- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


季刊沖繩63表紙

南方同胞援護会「季刊沖縄」第63号、昭和四十七年。西暦千九百七十二年。
「明代および清代における尖閣列島の法的地位」、奧原敏雄著。
中村拓『御朱印船航海圖』から尖閣の記述を整理。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/kikan-okinawa63/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka64/kikan-okinawa63/25.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka64/kikan-okinawa63/26.jpg
http://ifs.nog.cc/akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page007.html
 尖閣列島の島々も次々にかれらに知られるようになり、その存在が十六世紀末以後の西洋諸国海図にもしるされるようになった。他方日本においても豊臣秀吉の天下統一成るや積極的な海外進出政策がとられるようになり、いわゆる御朱印船貿易が開始されるにいたった(一五八六年)。そうしてこれら御朱印船貿易業者によって作成された航海図にも、西洋諸国の海図とほぼ時を同じくして、尖閣列島の存在があきらかにされるようになった。
 西洋諸国海図および御朱印船航海図については、今日、中村拓氏による綿密周到な調査研究の成果が存する。ここでは中村氏の『御朱印船航海図』(昭和四十年)を借りてこれらの事情を指摘しておきたい。
 中村氏によって尖閣列島の島々が示されているとされる『航海図』は、西洋諸国のものが十一枚、御朱印船航海図七枚である。これらを列挙すると次の通りである。
(一)西洋諸国海図(三枚略す)
    (ⅰ) 『ドオエッツ海図』(Cornelis Doetszoon 一五九八年ポルトガル図のオランダ製写本)
   (ⅱ) 『ギズベルツ海図』(Evert Gijsbertz 一五九九年、オランダ)
   (ⅲ) 『サンセス海図』(Sances 一六二三年、スペイン)
    (ⅳ) 『ラングレン海図』(A.Langren 一六二〇年、オランダ)
   (ⅴ) 『コムベルフオド海図』(Comberfod 一六四〇年、ポルトガル)
   (ⅵ) 『カバリーニ海図』(Cavallini 一六五二年、オランダ)
   (ⅶ) 『サンチェス海図』(Sanches スペルが異なるが、右のSancesに同じ、一六四一年、スペイン)
   (ⅶ) 『ダメル海図』(John Damell 一六三七年、オランダ)
(二)御朱印船航海図(一枚略)
    (ⅰ)『東亜航図』(一六二〇年代)
   (ⅱ)『葡海図』(一六二〇年)
   (ⅲ)『東洋諸国航海図』 (一六一三―一六一六年頃のもの)
    (ⅳ)『角屋七郎衛図』 (一六三一―一六三六年頃使用のもの)
   (ⅴ)『小加呂多』 (江戸初期。「加呂多」はオランダ語のKaartで、海図の意味)
   (Ⅵ)『盧草拙』(一六七一―一七二九年頃のもの)
これらの海図においては、尖閣列島の島嶼数は一定していないけれども、二から五個である。なお全体としての島嶼あるいは個々の島の名前を付していないものが大多数であるが、若干の航海図には名称も付されている。すなわち御朱印船海図では『小加呂多』と『廬草拙』が「レイス」、『角屋七郎兵衛図』では「鳥島」と記されている(注、現地では南・北小島のことを「シマグァー」または、「鳥島」とも呼ばれていた)。

----------------
坂東將門氏ツイッターも。
https://twitter.com/qqpy5uv9k/status/255938459447984128
https://twitter.com/qqpy5uv9k/status/255939219720134656
https://twitter.com/qqpy5uv9k/status/255939396761694208

季刊沖繩63奧原朱印船1

季刊沖繩63奧原朱印船

.
奧原敏雄先生への追悼文リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016010852123884.html



漢字假名の内閣告示(昭和六十一年及び平成二十二年公布)。
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/kanji/index.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19860701002/t19860701002.html
 我が内閣告示一片は文明の典範たるに足るであらうか。
 そもそも規範と云ひ典型と云ひ楷模と云ふ。範、模、型の字源はいづれも鑄式だが、ただ型は土で、範は竹で、模は木で作られた。規は圓規、楷は硬い木材である。以上五字はいづれも一定不變の喩へである。そして典は古書册の象形字であるから、これもまた記録の不變を代表する。要するに變化するものは規範とならない。永續不易こそ規範の前提條件なのである。 
 内閣告示はそもそも永續不易を目的としてゐない。現行の告示にほぼ曰く、

「一般の社會生活において、現代の國語を書き表す」、「科學、技術、藝術その他の各種專門分野や個々人の表記にまで及ぼすものではない」、「現代文のうち口語體に適用する」、「歴史的假名遣ひが尊重されるべきことは言ふまでもない」、「この假名遣ひにも歴史的假名遣ひを受け繼いでゐるところがある」

と云々。告示に明らかな通り、現在の生活に便する目的であって、過去にも未來にも及ぼさず、科學にも技術にも及ぼさない。不磨の大典ではなく、暫定措置に過ぎない。こんなものに我々が從ふ必要は全く無い。
 現在、學會誌の多くが内閣告示の漢字假名を用ゐることと規定してゐるため、私は投稿できない。學會誌の論文は科學、技術、藝術その他の各種專門分野に外ならないのだから、そもそも投稿規定は告示の精神に反してゐる。しかも論文は個人の署名で投稿されるのだから、これを制限するのは告示に反するのみならず、憲法の言論の自由にも反する。基本的人權が侵害されてゐる。私はほぼ九割の學會誌に投稿できないため、研究業績に高評價を得ることができず、研究者としての利益を數十年來犠牲にして來た。
 我々は學會諸誌に對して裁判を起こすにも、忙しくて餘力が無い。多くの人々が協力してくれるならば、裁判を起こしたいものだ。


おちゃのみづ


昨年書いた「護憲派宣言! 改憲すると逆に尖閣を防衞できなくなる」
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html

に關聯する報導が出た。田原總一朗氏。

憲法改正の必要性について、安倍晋三首相が昨年、「全くなくなった」と語っていたことを明らかにした。「米側からの要請がなくなったためだ」と説明したという。首相は次の目標として、「憲法に自衛隊の存在を明記したい」とも話したという。 
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017101301041


安倍さんから「憲法を改正する必要がまったくなくなった」「集団的自衛権の行使を決めたら、アメリカは何も言ってこなくなってきた。アメリカは満足したのだろう。だから、憲法を改正する必要はない」と説明を受けたそうだ。
https://www.bengo4.com/internet/n_6798/

これは田原氏が語ったに過ぎない。
しかし確かに最近、安倍首相は自衞隊明記へと方針を轉換した。
符節一致してゐる。
集團的自衞が合憲なのだから、個別的自衞も當然合憲である。
安倍首相が自衞隊存在明記のために改憲するといふのは、
明らかに精神論としてだ。改憲を言ひ續けることにより
愛國派の支持を失なはぬやうにするだけだ。
言はば改憲は靖國參拜みたいなもので、
參拜したって尖閣を守れるわけではない。精神論である。
實務として必要なのは自衞隊法のネガティブリストなどであって、改憲ではない。

しかし安倍内閣が改憲の主張を取り下げると、
必然的に憲法以外の防衞政策に國民の注意力が向くだらう。
その最たるものが尖閣常駐だ。
尖閣はドローンすら接近できぬほどに安全なのに、
http://senkaku.blog.jp/2017091872662441.html
何故尖閣に常駐しないのか、國民から批判が集まる。
さうなっては困るから、精神論として靖國及び改憲が必要なのだ。

ここに國民が氣づかぬ限り、尖閣500年歴史戰全面勝利及び、
その結果として公務員の平和的常駐は實現しないだらう。
現状では、改憲や慰安婦、軍艦島徴用、南京事件などに
國民の注意力が向いてをり、尖閣は忘れられてゐる。
まして悠久の尖閣五百年史を誰も理解しようとしない。

尖閣常駐の障碍はチャイナで暴動發生など、
經濟であり、軍事ではない。
必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。
歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。
國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


憲法第九條を見直して欲しい。
  「國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
  「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、
  これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。」
前提が「國際紛爭を解決する手段としては」とあるから、
尖閣防衞は合法である。
交戰權・戰力だけを保持せず・認めずと、わざわざ限定してゐるのだから、
自衞權・自衞力を放棄してゐない。
「戰力」は英文草案で「war potential」となってをり、
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html
現行憲法の一般的英譯でも變はらない。
つまり放棄する「戰力」に防衞力は含まれない。


關聯:「護憲派宣言! 改憲すると逆に尖閣を防衞できなくなる」
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html

自民の高村氏が五年前の總裁選での尖閣談合を曝露
http://senkaku.blog.jp/2017100272900140.html

尖閣から逃げるチャイナ海警船 仲間均議員と電話でお話しました
http://senkaku.blog.jp/2017100272900425.html

八重山毎日「自衛隊は尖閣に配備せよ」社説に注目。 安倍氏は總選舉で説明せよ
http://senkaku.blog.jp/2017092072706234.html

日本の先制を待つチャイナ 自衞隊常駐で問題は雲散霧消する 鍵は歴史だ
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html

國民新聞寄稿 領土で外交勝敗を論ずる愚 歴史意識稀薄 調停はゼロの側が有利
http://senkaku.blog.jp/archives/19452704.html






田原總一朗291013

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)
扶桑社表紙





日經290826履歴書高村赤切

自民の高村氏が五年前の總裁選での尖閣談合を曝露。
 尖閣談合の噂は隨分聞かされてます。私の立場で耳に這入らぬはずもないし、歴史研究そのものに反對する退役自衞官や、國際政治と歴史といふ分野の爭ひめいたもの、全て經驗してます。どの筋であれ、談合の主張は歴史を理解しない淺はかな人間だけが言ってます。要するに談合です。
 自民黨は談合だけして、公約撤囘を説明しなかった。國民を騙した。常駐しない理由をきちんと論戰で國民に説明する態度ではない。きちんと論戰する場合、歴史が主役になります。

 チャイナは尖閣侵掠の意圖を公言してゐるので、少しでも緩めば侵掠される。しかし尖閣海域では海保の力で平和が保たれてゐるので、常駐は極めて平和的にできる。常駐した場合に問題は三點。

第一、日本企業が破壞されるので、丹羽氏らを中心とする經團聯の機嫌を損ねること。
第二、先進諸國が日本を惡者扱ひするlこと。
第三、日本國民が支持しないこと。
第四、米國が反對すること。

この内、第四はトランプ大統領をしっかり説得すれば今なら可能だ。そして第二第三が解決すれば、第一も仕方なく黙るだらう。問題はチャイナで暴動發生など、經濟であり、軍事ではない。第二第三の解決に必要なのは何か。それは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。

 現在、チャイナのドローンすら尖閣に接近できない。自衞隊が明日から尖閣上陸演習して、そのまま常駐しても何も問題ない。問題あるかの如く安倍政權が虚像を作ってゐるに過ぎない。

http://senkaku.blog.jp/2017091872662441.html
 安倍政權は「尖閣常駐」を公約として出發した。東京都の尖閣基金十四億圓も鹽漬けになってゐる。安倍氏は今度の總選舉では公約違反をどう説明するのだらうか。公約撤囘と謝罪など無意味だ。ドローンすら接近できない平和な尖閣に、常駐しない理由を明確に説明すべきだ。

