- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

米軍が臺灣海峽を航行した。
臺灣側の最前線は金門・烏丘・馬祖である。
これは四百年間つづく第ゼロ列島線であること、
平成30年10月27日講演でお話する。リンク:
http://senkaku.blog.jp/1027.html
時事通信301022臺灣海峽

さて金門は英文でQuemoy(漳州語)または
Kinmen(北方官話)と呼ぶ。
quemはポルトガル語で「キム」といふ音。
よってQuemoyはquem-mui(キンムイ)といふ漳州語の
ポルトガル標記である。

門がmoy=muiとなるのは通常の閩南語ではなく、
特に漳州語である。一例は以下の通り。
「荷華文語類參」= 「Nederlandsch-Chineesch woordenboek :
met de transcriptie der chineesche karakters in het Tsiang-tsiu dialekt」

荷蘭漢學家施萊格(Dr. G. Schlegel)所編 E.J. Brill刊, 1886年。
第一册。A至G。
https://books.google.co.jp/books?id=kFBCAQAAMAAJ
第856頁「Deur」(蘭語, door)
https://translate.google.co.jp/#nl/en/deur
月洞門 guet t'ang mui
門框 mui k'ing 
門鑰 mui ioh 
荷華文語類參_Nederlandsch-Chineesch woordenboek_p856

時事通信が使った下の英文地圖でも、
金門・烏丘・馬祖が淡黄色の臺灣側となってゐる。
ウィキペディアでは丁寧に境界線も引いてある。
第ゼロ列島線こそ、四百年間續く現代の最前線である。
アメリカはこの線を防衞するために起ち上がった。

https://businessmirror.com.ph/wp-content/uploads/2018/01/Taiwan.jpg
business_mirror_taiwan

Taiwan_Strait_wikipedia

以下報導。

https://web.archive.org/web/20181023022338/https://www.yahoo.co.jp/
「米軍艦がまた台湾海峡航行=中国をけん制」
10/22(月) 23:32配信  時事通信
 【台北時事】台湾国防部(国防省)は22日、米軍艦2隻が同日、台湾海峡を航行したと発表した。米国が台湾海峡に軍艦を派遣するのは、7月7日のイージス駆逐艦「マスティン」と「ベンフォルド」以来。中国へのけん制が目的とみられる。台湾国防部によると、米軍艦2隻は22日、台湾最南端のバシー海峡から台湾海峡の「国際水域」を北上した。定例的な航行と位置付けているが、詳細については「米政府が説明する」として明らかにしなかった。 


https://businessmirror.com.ph/taiwan-protests-unilateral-launch-of-mainland-china-flight-routes-in-taiwan-strait-urges-consultation/
Taiwan protests unilateral launch of mainland China flight routes in Taiwan Strait, urges consultation
BusinessMirror - January 20, 2018 (philippin)
business_mirror_20180120_taiwan

明日、八重山日報連載「尖閣大航海時代」に談話を出します。
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玉陵(たまおどの)が國寳に指定された。
これから琉球の墓制が注目を集めるだらう。
玉陵は「破風墓」だといふことで、チャイナとは無縁である。
しかし墓制そのものが話題になるので、玉陵の話題とともに
「琉球の龜甲墓はチャイナの影響だ」と話題になるだらう。
そこで明確にしておきたいのは、龜甲墓は福建の
墓制であって、北方チャイナとは全く異なる。
つまり福建文化そのものが非チャイナ文化である。
福建文化の影響を琉球が受けたのは、
チャイナの影響を受けたのではない。
福建はチャイナの殖民地なのである。
チャイナ統治下の七大方言のうち、
北方官話を除く六大が東南部に集中する。
東南がチャイナではなかったことを示す。

