- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。


閏は壬聲。

http://senkaku.blog.jp/2024022992438784.html

更に追記。
まづ音韻學最新説で上古音に合口が無いといふのはデマ。
合口と開口との明確な分立が無いだけのことで、
圓唇の「ウ」音が無いわけがない。古人も人間である。
そもそも中古で唇尾韻(咸攝、深攝)にだけ合口が無いといふ現象。
その表象として風凡聲符が牙尾韻に雜入する法則性は
カールグレンを以て論定まってゐる。
上古合口介音の有無の問題ではない。

さて、以上は贅言だが、いま閏について類例若干を追記しよう。

助、所、疏、詵、生、等の韻鏡二等字は、
三等の「イ」音を介さず、緩やかな音である。
崑曲ではまさにその音であり、
昔風の蘇州崑曲は往往これら二等を合口に誤讀した。
つまり二等齒音と合口とは崑曲で親近性がある。
中古の反切が定まる際にも類似現象があったと鄙見では考へる。

。廣韻で帘は力鹽切liemは通常音だが、又士臻切(shin濁)、二等。
唇尾韻の本音から離れて舌尾のNに雜入してゐる。
疑ふらく二等の緩やかな圓唇的性質が唇尾mと重複するので
例外的に舌尾nに變化してしまったのである。
勿論、唇尾韻の二等でも森參を首め正讀して誤らないのが大部分である。

令和六年三月五日追記。
,廣韻、士臻切。幕也。幕は深の義に通じる。廣韻、又力鹽切、青帘、酒家望子。ともに王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本に收めず。
穼、廣韻、所今切。深と古今字。
□。説文解字、深也、一曰竈突、从穴从火、从求省、式鍼切。王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本に收めず。電子文字無し。深と古今字。
https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/word_attribute.rbt?educode=C09285

以上三字をならべれば、帘の士臻切は唇尾韻からの雜入だらう。

(馬馬馬木)、所臻切shin、二等。ところが又仕戢切(ship濁)。
疑ふらく本音は森shimと同じく唇尾韻shimであったが舌尾shinに雜入した。
その痕跡として唇尾入聲が遺留してゐる。
所臻切は王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本も同じ。
仕戢切は王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本の緝韻に收めず。


、所臻切shin。二等。王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本も同じ。
説文解字は會意字とする。しかし形聲字だらう。聲符焱。
焱、以冉切(以贍切)jiem(diem, riem)。喩紐(四等)。炎の去聲。談淡啖の諧聲。
炎、于廉切 yiem。云紐(喩紐三等)。本來は四等喩紐だが特殊な誤讀。
中古反切はこの種の誤讀めいたものが間々ある。
人が作った漢字音曼荼羅なのだから、神ではない。
疑ふらく燊の本音は唇尾shim二等であったが、二等の緩やかさが圓唇めいて、
結果として舌尾shinに雜入したのだらう。

は臻攝の所臻切shin、王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本も同じ。
ところが又疏錦切shim、二等深攝。王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本も同じ。
これは唇尾韻から離れたのでなく、逆に舌尾韻の辛類から
唇尾韻に雜入してゐる。これも偶然ではなからう。
二等では唇尾と舌尾を混同し易いため、逆方向の誤讀が起こったのである。

、緝韻 色立切。職韻 所力切。二等。嗇の聲符でありながら唇尾韻に雜入。
王仁煦刊謬補缺切韻の北京故宮本の緝韻色立切に收めず。

そこで、閏は壬聲。合口ゆゑに䯂燊と同じく唇尾を離れて舌尾に雜入したのである。
中古反切もまた人の手で作られたものであり、不規則性を免れないのだ。何故なら切韻は曼荼羅旋法だから。曼荼羅について詳しくは「漢文琉球教材和訓」、「教職課程センター紀要」 8。 長崎純心大学教職課程センター刊。令和六年三月。
https://opac.n-junshin.ac.jp/opac4/opac/Volume_list?jcode=ZK0000162


廣韻仕戢切

https://dl.ndl.go.jp/download/3b607088-7e7f-465f-a665-ad0bce3a7c4d/digidepo_2545276_0047.jpg
https://dl.ndl.go.jp/pid/2545276/1/47

記録。令和六年三月四日零時半。
https://archive.md/cq1V4
http://web.archive.org/web/20240303153731/http://senkaku.blog.jp/2024030392463631.html
 三月十日八重山日報に談話として掲載見込み。