下はドローンで尖閣を撮影放映したと騷がれてゐるビデオ。19分半から。

https://www.youtube.com/watch?v=Wu6PwvOQBa8#t=19m30s

ドローンですらちっとも尖閣に接近できてゐない。遙かに遠い映像ばかりだ。日本の海保は完全に尖閣を守ってゐることが逆によく分かった。これほど素晴らしく日本の主權を示してゐるビデオも中々無い。これほど安全なのに何故日本は上陸常駐しないのか。

 政府は尖閣が常に危險だと宣傳して、尖閣を取りまく東支那海の軍備増強に利用して來た。尖閣を取材させないから、ブラックホールのやうに危險に見える。ところがチャイナ側から實は安全だとばらされてしまった。それが實情だ。



關聯:
尖閣防衞のウソ 箇條書き保存版 
http://senkaku.blog.jp/2016081565003071.html

日本の先制を待つチャイナ 自衞隊常駐で問題は雲散霧消する 鍵は歴史だ
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html

尖閣から逃げるチャイナ海警船 仲間均議員と電話
http://senkaku.blog.jp/2017100272900425.html


ドローンで尖閣を撮影放映したと騷がれてゐるビデオ。19分半から。



https://pbs.twimg.com/media/DK1osySVAAAxHK0.jpg
https://t.co/1O1wf2wyKP
 「尖閣海域で90㌔水揚げ 中国公船は妨害せず 仲間市議」 八重山日報。
 尖閣は完全に守られてゐます。尖閣常駐は即時可能です。自民と希望と、どちらが尖閣常駐を選擧で公約するか。
 仲間均議員にお電話して慶祝をお傳へしました。記事後半(有料)の通り、チャイナ海警船は東方の公海へ逃亡したさうです(久米赤島=大正島の方向)。チャイナは侵掠したいけれども全然できない。海保がしっかり守ってゐます。尖閣常駐は平和裏にできます。常駐しない政治の責任が問はれます。


八重山日報290929尖閣仲間市議2


關聯:

尖閣防衞のウソ 箇條書き保存版

http://senkaku.blog.jp/2016081565003071.html


日本の先制を待つチャイナ 自衞隊常駐で問題は雲散霧消する 鍵は歴史だ
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html


https://www.youtube.com/watch?v=NN36PNgMfT8
 とても勉強になる。勉強になったついでに、チャイナといふ歴史的存在について、私も勝手にブログで議論に加はりたい。
 15分半から、「琉球もチベットもウイグルもチャイナの影響下」と仰せである。東南アジア諸國および一時的にはオランダも朝貢した。しかし琉球はチベットウイグルと違ふのではないか。諸國は大きく海陸二種に分かれる。
 海側の諸國(朝鮮・日本・琉球・ベトナム及び東南アジア)は明國の始祖洪武皇帝の遺訓により「不征の十五邦」と呼ばれ、征討されることは無かった。明國の統治力も兵力も海外にとどかなかったからである。そのひとつ琉球も、チャイナ統治外であったことが分かる。
 陸側の諸邦は明・清と相互に討伐を繰り返し、しばしば明・清の半統治下となり、清では「藩部」と呼ばれ、「理藩院」の管轄となった。そして清の末には内陸の諸邦を「五族共和」と呼んだ。五族とはチベット・ウイグル・モンゴル・滿洲・チャイナを指す。これらの内に、琉球など海側から朝貢する諸邦は含まれなかった。
 清國では陸側(西南・西北・東北)のチベット・ウイグル・モンゴルなどは全て「藩部」と呼ばれ、「理藩院」(自治省)の管轄であった。海側の諸國は「禮部」(外務省兼文部省)の管轄とされ、形式的に王位を授けるだけであり、統治が及ぶことは無かった。明國の「不征の十五邦」の形がそのまま承けつがれたのである。
 但し李氏朝鮮とベトナムとだけは例外的に、時により統治力が及んだり及ばなかったりした。清末の西暦1884年に清朝はベトナムをめぐってフランスと軍事衝突し、西暦1895年には李氏朝鮮をめぐって日本と軍事衝突した。それは海側と陸側との境目だったからである。
 このやうにチャイナにも「くにのかたち」が有る。チャイナの周りの諸邦は西南・西北・東北の陸側と、東南の海側とに分かれる。

參考1:いしゐのぞむ「琉球王朝はなぜ中華思想にゆさぶられたのか」、『日本戦略研究フォーラム季報』66、pp.3-7、平成27(2015)年10月。
http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho66/66-3page.htm

參考2:『さうだったのか沖繩!』所收「琉球國はチャイナ領土だったのか」
http://senkaku.blog.jp/archives/19112464.html

 
 
さて引きつづき織田先生講演會。ビデオ16分半から、南支那海二千年について。ローマ帝國の領土と比較なさってます。しかしそもそも、二千年前の南支那海を、チャイナはローマ帝國のやうに支配したのだらうか。私が史料で勉強した限りでは、話は全く逆で、南沙諸島に最も早く進出したのは西方の貿易船であって、チャイナはゼロであった。
參考:
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html

次に織田先生講演ビデオの20:30、米國のマティス國防長官は、「現チャイナは明國の册封體制復活を期してゐる」と。誠にその危險は高い。但し忘れてならないのは、明國は南沙を支配してゐなかった。支配してゐたとするのは全部ウソである。
參考:
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
http://senkaku.blog.jp/2016091565883977.html

我々は「三戰」に對して果敢に戰はねばならない。勉強になる講演ビデオであった。



他にも、高橋洋一氏講演會。痛快。
https://www.youtube.com/watch?v=xd-S7feR7g8

.




ミャンマーで八月下旬ヒンドゥー教徒虐殺の屍體遺棄地、埋藏地が、「墓地」と報導されてますが、
http://www.afpbb.com/articles/-/3144667
墓ではないやうです。古來、墓は慕と同音相關する漢字だとされてゐて、孝子が父祖を思慕する地が墓だと古注にもあります。一例が『令義解』卷九「喪葬令第二十六」です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562918/10
墓之言慕也令義解赤
「墓之言、慕也。塚塋之地、孝子所思慕者。」
(墓の言たる、慕なり。塚塋の地は孝子の思慕する所の者なり)。
塋も墓の義です。墳塋(ふんえい)、塋域(えいゐき)などの語あり。

古くは『周禮』「墓大夫」、後漢末の鄭玄の注に曰く、
「墓、塚塋之地、孝子所思慕之處。」
(墓は塚塋の地にして、孝子の思慕する所の處なり)
と。

 東南アジアは古來佛教の地ですが、後に海岸沿ひに西からイスラム教徒が進出した歴史があり、海側のマレーシア・インドネシアだけが現在イスラム教國となってゐます。しかし内陸は全て佛教です。佛教は先輩、イスラム教は後輩といふのが極めて簡略な外野的理解です。現代政治は全く分かりませんが、スーチー女史が收拾に苦慮してゐるやうなので、早期和平を願ふばかりです。


 
八重山毎日新聞の正論。「自衛隊は尖閣に配備せよ」  
http://www.y-mainichi.co.jp/news/32240/  
曰く、「現在尖閣は海保の1航海1隻1000万円ともされる燃料費をかけて連日連夜4隻以上が尖閣を守っている。自衛隊は多くの市民が嫌がる石垣、宮古でなく尖閣に直接配備すべきだ。」
(部分省略あり。)
八重山毎日ロゴ

と。現在、チャイナのドローンすら尖閣に接近できない。自衞隊が明日から尖閣上陸演習して、そのまま常駐しても何も問題ない。問題あるかの如く安倍政權が虚像を作ってゐるに過ぎない。問題はチャイナで暴動發生など、經濟であり、軍事ではない。

http://senkaku.blog.jp/2017091872662441.html
 安倍政權は「尖閣常駐」を公約として出發した。東京都の尖閣基金十四億圓も鹽漬けになってゐる。安倍氏は今度の總選舉では公約違反をどう説明するのだらうか。公約撤囘と謝罪など無意味だ。ドローンすら接近できない平和な尖閣に、常駐しない理由を明確に説明すべきだ。

下はドローンで尖閣を撮影放映したと騷がれてゐるビデオ。19分半から。

https://www.youtube.com/watch?v=Wu6PwvOQBa8#t=19m30s

ドローンですらちっとも尖閣に接近できてゐない。遙かに遠い映像ばかりだ。日本の海保は完全に尖閣を守ってゐることが逆によく分かった。これほど素晴らしく日本の主權を示してゐるビデオも中々無い。これほど安全なのに何故日本は上陸常駐しないのか。

 政府は尖閣が常に危險だと宣傳して、尖閣を取りまく東支那海の軍備増強に利用して來た。尖閣を取材させないから、ブラックホールのやうに危險に見える。ところがチャイナ側から實は安全だとばらされてしまった。それが實情だ。

http://senkaku.blog.jp/2016081565003071.html

 これにより左翼は言ふだらう。「チャイナは尖閣をほとんど侵犯してないから心配要らない」と。全く違ふ。防衞できてゐる今こそ、自衞隊常駐の時だ。チャイナからは常駐の事實すら發見できないだらう。常駐が明らかになった後、チャイナはどうするか。攻撃は不可能。よってチャイナ國内で再度民衆動亂を煽動し、日本企業破壞などありとあらゆる不逞の限りを盡くすだらう。   
 安倍首相は尖閣常駐の公約を破ったまま再び總選擧に突入しようとしてゐる。國民が黙ってゐるから安倍首相は怖れないのだ。國民を怖れず、常駐を怖れてゐる。常駐した場合に安倍首相が怖れてゐるのは三點。
第一、日本企業が破壞されるので、丹羽氏らを中心とする經團聯の機嫌を損ねること。
第二、先進諸國が日本を惡者扱ひするlこと。
第三、日本國民が支持しないこと。

この内、第二第三が解決すれば、第一も仕方なく黙るだらう。第二第三の解決に必要なのは何か。それは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。


ビデオ19分半からドローン。

 


 9/19火曜午後七時半、無事に日本に歸着しました。安全で有り難い日本です。皆樣にご心配お掛けしました。香港の出國時に藥物を鞄に入れられて逮捕とか、尋常ならぬ冤罪に陷りはすまいかと、ほぼ不安は無いながらも不安でした。
 香港の自由は基本的に保たれながらも、少しづつ制限を加へられてゐるニュースが地元テレビでも毎日流され、人々からもさういふ聲を聞きました。今後の香港は少しづつ心配です。基本的にはチャイナが違法と看做す人物が香港に這入る計劃が報導されると、入境拒否されるといふのがこれまでの慣例です。「石井さんはよく入境拒否されませんでしたね」といふ聲も香港地元の人から言はれました。まあ報導されてませんでしたので這入れたわけです。出境する時は陰謀でも無い限り安全ではあります。
 以上、ご報告でした。

