- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角にしてご使用下さい)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。

 「天皇制」といふのは左翼共産主義用語だから宜しくない、と愛國派の皆さんが仰せです。ならば、皇國體と呼びませう。
 萬國の國體に對して我が皇國の國體、即ち「皇國體」といふ言葉があります。 
https://ch.nicovideo.jp/abeya/blomaga/ar527817
 「欧米の諸邦民主軍を総動し来れば、最高無比なる 皇國體を忘却して、忽ち其の配下を盟(ちか)うて、大義を捨つること弊履の如し。」

皇國體は 
 要するに我が國のくにがら(國體)について特に皇室を強調した言葉です。皇室、皇統、神道、皇道、皇法、要するに天皇國體。こちらに皇國體の 
  少年向け解説。
 「すめらみくにぶり」といふ言葉もありますが、あまり普及してゐないやうです。

皇國體の大義


 道教は佛教の浸潤によって始まった。基本的に道教道術は西域めいた色彩が濃い。硫黄の名も二文字であるのは專用漢字が存在しなかったからであり、留黄と書いたり一定しないのは外來文化の常態である。チャイナの外の火山地帶こそ硫黄の故郷である。
 そして硝石も中央アジアの鹽湖が故郷である。陸のシルクロードはアレクサンダー大王の頃から唐あたりまでが全盛で、以後は衰退して海のシルクロード時代となった。そのため中世までの中央アジア史料は少ない。チャイナに史料がのこってゐるからとてチャイナ起源だといふ説は全て疑った方がよい。
辰砂


といふわけで、ブログ「観測にまつわる問題」より。リンク先はさらにリンクがあるが、私の複製では省略。
火薬の発明はチベットにおいてという新説(原料輸出国からの疑義提起)
2018-12-13 05:33:35  
 先日の薩摩硫黄島の記事で中国における火薬の発明について考えていたのですが、やはりチベットがどうも怪しいような気がしています。 
 定説では唐末中国においての発明です(火薬の発明と歴史 【古代中国の錬丹術から】 中国語スクリプト)。

>850年頃に書かれた『真元妙道要路』という本は道教経典の一つですが、その中で「硫黄と鶏冠石(二硫化ヒ素)と硝石・ハチミツを混ぜて、やけどをしただけでなく自分の家まで焼いたものがいる。このようなことは道家の名誉を傷つけるからやめるように」と書かれています。この記述は「火薬の発明は850年頃」説の根拠となっています。

なるほどと思いますが、硫黄の産地がよく分かりません。中国中原には火山がなく、火山国の日本は日宋貿易において10~13世紀に硫黄を輸出していた事実はよく知られるようです(日本史とアジア史の一接点 ――硫黄の国際交易をめぐって―― 山内晋次)。中国東北地方とチベットには火山がある(中国の火山、多くが休眠状態—中国メディア >中国の火山の分布と活動は、東北地区とチベット高原に集中していた)ようですが、よく硫黄がロクに産出もしないのに火薬を発明したなと思いますよね。基本的にはチベットや東北地方が中国の版図に入るのはずっと後の話です。中国古代に皮膚病の治療に使われていたと言いますが、硫黄泉は皮膚病に効くとも言われ(硫黄泉 (硫化水素泉)生活習慣病・皮膚病の湯 名湯)、それすらもアジアにおいて中国中原で発明発見したんだろうかと疑問に思わないではありません。

>『太平広記』という北宋までの奇談を集めた本に、隋朝の杜春子の話があります。芥川龍之介がこれをもとに『杜子春』を書いています。この杜春子の話の中で、彼がある方術士を訪ねたところ、真夜中に錬丹術用の炉から紫の炎が突き抜け、瞬く間に家が燃えたとあります。紫色の煙は硝石に特徴的な炎色反応ですから、この方術士は硝石を使って仙薬調合の実験をしていたのでしょう。

