に何らかの特殊事情があると疑はねばなるまい。
  そしてこの祖法第五條だけでなく、眞榮平氏の引く諸史料によっても、琉球に對しては實効統治が施行されてゐる。他の『鹿兒島縣史料』などの膨大な史料によっても實効統治は確認できる。一方、朝鮮に對して實効統治は確認できないが、制海權はどうだらうか、私はそこについて不勉強である。ともあれ出島オランダ日記所載の祖法第五條は、琉球に對する統治と、朝鮮に對する意識とを同一形式で述べたと解すべきだらう。まづは暇をみつけて原蘭文を探索したい。

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 ▲清國と鄭成功政權との間の爭ひだから、琉球は朝貢先の清國に保護を求めるのが筋だらう。しかし實際には薩摩に保護を求めた。薩摩は琉球の安全保障を實力で行なってゐたが、清國は全くそのやうなことを行なはなかった。といふより行なひ得なかった。なぜならそれは清國は琉球に自力で渡航することすらできず、中間の尖閣海域で琉球職員に案内されてゐたことからも分かる。
 朝貢は商務であり、政治形式である。薩摩に對しては實効統治に服屬してゐた。兩者は全く異なる性質であった。

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追記。
西暦1630年ごろまでは確實に臺灣海峽まで日本の朱印船の制海權下だったことは、「尖閣獺祭録」で引いた史料からほぼ分かる。1627年濱田彌兵衞事件あたりからオランダに食はれて制海權を次第に失ひ、鎖國實施で完全に日本が消え去った。しかしその後も薩摩の制海權はしっかり與那國島まで貫徹してゐたので、オランダは1660年まで尖閣の地理を把握できないまま臺灣から撤退したことは、先日の八重山日報「國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船」で書いた。 
http://senkaku.blog.jp/2017051370891714.html  
西暦1833年、オランダ人フィッセル『日本風俗備考』によれば、臺灣北端から以北ではオランダ國旗を掲揚せよと、長崎側から命ぜられてゐたことはよく知られてゐる。十九世紀になっても、國旗次第で日本が管轄權を行使してゐた。その年代でも薩摩が琉球最西端まで制海權を持ってゐたことが伺はれる。但しそれは琉球諸島に沿ってであって、東支那海北半の制海權を鎖國時代の日本が握ってゐたとは考へにくい。

勿論、下リンクの調査報告の西暦千八百十九年與那國漂着の一件で
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
八重山の役人が北から與那國への漂着者を熟練の態で迎へたことからも、
與那國北方海域に琉球國の制海權が及んでゐたことを感じさせる。
制海權といっても現代のやうに緊密迅速ではなかっただらうが、
當時の水準で言へば相對的にやはり制海權と言へるだらう。
西暦1845年にベルチャー船長のサマラン艦が尖閣を探査するために
八重山パイロットを雇ったことも、尖閣海域への制海權を示してゐる。




http://archive.is/y7P39
https://web.archive.org/web/20170524125112/http://senkaku.blog.jp/maehira.html








上周五(5月12日),西元1819年首次登島紀錄由内閣官房公布入選,中華人民共和國外交部至今對此噤若寒蟬。

五月十四日。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1461407.shtml
五月十六日。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1462257.shtml
五月十七日。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1462735.shtml
5月18日。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1463148.shtml
5月19日。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1463533.shtml
5月22日
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/t1464038.shtml
綜合。
http://www.fmprc.gov.cn/web/wjdt_674879/fyrbt_674889/


外交部發言人



0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説



张量宇的博客
http://blog.sina.com.cn/s/blog_62e41eaf0102vwen.html

钓鱼岛问题新真相  (2015-03-16 21:27:13)
张量宇  2015年3月16日  新浪博客

日本向刚刚结束人大、政协两会的中国投下了一颗杀伤力巨大的重磅炸弹!
   
今晚7时23分,NHK新闻网报道日本外务省今天已更新网站,上载一幅中国国家测绘总局(现国家测绘地理信息局)于1969年制成、将中国从1971年开始主张拥有主权的钓鱼岛及其附属岛屿划归日本领土范围并以日本名称标记的地图  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf

事件经过是这样的。日本共同社3月6日报道,自民党5日在外交与经济合作总部等的联席会议上,向外务省递交了一份中国1969年发行的地图影印本,这份地图将尖阁诸岛即钓鱼岛标注为日本领土。同一天,日本外务省透露准备采纳这份地图,将之刊载于该省的官方网页上。

对此,中国方面迅速采取了反应。最早的是清华的刘江永在3月8日人民日报海外版发表了《日本赢不了钓鱼岛地图战》,紧接着3月11日单仁平在《环球时报》上发表了《输理的日本迷上旧货市场一地图》。

从时间上讲,这两篇文章实在谈不上“迅速”一词!

2月23日,自民党众议院议员原田义昭在众议院预算委员会上展示了中华人民共和国国家测绘总局于1969年发行的《中华人民共和国分省地图》。他随身携带了大开本的原件,从他准备的经放大了的《福建省、台湾省》局部地图看板,中国主张的钓鱼岛方位上标注了“鱼钓岛”、群岛则印有“尖阁群岛” 的日本名称,地图右上角印有“秘密”二字。NHK当天恰好因故没有直播国会会议实况过程。这可能是中国方面反应迟钝的最直接原因。


2015年2月23日众议院预算委员会会议原田义昭发言



1969senkaku_kokkai
2015年2月23日众议院预算委员会会议展示的地图看板


中国国家测绘总局1969年地图封面及毛主席语录

早在1月12日日本樱花电视频道节目上,作家兼媒体评论家水间政宪已经率先公开展现了相同版本的1969年中国分省地图。

2015年1月12日日本樱花电视频道

实际上,美国《Foreign Policy》杂志在2013年9-10月期刊“The Island Lobbyist”文章已刊载过同样的这版地图。该版地图由当时日本驻美外交官Akira Chiba所持有。Chiba早前是日本驻华使馆外交官员,他声称这份1969年原版地图是他驻华时期在北京购入,但拒绝透露来源。由于文章介绍Chiba职责之一是负责向美国国会游说日本领有尖阁诸岛的领土主张,有理由相信这份地图已接受过方方面面严格的实物验证,不仅可信度极高,也广泛地为美国政府、国会和各类智库所知晓。

《Foreign Policy》,Sept-Oct 2013

1969年版地图的面世最早可以溯至2010年,当时正值晋江的中国渔船船长詹其雄侵犯日本领海而被日本执法机关逮捕侯查而令中日两国处于极度的紧张关系时期。同期的9月15日华盛顿时报(The Washington Times)刊载“Inside the Ring”文章,作者Bill Gertz首次披露了这份地图的存在。文章展示了地图局部放大的部分,鱼钓岛、北小岛、黄尾屿、赤尾屿以及尖阁群岛清晰可见。

Bill Gertz还特地在地图下方写上一段一针见血的附言。
1969senkaku_washingtontimes

    我很早就关注到华盛顿时报的这则消息,虽然Bill Gertz说地图标记“Confidential”,但由于整体地图欠奉,又无出版物封面,难以一窥全貌,尽管它是一家有分量的大报,我还是抱着“未悉是何意见,姑知之以俟后闻”的静观态度。

结合事件的前后经纬,我相信四者讲的和根据的都是相同版本的地图,只是不知是否仅有的一份地图由四人在不同时期分别使用,还是有多份相同版本的地图存在于世。不过,原田义昭所持有的这份地图,其本身的真实性看来是经得起包括科学鉴证手段在内的任何挑战。可能正是由于这个原因,行事严谨的日本外务省才积极地予以採信和录用。