香港空港

http://senkaku.blog.jp/20170911.html
http://senkaku.blog.jp/HongKong.html

 

ドローンで尖閣を撮影放映したと騷がれてゐるビデオ。19分半より。

https://www.youtube.com/watch?v=Wu6PwvOQBa8#t=19m30s

ドローンですらちっとも尖閣に接近できてゐない。遙かに遠い映像ばかりだ。日本の海保は完全に尖閣を守ってゐることが逆によく分かった。これほど素晴らしく日本の主權を示してゐるビデオも中々無い。これほど安全なのに何故日本は上陸常駐しないのか。

 政府は尖閣が常に危險だと宣傳して、尖閣を取りまく東支那海の軍備増強に利用して來た。尖閣を取材させないから、ブラックホールのやうに危險に見える。ところがチャイナ側から實は安全だとばらされてしまった。それが實情だ。

http://senkaku.blog.jp/2016081565003071.html

 これにより左翼は言ふだらう。「チャイナは尖閣をほとんど侵犯してないから心配要らない」と。全く違ふ。防衞できてゐる今こそ、自衞隊常駐の時だ。チャイナからは常駐の事實すら發見できないだらう。常駐が明らかになった後、チャイナはどうするか。攻撃は不可能。よってチャイナ國内で再度民衆動亂を煽動し、日本企業破壞などありとあらゆる不逞の限りを盡くすだらう。   
 安倍首相は尖閣常駐の公約を破ったまま再び總選擧に突入しようとしてゐる。國民が黙ってゐるから安倍首相は怖れないのだ。國民を怖れず、常駐を怖れてゐる。常駐した場合に安倍首相が怖れてゐるのは三點。
第一、日本企業が破壞されるので、丹羽氏らを中心とする經團聯の機嫌を損ねること。
第二、先進諸國が日本を惡者扱ひするlこと。
第三、日本國民が支持しないこと。

この内、第二第三が解決すれば、第一も仕方なく黙るだらう。第二第三の解決に必要なのは何か。それは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
http://senkaku.blog.jp/2017022769624302.html
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


以下ビデオ19分半より。

 



祝!重版出来「中国が反論できない真実の尖閣史」石平 倉山満【チャンネルくらら・9月14日配信】

https://www.youtube.com/watch?v=YFERWPpNhI0



おっと!これは凄いビデオだ。頁數まで舉げて、こだはりの人、倉山滿先生です。

アマゾンはこちら
https://www.amazon.co.jp/dp/4594077730


(to be revised)

Translation plan for:
Ishii, Nozomu. Senkaku Hanbaku Manyuaru Hyakudai (Senkaku Rebuttal Manual: One Hundred Points). Fukuoka: Shukosha, 2014.
https://www.worldcat.org/oclc/881422380

Senkaku Rebuttal Manual was originally published with the aim of providing the lay reader with commentary on historical records related to the Senkaku Islands written in classical Chinese. The English translation, however, will largely be for academic consumptions. It will consist of the following three parts only, as it omitting nonessential content:

Part One: A Brief History of the Senkaku Islands
(Translating approx. 4,000 English words)
Part Two: One Hundred Lessons on Historical Sources
(Translating approx. 40,000 English words; 150 plates)
Part Three: Rebuttals to Contemporary Discourse
(Translating approx. 30,000 English words)
Appendices: Chronology, index

Outline of this book is as follows.

Part One: A Brief History of the Senkaku Islands
In ancient times, the Senkaku Islands served as the gateway to Ryukyuans returning from other countries. The oldest record dates to 1534, when officials of the Ryukyu Kingdom escorted a ship carrying emissaries of the Ming Dynasty to the Senkaku Islands. From the time of Toyotomi Hideyoshi onward, the islands were also part of a north-south route used by shuinsen (“red-seal” trade ships licensed by the shogunate) heading out from Nagasaki. The history of the Senkakus prior to formally becoming Japanese territory can be described as one of bearing witness to history at the gateway of Japan’s culture.
As historical sources show, red-seal ships sailed a regular route passing through the chain of islands off the Fujian coast (including the Matsu Islands and Penghu Islands). Research by the author has revealed that Chinese records from the period defined the same Fujian coast island chain as the front line of coastal defense. The Senkaku route connects Ryukyu and Fujian by a straight line east and west, with the Matsu Islands sitting at the western entrance. This puts the Senkaku Islands far outside the limits of China’s said coastal defense line.
Furthermore, according to successive generations of official Chinese topographic maps, the officially recognized territory of both the Ming and Qing dynasties extended only as far as the continental coastline, with the exception of the island territories of Hainan and Qing Taiwan. Officially speaking, all other islands fell outside Chinese territory; the Senkaku Islands were likewise far removed from the border. This would remain the status quo until the early years of the Republic of China.
In 1885, the Battle of Tamsui (in northern Taiwan) occurred during the Sino-French War, while British forces occupied the Korean islands of Komundo. An English-language newspaper published by Britons living in Shanghai reported that British troops traveling between Hong Kong and Komundo sighted the Japanese flag as they passed the vicinity of the Yaeyama Islands (to the south of the Senkaku Islands), which suggests that the British had an interest in the territorial rights to Yaeyama. Moreover, there was information that French forces were eyeing the Yaeyama Islands as well. Alarmed by these developments, Japan began taking careful steps toward incorporating the Senkaku Islands to the north of Yaeyama with the intent of consolidating its defense of the latter.
Official Sino-Japanese correspondences in 1893 indicate that Qing China had zero grasp of the relative positions of the Yaeyama Islands, the Senkaku Islands, and Kagoshima, among other places. Neither did it care about Japanese nationals traveling to and setting foot on the Senkakus. The Japanese government was wary of the intervention of Western powers in Sino-Japanese relations over the Ryukyu Islands (present-day Okinawa Prefecture); with regard to the Senkakus as well, it carefully awaited an opportunity to incorporate the islands into its territory. But we now know that these concerns were unfounded, as recent research has revealed Qing to have had no interest whatsoever in the Senkaku Islands. On January 14, 1895, following the outbreak of the First Sino-Japanese War, Japan formally incorporated the Senkakus into its territory. The objective, as already noted, was to defend the Yaeyama Islands.
Whereas the Strait of Gibraltar in southern Spain and parts of Eastern Europe have been among the historical focal points of interstate disputes in the West, similar historical disputes in East Asia have centered on the Taiwan Straits. The Senkaku Islands, which lie east of the strait beyond the island of Taiwan, have never historically been a region in dispute.

Part Two: One Hundred Lessons on Historical Sources
Part Two will comprise concise quotations from the most relevant segments of 100 sources, primarily premodern historical records written in classical Chinese, each of which will be supplemented with commentary. It will consist of four chapters:
Chapter One: Historical Sources of the Ming Dynasty
Chapter Two: Historical Sources of the Qing Dynasty
Chapter Three: Unidentified Historical Sources
Chapter Four: Historical Sources Ignored by China
·     A small selection of the historical sources and commentaries is as followed.Chen Kan, Shi-Ryukyu-roku (Records of a Mission to Ryukyu), 1534
This is the earliest record by a Ming emissary that mentions the Senkaku Islands. China cites this as evidence of its sovereignty over the islands, but the original text notes that officials of the Ryukyu Kingdom guided the way. The Chinese ignore the paragraph about the Ryukuans’ guidance.
·    Author unknown, Shun-feng-xiang-song (Voyage with the Tail Wind), 1573 or later
China cites this book as evidence that the Chinese were the first to discover and name the islands, claiming it to be the earliest record of the Senkakus, completed in 1403. In its original, however, the second volume of this two-part source mentions the 1570 opening of the port of Nagasaki and the 1573 construction of a fortress in Manila. Moreover, discussions of eastern and western sea routes centering on the island of Borneo are divided between the two volumes, with eastern routes including such places as the Senkaku Islands, Ryukyu Islands, Taiwan, Luzon, and Nagasaki all are  mentioned in the second volume. In addition, there are pronounced differences between the navigation techniques featured in the first and its in the second volumes. It follows that the older first volume and the second volume, which was completed no earlier than 1573, are two distinct documents.
·    Official Ming government document, Huangming-Shilu (Veritable Annals of the Ming Dynasty), 1617
According to this document, the chief of coastal defense of Fujian under the Ming Dynasty told a Japanese envoy that the territory of Fujian ended with the six coastal islands, including Matsu and Penghu, and that the ocean beyond those islands was shared by all countries. The Senkakus are situated in the “ocean beyond.”
·    Wang Ji, Shi-Ryukyu-zoroku (Miscellaneous Records of a Mission to Ryukyu), 1683
Wang Ji, an envoy of the Qing Dynasty, depicted a “Zhong-wai” boundary line as being to the east of the Senkaku Islands during a voyage from Fujian to Ryukyu. Zhong-wai literally means “inside and outside.” Today China interprets this as “China and foreign countries” and claims that everything in west of the line is Chinese territory. During the same voyage, however, Wang Ji himself  stated that “the land of Fujian ends here” at the Matsu Islands in the western part of the Taiwan Strait, which proves that Zhong-wai did not denote the dichotomy between China and other countries. According to various other historical sources, “inside” referred to Shuri palace, the seat of the Ryukyu Kindom, and the islands lying west of the main Ryukyu island were perceived as gradually transitioning from the “inside” to the “outside” in order of their distance from the main island. The eastern extremity of the Senkaku Islands was where this transition to the “outside” became complete. Thus, the Senkaku Islands were terra nullius from the perspectives of both the Ryukyu Kingdom and China, outside the realm of either.
·    Quan Kui, Chengchaji (Collection of Seafaring Poetry and Prose), 1756
Chengchaji is a collection of poems that Quan Kui wrote during his voyage to Ryukyu as an ambassador of the Qing Dynasty. In it, he  refered to the islets north of Taiwan as “Chogyo Island,” and he later  crossed the Hua-yi (“China and barbarian countries”) boundary in the middle of the ocean. Only after all this,  he  depicted the Senkakus.
·    Official document, Chongzuan-Fujian Tongzhi (Geographical Dictionary of Fujian Province, Revised Edition), 1871
A paragraph on defense of the northeastern coast of Taiwan says, “the northern limit is the promontory at the northeastern tip of the main island of Taiwan.” The characters for “Chogyo Island” can be found in the same paragraph, but they refer not to the Senkakus but to another island of the same name near Taiwan Island.

Part Three: Rebuttals to Contemporary Discourse
The books and papers given below are all critical of Japan regarding sovereignty over the Senkaku Islands. This book will offer rebuttals to each of them on the basis of premodern historical sources.