琉球龜甲墓歴史秘話ヒストリア
  上、琉球龜甲墓。
  下、ウィキペディアより閩南龜殼墓。
福建南部龜墓wikipedia

 チャイナで歴史的人物の墓としてよく見かけるのは石瓦で圍った圓墳・土饅頭である。馬嵬の楊貴妃墓などがお馴染みである。私は墓制など深く考へたことが無かったので、琉球の龜甲墓が大陸式だと思ってゐなかった。ただ何となく臺灣で見かける墓地と似てゐる記憶はあった。
 或る時、或る教員が「沖繩のお墓って中國式なんでせう」と言ふので、私は「いやいやチャイナの普通のは土饅頭ですから」と答へたのだが、しかし何となく記憶が甦って來て、さういへば臺灣の墓地は沖繩に似てゐるなと思ったのである。そこでよく考へると臺灣の墓制は沖繩と全く同じである。よって福建の墓制をグーグル圖像に求めると果たして琉球そのままであった。つまり福建臺灣の墓制はチャイナ本土と全く異なる。琉球の墓制はチャイナを眞似たのでなく、チャイナ殖民地福建を眞似たのである。なほ私は福建に行ったことが無い。「被失踪」されても困るので、もう福建に行くことは不可能だらう。
  下は馬嵬の楊貴妃墓。陝西省興平市人民政府インターネットページより。
楊貴妃墓陝西省興平市人民政府

 なほ、東南部の江蘇省・浙江省でも、チャイナ式の土饅頭(圓墳)は多い。觀光地杭州の岳飛墓(岳鄂王墓)がお馴染みである。黄河流域文化の影響を受けたのである。
岳王墓mapio
杭州の岳飛墓(岳鄂王墓)

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 音階。出雲の特殊性。出雲と秋田との共通性。方言も出雲と秋田は共通性があること、松本清張「砂の器」でも話題になった。彌生以前の文化が想定される。 
 小島美子「日本民謡の地域性研究に向けての試論--日本民謡の日本海側と瀬戸内海側」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005747849 
に曰く、
「山口県と秋田県の民謡は音階や旋律法など大きな違いがある。島根県の民謡は圧倒的に民謡音階の世界である。とくに島根県の東半分にあたる出雲では,秋田県を超えるほどの高い比率で民謡音階が現われた。これに対して広島県側では律音階系の曲(律音階とその変種,都節音階とその変種を含む)が半分を占めていた。日本海側と瀬戸内海側では大きな差が現われた。民謡音階の民謡を歌っていた人々は,日本海側の地に入り,そのまま瀬戸内海側に進むのではなく,東に進んだ可能性も考えられる」と。

ウィキペディア「琉球民族」に曰く、
「沖縄にはいわゆる琉球音階をはじめとする多様な音階が存在するが、大和民族のもつ音階群とは異なる。」
と。ここにを書き加へました。  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F#%E9%9F%B3%E9%9A%8E
「しかし琉球だけが特別だとは限らず、そもそも日本音階の統一性にも疑問がもたれる。「尺八工房幻海」主人は「全国の民謡でほぼ共通した音階が用いられていることの不自然さ。例えば、方言は地方によってかなりの特色がある。にも関わらず民謡では、音階が同じように使われているというのには、いささか不思議である。」と疑問を呈する。」(尺八コラム 限界突破!続・調子考①、2015/1/5)  
http://shakuhachi-genkai.com/column/column14.html
以下は小島論文を引きました。

砂の器



奥山真司の地政学「アメリカ通信」 平成30年10月12日 
「米中激突は決定的!だとして、日本はどうなる?どうすべき?リアリズムで読み解くシナリオは...」
 13分過ぎから約3分間、奧山眞司氏曰く、
「倫理的に正しい形で尖閣などでチャイナを挑撥する。
 越南臺灣などアジアの聯攜を強める。」
と。具體的方法を持ってゐるのだらうか。
私に言はせれば勿論、尖閣歴史戰が正答だ。
尖閣は古典文明の爭ひである。
さらに印度文明とチャイナを比較して、
「印度は先生、チャイナは弟子だった」、
といった話もチャイナ人が一番我を忘れて怒る形だ。
奧山氏が尖閣について國際法でなく倫理を持ち出したのは
とても良い。倫理は人間の歴史を根幹とする。
悠久の歴史で正論を戰はせれば自然と平和的挑撥になる。


 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。



「日本のエリート学生が「中国の論理」に染まっていたことへの危機感
行き過ぎた政治タブー化の副作用」
阿古 智子 東京大学大学院准教授 gendai  ismedia 
曰く、
「江戸時代に琉球が幕藩体制に巻き込まれていった経緯や、明治期の学校教育の普及の方法などを見れば、日本が近代国家を形成する中で沖縄を「同化」したと捉えることができるのだろう。」
「過去と現在、未来のさまざまな文化的要素が交錯する中で、アイデンティティは複雑に形成される」
「学生たちが打ち出した極端に単純化されたロジックは、複雑な現実を反映しておらず、」