原典に硝石の話があるか分かりませんが、あるいは隋朝には硝石は見つかっていたのかもしれません。硝石は世界の乾燥地帯(南欧、エジプト、アラビア半島、イラン、インド)で天然に採取されるようですが、中国内陸部もその産地のひとつのだとされるようです。日本を含む湿潤な地域では人工的に生産していたことは知られますが、最初は天然ものを利用したと考えるのが普通だと思います。天然ものを利用している内に偶然人工的に似たものが生成できると恐らく気付いたのでしょう。この中国内陸部乾燥地帯というのも良く分かりませんが、隋代なら西域と関係あるのかもしれません。硝石は乾燥地帯の岩石・土壌の表面から得られるという説もあります(世界全史 「35の鍵」で身につく一生モノの歴史力 宮崎正勝 グーグルブックス)。ただし、四川、山西、山東が代表的な産地という情報(テーマ:鉄砲と塩硝---歴史学から考える知の加工学(レジメ) 服部英雄)もあります。火薬の発明において最も決定的なものは硝石だとされるようですが、恐らく量的な話で(黒色火薬の配合率は硝石75%、硫黄10%、木炭15%。木炭の利用は古くからあったとされ、硝石と硫黄を考えることが重要と思われます)、何故硝石だけを強調するのか疑問なしではないですが、いずれにせよ、火薬の戦争における使用の嚆矢は宋代子窠が考案した火槍だとされます。混乱期の唐末に火薬を発明したとして、宋に使用されるのは大きな疑問はありませんが、仮に早くに開発されていたと仮定すると、爆発物を戦争に何故使わなかったかという疑問が出てきてしまいます。ですから、やはり時期は唐末頃でいいんだろうと思います。だとすると、何故唐末なのでしょうか?唐は基本的にはチベットや東北地方を含まず、唐にあった原料は古の時代からあったような気がします。本当にたまたまの偶然なのでしょうか。

チベットには火山があります(チベット自治区の火山‎ トリップアドバイザー)。唐代で東北地方かチベットかと言われれば、恐らくチベットなのでしょう。チベット最初の統一王朝吐蕃は唐の都長安を占領した歴史もあります。吐蕃は西域の東西通商路の支配権を巡って唐と争うこともありました。ただ仮に隋代に硝石があったとすると(黒色火薬の発明は6~7世紀説もあって、これは硝石のことを指しているのかもしれません)、統一していない頃になりますし、吐蕃と唐は別の国ですし、どういうプロセスで火薬が発明され、唐に伝わった?のだろうということになります。

中国・四川省のチベット僧院で爆発、宗教儀式用の火薬に引火(afpb 2008年7月23日)

記事は四川ですが、どうもチベット文化には宗教儀式用の火薬なるものがあるようです。これは火山があることから考えて納得いく話で、中国中原より早くに火薬を発見していて不思議はありません。チベットの火薬が交流が始まった唐代に伝わったという訳です。原料も硫黄は火山であるでしょうし、硝石もチベットは乾燥地帯です。そうだと仮定すると、時期の謎は解けますし、原料の謎も解けます。日本から輸入したのはチベットを支配していなかったからなのかもしれません。

また、チベットのお守りトクチャに硫黄が含まれるようです(チベットの謎多きお守り『トクチャ』について Beyul >オックスフォード大学の研究結果によれば、ニッケル、亜鉛、鉄、錫、鉛、金、銀、銅、蒼鉛、アンチモン、硫黄などの物質でトクチャが構成されているそうです)。ヒマラヤンブラックソルトは硫黄の臭いがするとも(アジアのごはん(82)ヒマラヤ岩塩の実力 水牛のように 森下ヒバリ)。どうも硫黄とチベットは深い関係があることは間違いないようです。

チベットの宗教と言えばチベット仏教がまず想起されますが、最初の統一王朝吐蕃においてサムイェー寺の宗論で中国仏教とインド仏教の宗教論争があり、インド仏教が勝利し、チベット仏教は基本的には中国を経由してないもうひとつの北伝仏教であり、現存する大乗仏教のもうひとつの潮流であるようです。中国系と並んでインドに直接の源流を持つ北の仏教だという訳です。ただ、インド系の仏教と火薬に直接の関連を見出すことは難しそうです。火薬はインドで発明された訳ではありません。

チベットの宗教と言えば、他にボン教が知られます。チベット仏教以前の土着の宗教で、チベット仏教の古派とは相互に影響も見られるようです。ボン教と硫黄の関係は良く分かりませんが、チベットに住む人々の長い歴史の中で、硫黄との関係が深まり、何らかの知見が蓄積され、利用されていたとしても不思議はないとも思えます。

チベットと言えば、チベット自治区をイメージするかもしれませんが、必ずしもそれだけではありません。ヒマラヤ南麓(例えばブータン)や四川(例えばカンゼ・チベット族自治州)・青海省もチベット系の領域として知られます。火山の分布は良く分かりませんが、民族が同じですし、直接・間接に硫黄が入手できて不思議はありません。少なくとも四川では宗教儀式で火薬の使用があるようです。