1969年是影响东亚局势走向的关键一年。联合国远东经济委员会汇总的《黄海及中国东海地质构造及水文性质勘测报告》正是发表于1969年5月。这份由美国、日本、台湾和南韩四方专家共同执笔的报告中,调查海域的地形示意图标记的正是日文“尖阁”的英文拼法“Senkaku”。同年11月11日,气象地理学家竺可桢致函周恩来国务院总理,在介绍东海大陆棚结构以及毗连国家在海底开采矿产权力的国际惯例的基础上,认为应着眼于能源的长远考虑,建议“似乎此时我们应作一消息,声明钓鱼岛地区油田开采权应属于我所有,以为日后有必要时作为外交部正式抗议地步”。从竺可桢的建言仅仅着眼于海底石油矿产的开采权看,身为接近中国最高决策层的当时最高级知识分子之一的竺可桢本人并不认为钓鱼岛的主权是属于中国的,否则他在当时文化大革命反帝反修的大背景下完全可以要求中国政府保护国家领土主权完整,坚决反击美日蒋朴染指中国领土的狼子野心。

1972年9月27日在北京举行的中日两国关系正常化的首脑会谈中,面对日本首相田中角荣询问中方对尖阁列岛的态度时,中国总理周恩来回答道:“就因为那里海底发现了石油,台湾拿它大做文章,现在美国也要作这个文章,把这个问题搞得很大”。从这里,我们可以明显看到周恩来的官式回答与竺可桢的建议有着自然且直接的逻辑关系,只是周恩来使用“那里”来避开直白地使用“钓鱼岛”,而竺可桢在他1969年信函原件中是用什么名称指称“那里”的,毫无疑问是令人深感兴趣的。

根据我的研究,在公开和可以证实的中文原始资料(并非70年代以后新版或再版的出版物)中开始使用“钓鱼岛”名称的,大体发生在1970年4月以后。明清包括琉球的历史文献上出现的则只有钓鱼屿、钓鱼山和台湾1969年开始沿用的钓鱼台这三种名称。

竺可桢着眼的是海底石油矿产的开采权,中国政府却从更大的战略角度出发,在1971年12月30日第一次向国际社会正式宣称中国拥有钓鱼岛及其附属岛屿的主权。

这就是钓鱼岛问题在中国大陆方面起源真相的基本脉络。


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八重山人骨、日本最古。  
https://www.yaeyama-nippo.com/2017/05/20/%E7%99%BD%E4%BF%9D%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%BA%AB%E4%BA%BA%E9%AA%A8-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%80%E5%8F%A4-%EF%BC%92%E4%B8%87%EF%BC%97%E5%8D%83%E5%B9%B4%E5%89%8D-%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E8%91%AC%E9%80%81%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%8F%B2%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%8B%E3%81%8C%E3%81%8B%E3%82%8A/
  八重山日報第一面トップ。全文は新聞オンラインで。  
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

八重山日報人骨


ついでに。

0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説




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釣魚台風雲、台日學者觀點、陳永峰、石井望
日本觀點、投書、石井望、「此釣魚台非彼釣魚台──駁《中時》馬總統投書」

平成二十七年八月十三日、天下雜誌社『天下雜誌・獨立評論』
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/3197

圖:琉球國王尚貞,曾上疏康熙皇帝,説冊封使在釣魚台航線「絶無停泊之處」。攝自鎌倉芳太郎《沖繩文化の遺寶》,西元1982年,岩波書店。
尚貞鎌倉芳太郎沖繩文化遺寶

…………馬總統例行巡邏之說顯然不成立。除此系列外,釣魚台邊還有沒有船隻停泊的紀錄呢?有雖有,那是琉球船隻遭風暫泊的紀錄,例如具志川氏《向姓家譜》中記載西元1819年,有一位琉球王親,叫向鴻基,他的官船曾停泊三日以避風(說詳鄙撰〈尖閣最初の上陸記錄は否定できるか〉,收入《島嶼研究Journal》4(1))。歷代琉球朝貢船隻航經釣魚台海域的次數,十倍於明清冊封船隻,其遭風機會容易產生。

明國清國難道沒有一條泊船紀錄嗎?事與願違,答案是沒有。西元1534年,冊封使高澄東渡琉球,往返海程都遇到風浪,回國寫一篇《操舟記》,記載了水手謝敦齊的一句簡括之語:「琉球去閩萬里,殊無止宿之地。」亦即釣魚台航線無處可泊船。謝敦齊是漳州人,在琉球人導航之下,第一次去琉球,此語蓋實錄也。後來清國各冊封使往往加以引述,從不反駁。

西元1683年,琉球國王尚貞上疏康熙皇帝,說冊封船隻離開福州沿岸小島之後,「中道絕無停泊之處」,徑直到達琉球,見琉球國《歷代寶案》。當時清國汪楫東渡琉球,途中目睹釣魚台,回國後寫《中山沿革志》,亦收錄此疏。汪楫是欽命冊封使,琉球國王多管閑事,說冊封使不能在釣魚台停泊,可是汪楫並不疑惑。

乾隆間冊封使周煌東渡琉球,也目睹釣魚台,後作《琉球國志略》,同樣收錄此疏,並無微辭。

嘉慶年間冊封使齊鯤、費錫章《續琉球國志略》云:「自閩出五虎門,至彼國姑米山,始有山可寄碇。」五虎門是福州河口的小島,姑米山是琉球久米島,意謂兩國中間的釣魚台無法停泊。這是冊封使親自寫的官方定論,不是琉球國王對天朝領土妄下論斷。

黃叔璥《台海使槎錄》的釣魚台與此五者背道而馳,居然可泊十艘船。黃叔璥好像沒看過高澄、汪楫的著作,周煌又好像沒看過黃叔璥的書,齊鯤、費錫章對於後來相承不易的「可泊巨舟」之說又好像不聞不見,互不相干似的。馬總統保釣四十年,對此必有卓解。

全文見「天下雜誌・獨立評論」電子原版:
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/3197

臺灣「當代日本研究學會」轉載。
http://www.tsjs.org.tw/admin/news5/front/index2.php?id=53



更多參考:
http://senkaku.blog.jp/1819tendabana.html
http://senkaku.blog.jp/1819yaeyama_nippo.html
http://senkaku.blog.jp/yaeyama_mainichi1819.html
http://senkaku.blog.jp/senkakus_1819.html
http://senkaku.blog.jp/1819_senkakus.html
http://senkaku.blog.jp/1819ronbun.html
http://senkaku.blog.jp/kanbou_houdou_290516.html


0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


https://twitter.com/Tsukurukai/status/864654966517972992
通州事件アーカイブズ設立基金主催
「通州と尖閣に見る【歴史戦ブーメラン】現象」
講師:いしゐのぞむ氏
5月26日(金)16:30~
会場:新宿区神楽坂6-42 
神楽坂喜多川ビル5階
美し国会議室 参加費:千円(事前申込不要)