 ちょっと、待って欲しい。琉球が日本に屬することは複雜なのか。複雜であるならば、琉球は日本でなかったのに同化させられたとする主張にも一理ありとなるではないか。史實は、複雜ではない。「極端に單純」である。以下、要點のみ。

1、「幕藩體制に捲き込まれた」とは、甲、次第に江戸幕藩統治が滲透した意か、それとも乙、幕藩統治が侵掠であり、獨立琉球を無理に捲き込んだ意か。
 甲、次第に滲透したとするなら、それは戰國安土桃山までであって、江戸幕藩體制では慶長14年(西暦1609年)に早くも明確に薩摩の統治下に這入ったので、史實に合はない。しかも薩摩はすぐに檢地を實施し、やや後の禁教令も徹底してゐた。禁教令などの統治が緩やかになったのは、元禄期に全國統治が安定して以後である。琉球だけでなく、全國で緩やかになった。次第に捲き込んだのではない。
 乙、獨立に對する侵掠を指すならば基準は何か。1609年は大阪の陣よりも前であるから、日本の完全統一よりも以前である。戰國諸侯は全てほぼ獨立であり、琉球だけではない。琉球も完全な獨立ではなく、戰國時代から薩摩等がかなりの程度まで琉球の政權に影響力を行使してゐた。琉球だけが獨立だったといふ基準は成り立たない。侵掠されたとするならば諸侯すべて侵掠されたのは同じ。單純に否定される。
http://senkaku.blog.jp/2017030469722675.html

2、さまざまな文化的要素が交錯とは、交錯する中に主となる文化が無かったやうに見える。それは單純に誤認である。文化の中心は言語・人種であるが、琉球語は單純に日本語である。人種は繩文人種を主として、彌生人種もかなり含まれる。

3、主となる文化以外に、風俗等を舉げるならば、福建の風俗が含まれる。例へば琉球の墓制は福建とほぼ同じだが、中原とは全く異なる。つまり福建の風俗そのものが非チャイナ文化である。逆に日本の他地域こそ彌生以來、長江文明の風俗を多く含んでゐて、琉球よりも甚だしい。文章を舉げるならば、琉球よりも日本の他地域の方が漢文が盛行した。

4、地理概念。琉球では日本側が國頭(くにがみ)、南側が島尻であり、日本を「本土」「内地」とする概念は古來一貫してゐる。平安京を「上方」(かみがた)とする概念と單純に同じである。しかも琉球風水もチャイナを外としてゐる。

5、統治。薩摩は琉球を統治したが、チャイナは琉球を統治しなかった。百對ゼロ。單純である。但し封建時代であって、中央集權ではないから、薩摩の統治は緩やかであった。三百諸侯に於ける封建制の緩やかさは大差ない。幕藩制とは半獨立制である。だから薩摩長洲は幕末に歐米に對して國家的交戰權まで行使した。琉球だけではない。

6、一方、チャイナでは上述のやうに福建など東南文化はそもそもチャイナ文化ではなく、チャイナ殖民地である。まして現代でも少數民族として分類される民族(滿蒙囘藏など)は、チャイナと無縁の文化である。單純である。

7、華夷秩序なるものは存在しない。華夷形式はある。チャイナの華夷秩序は滿蒙囘藏など内陸側だけであり、海側には華夷形式だけしかない。兩者は全く異なる。單純である。複雜ではない。

實の處、上記の著者は本音では琉球は獨立だったと思ってゐるのだらう。それをごまかして複雜と言ってみただけだらう。


阿古智子gendai


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これは凄い。驚愕。
《ブラジル》世界で4冊目の日葡辞書発見=白井、田代両氏がリオで=1603年に長崎で出版
2018年10月10日    ブラジル日系新聞  
https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/181010-71colonia.html
nippo_nikkey_20181010

リオで発見された日葡辞書(Acervo da Fundacao Biblioteca Nacional – Brasil ブラジル国国立図書館財団蔵本)

 「南米にはないと思われていたキリシタン版『日葡辞書』を9月17日、リオ国立図書館で発見しました」――5日、サンパウロ州立総合大学(USP)東洋学科の田代エリザ准教授と信州大学の白井純准教授が来社し、そう語った。「キリシタン版」とは1600年前後に長崎でイエズス会が発行した書籍の総称で、40点以上出されたと言われる。中でも日葡辞書(Vocabvulario da Lingoa de Iapam)は当時の日本語を知るうえで非常に貴重な第一級資料といわれ、世界で3冊しか現存しない。それが、今回4冊目がリオで発見された。