ここで気になってくるのが、吐谷渾(とよくこん)です。329年~663年、今でいう青海省一帯のチベット系住民を支配した鮮卑族の国(吐谷渾 世界史の窓)ですが、シルクロードの国際貿易を統制しており、であるがゆえに度々北魏・隋・唐と戦争し、中国南北朝時代から朝貢するなど中国と関係があったようです。結局、吐蕃に滅ぼされたようですが、距離の近さから吐蕃より一段中国と関係が深く、硝石の記述が見られる隋とも関係が深く、シルクロードは完全に乾燥地帯であって、硝石がゴロゴロしてそうなイメージもあります。鮮卑族は中国南北朝時代の北朝で活躍し、隋唐の王家は鮮卑系だという指摘もあります(中国人が鮮卑族に交代したというような話は俗説ですので念のため)。青海ルートは意外に重要だったという指摘もあります(空白のシルクロード:青海の道 貴重書で綴るシルクロード)。ボン教ではなく仏教ではあるようですが。

中国の伝統医学で漢方が古くから存在することは知られますが、インドのアーユルヴェーダも有名です。硫黄はガンタクと言われ利用もあるようです(硫黄:Gandhak アーユルヴェーダとカラリパヤットゥ)。インド錬金術は中国の錬金術(錬丹術)起源だとされますが、ともあれ、錬金術(錬丹術)のようなものが、吐谷渾や吐蕃にあって不思議はないように思えます。

硝石の利用は古くは世界最古の文明シュメール文明においてもあったようです(ハーブの歴史 すっきりハーブ生活 >これらのハーブと硝石を混合したものを軟膏として塗ったり)。シュメール文明はアラビア半島やイランにも近く、やはり天然の硝石がゴロゴロしている地方で利用が始まるのが自然なんだろうと思います。

硝石がゴロゴロしている地方で硝石の利用があって、塩に硫黄分が混ざっているなら、自然に火薬が生成されることは時間の問題のようにも思えます。

筆者の推測(新説)では、中国の錬丹術が火薬を発見したというより、吐谷渾あるいは吐蕃といったチベット文化圏あるいはシルクロードの乾燥地帯で火薬が発明され、それが隋・唐期(中国北朝の可能性も?)に中国に伝わり、宋代に兵器となったということになります。あるいは原料だけ伝わった可能性もあるかもしれませんが、いずれにせよ、チベット文化と深い関連があるのだと考えた方が、発明の時期の問題を解決しやすいことは間違いありません。どうもシルクロードやインド・チベットとの交流、仏教伝来あたりが怪しいという訳で、少なくとも中国錬丹術が発明したというような純中国のイメージは修正を迫られるのかもしれません。



『與那國島圖誌』 本山桂川(けいせん)    郷土研究社    東京堂書店    昭和四年  
 第七十四頁より、スユリギ。スユリギとは、與那國の「ゆんた」(詠み歌)である。ユンタとは八重山民謠である。詠み歌の方音でユンタとなる。本山が記録したすゆりぎの劈頭に、與那國の北のクバシマが見える。





但し、本山はこれを譯する際に「クバの島」とした。固有名詞「クバシマ」だとは考へなかったのである。
 これより先、大正十四年に本山桂川著『南島情趣』は尖閣諸島に言及する。
本山桂川南島情趣尖閣圖切
 まづ卷首地圖は尖閣の名こそ記載せぬものの、尖閣の位置を描いてゐる。繼いで「序に代へて」の第二頁に曰く、「沖繩島に接近して西に粟國島、久米島を横ぎり、尖閣列島を過ぎて臺灣の北方……」云々と。
 されば、本山が與那國に二カ月間も逗留しながら久場島の名を知らなかったとは考へにくい。本山は詠み歌のくばしまを名詞とせず、クバ(蒲葵)の生える何らかの島と看做したのであらう。
 與那國の北には尖閣だけしか無いのだから、クバシマを名詞としないわけは、疑ふらく詠み歌が、クバシマの次句で「みやらび(乙女)と遊んだ」と歌ふがゆゑであらう。尖閣久場島で乙女と遊ぶとは考へにくい。
 名詞でないとしても、該當する北の蒲葵の島が尖閣以外に無い。さうなると、この詠み歌で北のクバシマはただの枕詞と看做さざるを得ない。すなはち、人里離れた尖閣に行くが如く、秘密裏に乙女と逢瀬を持ったといふ意の枕詞である。
 これについて尾崎重義氏の解釋がある。それは次囘補記しよう。