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290526通州2

290526通州3


 ついでに翌日の情報。
0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


『釣魚嶼史三議』いしゐのぞむ 撰. 2016.3.
(東京財團、中華人民共和國社會科學院日本研究所第四囘東シナ海問題研究會發布資料,平成二十八年二月二十五日午後一時,湘南國際村)
いしゐのぞむ撰竝自印,平成二十八年三月十日補訂字誤。
http://id.ndl.go.jp/bib/027315769
第十六頁:
 凡是針路紀録中出現釣魚嶼,都必然到達琉球,等信風半年後囘歸。沒有一次紀録顯示船隻曾到釣魚嶼返航,不往琉球。因此熟悉釣魚嶼海道者,必然熟悉琉球海道。封舟需要琉球人做嚮導,是漳人不熟悉琉球海道,必然也不熟悉釣魚嶼海道。釣魚嶼海道應包含在謝杰所謂夷道之中。倘以嚮導者的海域來分界,釣魚嶼屬於琉球海洋文化之界,界線位於臺灣海峽,與島嶼的模糊國界線相類似。
 反觀日本人及琉球人渡過釣魚嶼航線,是否同樣必然先到達明國、清國呢。那是多此一舉。上述(皇明實錄)西元一千六百十六年,有若干艘日本船駛近浙閩,不速之客,惹是生非。最好該像明石道友,到東湧就乖乖囘航,不犯一草一粒。其餘很多朱印船毎年經過臺灣海峽到東南亞貿易,都不必然進入「大明境界」。船隻從南方囘到東湧之後,既可横絶東海,直達長崎,亦可渡過釣魚嶼海域,經由琉球返囘内地。歴史上的針路分界,就在臺灣海峽。



國會釣魚嶼三議納本





https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20170513_24/amp.html
https://article.wn.com/view/2017/05/15/Government_says_document_indicates_earliest_landing_in_Senka/
http://www.japantimes.co.jp/news/2017/05/15/national/history/government-says-document-indicates-earliest-landing-senkaku-islands-ryukyu-royalty-1819/
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20170513_24/
http://m.wanhuajing.com/d773305
https://china.kyodonews.net/news/2017/05/d7014ba4d08a.html
http://mil.chinaiiss.com/html/20175/13/a8bacd.html

http://www.48hnews.com/2017/05/13/japan-sends-an-island-report-hit-china-and-south-korea-expert-to-call-day-to-start-controversy/
http://junshi.xilu.com/xrjd/20170515/1000010000990541.html
http://www.backchina.com/news/2017/05/14/492498.html
http://world.huanqiu.com/exclusive/2017-05/10660770.html
http://www.sankei.com/politics/news/170512/plt1705120043-n1.html
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017051201379
https://mainichi.jp/articles/20170513/k00/00m/010/069000c
http://www.asahi.com/articles/ASK5D5S0VK5DUTFK00T.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170513/k10010980281000.html
http://military.people.com.cn/BIG5/n1/2017/0513/c1011-29272694.html
http://hk.crntt.com/doc/1046/7/8/2/104678210.html
http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2066576
http://www.ettoday.net/news/20170512/923482.htm
http://www.zcsfnw.com/zxgg/2017/0513/6739.html
http://www.51wxjz.com/119321
http://www.chinatimes.com/realtimenews/20170513002131-260408
http://news.10jqka.com.cn/20170512/c598557236.shtml
http://news.jschina.com.cn/scroll/guoji/201705/t20170513_497680.shtml
http://sd.people.com.cn/GB/n2/2017/0515/c172839-30181486.html

http://news.ifeng.com/a/20170513/51086367_0.shtml

http://military.people.com.cn/n1/2017/0513/c1011-29272694.html
http://news.sina.com.cn/o/2017-05-13/doc-ifyfecvz1176945.shtml
http://mil.huanqiu.com/observation/2017-05/10661104.html


網民
http://www.pixpo.net/post116018
http://www.1949er.org/chat/index.php?read+1494776641
http://news.discuss.com.hk/viewthread.php?tid=26652127
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nhk_senkaku

ついでに。
0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説




五月十二日から、四囘連載。「國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船」。 
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamahontoban.html
單なる1819年の漂着や明治28年の編入よりずっと前から、分厚い歴史がありました。八重山日報オンライン、有料です。ご興味あればどうぞ。
grotius連載1


五月十三日、連載第二囘。「國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船」(二)。 
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamahontoban.html
文中の東湧は、尖閣航路東西一本道の西端の入口です。八重山日報オンライン、有料です。ご興味あればどうぞ。
grotius連載2



0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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本日(平成29年5月12日)、内閣官房領土・主權對策調整室は
沖繩平和協力センターに委託した尖閣資料調査事業の
28年度調査結果を公表しました(リンク)。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
第一番の「向氏家譜・具志川家」(報告書pdf、第9至10頁)
の解説では與那國島の天蛇鼻・オランダ石にも
言及してゐます。明治維新以前の史料は初入選です。
昨年十一月、與那國島を訪問して、
新嵩喜八郎氏(與那國海底遺跡發見者)に
ご案内頂いて天蛇鼻を實地檢分しました。
以下、つたない自家撮影寫眞二枚を披露します。

P2210674
上:天蛇鼻より祖納港を望む。
下:祖納港より天蛇鼻を望む。
P2210697


關聯:
http://senkaku.blog.jp/1819yaeyama_nippo.html
http://senkaku.blog.jp/yaeyama_mainichi1819.html
http://senkaku.blog.jp/1819ronbun.html
http://senkaku.blog.jp/daimin_itto.html
http://senkaku.blog.jp/daishin_itto.html
http://senkaku.blog.jp/senkakus_1819.html
http://senkaku.blog.jp/1819_senkakus.html

ついでに。
0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説

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『大清一統志』。
西暦1744年刊。福建省臺灣府の正式な領土線は
東に臺灣中央山脈の西麓まで、
北に臺灣島最北端の鷄籠(けいろう、ケラン、キールン、現基隆)まで
と明記されてをり、尖閣諸島はその遙か外側に位置してゐた。
特に鷄籠を「界」と明記する地圖が分かり易い。
以下は鷄籠界の擴大畫像。まづ國立公文書館藏、いしゐのぞむ撮影。
大清一統志内閣文庫鷄籠石井撮影

次にハーバード藏本。
https://www.worldcat.org/oclc/786426541
https://iiif.lib.harvard.edu/manifests/view/drs:428230742$14i
http://ids.lib.harvard.edu/ids/view/28497537?buttons=y
http://ids.lib.harvard.edu/ids/view/28497537?width=2400&height=2207
大清一統志ハーバード鷄籠

この『大清一統志』は西暦十七世紀末の『臺灣府志』から承け繼がれた二次的記述である。
『臺灣府志』記載の國境線の外に尖閣が位置することについては、
昭和四十年代から奧原敏雄氏が論じてをり、既に定説となってゐる。
 また『大清一統志』は後に第二版、第三版も製作されたが、領域はほぼ初版と変わらない。

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RYUKYU ROYALS WERE FIRST TO LAND ON SENKAKU ISLANDS
The discovery was made by Professor Ishiwi of Nagasaki Junshin Catholic University

(translated from Yaeyama Mainichi newspaper– May 16, 2015)
 (original Japanese : http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html )


(Naha, Okinawa) - Associate Professor Ishiwi Nozomu of Nagasaki Junshin Catholic University, age 49, publicized his research on what he believes to be the earliest Japanese landing on the Senkaku Islands at an afternoon press conference of the Okinawa Prefectural Government Press Club on May 15. According to Professor Ishiwi's findings, a member of the Ryukyu royal family landed on the Senkaku Islands in 1819 in search of fresh water. Professor Ishiwi had first revealed his discovery in an essay published late last year.

八重山毎日石井
Professor Ishiwi Nozomu of Nagasaki Junshin Catholic University points to a map of Senkakus and explains how a member of the Ryukyu royal family was the first Japanese person to land on the Senkaku Islands.
(May 15 noon, Okinawa Prefectural Government Press Club)

Professor Ishiwi examined a variety of historical sources, including "The Sho Family Geneology - Sho Koki of the Twelfth Generation", composed by the Gushikawa family, a branch of the royal family of the Ryukyu Kingdom, which was a part of Japan since 1609 or earlier. This record is held by the Naha City Museum of History. Kuniyoshi Makomo, a research fellow at the Okinawa University Institute of Regional Studies who carried out earlier research on the subject, pointed out the record's apparent reference to the Senkaku Islands with the Ryukyuan name "Yokon Koba Island." Professor Ishiwi focused on it, and carefully studied Preceding and following sentences.