三月五日追記の記録。
https://archive.md/F6EBH
http://web.archive.org/web/20240305073447/http://senkaku.blog.jp/2024030392463631.html

切韻諸本。
https://suzukish.sakura.ne.jp/search/qieyun/index.php
 こりゃ凄い。

續修四庫全書 250 刊謬補缺切韻五卷 王仁煦撰 長孫訥言注   北京故宮本。

外に以下は比較的に知られた轉音。
廣韻
㱡,山矜切。
矜,巨巾切。
矜,居陵切。
説文解字段注は令聲とする。古今聲音大變とする。
鄙見では今聲であり、單に韻尾がn,ng,mが互轉してゐるだけだらう。

怜と憐。
廣韻、怜、落賢切、憐の俗字。又郎丁切、聲符と合致。
怜は近世の俗字なので、上古音に役立つかどうか。


令和六年三月十日追記  
今朝、八重山日報に談話が掲載されました。
https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240310.html

ついでに分かり易い韻圖を大阪大學から。
韻鏡二等

https://suzukish.sakura.ne.jp/search/inkyo/yunzi/%E8%8E%98


本日は閏年だが、閏字は「説文解字」以來「門中王」が字源だとされる。

https://www.jprime.jp/articles/-/31028
 週刊女性。「中国文献学者で大東文化大学文学部教授の山口謠司先生だ。」
「文字のとおりに“王が門にいること”です。古代中国では王は通常、廟と呼ばれる場所にいますが、うるうの月には、門で政治を行ったそうです。陰暦では季節を調整するためにうるうを設けるので、“新しい季節を王が門に出て迎える”という意味もあるんですよ」(山口先生)

これは「説文解字」そのままだが、ほぼ無理筋だらう。凡そ儒教的字源説は全て怪しい。何故なら漢字は儒教以前に産まれた。儒教汚染である。しかし「説文解字」段玉裁注でもこれを疑ってゐないのは遺憾である。これについては白川靜説が正しいだらう。

白川「字通」[形声]字は王に従うものとされるが、おそらく壬(じん)声の字であろう。〔説文解字〕に「天子宗廟に居り、閏月には門中に居る。王の門中に在るに從ふ」とするが、そのような閏月の礼を証しうるものはなく、古文家の礼説にみえるのみである。〔爾雅、釈天〕に「月、壬に在るを終と曰ふ」とあり、壬に任大・閏余の意がある。
https://kotobank.jp/word/-2787638

 これはとても常識的な説だが、檢しても白川氏以前にこれを見ない。こんなに分かり易い的説に何故それまで誰も思ひ着かなかったのだらうか。不思議だ。(古文家といふのは漢代の儒教の古典捏造派。)

『左傳・文公元年』に、
「先王の正は時なり。…餘を終に歸す。」
と。
「疏」に「其の餘分を歸して終末に置く。終末に於いて乃ち閏を置くを言ふなり。」
と。正規年月の前の末尾に閏を置いたことを言ふ。

『爾雅・釋天』に「月在壬曰終。」

白川靜青年

https://www.ritsumei.ac.jp/features/shirakawashizuka10/

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令和六年三月三日追記。


壬の聲符の妊衽などは唇尾韻Mだが、閏は舌尾韻Nである。凡そ唇尾韻は合口と相性が惡く、風の上古音pumは後にpungに轉じたことが著名である。且つ
古へに去聲無し。閏はやや後起字なので、去聲に屬するから、jumからjunに轉じる特殊性がある。

Karlgren 1928, Problems in Archaic Chinese.

https://www.jstor.org/stable/25221426

譯文 上古中國音當中的幾個問題  

https://www1.ihp.sinica.edu.tw/Publications/Bulletin/849

https://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/5089LTVQFrp.pdf

王静如「跋高本漢的上古中國音當中的幾個問題並論冬蒸兩部」

https://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/5090TJrMebP.pdf

 

これにつき本日令和六年三月三日の八重山日報に談話が出てゐるのでご購讀頂きたい。
https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240303.html




。 


 琉球三山、西暦1429年統一、琉球王國建國。ウソです。尚巴志は琉球を統一してゐないし、よって琉球王國といふ實體は存在しません。私の論文などを讀めば分かります。

山川日本史表紙

山川日本史琉球

山川日本史奧書

防衞大學校
https://www.mod.go.jp/nda/admissions/problem_r4.html
https://www.mod.go.jp/nda/admissions/files/files/1647912826phpvNMEGP/03_01ippan_jinsha_japanesehistory.pdf