Yasushi Inoue, “Senkaku” Retto, Chogyo shoto no shiteki kaimei (Elucidating the History of the “Senkaku” or Chogyo Islands)
Shogoro Takahashi, Senkaku retto noto (Senkaku Islands Notebook)
Zheng Hailin,  (Study of the History and Legal Principles of the Chogyo Islands), revised and enlarged edition. 
Ju Deyuan, Chogyoto seimei (Correct Name of the Chogyo Islands)
Ukeru Magosaki, Nihon no kokkyo mondai: Senkaku, Takeshima, Hoppo ryodo (Japan’s Border Issues: Senkaku, Takeshima, the Northern Territories)
State Council of the People’s Republic of China, Chogyo-to White Paper
Article published in New York Times journalist Nicholas Kristof’s blog, “The Inconvenient Truth Behind the Diaoyu/Senkaku Islands”
Takashi Okada, Senkaku shoto mondai, ryodo nashonarizumu no maryoku (The Senkaku Islands Issue: The Spell of Territotorial Nationalism)
Ukeru Magosaki, Kensho Senkaku mondai (The Senkaku Issue Examined)
Wu Tianying, Research on the Ownership of CHogyo Island Before the Sino-Japanese Battle, revised and expanded edition.  
Susumu Yabuki, Senkaku mondai no kakushin (The Heart of the Senkaku Issue)
Tadayoshi Murata, Nicchu ryodo mondai no kigen, kobunsho ga kataru futsugo na shinjitsu (Origins of the Sino-Japanese Territorial Issue: Inconvenient Truths Revealed by Official Documents)
A certain Beijing scholar (Liu Jiangyong), “Jijitsu wa yuben ni masaru, Chogyo-to wa tashika ni Chugoku ni zokusu, Nihon bo gakusha (Ishii Nozomu) no byusetsu wo hyousu” (Facts Speak Louder than a Silver Tongue: The Chogyo Islands Undoubtedly Belong to China—Commenting on the Fallacies of a Certain Japanese Scholar [Nozomu Ishii])
Keiji Yamada, Kairo to shite no “Senkaku shoto,” kokai gijutsu shijo no yojo fukei (The Senkaku Islands as a Sea Route: Oceanscapes in the History of Navigation Techniques)

 (End of translation plan)

メトロ (1)

書泉グランデ260805








國土地理院。
http://kochizu.gsi.go.jp/items/263
「尖閣海域史辨妄」(長崎純心大學院『人間文化研究』第15號)
の中で論じたGaelayとGillira。
西暦約1716年、ドイツのIohhan Bapt. HOMAN氏製「Asiae」にも出現。
ドイツ人が日本に來てゐたわけではなく、
オランダの地誌地圖から取り入れた情報である。
Gaelayは臺灣島から少し離れて見えるが、
地誌ではもっと接近記述されてゐて、
明らかに龜山島である。尖閣ではない。
オランダは幕末まで精確な尖閣情報を得ることが無かった。
詳細は「尖閣海域史辨妄」でどうぞ。

Homan_1716_Asiae

http://kochizu.gsi.go.jp/items/263

。。

NamePhoneFaxEmail


https://hkuems1.hku.hk/hkuems/ec_hdetail.aspx?UEID=52149&guest=Y
https://hkuems1.hku.hk/hkuems/hkuevent.aspx?guest=Y
 Registration form:

https://hkuems1.hku.hk/hkuems/ec_regform.aspx?guest=Y&UEID=52149


National Boundary and Maritime Defense Line West of the Chogyo/Tiuyu(釣魚) Islands
posted by Faculty of Law for HKU and Public
Event Type: Public Lecture/Forum/Seminar/Workshop/Conference/Symposium
Event Nature: Law and Politics


Event Details
"National Boundary and Maritime Defense Line West of the Chogyo/Tiuyu(釣魚) Islands for Min & Shin (Mdr. Ming & Qing) Empires"

Professor ISHIWI Nozomu (石井望、いしゐのぞむ)
Associate Professor, Nagasaki Junshin Catholic University


Monday, 11 September 2017, 13:00-14:00 
Room 824, 8/F, Cheng Yu Tung Tower (鄭裕彤樓/法學院)

http://mingeytrial.weebly.com/uploads/2/1/2/6/21266992/960788_orig.png

Centennial Campus, The University of Hong Kong (香港大學)

Subway Hongkong University Station

https://en.wikipedia.org/wiki/HKU_Station


Chinese records from the end of the 16th century defined the chain of islands off the Hokkien (Mdr. Fujian) coast including the Matsu, Wuku (Mdr. Wuqiu) and Penghu Islands, as the front line of coastal defence. The Senkaku/Diaoyu Islands route connects Ryukyu and Hokkien by a straight line east and west, with the Matsu Islands sitting at the western entrance. This puts the Senkaku/Diaoyu Islands far outside the limits of China’s coastal defence line. The officially recognized territory of both the Min and Shin Empires extended only as far as the continental coastline, with the exception of the island territories of Kainan (Mdr. Hainan) and Taiwan prefecture. Officially speaking, all other islands fell outside Chinese territory. This would remain the status quo until the early years of the Republic of China.
西元十六世紀末開始,福建沿岸島鏈如東湧(馬祖列島)、烏丘、澎湖等,成為明清兩國海防前線。釣魚臺航線東西連接福建及琉球,其最西入口就是馬祖列島的東湧。釣魚臺遙遙位於明清海防界限之外。明清官修方志諸本一律規定其領土到大陸海岸為止,只有海南島及清國臺灣府是例外。其餘一切島嶼基本上都在國界之外。這個狀態一直延續到中華民國初年。


Professor Ishiwi is an Associate Professor at the Nagasaki Junshin Catholic University in Japan and a Special Researcher with the Cabinet Secretariat Commissioned Research Project on the Documents Relating to the Senkaku Islands. His works include: "Senkaku Refutation Manual 100", 2014, Shukousha Publication, 《尖閣反駁マニュアル百題》,集廣舍; "Three Discussions on Chogyosho/Tiuyutsui History, Handout material of The 4th Research Forum on The East China Sea Problem, The Tokyo Foundation & Institute of Japanese Studies in Chinese Academy of Social Sciences" 2016, 《釣魚嶼史三議》,東京財團、中華人民共和國社會科學院日本研究所,第四屆東シナ海問題研究會發布資料; and "The True History of Senkakus, China Can Not Refute", Sekihei (creator), ISHIWI Nozomu (supervise historical documents), Fusosha Publishing Inc., 2017(石平《中國が反論できない眞實の尖閣史》,いしゐのぞむ監修史料,扶桑社).

 
Date/Time 11/09/2017 13:00-14:00

In 824 room, 8/F, Cheng Yu Tung Tower, Centennial Campus, The University of Hong Kong
Language: English
  (and Cantonese)
 
Registration Instruction
Registration is open from 05/09/2017 11:00(HKT) to 11/09/2017 13:30(HKT) on a first-come-first-served basis. The registration quota for this event is 50. Registrants will be placed on a waiting list if the registration quota is reached.


Contact Information
Should you have any enquiries, please feel free to contact Anna Lamut by email at alamut@hku.hk or by phone at 3917 1938.


香港大學法學院地圖

https://pbs.twimg.com/media/DJFfZaOUIAETLh6.jpg


.
290911香港大學講座廣告

.

Handout of lecture in Hongkong University
https://drive.google.com/open?id=0B2MwcvRggQjpaHQzWjFiZV92TzA
Here is my handout, please download it. (created in 11/09/2017)

.


 西元十六世紀末成書的『順風相送』中,閩南字音占多數,一開始我沒有悟到。只要知道是閩南字音,中間很多日本地名就迎刃而解。略擧一證如「隴居仔」,亦作「隴車仔」,閩南字音是「Lang ku a」,音近日本「Nagoya」,不是大城市名古屋(Nagoya),而是佐賀縣名護屋(Nagoya),豐臣秀吉帷幄之地,由此出兵朝鮮。

『順風相送』云:
「欲往護屋,平戶出港用艮寅三更收入護屋,即隴車仔也。」
『指南正法』云:
「魚鱗島上是隴居仔,隴居仔上是花腳踏踏。」

 魚鱗島,閩南音hi lan to,即長崎縣平戶(Hi ra do),前人向有卓見。

 花腳踏是博多(Ha ka ta),閩南念Hue kah tah,  但花的書面音是Hua,因此該作Hua ka ta。現代日本ha hi fu he ho在平安京初葉念pa pi pu pe po,戰國時期念fa fi fu fe fo,乃至hua fi fu hue fo,博多在戰國末年應念Hua ka ta,符合閩南字音。閩南沒有F音,也可能把日本的fa ka ta 念成 hua ka ta。我原以為這也是前人定論,無須我妄加註解。可是大師向達講「今地無考」(見第235頁),其餘也尋不着訊息。晩明『西湖二集』末卷列有徽王汪直控制之地,其中也有花腳踏,似未有人破解過。難道我這個部落格貼子是學術創見麼。

 至於隴居仔,大師向達講「今地待考」(見第273頁)。前輩陳佳榮基本上都尋對了,講「或應為佐賀縣唐津市的名護屋(Nagoya)」,惜尚疑信莫定。
http://www.world10k.com/blog/?p=2025

 看來從戰國末、安土桃山,到朱印船時代,閩南人口中的很多日本地名紀錄,有待一一比對,寫成論文。我自己呢,可沒那麼多閑工夫,國事在身,首務還是要研究釣魚臺歷史。


名護屋
▲佐賀縣名護屋城堡遺址。
http://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/hizennagoya/hizennagoya.html


同時參看:
http://senkaku.blog.jp/2016050259358947.html


http://archive.is/tOoux
http://web.archive.org/web/20170904023627/http://senkaku.blog.jp/2017090472434971.html



平成二十九年六月十三日、ジュネーブの高級ホテル「ブリストル」で我那覇眞子女史及び依田啓示氏とともに講演させて頂いた。忙しくて遲くなったが、その樣を八重山日報六月十五日第一面から切り取ってご覽頂かう。詳細及びビデオは整理の上で後日公開したいと思ってゐる。

yaeyama290615
 ▲八重山日報、平成二十九年六月十五日第一面


まづは自分の責任として、記事の内で私に關する部分だけ電子文字にして置かう。
「石井准教授は琉球国や尖閣諸島の歴史を紹介。江戸幕府が17世紀後半からオランダに交付した申し渡し状「御条目」を紹介。第5条で「琉球は日本に属するので、オランダは海賊行為をしてはならない」と述べていたことを挙げ、現在の「琉球独立論」を念頭に、琉球国が日本に属していたことが対外的にも明らかだったと強調した。石井氏によると、「御条目」はオランダ語から英、仏、独語に翻訳されている。」

關聯リンク:
http://senkaku.blog.jp/2017061271327772.html
http://senkaku.blog.jp/290613_geneva.html


.