He notes that, according to the record, the ship of Ryukyu royal family member Sho Koki, which was going to the Japanese province of Satsuma (now Kagoshima) on official business, was blown southwest during a rainstorm and ended up on "Yokon Koba Island". He spent three days there looking for drinkable water, but found nothing, and was once more cast adrift in a rainstorm that brought him to the shores of Yonaguni Island three days later.

Professor Ishiwi argued that "Yokon Koba Island" can only be one of the Senkaku Islands, either Koba Island or Uotsuri Island, because, among other reasons, these are the only uninhabited and Isolated islands close to Yonaguni Island and are full of a variety of fan palm called "koba" (Kuba) in the Ryukyu dialect.

Professor Ishiwi stated that, "They were searching for water, but would not have been able to see any on the island from the sea. It is 99% certain that they went ashore. Because Sho Koki was travelling on official business, we could call this the first record of an onshore survey of the Senkaku Islands. It is very likely that the Ryukyuans gave the Senkaku Islands their name."

Until now, the first Japanese people to land on the Senkaku Islands were believed to have been the team sent by Senkaku Islands developer Koga Shinshiro (Tatsushiro) in 1885. However, Sho Koki's landing predates it by sixty-six years.

八重山毎日2015年0516粗




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THE EARLIEST JAPANESE LANDING ON THE SENKAKU ISLANDS?
A member of the Ryukyu royal family landed on the Senkakus in 1819, says Professor Ishiwi Nozomu
(translated from Yaeyama Nippo newspaper– May 16, 2015)
Ishiwi Nozomu, associate professor of comparative literature at Nagasaki Junshin Catholic University, announced on the 15th at a press conference of the Okinawa Prefectural Government Press Club that he had discovered a historical record demonstrating that a member of the Ryukyu royal family had landed on one of the Senkaku Islands, either Koba (Kuba) Island or Uotsuri Island, in 1819 in order to search for fresh water. The record in question is "The Sho Family Geneology - Sho Koki of the Twelfth Generation", composed by the Gushikawa family, a branch of the royal family of the Ryukyu Kingdom, which was a part of Japan since 1609 or earlier. If confirmed, this discovery would push back the date of the earliest recorded Japanese landing on the Senkaku Islands by sixty-five years, from 1884 to 1819.

 八重山日報270516石井
Professor Ishiwi Nozomu explains the information that he discovered in the historical documents. (May 15 noon, Office of the Okinawa Prefectural Government)

According to this historical record, the ship of Sho Koki, a Ryukyu royal family member, was heading for Satsuma Province (now Kagoshima in Japan) on official business, but was blown off course in a rainstorm on September 18, 1819, and ended up on an uninhabited island with high peaks called "Yokon Koba Island". Its crew spent three days scouring the island for a source of drinking water, but found none. Afterwards, they were cast adrift by another rainstorm and arrived at Yonaguni Island three days later.

According to Professor Ishiwi, "Yokon Koba Island" must have been one of the Senkaku Islands. The Senkaku Islands are the only uninhabited and isolated islands near Yonaguni Island, and they are lush with a species of fan palm called "Koba" in the Ryukyu dialect.

Professor Ishiwi added that there is absolutely no documentary record in Chinese historical sources of any Chinese sailors landing on the Senkaku Islands.

Ryukyu officials helped Sho Koki to land on Yonaguni Island, who were dispatched from Ishigaki Island, one of the Yaeyama Islands. Professor Ishiwi noted that, "The officials were obviously very experienced at receiving castaways." It appears that by 1819 the Senkaku Islands were already recognized by the people living in the Yaeyama Islands as a place where various ships would go adrift. Professor Ishiwi also emphasized that, "We can surmise that the Senkaku Islands were within the cultural sphere of the Yaeyama Islanders. It is likewise clear from these historical sources that the Senkaku Islands are integral territories of Japan."

Furthermore, Professor Ishiwi stated that, "Though few Japanese records exist, there are many descriptions in Chinese historical sources of people being guided to the Senkaku Islands by Ryukyuans. Indeed, many of these sources prove Japan's traditional claims to the Senkakus. I hope that these facts will become more widely and exactly known to the people of Japan, including the people of Okinawa."

八重山2015年0516

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http://archive.is/ONRfj
八重山20121006
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明国地図、尖閣は「国外」 中国公式見解を否定 石井准教授「具体的反論を」
2012/10/06  八重山日報
   插圖:籌海図編の「沿海山沙図」(四庫全書、台湾商務印館)。
   尖閣諸島は中央上部にある。赤色は石井准教授が挿入。

 尖閣諸島(石垣市登野城)が明代(1368年~1644年)の中国の「管轄範囲」だったことを示す証拠として、中国政府が公式見解に採用している明国の軍事書の島嶼(とうしょ)図が、実際には国外であるだけでなく、海防範囲外を示していることが分かった。中国の主張に対する有力な反論になりそうだ。石井望・長崎純心大准教授(漢文学)がこのほど、佐賀県で開かれた講演で明らかにした。
   插圖:大明一統志 天順本(統一印刷公司)より、福建省福州府の項目。

 明国で一五六二年に書かれた軍事書「籌海図編」(ちゅうかいずへん)には「沿海山沙図」(えんかいさんさず)という大陸沿岸の島嶼図を収めている。「山沙」とは島嶼を指す。その中に尖閣諸島の古名「釣魚嶼」などが記載されている。

 「籌海図編」が軍事書であることを根拠として、中国政府は一九七〇年代から、尖閣諸島を明国の海防管轄範囲と主張。最近では今年9月25日に中国国務院新聞弁公室が発表した「釣魚島領有白書」などで、この見解が公式採用されている。これに対し、日本の研究者はこれまで「尖閣が管轄内との記述はなく、ただの航路のしるべだ」と反論してきたが、管轄外と明記する文献を示していなかった。

 石井准教授が9月30日に行った講演によると、1461年、明国で勅命により刊行された「大明一統志」(だいみんいっとうし)には、福建省と浙江省の東端が「海岸まで」と明記されており、尖閣諸島は明確に国外だった。

 一例として福建省福州府の項には「東のかた海岸に至る一百九十里」と記されている。百九十里(現在の約百キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離を示しており、明国の領土は海岸まで、尖閣は国外であったことが分かる。「大明一統志」だけでなく、明国で編纂された各地方志の「疆域」(領域)の記述も同様だという。

 石井准教授は「海岸以東が国外である以上、『山沙図』即ち島嶼図の定義そのものが国外図というに等しい」と話す。石井准教授によると、明国では海岸を守るための駐屯地を、国外の近海島嶼に点在させていたという。

 国外の駐屯地は、中国主張の根拠とされる「籌海図編」に「福建兵防官考」の項目で列挙され、ほぼ銅山(どうざん)、浯嶼(ごしょ)、南日(なんにち)、烽火門(ほうかもん)、中左(ちゅうさ)(厦門)、金門(きんもん)、烈嶼(れっしょ)、壁頭(へきとう)、五虎門(ごこもん)(官母嶼)の9カ所だけ。いずれも沿岸10数キロメートル以内の範囲であり、福建から約4百キロメートルの尖閣諸島は明らかに範囲外だ。