防衞大學校入試標題

防衞大學校入試科目

防衞大令4日本史標題

防衞大令4日本史琉球三山


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早稻田大學。
https://www.waseda.jp/inst/admission/other/2023/02/28/13734/
https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2023/03/23_2023_ippan_nihonshi.pdf
早稻田入試センター

早稻田入試標題


早稻田入試琉球三山

早稻田入試尚巴志


http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/06/post-9bac.html
「琉球に渡来した明使の路謙は、琉球国内で対立する三山の様子を目の当たりにして明朝廷に報告し、1383年に皇帝から三山の各王へ停戦が勧告されています(『明太祖実録』)。「三山」という称号はもともと中国側が付けたわけですが、沖縄内部の事情をある程度把握したうえでの区分だったのです。
 ↑ ウソです。

「また中山王の尚巴志が首里城周辺を整備した際に建立した「安国山樹花木之碑記」(1427年)には「琉球、国分かれて三となり、中山、其の中に都す」と刻まれていて、三山時代当時の琉球においても国内が三分されていると認識されていたことがわかります。これは後世の歴史観が全く入る余地のない、しかも他者ではない当事者の認識であることから、三山が存在したことを裏付ける決定的な証拠です。」
 ↑ これも、ウソです。
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 全部、ウソ。皆さんウソばかりついて、その日暮らしをしてゐる。歎。



 

不改常典などの逸した原文を勝手に臆測する定型。
「不改常典は女系の法である!」
まさか。
 普通に考へれば、元明天皇は自分が女だけど男系だと主張したくて、男系の父訓を持ち出した。元明天皇は不改常典を引いた詔で、「草壁皇子の嫡子たる文武天皇」と呼んでゐる(續日本紀卷四)。女系概念すら無し。
 單純に分かり易い元明天皇即位詔の解説あり。「持統天皇は不改常典にもとづき草壁皇子の嫡子文武天皇に讓位した。」  
https://dl.ndl.go.jp/pid/6076182/1/8
  續日本紀研究 (192)「不改常典小考」 伊野部重一郎。
續日本紀研究192不改常典小考伊野部重一郎



 繩文時代に戰爭の痕跡がほとんど無く、日本人は和を貴ぶ。文字の上で和解の最古の記録は琉球にある。
 飛鳥時代の『隋書』流求傳に、村の戰に負けた場合は投降使を送り、「即ち共に和解す」と。いかにも日本らしいではないか。琉球人は古來まさに日本人である。臺灣の古代の首狩り族の場合は、村に敵の首を掲げて誇るので、和解する慣例は無い。

隋書46切流求公文書館寛永寺320-24

隋書、卷四十六、流求、公文書館320-24、元刊嘉靖修、寛永寺舊藏。
https://www.digital.archives.go.jp/acv/auto_conversion/conv/jp2jpeg?ID=M2013070821041580719&p=13
https://www.digital.archives.go.jp/img/3789318
https://www.digital.archives.go.jp/item/3789318.html

參考:
「古文献にあらわれる沖縄」井上秀雄、『日中文化研究』第五號、勉誠社、平成五年八月。
https://ronbun.nijl.ac.jp/kokubun/00259613
「和解に関する記事である。敗北した洞では、謝罪使を派遣して和解するが、このとき、勝者側から特別に軍事的・政治的・経済的な要求は、だされないようである。この和解の形式は、隋代の人を大変驚かせた。




説文解字では「聯は連なり」で同義なので、完全に分けられるわけではないが、一般的には橫繋がりが聯、縱繋がり(時間など)が連である。
 例へば新唐書・郭元振(突厥吐蕃を征した名將)傳に「突厥・吐蕃、聯兵して涼州に寇す」 
  と、聯合を言ひ、また宋人が前漢の軍制を論じて「連兵數年にして邦本搖らがず」  
https://img.kanripo.org/general/skqs/wyg//WYG0942/WYG0942-0620d.png
  (古今源流至論・別集卷九)と、連年の義となる。