 「ちょっと見てください」と白井准教授のノートバソコンの画面を見ると、同辞書の写真があった。「Abaraya」(あばら家)という項目には「Casa Velha」(古い家)とポ語で説明されていた。1603年に長崎で印刷・出版された辞書の言葉は今でも通じる。このような単語が3万2千語も収録され、しかも日本語での用例付きなので、当時の言葉使いがローマ字で分かる。日本語研究には欠かせない文献だ。
 白井准教授は、国際交流基金の助成で1カ月半、USP大学院研究科にキリシタン資料に関する短期講義をするために客員教授として来伯中。その招聘手配をした田代准教授も日本言語学史研究者で、一緒に調査に行き今回の発見となった。リオ国立図書館には、ブラジル帝国時代の王室図書が多数所蔵されおり、キリシタン版がまぎれている可能性があった。
 現在までに日葡辞書の存在が確認されているのは、英国オックスフォード大学(ボードレイアン本)、ポルトガルのエボラ公立図書館(エボラ本)、フランス国立図書館(パリ本)のみ。今回のリオ本が4冊目となる。

日葡辭書白井_ブラジル日系新聞20181010

https://www.nikkeyshimbun.jp/wp-content/uploads/2018/10/shirai-tashiro-fuka.jpg
白井准教授と田代准教授

 白井准教授によれば、「10月1日に再調査したら、リオ本はパリ本と同じ種類の印刷本だと分かりました」という。辞書は初版出版後も誤字などの修正が重ねられるので、同じ本でも幾種類もの版が存在する。
 「どうやってリオに?」と質問すると、田代准教授は「ナポレオン軍に侵攻されたドン・ジョアン6世は、1807年に財産をもってリオに逃げてきました。その時に図書館の蔵書を丸ごともってきていたんです」という。大航海時代にはポルトガル王がイエズス会を庇護してアジアに送り出した経緯があり、キリシタン版が同王室図書館に収められていたようだ。
 さらに「その後、本人はポルトガルに戻りますが、図書は置いていった。そこにキリシタン版があるのではと、以前から予想していました。今回見つかったのはテレザ・クリスチナの蔵書の中でした。ドン・ジョアン6世の息子がドン・ペドロでブラジル独立を宣言、その子どもドン・ペドロ二世の妻がテレザ・クリスチナです」と説明した。
 白井准教授は、「これで、バイア(植民地時代の首都)はもちろん、南米の他の町にもキリシタン版が見つかる可能性が出てきました。これから、何度も南米に調査にくることになりそうです」と笑顔を浮かべ、その晩の便で帰国した。

□関連コラム□大耳小耳
 ウィキペディアによれば、『日葡辞書』がすごいのは、室町時代から安土桃山時代における古い日本語の発音と意味、その用例が分かることだ。そこから当時の生活風俗までが明らかになることから、「第一級の歴史的・文化的・言語学的資料」だと言われている。ちなみに「日本」の読みには[にほん](にふぉん)/[にっぽん]/[じっぽん]の3通りがあったとか。京都は「かみ」(上)、九州は「しも」(下)と呼ばれていた。あと「ろりろり」という言葉は「恐ろしくて落ち着かない様を表す語」だったとか。また、当時すでに「湯豆腐」という食品が食べられていたことも分かるという。次に湯豆腐を食べるとき、ちょっと味わい深くなる?


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尖閣を背に仲間均
上は尖閣を背にする仲間議員。  

下は仲間市議撮影の著名な一枚。新聞各紙に多用されてゐるが、ここでは解像度を落さずに載せよう。仲間議員ご本人より頂いた。
仲間撮影尖閣2




『今昔物語』中の臺灣について。近日中に八重山日報の談話連載に載ります。
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今昔物語には臺灣らしき島が二度出現する。
ともに人食ひ人種の島である。

第一は卷十一、第十二條
「智證大師、宋にわたり顯密の法を傳へて歸り來たる語」。
唐の後期、密教を日本に傳へた智證大師圓珍の事跡。
圓珍は仁壽三年(西暦八百五十三年)八月十三日、
唐商良暉の船で琉球國に到達し、人食ひ人種に出逢ふ。
しかし俄かに東南の風を得て、西北に向けて快速航行し、
翌日の正午には福州沿岸の連江縣に着いた。
この「琉球國」はどこか。
西北に向けて一日で福州に着くのだから、
この琉球は臺灣である。