 遠く台湾との間にある澎湖群島(ほうこぐんとう)も、例外的に一時期駐屯地となっていたが、それでも福建沿岸から約2百キロメートルの位置に過ぎず、尖閣諸島までの距離の半分だ。

 これまで日本側は、明国の公式地理書に尖閣が載っていないと主張するだけだった。石井准教授は「これからは『明国の国内はここまで、国外の駐屯範囲はここまで』と具体的に確定して指摘するべきだ」と話している。




『那覇市史  資料篇』 第1巻 家譜資料第三册。首里系。那覇市企画部市史編集室, 1982年。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01541373 
長崎純心大學藏。
向氏家譜・具志川家。
那覇市史向氏家譜2

那覇市史向氏家譜1

那覇市史5
以上書影は長崎純心大學藏本。以下は論文から關聯部分。
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いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるか
ーー明治から文政に遡って反駁する」

https://www.spf.org/islandstudies/jp/journal/00006/
島嶼研究ジャーナル4の1。
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

https://www.amazon.co.jp/dp/4905285399
5、文政2年、最古の公式上陸調査記録  
 國吉まこも「尖閣諸島の琉球名と中國名のメモ」(註32) によれば、嘉靖24(1819)年、即ち文政2年、具志川家『向姓家譜』・「十二世尚鴻基」に尖閣の俗名「ユクンクバジマ」の記録が有る。曰く、
「嘉慶二十四年己卯年四月初六日、太守樣の中將の位に升るを慶賀する事のため、命を奉じて使者となる。…(中略)…五月初六日、恭しく國翰を捧げて舟に登る(此れ薩州の船なり。)七月十五日、那覇より開船す。十八日、風の不順により、運天港に到り抛泊す。…(中略)…駛せて鳥島の西洋に到り、風雨猛起し、船帆、風に吹損せらる。針路冥冥として去向を知らず。…(中略)…九月初一日、鴻基、掌上に膏を焚き、聞得大君を望んで願を許す。…(中略)…十七日に至り、天氣方に晴れ、高山を看得たり、猶ほ地名を知らず(後に聞く、此の山、俗に「魚根久場島」と呼ぶなり)。十八日、駛せて該山の下に到り灣泊し、用水を汲まんと欲すれど、並びに泉の湧く無し。一連三日、彼の處に風を候す。忽然として暴風大いに作こり、抛つ所の碇索、ことごとく海浪に磨斷せらる。船隻、風に隨ひて海洋を漂蕩し、船上の人數頻りに神佑を求む。幸ひに二十三日に至り、又た遠く高山を看る、二十四日、漸く其の山に近づく。只だ看る山上に一個の人有り(此の人、八重山島の奉公人、安里仁屋なり)、手を舉げて船を招く。又た五六人有り、旗を搖らし港を示す。即ち船人をして高聲に其の地名を問はしむるに、答へて曰く「與那國島」と(此の時、安里仁屋、村人五六名を率同して杉板に坐駕し、來りて該處の地名を告ぐ)、是に於いて方(まさ)に本國の屬島なりと知る。…(下略)…」(註33)
と。これは薩摩に往く船であり、「鳥島」は琉球最北端の硫黄鳥島に擬すべきである。そこから暴風雨に流されて、魚根久場島に到達する。國吉氏はこれを「ユクンクバジマ」の島名の最古の記録だとする。次にヨナクニ島に到達することから見ても、確かに尖閣諸島中の一島である。かつ「高山」であるから、標高117mの久場島でなく、362mの魚釣島であった可能性が高い。飲み水が無かったわけは、魚釣島に流れる尾瀧溪・小溪・大溪・道安溪は全て島の北側に在り、南側の和平泊附近から上陸したならば飲み水を得られない。嘗て上陸した佐々木類氏(産經新聞)のお話によれば、地形峻峭のため南北間を歩いて繞るのは困難だとのことである。
 但し、淡水が全く無い久場島の可能性もある。宮島幹之助「黄尾島」第2章「地理及地質」(註34)および上引伊沢眞伎女史口述には久場島に流水湧水の無いことを述べる。ただ久場島からヨナクニ島に到達する前に大きな魚釣島を望見しないのは少々不可解だ。
 ベルチャー『サマラン艦航海記』(Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang)第9章「バターン・花瓶山・琉球」(註35)によれば、西暦1845年6月16日、Tia-usu(ここでは久場島)の洞窟に遭難者の臨時ベッドが有り、刳り舟や棕櫚葺き屋根などの材料で作成されたものだと述べる(註36)。向鴻基らが留めた痕跡を26年後にベルチャーらが目撃した可能性もあるが、向鴻基の船は刳り舟ではあるまい。刳り舟を操る琉球漁民の痕跡の可能性が高い。
 これが慶良間諸島の久場島であった可能性は無い。なぜなら該島から慶良間島まで約2kmに過ぎず、歴々目視できるので方向喪失は有り得ない。されば尖閣諸島中の一島であることほぼ確かであり、これを「魚根久場島」を呼ぶ人々が存在した。尖閣諸島で碇泊した最古の記録である。碇泊のみならず、三日間上陸して淡水をさがした可能性も極めて高く、イギリス人よりも早い最古の上陸記録としてほぼ疑義は無い。向鴻基の次の日本人(含琉球人)上陸は古賀氏の明治17(1884)年であるから、65年引き上げることになる。幕末に魚釣島に碇泊した大城永保は上陸しなかった。チャイナ人の上陸記録はひとつも無い。
 清朝への朝貢船であれば、ほぼ毎年尖閣海域を航行するので、尖閣に無知だとは想像しにくい。しかしこの船は薩摩太守(藩主島津齊宣)の官位昇進を慶賀するために北航して漂流したのだから、船員は尖閣に無知だったのである。向鴻基(今歸仁朝英)は琉球王族であり、この漂流の一件は『中山世譜』附卷五尚灝王嘉慶25年にも去年の事として略載されるが、尖閣にまでは言及しない。王族の公務中として法的意義の有無は不明だが、しかし歴史認識は大きく改まる。期せずして最古の公式上陸調査となったのである。
 鞠德源『日本國竊土源流・釣魚列嶼主權辨』(註37)では、魚根久場島を尖閣以外の不明島嶼だとする。理由はふたつ。「後に聞く」は不確かであること。硫黄鳥島から魚根久場島までの間に漂流22日間であり、長過ぎること。
 鞠氏説には反駁できる。後に聞いた事を疑問無く記載したのは、逆に外間の普遍的認識にもとづいたことを示す。個人の記録よりも信頼性は幅ひろい。ヨナクニ島の案内人の周到ぶりをみても、北からの漂流者を受け容れる態勢が存在し、尖閣諸島の地形植生水流等は多くの漂流者から聞いて熟知した筈である。上引サマラン艦航海録の前段でも(註38)、魚釣島を指す「Hoa-pin-san」(花瓶山)について「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」(註39)、また「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」(註40)と述べて、八重山の船のりが別の島名で尖閣を熟知したことを示す。
 次に、漂流すれば時間が長いのはあたり前だが、向鴻基は9月21日に魚根久場島を離れて更に漂流し、早くも23日にヨナクニ島を望見する。僅か漂流2日間だからヨナクニ島から遠くないと分かる。この附近海域中、無人の孤島にして高さが有り水が無いのは、尖閣以外に基隆北方の彭佳嶼だけだが、昔も今も彭佳嶼には草本しか生育せず(註41)、クバ(即ち蒲葵)は無いので、クバジマと誤認する可能性は極めて低い。鞠德源氏は他にそれらしい島を指定できない筈だ。
 歴代冊封使録からは那覇久米村三十六姓が尖閣を熟知したことが分かるが、向鴻基の記録からは八重山諸島の人々と尖閣とのつながりが分かる。大きく取り上げるべき史料だ。