新唐書122郭元振傳聯兵

古今源流至論別集卷九連兵

漢字學の名著、段玉裁『説文解字注』では「周人用聯字、漢人用連字、古今字也。」  
https://shuowen.org/view/7761
  とある。古今字とは古今の同字別體。聯と連を使ひ分けるのは多分南北朝あたりから。「聯句」など。使ひ分けは、もしかしたら字形イメージかも知れない。聯は耳を除けば左右に並列。連は之繞(しんねう)で道が通じて連なる感じ。だから樹理が通じて連理の枝。

『宋詩紀事』卷八十七に引く宋人『西清詩話』に丘舜中のむすめの閨秀丘氏が「兄弟の内集するごとに、必ず聯詠して樂をなす。」と。
内集は家庭内の集まり。
https://www.digital.archives.go.jp/item/3673092.html
https://www.digital.archives.go.jp/img/3673092
https://www.digital.archives.go.jp/acv/auto_conversion/conv/jp2jpeg?ID=M2014081820031982081&p=56
https://img.kanripo.org/general/skqs/wyg//WYG1485/WYG1485-0661b.png


明人『古今奇聞類紀』卷八(北京大學藏本)に、畫中の美女が出て來て「百絶を連詠す」といふ怪異談。

https://web.archive.org/web/20240107071504/http://senkaku.blog.jp/2024010792097696.html
https://archive.md/qHzR3

https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1743839328827273530




大清一統志_臺灣屬於日本


 この「日本に屬す」の著名な記述を私はかなり探究しました。オランダは「據」即ち占領。屬は緩やかな羈屬。隋唐宋元諸史料で琉球人は東南アジアまで南下貿易してゐて、途中の臺灣に上陸占領しなかったものの、海域支配を及ぼしてゐた。洪武帝に對して琉球人は「大小琉球だ」と述べた(皇明祖訓など)。これにつき『純心人文研究』第三十號に既に「驚愕の古琉球史」を投稿し、校正中である。令和六年二月刊行見込み。
 日本人の上陸についても、遲くとも安土桃山時代には既に上陸してゐる。山田長政も慶長末には臺灣に上陸してから暹羅に渡航した。オランダ人よりも先である。
 その歴史的な常識にもとづき、「日本に屬す」の記述が産まれたのであらう。

https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1743255179657695605

大清一統志臺灣屬於日本








年賀状令和6

謹賀新年 甲辰元旦 
 (癸卯南游考索有得。詳八重山日報日曜連載。)
大食君皇慢鄭和(Caliphate)。
閩關税監仰球倭(Ryukyuan Japan)。
東方博士三山史(Reyes Magos)。  
海日靈霞𤥿玖螺(Great Green Turbo)。








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梁書 扶南傳、頓遜。
「其南界三千餘里有頓遜國、在海崎上、地方千里、城去海十里。有五王、並羈屬扶南。頓遜之東界通交州、其西界接天竺・安息。徼外諸國、往還交市。所以然者、頓遜囘入海中千餘里、漲海無崖岸、船舶未曾得徑過也。其市東西交會、日有萬餘人、珍物寶貨、無所不有。」
 北の丸公文書館、宋刊嘉靖修。
https://www.digital.archives.go.jp/item/3774275.html
https://www.digital.archives.go.jp/img/3774275
https://www.digital.archives.go.jp/acv/auto_conversion/conv/jp2jpeg?ID=M2013062419594779908&p=8

梁書扶南傳頓遜公文書館宋刊嘉靖修

和訓 現代支那の根本問題    藤枝丈夫     泰山房    昭11

現代支那の根本問題藤枝丈夫昭11頓遜

杜佑 通典 卷百八十八「頓遜」 書陵部藏北宋刊本、第四十一册、電子第二十一幅。

杜佑通典188頓遜_書陵部北宋刊本41册電子21幅

頓遜國、梁時聞焉、一曰典遜。在海崎上、地方千里。有五王、並羈屬扶南、北去扶南可三千餘里。其國之東界通交州、其西界接天竺・安息。徼外諸國、賈人多至其國市焉。所以然者、頓遜迴入海中千餘里、漲海無涯岸、船舶未曾得逕過也。其市東西交會、日有萬餘人、珍物寶貨、無種不有。

梁書頃遜立花憲二

古代における南海交通--梁書頃遜を中心として / 立花憲二
長崎県立国際経済大学論集 14(2)(46)    1980-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/1767734/1/99
https://dl.ndl.go.jp/pid/1767734/1/72
https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009408652780928

鈴木治絹路考頓遜

 絹路考    鈴木治 天理大学学報 15 (3), 1964-03-31
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/649/