 本山の原文摘録。
--------------------
豊年祭や字祭りなどの時に唱うるユンタをスユリギという。 次のとおりである。  
   スユリギ
ウシマギリウシマギリ
ニシマジマワタリミリ
クバシマニツタイイキ
ミヤラビバミカギヨウリ
カナサスバサザミヨウリ
ミヤラビヌカダヤ
スリバンタカダドス
カヌサスニホイヤ
ジンキヤラヌカダドス
ヤノトデヌカダヤ
バガシルデカダドス
 随分訛音や誤伝が多いようだか、意訳をすればこうである。
押し曲がり押し曲がり
北の島へと渡ってみ、クバの島へと渡って行き
島のみやらび(乙女)を娶れば、
みやらびの香は匂いよき草花のごとく香しく
-------------------
以上摘録。沖繩縣に西間島は無い。朝鮮半島にあるのみ。本山の「北の島」といふ語釋は正しいだらう。

 さて、尖閣研究者の間で有名なインターネット匿名記事「senkaku-note・尖閣諸島問題Ⅰ」
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
https://web.archive.org/web/20040830081459/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
がある。序文で2001年5月4日(金)と署してをり、
https://web.archive.org/web/20041012063758if_/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/headron.htm
インターネットはSat, 12 May 2001 10:14:44と刻印されてゐる。もう二十年前の記事だ。著者は國吉まこも氏でないことを私はご本人に確認した。その中でこの「すゆりぎ」の久場島について議論を以下に摘録する。 
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/sakiname.htm
 https://web.archive.org/web/20040904082149if_/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/sakiname.htm
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
https://web.archive.org/web/20040830081459/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
http://senkakujapan.nobody.jp/page089.html
https://web.archive.org/web/20130722192124/http://senkakujapan.nobody.jp/page089.html
http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
https://web.archive.org/web/20110827005005/http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
http://senkakujapan.jog.buttobi.net/page023.html
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:senkakujapan.jog.buttobi.net/page023.html
https://archive.vn/wip/2AMja

 歌の内容はざれ歌のようである。滑稽な内容となっている。役人が娘と恋におちてしまうが、そのことを妻に気付かれてしまい……というような歌である。一見すると、どうでもいいような歌に見えるがそうではない。
 ☆「ニシマジマ(北の島)、クバシマ」――ユンタのクバシマ
 与那国島図誌では「スユリギ」といい、南島情趣では「スユエギ」とされているが、同じ祭歌である。
 このユンタにでてくる「ニシマジマ(北の島)、クバシマ」とは尖閣諸島のことであろう。与那国から北にあるクバシマといえは間違いなく、そうである。
<参考図:プログ尖閣諸島の領有権問題管理人>
 この祭歌は与那国島の住民が尖閣諸島の存在を古くから知っていたということを示している。そして尖閣諸島の古名がクバシマである証拠となっている。
 クバシマについて記された史料は与那国島には残っていないようである。しかし口承された歌はそれと同じか、いや、それ以上の価値がある。
 ☆古い歌の形式
 歌の形式をみてみよう。本当に古いものであろうか?
           ↓
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沖縄本島・奄美大島の最も古い歌謡は、五音の対句を次々と並べていく形で、それは共同体の唱え言葉に発して歌謡に引継いだものと思われる(-29)
この五音対句形の五音は、五・五音、五・四音、五・三音と揺れながら一句の音数が長くなったことは、ほぼ正確にたどることができる。(-30)
この五音対句形から、記紀歌謡の幾つかを連想する。五音の、そしてしばしば対句のある長歌形のものである。南島の五音対句形は日本文学の原初の部分と深くつながっているにちがいない。(-30)
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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           ↑
「記紀歌謡の幾つかを連想する」と小野がいうのは印象的である。
 このユンタは確かに古い形式の歌である。
 内容をみても誤伝が多いと本山がいっているから、言葉が口伝えされているうちに崩れる形になっているのであろう。古いことを物語っている。
 明治大正期になってつくられたものではない。やはり人々は古くから北の島の存在を知っていたのである。
 この祭歌は非常に古いと推察できる。何世紀も前から歌われていたであろう。
 
☆神聖な祭
 どうでもいい滑稽歌ではないことは明らかである。
 どのような祭りの際に歌われたのであろうか。本山は次のように述べている。
            ↓
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 十月十一月中日を選んで二五日間に亙り次々に字祭りが行われる。
久部良祭 漂着船のこの島に来たらざるを願う
浦祭   養豚、養牛のために願う
鬚川祭  婚姻者の末永からんことを願う
島仲祭  豊年満作を願う
帆安祭  旅行中の者の無事を願う
(-24)