(註32)『地域研フォーラム』40、沖縄大学地域研究所、平成25(2013)年1月。
(註33)もと漢文、今書き下す。『那覇市史・家譜資料・首里系』活印本、那覇市企画部市史編集室、昭和57(1982)年、p.280所載。ほぼ同文はp.285にも見える。
(註34)『地學雑誌』12(12)、通144、明治33(1900)年12月、pp.692-693。
(註35)ロンドン、Reeve, Benham, and Reeve刊、1848年、p.319。
(註36)原文:Some distressed beings had evidently visited this island, not Europeans, as their temporary beds were constructed of materials which belonged to canoes, palmetto thatch, &c. 
 (註37) 首都師範大學出版社、平成13(2001)年、上册、pp.568-569。
 (註38) Belcher, supra note 34, p.315 
 (註39) 原文:not known by this name by our Pa-tchung-san pilots. 「Pa-tchung-san」は八重山。
 (註40) 原文:the names assigned in this region have been too hastily admitted.
 (註41) 川上瀧彌「彭佳嶼(あじんこーと島)ノ植物」、『植物學雜誌』236、東京植物學會、明治39(1906)年9月、pp.193-206。



尚鴻基譜の原寫本は下記論文に卷影を載せる。
「琉球尖閣近著雜録」第187頁。
 Miscellany of Latest Works on Ryukyu and Senkakus
        いしゐ のぞむ        純心人文研究 (21), 232-187, 2015        長崎純心大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020360401


八重山日報。
http://senkaku.blog.jp/2017050970833586.html
八重山毎日新聞。
http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html



0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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八重山毎日新聞

尖閣上陸最古は琉球王族 長崎純心大の石井准教授が発表
    2015年05月16日 社会・経済 ,  地域・教育
http://www.y-mainichi.co.jp/news/27452/
http://web.archive.org/web/20160430032813/http://www.y-mainichi.co.jp/news/27452/
http://archive.is/r90ZI


 【那覇】長崎純心大学の石井望准教授(49)が15日午後、県政記者クラブで会見し、琉球王族が1819年、尖閣諸島に淡水調査で上陸したのが日本人最古だとする研究成果を発表した。昨年末に論文で発表していた。

 石井准教授は、那覇市歴史博物館所蔵の具志川家「向姓家譜」・「十二世尚鴻基」などの史料を調査。先行研究した沖縄大学地域研究所の國吉まこも特別研究員が、史料の中にある「魚根久場島」は尖閣の琉球名「ユクンクバジマ」と特定したことに着目し、前後の文章を精査した。

 史料には、公務で薩摩上りに往く琉球王族尚鴻基の船が、暴風雨で南西方向に流され、「魚根久場島」に到達。3日間、飲み水を求めたが得られず、さらに暴風雨で漂流し、3日後に与那国島に到達したと書かれているという。

 石井准教授は、「魚根久場島」について「魚釣島」か「久場島」を指すと指摘、与那国島に近い無人の孤島でクバが繁殖するのは尖閣以外にないことなどを根拠に挙げた。

 石井准教授は「水を探すのに海上からは見えない。99%上陸したことは間違いない。王族の公務中であることから最古の上陸調査記録といえる。尖閣は琉球人による命名である可能性が極めて高い」と述べた。

 これまでの日本最古の上陸は、尖閣諸島開拓者の古賀辰四郎氏の派遣員による1885年とされていたが、それよりも66年前に琉球王族が上陸していたことになる。

八重山毎日石井
史料を示し琉球王族による日本人最古の尖閣諸島上陸を説明する長崎純心大学の石井望准教授=15日午後、県政記者クラブ

八重山毎日2015年0516粗

參照:同日の八重山日報。
http://senkaku.blog.jp/2017050970833586.html


參考論文:尖閣最古の上陸記録を二十六年引き上げ 
http://senkaku.blog.jp/2017050970835706.html
向氏家譜・具志川家 西暦千八百十九年

ついでに。
0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


尖閣上陸、日本人最古か 石井望氏 1819年に琉球王族
2015年5月16日 八重山日報
http://archive.fo/FzRPh
 長崎純心大學比較文学科の石井望准教授が15日、県庁記者クラブで記者会見し、史料具志川家の「向姓家譜」「十二世尚鴻基」から1819年に琉球王族が尖閣諸島の久場島もしくは魚釣島の淡水調査を行った記録を発見したと発表した。事実であれば、1885年の日本人最古の上陸記録が65年繰り上がり、1819年となる。
 史料によると、1819年9月18日、公務で薩摩に向かっていた王族の尚鴻基の船が暴風雨に流され、無人で高さのある「魚根久場島(ユンクバジマ)」に到達し、3日間飲み水を求めたが得られなかった。その後さらに暴風雨で漂流し、3日後に与那国島に到達した経緯が記されている。(下略)
▼全文は「新聞オンライン.com」で
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

八重山2015年0516

參照:同日の八重山毎日新聞。
http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html


參考論文:尖閣最古の上陸記録を二十六年引き上げ 
http://senkaku.blog.jp/2017050970835706.html
向氏家譜・具志川家 西暦千八百十九年


ついでに。

0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説

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昨日、外のブログで尖閣古史について大間違ひをごちゃごちゃ書いてゐるのを見つけて
http://senkaku.blog.jp/2017050770806885.html
コメントを書き入れたのだが、それについて分かり易くグーグル地圖を載せて置かう。まづ明治初期の「臺灣全島之圖」。公文書館藏。田中邦貴氏ホームページより拜借。赤色は今添加した。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/taiwanallmap-1873/
同じ圖は臺灣大學田代文庫、臺灣國立中央圖書館、東京國立博物館などにもある。
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/utils/ajaxhelper/?CISOROOT=Tashiro&CISOPTR=61366&action=2&DMSCALE=15&DMX=512
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Map_of_whole_Taiwan_c1873.jpg
http://image.tnm.jp/image/1024/C0084031.jpg
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084031
クリックで擴大。
臺灣全島之圖北方三島内閣文庫赤
件のブログの人は、この「臺灣全島之圖」の彭佳山(方形赤枠)までが臺灣だから、その東北側の二島(圓形赤枠)は尖閣であり、尖閣が臺灣附屬島嶼だった證據になるのだと主張してゐる。下は、同じ部分の現代グーグル圖に現在の島名を加へてGIF動畫にした。
臺灣全島之圖北方三島内閣文庫動畫

よくお分かりの通り、この三島は現在の臺灣北方三島であり、尖閣とは無縁だ。面白くも何ともないのだが、これが尖閣だとか言ひ出す人がゐるので、面白い。




0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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季刊 沖縄     特集 尖閣列島  
第五十六号 昭和四十六年三月二十五日発行



http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=1

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http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=3

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http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=6
http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=7

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=8

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=9

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=10


http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=11

季刊沖繩56表紙


季刊沖繩56表紙2







外のブログが尖閣古史のデマを流してゐるので、コメントを書きいれました。

http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/17647996.html
 最古の1534年記録より前について、極めて低い可能性を、やたらと可能性が高い高いと持ち上げはいけませんね。先行研究を讀んでからにして下さい。

 鄭和はイスラム航海士に頼って印度洋を渡ったので、琉球とは關係ありませんよ。こじつけないで下さい。といふより鄭和を根據とするならば、印度洋ではイスラム航海士、尖閣では琉球航海士、と推測されてしまふのです。そして實際、1534年以後は近代に至るまでずっと琉球航海士に頼ったことが明記されてゐます。