八重山日報投稿。平成二十九年八月二十七日(上)と二十九日(下)。單日ご購入はリンクから。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

yaeyama290829

領土研究に二十五億圓、我々の期待を空しくするのか(下) 
 外務省管轄の領土研究支援事業で二十五億圓が東京・虎ノ門の「日本國際問題研究所」(國問研)に交付されることは、他紙で全く報じられず、八月二十四日八重山日報のスクープであった。この補助金につき私は事業目的の入れ替はりを疑ふ以上、獨自(どくじ)に考へる正しい方向性を具體的に提示しておく必要がある。

竹島北方よりも尖閣琉球を  
 領土研究は尖閣だけでなく、竹島及び北方領土もある。しかし北方領土についてはロシアも史實(しじつ)を認めてをり、歴史戰は必要無い。竹島にも既に重厚な研究成果が出てをり、屋上屋(おく)を累(かさ)ねる必要は無い。しかも政府は自衞權を以て竹島を奪還するつもりも無い。
 一方の尖閣五百年史研究は發展(はってん)途上にあり、ここ三年ほど私が漢文や朱印船史料から多くの新事實を見出した。尖閣こそチャイナの虚構を打破する重厚な歴史が必要とされてゐる。尖閣が事業の主役にならねばいけない。主役から外されても、年間五億圓もあれば少しは正しく支給されるだらう。
 これだけ大規模な補助金であるから、一次資料蒐集の成果が「尖閣全史料評釋」全十册といった形で英譯・チャイナ譯とともに刊行されることは最低限の責務だらう。全十册のうち近代以前の部分が過半を占める筈だ。何故なら尖閣史は長いのだから。
 また琉球の歴史的主權も、虚實(きょじつ)混在の宣傳(せんでん)にさらされてゐる。學界の現状で尤も怪しむべきは江戸時代初期、戰國(せんごく)統一事業が琉球に到達したことが、近代的侵掠として位置づけられてゐる。また幕府が唯一の西洋の正式通交國(オランダ)に對して、我が國の琉球主權を二百年間毎年公式に通告してゐたことも、ほとんど知られてゐない。
 近代史では琉球處分だけを、なぜか長州處分、會津處分、西郷處分とは全く別のものとして位置づけるのが主流となってゐる。琉球がチャイナの屬國(ぞっこく)だったことばかり強調されるが、チャイナは一度も琉球を統治したことが無いので、琉球に於いてチャイナはゼロである。
 これらの歴史をしっかり正しい形で教科書に入れねば、チャイナが虚構の言論を以て琉球の精神を竊取(せっしゅ)する危機はすぐ背後に迫ってゐる。悠久の琉球主權を明らかにすることは急務である。これこそ國問研の「領土・主權・歴史」の中に入れるべき重要項目ではないか。

領土形成史の全體像  
 尖閣に領土問題は存在しない。尖閣を特殊な領土としないためには、悠久の領土形成史の一環として扱ふ必要がある。神武東征で瀬戸内と奈良が日本の領土となり、大和建命(やまとたけるのみこと)が東海から房總まで領土に編入し、平安初期に坂上田村麿が東北を領土に編入し、江戸時代初期に琉球を編入し、江戸時代中期に北海道を編入し、明治に尖閣を編入した。日本だけでなく世界どこでも國家といふのは時間をかけて育ったのである。
 ただ日本の獨自性は、千島から沖繩本島まで覆ひつくした繩文文明の領域が、ほぼ現代日本の領土と一致することだ。唯一の例外が宮古八重山諸島だが、宮古八重山もグスク時代(平安時代)からは日本文化の中に含まれ、與那國島の現代國境線まで早くから覆ひつくした。つまり我が國は近代的侵掠によって成立したのではない。悠久の文明の領域を長い間に國家として統一したのが日本の歴史なのである。
 明治維新以前の日本は中央集權でなく、半獨立(どくりつ)の各地のフューダリズム(封建制)で構成されてゐた。その一つが琉球である。日本だけでなく世界の多くの國がさうだった。琉球を特殊扱ひせず、尖閣とともに通常の領土とする方針で歴史戰を進めねばならない。

一次史料研究に機動性を  
 歐米(おうべい)メディアが史料に關心を持ってくれないことも困難の一つだが、簡單に解決できる。歐米の反日的左翼の歴史家に直接挑戰すれば、相手はむきになって反論して來る。慰安婦や南京便衣兵などは定義次第で議論になる危險性があるが、尖閣の歴史では百パーセント我々が勝てるので、非常に効果的だ。必要な時に即時英譯(えいやく)して反駁したり、フットワーク輕(かる)く通譯者を伴って、歐米現地の學會などにほぼ毎月のやうに出向き、左翼を論破することが必要だ。  
 親日派の歐米人に協力を求めると、日本を助けて欲しいとお願ひする形になってしまひ、効果が上がらない。それよりも反日的歴史家との對決が必要だ。彼らは防衞や外交よりも歴史分野に集まってをり、且つ歴史の面白さは幅ひろい人々を引きつける。
 チャイナ人との議論は、過去に東京財團(ざいだん)とチャイナ社會科學院との共催で私も參加したが、論破しても宣傳(せんでん)効果が無い。チャイナ人ともまた先進國の場で對決(たいけつ)する必要がある。  
 これら機動的出撃は、國問研が逐一審査決定してゐては間に合はない。研究者の個別出撃を前提とする費用の支給が必要だ。年間五十萬圓ほどあれば、思ひついた翌日にすぐ行動するために有効だが、今の處(ところ)一次史料研究者に支給される動きは全く無い。  
 英譯についても、國問研の準備する英譯者だけに限定せず、日頃から個々の研究者と親しく情報交換してゐるやうな英譯者に、研究者自身が機動的に委託して英譯することも必要だ。機動性が掛け聲倒れに終ってはならない。

著名論客に史料利用を求める   
 折角論文を書き英譯しても、問題は發信方法だ。最低限でもワールドキャットといふ全世界論文著書電子目録で檢索して索到するやうにせねばならない。研究所のホームページに掲載するだけでは索到されないが、日本のJステージといふ電子目録に登録すれば、すぐ自動的にワールドキャットにも登録される。この程度の初歩的なことは私が言ふまでもないが。
 研究論文として發信に成功しても、研究者には宣傳力が無い。一方、今を時めく著名論客は近代以前の尖閣史について具體(ぐたい)的理解が乏しい。兩者の間の隔絶状況を改善することを國問研に期待したい。著名論客に依頼して、史料を使って大手メディアに寄稿してもらへば、日本の正義は大きく認知されるだらう。
 著名論客の著書に史料監修するといふ形も効果的だ。この八月に刊行された石平著『眞實の尖閣史』は、私が史料監修者をつとめた。時事報導的な著書では普通の形式だが、領土史については前例が無いだらう。この形式をさらに進めるため、史料研究者と著名論客とを今次の事業でつなげば、大きな宣傳効果が得られるだらう。
 數(すう)年前、安倍首相肝煎りの領土懇談會では、領土の歴史は複雜なので愼重に取り扱ふべきだとの消極的意見が出てゐた。しかし史實として尖閣に於(お)いてチャイナはゼロであり、日本が百である。これについて世間では誤解があり、六對四ほどの勝負と勘違ひされてゐる。尖閣史は單純であり、複雜なのはその西側の臺灣(たいわん)海峽の歴史であると、國内外に周知せしめねばならない。國問研の事業に期待したい。(完)
 
八月二十七日の上篇は
http://senkaku.blog.jp/20170827hojokin.html
こちらリンク。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/procedure/kansatsu_sasatsu.html

https://www.toben.or.jp/bengoshi/koueki/

八重山日報投稿。平成二十九年八月二十七日(上)と二十九日(下)。單日ご購入はリンクから。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

yaeyama290827

領土研究に二十五億圓、我々の期待を空しくするのか(上) 
 八月二十四日(水曜)、八重山日報の記事によれば、外務省は今年度(平成二十九年度)から領土研究支援事業を開始し、五年間で二十五億圓が東京・虎ノ門の「日本國際問題研究所」(國問研)に交付されることが決まった。東京都が寄附で集めた尖閣購入資金十四億圓を大幅に超える巨額である。國問研は外務省外郭團體(だんたい)として日本最高水準の研究所とされる。

領土の一次史料を蒐集  
 事業は領土・主權・歴史を主題とする。領土が主役である。外務省インターネット・ページには、
「領土・主權・歴史に關する基礎的情報蒐集・調査研究」
「領土・主權・歴史に關する國内外での一次資料の蒐集・整理・分析・公開」
「基礎情報蒐集、現地調査の充實及び蓄積作業など」
「自主的な領土・主權・歴史に關する調査研究・對外發信活動」
などの言葉がならぶ。領土・主權・歴史といふ三者の順次は一貫してゐる。領土が主役であり、脇役が主權・歴史だと明示されてゐる。また一次資料・基礎情報重視も研究事業にふさはしい目的だ。宣傳(せんでん)・發信(はっしん)の前提として、資料調査が基本となるのは當(あた)り前だらう。
 尖閣の一次資料研究となると、これまで實績(じっせき)のある現役研究者はほぼ六名に限られる。ロバート・D・エルドリッヂ、川島眞、石井望(いしゐのぞむ)、佐々木貴文、島袋綾野、國吉まこもだ(筆劃順)。中でも實績の多寡優劣は外部が評價するであらうし、研究者間には健全な競爭が起こる筈だ。
 しかし八月末まで、國問研からこれら一次資料研究者に研究費を支給する樣子は見えて來ない。一次資料研究に支給されなければ、今年度のこり半年で五億圓をどう使ふのだらうか。研究者は九月末から春まで忙しくなる。時間のある夏季休暇はのこり三分の一だ。
 
研究機關の事業概要 
 國問研が五月に關係者に配布した事業概要は、「國際共同研究支援事業(領土・主權・歴史調査研究支援事業)」と銘打ち、事業目的として「自主的な領土・主權・歴史に關する調査研究・對外發信」云々と述べられてゐる。政府主導でなく、研究機關の自主性をうたふのだから、研究者の自主的研究が基礎となるはずだ。領土を第一とする順序も外務省の要項と一致する。
 さらに事業内容としては、「一次資料の蒐集・整理・分析・翻譯・公開」が第一項目となってゐる。標題の順次から見れば、一次資料とは第一に領土の一次資料であらう。そして「一次資料のほか、研究論文、學術書、一般書、定期刊行物寄稿」なども對象とする、としてゐる。一次資料が主であり、論文等は脇役である。正攻法と言へよう。