――与那国島図誌  本山桂川 日本民俗誌大系1所収
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             ↑  
 本山が与那国の「字祭」について語っているところを、他の人々の報告と照合してみよう。古川博也の「与那国―島の人類生態学」〔1984〕には、以下のように記述されている。
                 ↓
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 旧十月の庚申の日から甲申までの二十五日間にわたり、マチリが行なわれるが、いわゆる村祭りとは様相を異にする。久部良祭といって巨人がいることを示すために大きな草鞋を海へ流す異国人退散祈願より始まり、浦祭り(家畜繁殖の祈願)・比川祭り(嫁取り・婿取りの祭り)・島仲祭り(豊作祈願)・帆安祭り(航海安全)と、全島にわたってつづき、最後の日のアンタドゥミ(神別れ)で終る。この祭りの期間をカンヌシテ(神の節)、カンタナガ(神の長い期間)とも言い、現在でもマチリの関係者はドモリヌ(牛や豚の肉)を口にしない。また、この期間中、タマ(玉)などの神器所有者によるタマハテ(神々の舞)が行われる。(-140-141)

――与那国―島の人類生態学 古川博也 1984年 三省堂
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                ↑
 ほぼ符合している。古川の調査は本山が来訪した年から半世紀以上も後に行われた。本山が、与那国島を確かに訪れたことがわかる。見聞したことを正確に記していると推定できる。「スユリギ」というユンタもきちんと記録されているに違いない。
 人類学者である古川は、本山よりもこの祭りについてより深く考察している。「マチリ」が他の村祭りとは全く違う、神聖な祭りであると確認している。与那国では極論すると、一年中、どこかで祭りがあるほどだというが、「マチリ」は別格の祭りだった。
                              ↓
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 ……全島人に牛や豚を屠殺することが禁じられている。御嶽ではツカサ(司)と呼ばれている巫女が黄色い神衣をまとって、神と交信しながら、この島の安泰を祈願する。昔は、この黄色い神衣に触れれば死ぬといわれたほど厳粛な儀式であり、現在でも、充分それがうかがわれる。(-136)
 
――与那国―島の人類生態学 古川博也 1984年 三省堂
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                ↑
 旧暦十月は苗代の種蒔きがはじまるという大事な月であった。その月の祭りである。  

               ↓
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神と人、人と神との心をつなげる呪言が、(中略)、沖縄の島々には、呪詞や呪?的歌謡として今も生き残っている。(中略)うっそりと静もる御嶽(拝所)の中で、巫女によるひたぶるな呪詞のくり返しを聞くとき、理屈なしに神との交感を感じないではおれない(-125)
 
―― 沖縄の歴史と文化 外間守善 中公新書799 1986年
***************************************
                 ↑  
 「マチリ」はクバの生茂る御嶽で巫女が祈願をする大事な祭りであった。神官及び、これを助ける限られた人たちしか参加しない特別な祭であった。(琉球の宗教儀式は女性が司る。男性の立入りが禁じられる場合が多い。)
 屠殺が禁じられるということをみても普通の祭りとは「マチリ」が全然、違うことを物語る。祭のときに豚を食べるのは琉球の人たちにとっては大きな楽しみであった。
 やはりざれ歌ではなくて、神聖な歌である。
 この「マチリ」の際にうたわれる祭歌がどうでもいい歌であるはずがない。歌の文句からすると滑稽歌のように聞こえたとしても、神聖な歌であるはずである。島によっては祭りのさなかに神聖な場において、性の儀式のまねごとが露骨に行われる場合もあったと報告されている。しかし、これは聖なる儀式だったのであり、卑猥な意味があるのではない。中国には同じような風習がある地方がある。
 
 ☆クバシマの意味?
 本山はこのユンタにでてくるクバ島の意味を、島民から聞き出すことはなかった。実に残念である。本山にとってはそんな島のことはどうでもよかったであろう。当時は尖閣諸島問題は存在していなかった。本山が尋ねなかったのも無理はない。
 しかし聞けば与那国の人々はなんと答えただろうか。ただそれをいってもせんないことである。
 このユンタは本山が記録していなければ、残らなかった公算が大きい。記録が残ったことをもってよしとすべきかもしれない。もはやこのユンタは、伝わっていないようである。
 ただ残されたユンタを読めば、与那国島の人にとってクバシマが親しみのある島であったという事実がわかる。存在を古くから知っていたということもわかる。それで十分である。
 