 楊載は琉球情報が無いので册封が遲れたことは史料に明らかな定説です。そして楊載が日本人から琉球航路を教はった可能性が高いことも先行研究があります。勿論尖閣史料出現以前の歴史ですから、誰でも推測しかできないわけですが。元朝末年から大陸沿岸に倭寇が多數群がってゐて、同年代の琉球にはわづか一人二人の福建人だけしか確認できないわけです。可能性としては壓倒的な差です。出土品はどの地域の商人が持ち込んだのか、全然確定されてません。

 「二重国籍を禁じるまでは二重国籍を保有していた」といふのも成り立ちません。そもそも海禁の法は洪武年間に定められたので、二重國籍が發覺した時に、「それはもともと違法だ」と、嘉靖皇帝が確認しただけです。嘉靖皇帝が立法して禁じたのではありません。いちいちこんな細部まで何故私が言はねばならないのか。少し常識で勉強して下さい。面倒なんですよ。 

 「琉球はチャイナに册封されたので、琉球職員の發見はチャイナに屬する」とのお説、それは琉球がチャイナに屬するか否かの問題であって、尖閣だけ單獨でチャイナに屬するのではありません。三十六島の明細が記録されたのは、後の清國時代のことです。そもそも琉球(除臺灣)そのものの最古の記録が洪武實録ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、琉球は永遠にチャイナ領土だとなります。また倭國そのものの最古の記録も後漢書ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、日本國は永遠にチャイナ領土だとなります。しかし1461年から1873年まで、チャイナは大陸海岸及び臺灣海岸に國境線を引き續け、同時に尖閣航路の西の入口の馬祖列島に海防線を引き續け、要するに尖閣はチャイナ國外だと宣言し續けるのです。

 1534年の時に、古文書が既に燒けてゐた件について。陳侃の原文をよく讀んで下さい。造船過海と、海道交際と、二種に分けて書いてあります。古文書が無くても、造船及び過海については故老から聞き出すことができて、海道及び交際については誰も知らなかったと、分けて書いてあります。つまり海道について福建の故老はもともと知らないのです。

 基本的にこのブログは先行研究を無視してゐるので、讀む人は信じてはいけません。どちらが誤りといふ判斷は、みなさん先行研究で確認して下さい。このブログを私がいちいち直してゐたら切りがありません。とにかく先行研究ですよ。先行研究・最新研究が反映されなければ、全然無意味です。以上私が書いたコメントも全て先行研究にもとづいてゐるので、學術的に引用する人はこのコメントから引用せず、しっかり先行研究から引用して下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html

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更に三つコメントを書き入れました。
http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/12625402.html
『台海使槎録』の近海港口は反時計回りだとの話はどこから出たか存じませんが、これは中ー南ー北といふ順序です。先行研究に出てます。そもそも最重要の三縣名「臺灣・鳳山・諸羅」を何故無視してゐるのですか。先行研究ですよ先行研究。研究を無視したいのなら、最初からこのブログ全體の斷定的な態度は宜しくありませんね。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/13579776.html
ちょっと待って下さい。臺灣部分で描かれてゐないのは、釣魚嶼だけでなく、臺灣中央山脈以東は全部描かれてません。鷄籠から東側の三貂角も葛瑪蘭(宜蘭)も描かれてません。描いたのは清國領域内だけ。描かなかったのは清國領域外。當り前です。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/16304180.html
 「臺灣全島之圖」の彭佳山は、今の花瓶嶼の北緯25度25分27秒、東經121度56分47秒にぴたり合致します。その東北側の無名の二島も、經緯度は今の綿花嶼・彭佳嶼に合致します。全て臺灣北方三島であって、尖閣とは無縁です。
 また『臺灣水路誌』には尖閣が臺灣附屬諸島と分けて別途記載されてゐます。しかも出兵先の牡丹社に近い附屬の七星岩が記載されてゐません。また『臺灣水路誌』は他の南島水路誌や日本水路誌と併せて全體を成すための編纂途中のものであり、全體は英軍水路誌にもとづきます。英軍水路誌は臺灣卷にも尖閣を併載しますが、主な記述は尖閣を日本卷に載せてゐます。これらは八重山日報連載『尖閣獺祭録』で細かく論じ、有料電子版も全世界向けに出してます。先行研究ですよ先行研究。
 どうもこのブログは、讀む人が細部を確認せず「何となく道理がありさうだな」と見えてしまふことを前提としてゐますね。



參考:リンク先に使はれてゐる「皇輿全覽分省圖」及び「康煕皇輿全覽圖」から、臺灣最北端。米國議會圖書館藏。
皇輿全覽分省圖臺灣北congress
https://www.loc.gov/resource/g7821fm.gct00232/?sp=6
https://www.loc.gov/resource/g7820m.gct00265/?sp=30


安倍さんは尖閣常駐も奪還も何もやりません。やらないといふことが産經記事に明示されてるわけです。
http://senkaku.blog.jp/2015112949020018.html
日本にできる有効な方法は世界輿論を大きく轉換させることだけ。内外の輿論の九割が常駐支持となり、常駐しない安倍さんが強い批判にさらされれば、安倍さんは常駐します。支持率で動く人ですから。では輿論はどうしたら轉換するか。ルトワックさんとやらに良い智慧がありますか。多分ありません。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることです。
http://senkaku.blog.jp/2017022769624302.html
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1617年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できます。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではありません。

 昨日安倍首相は、國の交戰權を認めないままで自衞隊の存在を憲法に明記する方針を明らかにしました。これは矛盾ではありません。何故なら現在の政府解釋では自衞權は交戰權と別だからです。その解釋にもとづいて自衞權を明文化するだけのことです。從って改憲後もポジティブリストとかさういった問題は何も變はりません。つまり改憲する意味はゼロ。なので改憲より先に自衞隊法などを改正すること、悠久の尖閣史を明らかにすること、
http://senkaku.blog.jp/2017050470763234.html
そして尖閣常駐。これらは先にやるべき課題です。改憲に力を使ってもほとんど効果ありません。

 そもそも輿論調査によれば改憲の機運は高まらない。しかし時間も無い。ではどうすべきか。工夫が必要です。先に自衞隊法などの改正です。ポジティブリストだとかいふあれです。でも何より最優先は悠久の尖閣史です。
http://senkaku.blog.jp/2016050559510733.html
憲法どうでもいいです。かりに憲法の無い日本と、國土の無い日本、どちらが望ましいか。國土は絶對なので憲法を捨てます。教育でも憲法大切といふのをやめて、國土大切に切替へるべきです。新憲法だらうが改憲だらうがどうでも良いです。

米軍は臺灣に駐留すべきだ。
http://www.sankei.com/premium/news/170501/prm1705010006-n6.html
こんな當り前のことを言ふ人が少ない。リンクの産經野口裕之氏にしても、この當り前のことを言ふためにマニアックな軍事解説を長々と開陳する。必要ないだらう。兵法は自衞隊に任せればよい。一般市民向けの新聞紙面を大きく使ふ事ではない。そんな紙面があれば悠久の尖閣史を語って欲しい。産經が一流新聞になれない原因はこのあたりに在る。

ルトワック

ついでに。

0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


内閣官房報告書表紙

内閣官房領土室では、毎年二度づつ尖閣史料委託調査結果を公表する。
平成二十八年度の調査結果もそろそろ發表される時期だらう。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
去年該室から公表された明治26年(1993年)胡馬島史料については、
日本國内で全く反應が無かったが、
國外では大きな反響があった。以下に囘顧して置かう。
-------------