第二は卷三十一、第十二條
「鎭西の人、度羅の島に至りし語」。
九州の或る老人が語った事。
西南方向の「度羅の島」は人食ひ人種の島であるとのこと。
とらのしま、とらしまTorasima、と讀むべきだが、
たくらのしまの可能性も否定できない。

人食ひの傳聞はチャイナ側でも往往存する。
沖繩から八重山までの歴史では殺人食肉といふ事は無かったが、
臺灣は近代まで人食ひ島として有名である。
臺灣の名譽のために言ひ添へれば、
臺灣島には東南アジアなど各地から到達した
樣々な人種が居住してをり、
隣村とも顔や言葉が全く異なるのが通常である。
そのため隣村との戰爭で勝ったことを誇るために
往往村門に髑髏を掲げてゐた。
丁度日本の戰國時代のやうな状態が
千年間二千年間と續いてゐたのである。
從って今昔物語の二條はともに臺灣と考へてほぼ間違ひない。

今昔物語に載るやうな話は、近代以前の人々にとっては
中々有名であった。漂流談の元祖である。
江戸時代の『通航一覽』卷一「琉球國部」一に曰く、
「宇治大納言が今昔物語に、仁壽三年宋の商人良暉が、
琉球に漂流の事を載せて、既に琉球と記したれば、
洪武以前今の文字を用ゐし事知るべし」
と。しかし今昔物語の成立は洪武年間(西暦十四世紀末)
よりも前だとは確定できないらしい。
まして卷十一の現存寫本中で
最善とされる實踐女子大學藏二十六册本は
洪武以後の傳寫に違ひない。
『通航一覽』が琉球史の劈頭に掲げるのだから
今昔物語の琉球の知名度は高かったのである。
『通航一覽』ではこれを沖繩と誤認した。
しかし西北に一日で福州に着く人食ひ島は沖繩ではない。

今昔物語の度羅島についても、
明治四年(西暦千八百七十一年)に
臺灣島南部に漂着したかの宮古船の船客が
生還後に語った記録では、
漂着地が今昔物語の度羅島だと思って懼れたといふ。
船客「島袋龜」氏の口述として、
藤崎濟之助氏記録に見えるらしい。
(藤崎濟之助『臺灣史と樺山大將』を檢したが見えず。要確認。)
沖繩人にとっては怖ろしい人食ひの度羅島を沖繩だと思ふ筈が無い。

南方新社『しまぬゆ』第一號の第四十二頁では、
今昔物語の琉球及び度羅島をともに沖繩とする。
そして平安貴族が沖繩を蔑視してゐたことを示すのだといふ。
殘念ながら沖繩ではなく臺灣であるからこの説は通じない。

ついでながら、鎌倉時代の『漂到琉球國記』の人食ひ人種も
沖繩ではなく臺灣である。どうもこのあたり、

琉球が日本と全く異なる文化だったといふ虚構説となって、
誤った琉球獨立論に利用され勝ちのやうだ。


なほ、沖繩を含む日本にも、姥捨てや葬式で屍肉を食らふ習俗があった。各地にあり、沖繩にもある。これらは戰って人を殺す食肉ではなく、葬俗であるから混同してはならない。
伊波普猷「南島古代の葬制」
    昔は死人があると、親類縁者が集って、其肉を食べた。後世になって、この風習を改めて、人肉の代りに豚肉を食ふやうになったが、今日でも近い親類のことを真肉親類(マツシシオヱカ)といひ、遠い親類のことを脂肪親類(ブトブトーオヱカ)といふのは、かういふところから来た。


田村浩「琉球共産村落の研究」
    死体食肉の風は同族親近を表徴し今尚宮古、国頭、糸満地方にありては原始食人の慣行口碑に遺れり。「婆を焼いて嗅もかぐことできぬ程縁遠き者よ」といへるあり。又糸満にありては葬式後豚を屠りて血族に其の骨を頒り、縁者は必ず戸外に出で、之を齧る慣行二三十年前迄事実として行はれり(仲地紀晃氏実験談)。国頭地方には今尚豚を屠り葬送の意を「婆(又はヂヂ)を食って来たか」と称せるあり」