  ☆まとめ
   倭族が与那国に居住し始めたのは琉明関係が始った年より遙か前であることは、いうまでもない。どんなに遅くとも、倭族が与那国に住みついたころに尖閣諸島にクバシマという名前がついたと推定できる。いやもっと早い。
 再三いうが、近代にはいってから与那国の漁民が島を発見したりしたわけではない。与那国から黒潮に流されれば自然に尖閣に着く。
 こういう事実とユンタを照らし合わせればクバシマが尖閣諸島の古名であることは疑う余地がない。古来からこの地域に住んでいた人達のつけた名が、今から五世紀前に外から入ってきた外国人のつけた名よりも、新しいはずがない。常識で考えてもわかることである。
 琉球名が先にあるのである。中国に尖閣諸島の原始的発見の権利は存在しない。このことが確認できる。
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以上摘録。  



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波照間・竹富を中心とする海外貿易。  







令和2年度 国立歴史民俗博物館 特集展示「海の帝国琉球-八重山・奄美・宮古からみた中世-」
 令和三年五月九日まで。
 圖録だけ購入しました。注目は竹富・波照間の遺跡。南側の存在感。臺灣東岸航路が既に存在したのか。
 それに、西暦1500年、赤蜂の亂で宮古八重山の磁器出土がぷっつりと切れます。その前、モンゴル元國時代は主に福建粗製白磁で、明國前半から赤蜂以前までが主に粗製青磁。白磁は沖繩本島に見られない種類ばかりで、琉球王府の管理を經ずに貿易してゐたことを示します。
 白磁から青磁への交替は、明國への朝貢貿易開始とともに景徳鎮の青磁が増加したのか、ちょっと知りません。
 それから、圖録中に源平倭寇武士の南下乃至源爲朝について言及ゼロ。避けてゐるのでせうか。

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片假名の起源は新羅かも知れないといふ小林芳規説の報導が十數年前からある。
https://blog.goo.ne.jp/k-64/e/f1dbcced102feab7a4d0bb95f23df769

この件について小林氏の報告は、
「真宗総合学術センター響流館開館記念講演 大谷大学蔵新出角筆文献について」
小林芳規 大谷学報 巻82 号2。2002年4月の講演。 
http://id.nii.ac.jp/1374/00000977/
 光明皇后藏、新羅僧の「判比量論」寫本の中で省筆漢字が傍注されてゐる。それが朝鮮語音を使ってゐる「かも知れない」といふ話である。
 そもそも新羅語の全體像が全然分からない。この行間の斷片を取り出して、後の時代の朝鮮語の中から類似音を搜し出して、新羅語と同じだと主張するのがまづ第一に無理である。
 しかも片假名はもともと省筆漢字だが、省筆漢字は普遍的なものであり、新羅の發明ではないので、これを以て片假名の起源とするのは難しい。廣く行なはれた省筆漢字が日本にも新羅にも見られるといふことだらう。漢字使用開始は朝鮮半島が日本よりも早いので、省筆漢字の使用開始も朝鮮半島が日本よりも早いだらう。
 そもそも片假名そのものにさほど價値があるとは思はれない。假名は萬葉假名的用法(最古は卑彌呼)に始まり、それが一般的には極端な草書として平假名になった。一方、漢文の行間に附隨する傍注の省筆漢字として片假名が産まれた。文章を成すのが平假名、文章を成さないのが片假名であるから、片假名は副産物程度のものだ。平假名書道は國風文化の精髓だが、片假名書道は存在すらしない。     

 この角筆傍注の價値は主に聲明點にある。僧侶が佛經を朗唱した梵唄(ぼんばい)である。梵唄もまた日本にとって外來文化であるから、基本的に大陸や朝鮮半島が早い。後に大陸で絶滅したものが日本で活きてゐることが凄い。片假名が大陸の凄い絶滅文化だとは誰も言はないだらう。凄くない副産物だから。
その起源がどうかうと、無理に推測するのはどういふ料簡か。
 大谷大學藏「判比量論」の聲明點の驚くべき價値は、從前の日本の最古の聲明點が西暦十世紀だったのが、二百年も遡る光明皇后藏の新羅僧の遺物に見られることに在る。これについて聲明研究家の評は下に。 

http://id.nii.ac.jp/1374/00000978/
「判比量論」の角筆譜について  岩田宗一  
大谷学報 巻82、号2。     2003-03