27/3/2 1993年胡馬島(尖閣)史料につき池袋で記者會見。
産經と週刊ポストだけ報導。
http://www.news-postseven.com/archives/20150331_312811.html
http://www.sankei.com/politics/news/150319/plt1503190039-n1.html
國外では報導多數。
http://senkaku.blog.jp/archives/34102117.html

28/4/15  内閣官房より資料公表。1993年胡馬島史料を含む。
日本國内で報導は簡略。
http://senkaku.blog.jp/20160415583758888.html

28/4/17頃から 臺灣チャイナなどで次々に報導。
http://senkaku.blog.jp/2016041858587058.html
http://senkaku.blog.jp/2016041958587752.html
http://senkaku.blog.jp/2016041858586027.html

28/4/19 チャイナ外交部が反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016kobashima.html

28/4/21 日本安全保障戰略研究所で外交部に反駁。内外報導無し。
http://senkaku.blog.jp/2016kobashima.html

28/5/3 人民日報で清華大學教授が反駁。報導多數。
http://www.diaoyudao.org.cn/2016-10/28/content_39588905.htm
http://www.sh.xinhuanet.com/2016-05/03/c_135330180.htm
http://news.youth.cn/gj/201605/t20160513_7994433.htm
http://world.huanqiu.com/hot/2016-05/8847303.html
http://news.ifeng.com/a/20160503/48658801_0.shtml
http://world.huanqiu.com/hot/2016-05/8846749.html
http://fj.people.com.cn/n2/2016/0503/c350394-28258828.html

28/5/15 臺灣『風傳媒』でいしゐが清華大學に反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016052160307016.html

28/5/13 人民日報で社會科學院が反駁。報導多數。
http://paper.people.com.cn/rmrbhwb/html/2016-05/13/content_1678578.htm
http://news.china.com/domestic/945/20160513/22638866_all.html

28/6/15 臺灣『民報』でいしゐが社會科學院に反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016071763600172.html




最近、政府周邊から次々に媚中發言が出てゐる。
安倍氏の指示で、輿論の反應を見てゐるのだらう。
國民から反對の大合唱が起こらなければ、
安倍氏は支持率低下の虞れ無しと判斷して、
アジア投資銀行加入に踏み切るだらう。

當然ながら、安倍氏は尖閣に自衞隊を常駐する
氣などさらさら無い。
それでも國民から反對の聲が揚がらないのは、
悠久の尖閣史を國民が理解してゐないからである。

もう尖閣は駄目だらう。尖閣を救ふ唯一の道は、
尖閣の歴史を全國民全世界に理解させることだ。
右翼だけでなく左翼にも幅廣く支持させる。
それに必要なのは、NYタイムズの第一面で
尖閣連載100囘を實現することだ。
さうすれば朝日新聞、岩波書店、マグロウヒル社、
CNN、NHK、BBC、讀賣、文藝春秋、全部ついて來る。
NHKスペシャルでも悠久の尖閣史全10囘で放送するだらう。
それが實現しない限り、日本の負けだ。
尖閣史研究について「マニアックだ」「趣味だ」
などと輕く見てゐるやうでは尖閣喪失は避けられない。
以下報導。


日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁は2日、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に多くの国が参加している現状について「良いことだ」と述べた。横浜市での講演後の質疑に答えた。
http://www.asahi.com/articles/ASK523JLSK52ULFA00F.html
黒田日銀




田久保忠衞氏
「早急に中国にアプローチし、戦略的互恵関係を再確認することが求められる。
安倍さん自らが訪中して話をつけるべく接触すべきです。沖縄返還をにらみ常にワシントンを見て、ニクソン訪中に対処し、日中国交正常化の下地をつくった佐藤栄作元首相に倣って、中国と融和・協調路線に持っていったほうがいい。」
https://dot.asahi.com/wa/2017032100085.html?page=3
田久保



自民党の二階俊博幹事長は29日までに、香港フェニックステレビの取材に応じ、中国主導の国際金融機関アジアインフラ投資銀行(AIIB)への日本の参加について「可能性もある」と述べた。
二階氏は「一帯一路」構想について、日本として今後「最大限の協力をしていく」と強調し、その上で、「日中友好を心から願っており、その道に間違いはない。妨害は許されない」とまで発言した。
http://www.sankei.com/world/news/170429/wor1704290055-n1.html


關聯:
http://senkaku.blog.jp/2015112949020018.html

http://senkaku.blog.jp/archives/14985414.html

http://senkaku.blog.jp/archives/15358153.html

http://senkaku.blog.jp/archives/15857481.html

https://www.youtube.com/watch?v=iRp7JDGEvP0


0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


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http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/torikumi/ryodoshitsu/ryodoshitsu-adp.html

あまり言ひたくないことだが、政府の認識はほぼ以下の通りである。悲しい。このままでは尖閣喪失の危機は近い。

http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/torikumi/ryodoshitsu/pdf/130702houkokusyo.pdf
領土・主権をめぐる内外発信全般について
1.  領土・主権をめぐる対外発信に関しては、第三国の国民に日本の主張がよ
くわかるような論点を選択し、集中的に戦略的広報を実施する必要がある。
歴史的事実の正しさを国際社会に発信することの重要性は論を待たないが、
同時に国際社会においては、時にパーセプション(認知)がリアリティ(実在)
となり、事実よりも重視されることがある。歴史的な正当性の論駁は、事実関
係が複雑に絡み合うため、第三者に対しては非常にわかりにくい側面がある。
関係国により歴史認識を駆使した情報発信が繰り返し行われている点を踏まえ
つつ、日本は、現代国際社会が容認しえない力による現状変更が行われたり、
行われようとしたりしているという点、日本が国際法に基づく解決という基本
方針をとっているという点などを強調して、発信をしていくことが重要である。
領土・主権をめぐる発信では、従来からの政府の公式見解のみを繰り返すの
みでは効果が弱い。領土・主権をめぐる発信については、第三者の関心事から
出発して、第三国にかかわりのある論旨を立てて、第三国を関与させるように
関心を持たせることが重要である。関係国は、しばしば、冷静さに欠ける発信
をしている。これに対して、日本は第三者の関心を踏まえ、冷静に論理立てて
論旨を作るべきである。その際、法治国家で冷静な日本、国際社会に長年貢献
してきた平和で未来志向の日本、というポジティブな日本のイメージを投影す
る説明を戦略的に考えることが重要である。
戦略的な発信を考えるならば、誰が発信をこなすのかという「人」の問題が
ある。政策部門と広報部門が表裏一体となり、説明ぶりを検討し、発信を推進
する政府内の組織・体制を構築することが急務である。また、発信する「人」
の人材育成も重要である。戦略的な広報を組織化する体制を整備するとともに、
民間人材の登用や、対外広報に戦略的にあたる組織内の人材を重視して、長期
的にポストにつける覚悟が必要である。政治家も戦略的広報の重要な担い手で
ある、という点も忘れてはならない。


更に言ひたくないことだが、政府は訴へる力やロジックを重視してゐる。悲しいことだ。このままでは尖閣喪失の危機は近い。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/torikumi/ryodoshitsu/pdf/130702houkokusyo.pdf

領土・主権に関する政府による現在の英語の資料は、基本的に日本語の翻訳であるが、単に直訳した文章は訴える力に欠ける場合があることに留意する必要がある。英語による発信は、英語で発想し、英語のロジックを用いて英語で表現することが理想的である。政府は、日本の領有権の正当性について、学術レベルの議論に耐えるような英文による資料作成を行う必要がある。


この文書が具體的にどう危機的なのか、まあこのブログには書かずに置かう。


領土發信懇談會