田山花袋「琉球名勝地誌」
    「西表与那国二島の土民人肉を食ひし事」。 


池間栄三『与那国島の歴史』
親類に死人の出たことを老人に告げると「アンスカ・ムム・ファリンサカメ(それでは、股、食べられるね)と言われたものである。


佐喜真興英「南島説話」
昔下方(しもかた、島尻)では死人があると、山羊と一所に煮て食ったさうだ。然るに中世或る孝行者が生れ、親の死体を食べるのは如何にも情に於て忍びなかったので、牛を屠って、皆に此を提供し、「親の代りに此を食べて下さい」と云った。それ以来屍を食ふ代りに葬式に牛豚等を屠って、此を会葬者に御馳走する風俗が始まったとのことである。


崎原恒新「南島研究」8号
昔与那国島では老人を殺して食べる習俗があった。若者は、「次は誰を殺して食べようか」などと話し合った。親思いの若者がいて、島にもちあがった難題を親に解かせ、以来、村人は老人の大切さを知り、それ以後は豚肉をもって代用するようになった。
   

「東京人類学会雑誌」第5巻第52号(明治23年7月)所載、田代安定「沖縄県八重山列島見聞余録」
昔し我か島では諸人の風儀太た自儘にして誰ても人が死ぬと頭でも手でも背脊でも脚でも何処の差別なく皆々寄り集りて割き取り喰ひ致し居し。


池間栄三「与那国の歴史」 (1972年) P38 
与那国の葬儀に獣肉料理を喰べる風習は、上代に死人の肉を食べていた風習の名残だといわれている。



琉球新報
明治42(1909)年5月6日。臺灣遭難者「島袋龜」記事。
「臺灣避難者追懷談」明治42(1909)年5月7日第一面、第6・7段。
「臺灣避難者追懷談」明治42(1909)年5月11日第2面第4・第5・第6段。



以下は關聯リンク。
今昔物語の智證大師、現代語譯。
http://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/9953641dd44fc3fe391eac25a1899075

今昔物語の度羅島。
https://ameblo.jp/yk1952yk/entry-11191707551.html

『通航一覽』卷一「琉球國部」一。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/tsuruta/sei0010.htm

藤崎濟之助『臺灣史と樺山大將』昭和二年。遠隔送信電子版複製濟。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920976

藤崎濟之助記録、島袋龜口述。

http://blog.xuite.net/cgs0648/twblog1/123858234

宮内廳書陵部藏『漂到琉球國記』遠隔送信電子版。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9888014



「宮古島台湾遭難事件-生還者の子孫が今に伝えるもの」
里井洋一  2011-2-11
沖縄県歴史教育者協議会
歴史と実践 no.30 p.39-47 
http://hdl.handle.net/20.500.12000/18867


大濱郁子「牡丹社事件はなぜ起こったのか」、第三屆『臺日原住民族研究論壇』發表論文。
https://web.alcd.tw/news/index.php?id=332
https://www.ptt.cc/bbs/NCCU10_Ethno/M.1282237631.A.7E1.html
https://140.119.115.26/bitstream/140.119/79776/1/36.pdf


加害の元凶は牡丹社蕃に非ず--「牡丹社事件」からみる沖縄と台湾
        大浜 郁子        二十世紀研究 (7), 79-102, 2006
        二十世紀研究編集委員会
https://ci.nii.ac.jp/naid/40015349273


「牡丹社事件」再考--なぜパイワン族は琉球島民を殺害したのか
        大浜 郁子        台湾原住民研究 (11), 203-223, 2007        風響社
https://ci.nii.ac.jp/naid/40015478434


「樺山資紀蘇澳行」    作者:藤崎濟之助原著; 林呈蓉譯註
玉山社  2004/08/01
林呈蓉以藤崎濟之助之《臺灣史と樺山大將》為底本,譯註成《樺山資紀蘇澳行》(玉山社,2004)
https://24h.pchome.com.tw/books/prod/DJAP0R-A52465516


照屋宏『牡丹社遭難民墓碑改修報告書』(1928年3月)

(平良市史第三册資料前近代に重録。複製濟)  
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA57257962


「宮古島民台湾遭難事件」宮國文雄著
那覇出版社, 1998
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA36408232


人喰いの民俗学 歴史民俗学資料叢書2 編著:礫川全次 批評社
https://hanmyouken.net/?pid=107378225


与論島クオリア
喜山荘一 《与論だけの“あの感じ”を言葉にする》《与論・奄美・沖縄(琉球弧)の“同じ”を発見する》
2014/08/27
琉球弧の骨噛み
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2014/08/post-2216.html



漂到琉球國記_琉球大學

  ▲『漂到琉球國記』。琉球大學圖書館展示史料、原本は宮内廳。