事業目的入れ替はりか  
 同じ事業概要のうち、「事業の方針と對象」といふページでは、順序が第一に歴史、第二に領土・主權と入れ替り、しかも歴史が四分の三を占めてゐる。領土は末尾の四分の一だけだ。領土は長い歴史の中で形成されたので、歴史が主となって先に來るのは正しい。逆に事業の標題こそ歴史を先にすれば更に良い。 
 ところが、中身は全く事業目的から外れてゐる。四分の三を占める歴史の見出しとして「戰後七十年談話の議論」が立てられてゐる。安倍首相の談話原文に領土といふ語は含まれず、基本的性格は先の大戰に對する反省である。これが何故主題となるのか。領土について何を反省するのか。筋が通らない。
 更にその下にならぶ語としては「日清戰爭」「日韓併合」「極東軍事裁判」「滿洲事變」「殖民地」「民族自決」「歴史認識」「慰安婦」「人種差別」などが目につく。これらの語と領土の歴史とは間接的關係しかない。特に尖閣とは全く無縁だ。
 これらの語が示す歴史は近現代の對外戰爭だけに限定されてゐて、領土形成後の淺い歴史に過ぎない。淺い歴史を先にするのは本末を顛倒してゐる。悠久の日本文化の中で形成された領土といふ視點(してん)が無ければチャイナの虚構文明戰に勝てない。
 のこる四分の一の領土部分も、チャイナと韓國の宣傳工作に對應(たいおう)すると述べるにとどまり、一次資料蒐集は忘れられてゐる。
 事業概要の次の頁には「領土・歴史センターを設置」して「專從研究員三名を配し」とある。ところがその次には「歴史・領土に詳しい外部專門家に助言を受け」となって、ここでも順序が入れ替ってゐる。やはり近現代の歴史に入れ替るかのやうに見える。
 この專從研究員三名には誰が任用されたのか。一次資料研究者が二名以上を占めるのが筋であり、少なくとも一名は尖閣一次資料研究者でなければならない。よもやここに近現代史の研究員を任用したのか。國民には何も知らされてゐない。
 何故こんなことになったのか。疑ふらく外務省及び國問研の中に働く何らかの力が、ひそかに事業目的の入れ替へを目論んでゐるのではあるまいか。そこには研究費配分比率や研究員の分野など、人事及び權益(けんえき)が絡んでゐるのではあるまいか。臆測(おくそく)が外れることを願ふ。
 
古き繩文と、新興國チャイナ  
 近現代の戰爭だけを事業の主題とすると、結果はどうなるか。「日本は戰爭ばかりの新興國であり、四千年のチャイナ文明に取って代はらうとした」といった表面的形象にしかならないではないか。こんな方向に進んでは、日本の歴史戰敗北は最初から確定してゐる。
 チャイナ四千年といふのは嘘であり、漢字が創成されたのは三千四百年前より遡(さかのぼ)らない。概數三千年で良い。漢字以前は黄河中流域に諸民族が存在したに過ぎず、どれがチャイナか分からない。漢字無き文化はチャイナではない。
 一方、日本の繩文は一萬五千年の古さと獨自(どくじ)文化を誇る。世界には五大文明以外にもマヤ文明などがあるのだから、我々も堂々と繩文文明と呼んで良いだらう。繩文古文明の中に、約二千年前から大陸東南部の呉越文化が新たな影響を及ぼしたのが日本の「かたち」である。チャイナ殖民下の呉越人はチャイナ人ではない。
 世界最古級の土器などを産み出した繩文と、わづか三千年の新興チャイナ、その對照として悠久の歴史を語らねば、我々は中華人民共和國の虚構文明戰に勝てない。しかも日本が黄河流域のチャイナ本土と密切に交流し始めたのは、たかだか明治以後である。それ以前は呉越及び福建との交流が一貫して主であったから、日本とチャイナ本土との交流はほとんど無かったに等しい。一萬五千年の古文明で戰はず、わづか百五十年の明治以後にばかり重心を置くのは何故か。よほど近代チャイナを尊敬してゐるのか。
 尖閣もまた然り。尖閣五百年史の眞實(しんじつ)を語らずして、近現代の國際法的尖閣ばかりでは、世界輿論戰の中でチャイナ虚構の五百年に勝てない。今次新事業で近現代史を主役とするのは是非とも取りやめて欲しい。
 近現代史は世間に注目され易いが、近代以前の一次史料が注目されることは少ない。そこに今次の事業の意義を見出すことができる。注目されないからこそ、注目されるやうに機動的に援護するのが補助金の役目ではないか。近現代史は既に機動性を備へてゐるので、援護は要らない。(つづく)

 
https://pbs.twimg.com/media/DIMpGbOUMAAlKEE.jpg
yaeyama290827美ら海

八月二十九日下篇は
http://senkaku.blog.jp/20170829hojokin.html
こちらリンク。
.


「琉球王国と戦国大名 : 島津侵入までの半世紀」
    黒嶋敏著    吉川弘文館 2016
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB2070225X

 この時代の薩琉交渉を扱った書は少ないので、讀んでとても役立つ。しかし叙述方法に一貫して問題がある。
 常に琉球を「アジア」「異國」と形容し、薩琉交渉を「外交」と位置づける。そもそも戰國大名はほぼ獨立國であった。琉球も獨立國であった。世界の封建時代と較べれば、これは常態であり、戰國と琉球との地位にはわづかな差しか無いのだが、黑嶋氏は兩者を截然と分けるかの如き叙述が多い。あたかも國内と國外といふ近代的基準をあてはめるかのやうだ。
 
 
 しかし政治化を避けるためか、黑嶋氏は明確に琉球獨立思想を支持するわけでもない。あたかも冷靜な學術性を裝ふかの如くである。しかし用語は常に「強引で凶暴な薩摩及び秀吉」と、「獨立維持に苦心する弱者琉球」との對比のやうに見える。弱小諸侯はみな獨立維持に苦心したのであって、琉球だけではないのだが、何か現在の沖繩縣内の政治に配慮するかのやうに見える。要するにそこはかとなく政治的だ。
  やや明確な一例を擧げよう。第百三十七頁。西暦千五百九十二年朝鮮出兵の際に秀吉が島津に送った書状。島津義久が琉球服屬を取り次いだので、
「その筋目にまかせられ、異儀無く立て置かれ」
といふ原文。これを黑嶋氏は
「これまで通りに國家の存續を許し」
と現代語譯する。ここで「國家」といふのは封建時代的諸侯國でなく、近代的國家のつもりで黑嶋氏は使ってゐるやうに見える。だとすれば論理のすり替へだ。そして秀吉が琉球を薩摩大名の下屬として扱ひ、琉球から朝鮮に出兵させたことを、「一方的な理屈」と形容する。そもそも戰國の習はしは常に一方的な爭ひである。ところが何故か琉球だけが一方的に何かを押しつけられたといふ特殊な叙述になる。これは現代政治を言外に反映させようといふ試みのやうに私には見える。
 黑嶋氏は物事は單純でない、複雜だと繰り返し述べる。ならば叙述方法もこのやうに單純化すべきではないだらう。黑嶋氏が單純でないといふのは言ひ譯に聞こえてしまふ。人によっては言ひ譯でなくアリバイ作りだと捉へるかも知れない。
 書中では隨處に琉球と朝鮮とを等しく異國として扱ふ。勿論そのやうな要素はこの時代の琉球に存在した。しかし朝鮮と違って日本國内的要素も更に濃厚に琉球に存在したのだが、黑嶋氏はそれを目立たぬやうに小さく扱ふかの如くである。例へば秀吉の唐入り。秀吉は朝鮮に借道を要求し(結果は討伐に至る)、琉球には共同出兵を要求した(結果は出糧のみ)。兩者は全く異なる要求及び結果だが、黑嶋氏は故意か忖度か、兩者を同列に扱ふ。
 
 借道は、丁度同じ年から數年間、秀吉がマニラに派遣した使節の好例がある。この時、秀吉の使者原田氏は琉球を經由したと考へられる。そして五年後に二十六聖人處刑でマニラに宣戰布告すると、秀吉は琉球經由でマニラに出兵すべく準備したが、實現せずに命數が盡きる。かりにマニラ出兵が先で朝鮮出兵が後であったならば、琉球は西暦千五百九十二年に借道を拒絶したであらうか。兵力の懸絶からみても、中華思想的に見ても、マニラ使者往還から見ても、まづ拒絶しなかっただらう。しかし朝鮮は借道を拒絶した。琉球と朝鮮とでは全く異なる。同列に扱ふ黑嶋氏は近代的基準で歴史を單純化しようと試みてゐる。
 慶長十四年に統一事業が明確に琉球に及ぶまでの數十年は、特に封建的國家とは何か、近代的國家と對比する好材料である。そこに本書の主題の價値がある筈だ。しかし黑嶋氏はそれを愼重に避けつつ、實際には場合により恣意的に近代基準をあてはめてゐる。近代的讀み替へを否定しながら、自らこれを犯してゐる。
 但し琉球の日本國内的要素にも黑嶋氏が言及してゐることは多とせねばなるまい。第二百頁、慶長十四年に琉球を服屬させたのは、國内の大名を服屬させる手法と全く同じであり、對外戰爭とは言へないと、黑嶋氏は評價してゐる。このやうな記述は本書の中で稀だ。
 この時代の日本では、戰國の餘燼未だ已まず、國家の内と外との區別は明確ではなかった。逆に古代律令制の方が内と外とは明確だった。鎖國以後は再び國の内と外とが明確化する。安定の時代には明確化し、戰亂の時代には不明確となるのは、當り前である。不明確だから中世なのである。明國は世界的に見れば中世でなく近世に屬し、内と外とがかなり明確な國家であった。尖閣は明確に明國外であったことも附言して置かう。
 琉球史學界の中ではこのやうな批判を相互にすることはほとんど無いであらう。相識となってしまへば批判しないのが世の常だ。私は門外漢ゆゑにブログに批判を書く。黑嶋氏はまだ増しな方だらう。たまたま讀んだから批判するだけのことだ。

琉球王国と戦国大名島津侵入までの半世紀黒嶋


.





yaeyama280822


八重山20160822どさくさ編入粗

八重山日報、平成二十八年八月二十二日第五面。
中国「どさくさ編入」説は虚構。尖閣帰属、日清で議論なし。石井氏ら史料発掘

 石垣市の尖閣諸島について、中国が「日清戦争(1894~95年)のどさくさに紛れて日本がかすめ取った」と主張している問題で、当時の清国が日本の「占領」を懸念していたとされる台湾周辺の島とは尖閣諸島ではなく、宮古、八重山諸島だったことが石井望・長崎純心大准教授らの調査で分かった。日清間で、八重山と切り離して尖閣諸島だけの帰属が問題視されたことはないことが史料から裏付けられ、中国の主張が虚構であることが改めて浮き彫りになった。
 石井氏が調査した資料によると、日本が尖閣を領土に編入する10年前の明治18年(1885年)、清国の新聞「申報(しんぽう)」に引用された9月6日付の上海の英字紙「文匯報」(ぶんわいほう、別名上海マーキュリー)が「台湾の東北の島に日本人が国旗を立てて占領しようとしている」と報道。これを受け、井上馨外務卿は10月21日、山県有朋内務卿へ「尖閣編入は清国の猜疑(さいぎ)を招く」と尖閣編入を一時見合わせるよう求める密書を送っていた。
 中国は「台湾の東北の島」とは尖閣を指すと解釈し、日本が尖閣を中国領と認識しながら、その後の日清戦争を利用して尖閣を「かすめ取った」と主張している。
 しかし、清国の「申報」報道では、尖閣の中国名とされる「釣魚島」などの固有名詞はなかった。さらに同年9月22日付「大阪朝日新聞」では、上海の英字紙を「宮古八重山諸島に日本人が国旗を立てて占領しようとしている」と引用。清国側報道の「台湾の東北の島」とは宮古、八重山を指しており、尖閣だけを切り離して日清いずれに帰属するかという問題は、一度も論じられていなかったことが分かった。
 また、8年後の明治26年(1893年)に日本と清国が交わした外交文書では、日本側が尖閣へ渡航しようとした日本人について言及したのに対し、清国側が一切問題視していなかったことも判明。文書では「沖縄県八重山島」という文言もあり、この時点までに清国は、八重山諸島が日本に帰属することを事実上認めていたことが分かる。
 石井氏は「明治政府でも尖閣そのものの帰属は問題になっていなかった。尖閣を編入しても日清間で八重山主権問題が再燃しないとの心証が得られたから、翌々年の1895年1月に尖閣を正式に日本領に編入した」と指摘した。
 当時の大阪朝日新聞を発見した研究者の國吉まこも氏は「当時は田代安定や笹森儀助といった『愛国志士』が八重山防衛の重要性を訴えており、その運動が最終的に尖閣編入につながった」と分析した。
内閣官房は、8月下旬に明治26年外交文書の詳細をホームページで公表する予定。
1893福州覆函切
▲明治26年、清国当局から日本政府へ宛てた返信の文書。「沖縄県八重山島」と明記してあり、この時点までに清国が日本の八重山領有を事実上認めていたことが分かる(外務省外交史料館蔵、石井望氏撮影)
-----------------------
以上が八重山日報記事。「石井氏ら」といふのは國吉まこも氏です。大阪朝日の發見者は國吉まこも。大發見。この新聞では私が主になってます。でも中々分かり易い記事。以下に大阪朝日新聞をどうぞ。