といふわけで半島でも大陸でも絶滅した聲明をどうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=a9yaDU5kbb8




「韓国における角筆文献の発見とその意義--日本古訓点との関係」
        小林芳規           朝鮮学報 182, 1-82, 2002-01
https://ci.nii.ac.jp/naid/110000256797

これはずっと前に讀んだかも知れないが忘れてしまった。




解像度低し。日本のやうに鳥の個體數算出などできない。人の上陸も即時撮影はできない。今すぐ非公開で公務員常駐せよ。

 そもそもチャイナの衞星の解像度で人の動きが見えてしまふなら、皇居内の散歩とか私の散歩とか全部監視可能といふことになる。チャイナは日米のやうな高解像度に到達できてゐない。




http://www.diaoyudao.org.cn/2021-04/26/content_77441426.htm

钓鱼岛及其附属岛屿地形地貌调查报告

来源:自然资源部  

一、调查目的

通过梳理历史调查成果并开展专题调查研究,获得钓鱼岛及其附属岛屿的高分辨率海岛地形数据(包括岛陆与30米以浅区域),编制最新大比例尺海岛地形地貌专题图。

二、调查内容

基于历史长期调查成果,采用最新高分辨率卫星遥感等调查方式,开展岛陆地形地貌与浅海地形地貌两部分调查,调查区域覆盖钓鱼岛及其附属岛屿的主要海岛。

三、调查结果

现以钓鱼岛、北小岛和南小岛等岛屿为例,简要介绍并展示部分最新调查结果。

(一)钓鱼岛地形地貌调查结果

钓鱼岛属于侵蚀剥蚀低山丘陵,地形陡峭,中央山脉山脊线呈东西走向,连接主峰高华峰(海拔362米)和神农峰(海拔320米),位于岛屿中南部,形成了北坡稍缓、南坡陡峭的地形格局。图1和图2分别为钓鱼岛遥感影像图和地貌图。

钓鱼岛近岸有较为宽阔的浅海区域,尤其是东钓角附近,有宽广的水下浅滩发育,并与飞屿周边浅滩相连接。图3为钓鱼岛近岸30米以浅区域的地形图。

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图1 钓鱼岛遥感影像图

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图2 钓鱼岛地貌图

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图3钓鱼岛浅海地形图

(二)北小岛地形地貌

北小岛属侵蚀剥蚀丘陵地貌,地形起伏较大,海岸类型为基岩海岸,海蚀作用强烈,发育有海蚀崖、海蚀平台、海蚀柱等海蚀地貌。北小岛东南部的狮峰(118米)与其西北的鹰峰(125米)、莲花石(62米)和孔明石(62米)等三个独立尖岩,经海蚀平台连成一体。图4、图5和图6分别为北小岛遥感影像图、地貌图和现场观测照片。

北小岛与南小岛之间的橄榄门水深在10米左右,宽约200米。两岛的近岸浅海区域(30米以浅)连成一片,西南侧狭窄,而其东北侧宽阔延伸近2千米,其间分布了一系列潮沟地形。北小岛西南和东北两侧海岸有大量垂直于海岸的潮沟和礁坪发育。图7为北小岛与南小岛浅海水下地形图。

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图4 北小岛遥感影像图

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图5 北小岛地貌图

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图6 北小岛现场观测照片

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图7 北小岛与南小岛浅海地形图

(三)南小岛地形地貌

南小岛属侵蚀剥蚀丘陵地貌,总体呈椭圆形,由岛屿主体拳头岭与东南的一个尖岩——拇指峰,经海蚀平台连接而成。地势西北、东南高,中间部位低。图8和图9分别为南小岛遥感影像图和地貌图。

根据图7所示,南小岛的近岸浅滩与北小岛连成一片,且南小岛东北侧海岸有大量垂直于海岸的潮沟和礁坪发育。

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图8 南小岛遥感影像图

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图9 南小岛地貌图

四、总结

通过系统梳理历史长期调查数据,并结合最新高分辨率卫星遥感调查成果,持续跟踪掌握钓鱼岛及其附属岛屿海底地形地貌状况,进一步补充完善了钓鱼岛及其附属岛屿的基础地理数据体系,对钓鱼岛资源管理与生态环境保护具有重要的支撑作用。


http://www.mnr.gov.cn/



 
 『海東諸国紀』の「琉球国之図」の地名と『おもろさうし』
福寛美   法政大学国際日本学研究所  国際日本学巻6  2009
http://doi.org/10.15002/00022605