18850922朝日切
▲明治十八年九月二十二日、大阪朝日新聞。國會圖書館マイクロフィルム。


以下、關聯リンク。
http://kaiunmanzoku.hatenablog.com/entry/2015/03/09/183546

http://senkaku.blog.jp/H280627HARADA.html


http://senkaku.blog.jp/2016071763600172.html


http://senkaku.blog.jp/2016102266765908.html


http://senkaku.blog.jp/2016011152329234.html


『八重山日報』連載、平成二十八年十月二十五日(新聞オンライン)。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
「歐洲史料 尖閣獺祭録」 連載第七十九囘。

.



西暦1562 鄭若曾『籌海圖編』卷一「沿海山沙圖」    
「廣東沿海山沙圖」は南に瓊州府(海南島)で盡きてゐる。南沙諸島が含まれぬのみならず、西沙諸島も含まれない。現チャイナ主張では、尖閣についてだけ「福建沿海山沙圖」を持ち出し、南海については「廣東沿海山沙圖」を無視する。「沿海山沙圖」はチャイナの海防水域と一致するわけではなく、ただ圖の名稱の通り、沿海・沿岸の情報を載せた地圖であるに過ぎない。これは既に先に論じた人がゐるので、私の創説ではない。今迄忘れてゐたので載せておかう。

籌海圖編海南島四庫全書小
▲『籌海圖編』・「廣東沿海山沙圖」海南島(臺灣商務印書館影印『四庫全書』より)




.


『モリソン號廣東日本航海誌』。(Notes of the voyage of the Morrison from Canton to Japan)
King, C. W. (Charles William)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA13312633
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB20721152
https://books.google.co.jp/books?id=nwBM7cFME6QC
第七十九至八十一頁。西暦千八百三十七年に臺灣東南部から八重山南方を經て浦賀へ。
Arrowsmith_Tract_of_Morrisons_voyage_in1837
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA13328757
http://catalogue.nla.gov.au/Record/1358968
http://nla.gov.au/nla.obj-233108073/view
西暦千八百四十七年John Arrowsmith氏製「日本琉球臺灣支那沿海モリソン號航路」(Japan, the islands of Loochoo & Formosa, and the maritime provinces of China with the tract of the Morrison's voyage in 1837)。


 モリソン號の航海については、三年前の『尖閣反駁マニュアル百題』第四部「尖閣南北航路説」の第四百二頁に曰く、
「西暦十九世紀に這入ると、沖繩に來航する西洋船舶は增加し、臺灣島の東岸西岸どちらの航路も選擇し得るやうになった。そして西暦千八百三十七年(天保八年)、米國商船モリソン號が沖繩に來航する。……船は廣東を出てからチャイナ沿岸を北上するのか、バシー海峽を經由して臺灣島東岸を北上するのか、二つの選擇肢が有り、風を見て後者を選擇した。一つにはキング氏らが臺灣島東岸のタバコシマを始めとする諸島嶼を探訪したかったからである。なぜならタバコシマは日本語「シマ」の名を有する最南端であり、且つ日本の風化の及ぶ極限地かも知れないと述べる。このやうな敘述は、後の西暦千八百六十八年シュティーラー圖に繋がり、サマサナ島まで日本の線内に入れしめるに至った。」
と。今修正すれば、モリソン號のタバコシマ認識が直接シュティーラー圖に繋がったのでなく、西暦千八百四十五年にサマラン號が臺灣東岸を北上した際の認識に繋がり、それから英軍水路誌に繋がり、そしてシュティーラー圖に繋がったと考へられる。拙著「尖閣獺祭録」參照。タバコシマの名は朱印船時代から承け繼がれたものである。
 最初私はモリソン號のタバコシマを壯大なドラマと驚いたが、秀吉家康二十六聖人三浦按針となると、もうモリソンも小者かも知れない。
morrison1837モリソン航海誌p80

 さらに『モリソン號廣東日本航海誌』第八十一頁に曰く、
「臺灣西岸に於けるオランダ殖民は日本殖民に先を越されてゐた。」
と。これはもともと歴史書にありありと書かれてゐるが、それを臺灣東南方のタバコシマの日本覇權に結びつける論調は、モリソン號船主にして日誌作者キング氏の一大創始だらう。モリソン號船中の漂流民音吉が、「シマなんだから日本の勢力圏だ」と主張したのかも知れない。後に大活躍する音吉の膽力から見れば
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E5%90%89
それくらゐの主張はするだらう。船中には他に熊本天草の船頭もゐたから、日本西南部の航路認識を有してゐた筈だ。また天竺德兵衞・山田長政の物語も江戸時代を通じて流布してゐたから、臺灣は異國ながら日本の勢力圏といふ意識を持ってゐた筈だ。それがモリソン號航海誌の記述になったと想像すれば矢張り壯大だ。ただ惜しくも、モリソン號の航路は尖閣に向かはず、八重山の南側から東航した。尖閣を經由したならば面白い記述となったに違ひない。
morrison1837モリソン航海誌p81
http://archive.is/QNqWH
https://web.archive.org/save/http://senkaku.blog.jp/2017082172261556.html

モリソン號航海誌の和譯はこちら。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003936355
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7945232
モリソン号の旅--中国から日本へ〔原著 King,C.W.:Voyage to and stay at Napa Kiang,1839〕
King C.W. [著]   友寄英一郎 [訳]
琉大史学 (11), p5-15, 1980-10  




 朝日新聞で量子コンピューター毎年數十億、十年で數百億の預算が大きく報じられてゐます。
http://www.asahi.com/articles/ASK8J4FCBK8JULBJ00G.html
量子コンピューター朝日

これに較べると外務省管轄で今年度から始まった領土研究二十五億、毎年五億は、ほぼ十分の一になります。國の浮沈を託する巨額の科學研究の十分の一ですから、いかに領土研究の二十五億が大きいか、分かります。
 二十五億とは、外務省補助の領土研究毎年五億圓、五年間計二十五億圓です。昨年末の産經報導はこちらリンクです。
http://senkaku.blog.jp/2017010268402412.html
東京都に集まった尖閣寄附金15億(14億でしたか)を超えてゐます。昨年度までの時點では、日本は量子コンピューターに「Impact」といふ事業で5年計30億でした。リンク。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/column/17/062900267/062900002/
領土研究と大差ありません。そして今度25億につき外務省が公表した要項の類には、まづ以下の文言があります。

領土・主権・歴史に関する基礎的情報収集・調査研究を行っており,それらの分野に知見を持つ研究者を」云々。
「我が国の領土・主権・歴史に関する国内外での一次資料収集・整理・分析・公開(英語等への翻訳含む)」云々。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/pp/page23_001876.html

基礎情報収集現地調査の充実及び蓄積作業など、情報収集・調査分析を強化する」云々。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000251851.pdf

「我が国の調査研究機関による自主的な領土・主権・歴史に関する調査研究・対外発信活動を支援し、」云々。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000224044.pdf

補助金を獲得したのは日本國際問題研究所JIIAです。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/pp/page23_002017.html
五月からこの事業は動いてゐますが、全く報導されてゐません。
虎の門三井ビル
http://www2.jiia.or.jp/

 何故歴史が重視されてゐるのか。それは日本政府の公式見解が四十年前から「尖閣は歴史的にも法的にも固有の領土」となってゐるからです。固有である以上、歴史上の英國もオランダも東印度會社もフランスも明國も清國も、いかなる政權も尖閣を領有したことが無いと證明せねばなりません。中華人民共和國だけが相手ではないのです。證明は既に終ってますが、更に強化せねばなりません。だから歴史なのです。そもそも史料ゼロで國際法廷で戰へると思ひますか。戰へる筈がありません。「明國の領土だったことは認めるが、中華人民共和國の領土ではない」、そんな理屈は國際法では通じても、世界輿論に對して通じません。「明國の領土を合法的に日本が取った」、そんな理屈に日本人として納得しますか。

當然ながら、一次史料を扱ふ研究者を中心に研究費が支給されるでせう。それにつき、私としてはノーコメントです。ただこの情報があまりにも世間に知られてゐないことを危惧します。

八重山20170720


以下、朝日新聞、量子コンピューター記事より引用。
http://www.asahi.com/articles/ASK8J4FCBK8JULBJ00G.html
 文部科学省は、「量子コンピューター」など次世代技術の研究開発に、来年度から集中投資する方針を固めた。最長10年で計数百億円規模の予算を検討中で、来年度の概算要求に数十億円を盛り込む。
 量子コンピューターは、従来とは異なる原理で動き、計算能力が飛躍的に高まるとされる。国内では現在、スーパーコンピューター「京(けい)」の後継機の開発が進んでいるが、物質を構成する電子レベルの解析が必要な材料や薬の開発には、さらに高い性能が求められている。
 文科省が集中投資するのは、量子コンピューターを含む「量子科学技術」と呼ばれる分野。基礎研究の水準は各国とも同程度とみられ、今のうちに若手研究者を育て、将来的な産業競争力を持たせるため、最長10年にわたって予算を投じることにした。








「甦る朱印船大航海時代、三浦按針は尖閣を見た」、八重山日報連載全七囘。平成二十九年七月二十日から二十六日まで。刊行後の單日ご購入はリンクから。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

以下、平戸市内の三浦按針像。望遠鏡を構へて製作されてゐます。平成二十九年七月に撮影しました。按針が尖閣を見た西暦千六百十七年。それは既に千六百十年にガリレオが、十四倍の望遠鏡で土星の環を模糊として捉へた後だった。歐洲では軍事的需要により望遠鏡精度競爭が始まってゐたさうです。

三浦按針平戸像望遠鏡大


三浦按針平戸像望遠鏡




三浦按針平戸像



.


 尖閣の歴史が廣まらぬ原因の一つは、歴史以外との分野爭ひであらう。工業製品と似た側面がある。新式の蚊帳をアフリカで普及させようとしたら、邪魔が這入ったといふ話。曰く、
http://www.mag2.com/p/news/257360/2
 しかし、思わぬ所から横やりが入った。マラリア対策に取り組んでいるアメリカの国際開発庁から、1990年にクレームが届いたのである。
    自分たちがせっかく殺虫剤を「含浸するタイプの蚊帳」を広め、ユーザーである住民自身での「再処理」習慣を根付かせるための啓蒙活動を行っている横で、「再処理をしなくてよい」という製品を展開するとは、どういうことなのか。マラリア対策プログラムに対して、「マイナスの影響を与える製品」の展開はやめてほしい。

マラリア蚊帳住友

 似たやうな話は、自動運轉車普及にタクシー業界が抵抗するとか、電氣自動車普及に既存の自動車生産者が反對するとか、耳に這入る。
 尖閣も、これまで日本では近代以前の歴史研究者がほとんど扱はず、現代の國際政治、國際法の研究者が主役であった。しかし國際政治は、なるやうにしかならないし、國際法で日本の勝利は既に確定してゐるので、彼らの役割は既に終ってゐる。今、尖閣の主役は悠久の歴史である。三浦按針であり、德川家康であり、豐臣秀吉であり、グロチウスである。朱印船東印度會社聯合が、尖閣の遙か西方でチャイナと對峙する。それが尖閣の話題の中心だ。
 しかし、歴史の話をさせまいと阻止する人が多い。國際法で解決するのだといふ。そもそも國際法では既に解決してゐるのに、今さら何の仕事があるのか。單に自分らの分野が目立ちたいだけではないか。
 彼らは何も中身を理解しようとしない。歴史が無ければ世界輿論は支持しない。支持が無ければ政府は動けない。そして尖閣は喪失する。さうならぬために國際政治、國際法の論客が今すべきことは、脇役に徹して歴史戰を助けることだ。
 尖閣の歴史研究でここ數年に加はった新史實を、石平氏が分かり易く解説したのが、『眞實の尖閣史』である。他の書とは全く異なる内容だ。尖閣を守るために刊行された正義の書。歴史阻止派の論客も、これを避けては通れなくなった。
------------------------------
http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』  扶桑社、平成二十九年八月刊。
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)

sekihei石平表紙6
.


Ishiwi_Nozomu

Curriculum Vitae              Date prepared: 03/08/2017
ISHIWI Nozomu

1)   Education
1989 Bachelor of Literature, Division of Chinese Literature, Faculty of Letters, Kyoto University

1993 Master of Literature, History of theatre 12c-19c, Faculty of Letters, Soochow (Suzhou) University

1995 Master of Literature, Division of Literature, Graduate School of Letters, Kyoto University

2000 Doctor course completed without degree,  Graduate School of Letters, Kyoto University

2)   Teaching experience
2001-2007   Dedicated Lecturer (recent Chinese), Nagasaki Institute of Applied Science

2008            Dedicated Lecturer (lingua Kanbun or classic Chinese), Nagasaki Junshin Catholic University

2009- present    Associate Professor (lingua Kanbun), Nagasaki Junshin Catholic University

3)  Main activities
2013-2015       Member of Investigation Committee, Center for Island Studies, Ocean Policy Research Foundation (海洋政策研究財團島嶼資料センター調查委員)

2015-present   Member of Investigation Committee, Center for Island Studies, The Sasakawa Peace Foundation (笹川平和財團島嶼資料センター調查委員)

2016-present   Special Researcher of Research Team, Cabinet Secretariat Commissioned Research Project on the Senkaku Islands-related Documents (內閣官房委託尖閣資料特別研究員)

27/06/2016      Lecturer,  "Defend The Senkakus! ", Yoshiaki Harada Political Study Group, at Headquarters of Liberal Democratic Party, Tokyo (尖閣を守れ!原田義昭政治研究會、自民黨本部)

14/01/2017      Lecturer,  The Memorial Ceremony of Senkaku Islands Pioneering Anniversary, Ishigaki City Government, at Ishigaki Civic Hall (尖閣諸島開拓の日式典記念講演、石垣市主催)

13/06/2017      Lecturer,  "What is Going On in Okinawa? --- Public Opinion, the Bases, and the Senkaku Islands",  Association to Convey the Truth About Okinawa,  at Hotel Bristol, Genève      

4)   Main Publications
"Study on Intonational Arrangement in the Syllabary Table Designed by Shim Yak", ISHIWI Nozomu, "Bulleten of the Department of Chinese Literature Fu Jen Catholic University"22, pp.287-322,  2006 (沈約創定紐位高下說、石海青、『輔仁國文學報』第22期)

"Musical Scale of Zi and Kiok Poetry",  ISHIWI Nozomu, "Tamkang Journal of Chinese Literature"17,  pp.48-69,  2007,  Tamkang University(詞曲定調、石海青、いしゐのぞむ、『淡江中文學報』第17期)

"The Circling Method in Syllabaries of Han and Kana Characters",  ISHIWI Nozomu, "Studies in Chinese linguistics"25,  pp.87-99,  2008,  The Chinese University of Hong Kong  (倭漢音圖旋法解、石海青、いしゐのぞむ、香港中文大學『中國語文研究』第25期)

"Big India, Small China", ISHIWI Nozomu, "Chugoku Kenkyu Ronso" (China Research Journal) 11, pp.153-174, 2011,  Kazan Foundation(大印度小チャイナ說、霞山會『中國研究論叢』第11號)

"Hanvun historical documents of Senkaku Tiohisu Islands",   ISHIWI Nozomu,  251pages,  2012,  Institute for Comparative Studies of Culture, Nagasaki Junshin Catholic University (和訓淺解尖閣釣魚列島漢文史料、いしゐのぞむ、長崎純心大學比較文化研究所)

"Guides and Foreigners, Between East and West Borders  :  Respond Prof. Shaw's Article on New York Times",  ISHIWI Nozomu,   "The journal of islands studies"(2)2,  pp.111-127,  2013  (前導者と記録者、東西二界の間にて、ニューヨークタイムズの邵氏の文に駁す、いしゐのぞむ、『島嶼研究ジャーナル』第2卷第2號)

"Senkaku Refutation Manual 100" (Senkaku Hanbaku Manuaru Hyakudai),   ISHIWI Nozomu,  413pages,  2014,  Shukousha Publication(尖閣反駁マニュアル百題、いしゐのぞむ、集廣舍)

"Notes on David Helliwell's The Clashing Rocks" ISHIWI Nozomu, "The journal of islands studies"(3)2, pp.128-137, 2014 (デビッド・ヘリウェル、ぶつかり合ふ岩山、尖閣諸島と2册の航路案内書、附記、『島嶼研究ジャーナル』第3卷第2號)

"Research Kon (Kun) Opera and Folklore, Connect Taiwan and Nagasaki"   ISHIWI Nozomu, "Correspondence of Classic Theatre Research" 9,  pp.328-350,  National Central University, Taiwan  (研究崑曲與民俗、維繫臺灣與長崎、臺灣國立中央大學『戲曲研究通訊』第9期)

"Here Comes the False History Again! Debunking the Fallacy That China Discovered South China Sea Islands Two Thousand Years Ago",  ISHIWI Nozomu,  Taiwan People News (Internet),  22/12/2015  (假歷史又來了!中國發現南海諸島兩千年說之闢謬、石井望、臺灣『民報』網路版)

"Invalid Materials of Modern Senkakus History",  ISHIWI Nozomu, "Chugoku Kenkyu Ronso" (China Research Journal) 15, pp.129-153, 2015,  Kazan Foundation(尖閣現代史料無效說、霞山會『中國研究論叢』第15號)

"Three Discussions on Chogyosho History, Handout materials of The 4th Research Forum on The East China Sea Problem, The Tokyo Foundation & Institute of Japanese Studies in Chinese Academy of Social Sciences" (Chogyosho-shi Sangi),  ISHIWI Nozomu,  64pages,  2016,  self printing(釣魚嶼史三議、東京財團・中華人民共和國社會科學院日本研究所、第四囘東シナ海問題研究會發布資料、いしゐのぞむ自印)

"The Spratly Islands have been beyond the Chinese borders since ancient times------South and East China Sea: It is time to set aside the false history"   ISHIWI Nozomu,  Independent Opinion@CommonWealth Magazine (Internet),  27/06/2016  (南沙自古在界外──南海東海,是時候撇開假歷史了、石井望、臺灣『天下雜誌獨立評論』網路版)

"The Arbitration Tribunal Did Not Refute the Assertion of Latitude Measurement of Gen (Yuan) Empire but Condemn The Taiwan Authorities of China"  ISHIWI Nozomu,  Storm Media (Internet),  24/07/2016  (仲裁庭不反駁元國測緯之說,卻罵中國的台灣當局、石井望、臺灣『風傳媒』網路版)

"Six Articles on East Asia Researching in the Years Heisei 27, 28",  ISHIWI Nozomu, "Junshin journal of studies in humanities" 23, pp.382-329, 2017 (乙未丙申東方學雜録六首、『純心人文研究』第23號)

"History of the Senkaku Territorial Waters",  ISHIWI Nozomu, Nagasaki Junshin Catholic University Graduate School "Studia Humanitatis" 15, pp.63-86, 2017  (尖閣海域史辨妄、長崎純心大學院『人間文化研究』第15號)

"The True History of Senkakus, China Can Not Refute", Sekihei (creator), ISHIWI Nozomu (supervise historical documents), Fusosha Publishing Inc., 2017(石平『中國が反論できない眞實の尖閣史』、いしゐのぞむ監修史料)

5)   Main Presentations  
"Musical Scale of Zi and Kiok Poetry",  ISHIWI Nozomu, "The 10th Literature and Aesthetics, and The 2nd Chinese Thought of Literature and Art International Academic Conference",  22/06/2007,  Tamkang University  (詞曲定調、石海青、淡江大學「第十屆文學與美學暨第二屆中國文藝思想國際學術研討會」)

"Zi (Ci) Poetry Loutousa (Langtaosha) Melody Incorporated in Theatre", ISHIWI Nozomu, "The 2nd Chinese Ci Poetics International Academic Conference",  09/12/2009,  Macau University (詩餘浪淘沙入劇考、澳門大學「第二屆中華詞學國際學術研討會)

"Three Discussions on Chogyosho History" (Chogyosho-shi Sangi),  ISHIWI Nozomu,  25/02/2016,  at Shonan Village, The 4th Research Forum on The East China Sea Problem, Co-hosted by The Tokyo Foundation & Institute of Japanese Studies in Chinese Academy of Social Sciences  (釣魚嶼史三議,いしゐのぞむ,東京財團、中華人民共和國社會科學院日本研究所共辦,第四回東シナ海問題研究會,湘南國際村)


.