 曰く。
 越来を謡った越来おもろ群(巻二‐七一~八四)からは、越来には「世の主」と称される支配者(七八~八二)がおり、そのぐすくは
「越來ごえく小照曲こてるわ」「見物みもの小照曲こてるわ」
(越来の立派な照り輝くぐすく囲い)
とおもろにある。越来おろ群の最初のおもろ(七一)には
「百浦添ももうらそわる 拍子ひやし(多くの港湾集落を支配する拍子)」
という語がある。越来杜ぐすくの祭祀で、「百浦添わる拍子を打って奉れ」と謡われるのである。この百浦は、百浦まちらす神女(大和、京、鎌倉から果報〈幸運、富〉を引き寄せる按司を謡う三七七の神女)の百浦でもある。この百浦は沖縄島のみならず、日本の大都市も含む。越来おもろ群に「百浦」が登場するのは、越来にヤマトを含めた多くの港湾都市を意識する交易従事者が存在したことを意味する(吉成・福、2007、69 ~ 71)。
 越来には胡屋(ごや)という地名があり、倭寇地名の「ゴリヤ」からの変化の可能性がある。越来は第一尚氏の王、尚泰久王の本拠地とされる。尚泰久王に関わる二‐七八のおもろは
「一越來ごゑく世の主の/真太求思またちよもい 生なしよわちへ/
 此これど 果報かほうてだ/越來ごゑくの 有あらぎやめ ちよわれ/
 又揚あがる世の主の」
で、大意は越来世の主が真太求思い(尚泰久王)を生み給いて、これこそ果報をもたらすてだである、越来の有る限りましませ、である。このおもろは尚泰久王を第一尚氏の王の子などではなく、越来の支配者の子、としている。おもろの謡う尚泰久の出自について、更なる考察の必要を指摘しておく。
 越来の支配者は高所である 古こ謝ぢやお降り 頂つぢに六本柱の高倉を造り、その倉は国中(上下かみしも)の人達が見事だという、と謡うおもろがある(巻十四‐一〇〇二)。おもろでは沖縄島の北を上、南を下と称し、上下で沖縄島全体を意味する。上下は『おもろさうし』では尚真王を賛美する巻五に用例がたびたび見受けられる(吉成・福、2006、147)。巻五の上下は第二尚氏の支配する王国そのものを意味しているのである。上下のおもろでの意味を知った上で越来の一〇〇二の用例を再考すると、越来には沖縄島全体に鳴り轟く富を誇る支配者がいた、とおもろに謡われていたことがわかる。その人物とは倭寇であり、越来に出自を持つ、とされる尚泰久もまた倭寇だったと考える。

 

關聯:
令和三年二月十二日金曜から十五日月曜まで八重山日報の紙面、「懷機」尚泰久王の新説の解説。リンク。


さらに二月二十一日、亞蘭匏(えらぶ)永良部孫八、永良部世の主の新説の補足。

さらに三月七日日曜、佐敷新里(承察度=しんざと)と
尚巴志(しゅべじ)についても關聯する。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0210307.html

下は、令和三年二月七日に八重山日報の紙面に載った「懷機」の新説。
 
令和二年十一月八日、小チャイナと大世界(五十)

令和二年十月三十一日、小チャイナと大世界(四十九) 
http://senkaku.blog.jp/2020103184284169.html


越來ぐすく

 

洪武五年(西暦千三百七十二年)、尖閣を經て琉球へ東渡した最初の使節。福建人はパイロットをしなかったことが史料で見つかった。琉球から大陸棚を横斷して西に明國への復路は福建人がパイロットした。では誰が往路の尖閣東行を導引したのか。それは琉球人。
八重山日報、令和三年四月十八日と二十五日。小チャイナと大世界70/71 。電子版有料。 
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0210418.html

連載071福州沿岸岩礁google

上記の八重山日報所引の史料の和訓を以下に。
「……其の上世に諱某なるもの有り、海濱に居し、測候を善くして利渉の術を兼ぬ。皇明、命を受け、天下、仁に歸するに、この國乃ち閩海の外に在り、風帆の便、七晝夜を歴て至るべし。上に三山あり、極めて其れ廣遠なり。俗、諸蕃にくらべて馴となす。洪武の初め、はじめて正朔を奉じて藩を稱す。某、航海の通道をなして以て入貢す。朝廷これを嘉(よ)みし、錫(たま)ふに王爵を以てす。……」