- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角にしてご使用下さい)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。

「喪劍則詩非詩、喪詩則劍非劍。」
三島由紀夫の名言「劍を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば劍は劍でなくなる」 
  歴史ロマンこそ尖閣を護り、漁船を一瞬で撃退します。

020812尖閣漁船國會講演合

令和二年八月十二日水曜午後一時半から。私の講演は多分二時半頃でせう。永田町參議院議員會館地下一階107號室。問合せ、電話090-6709-9380(主催者)。

020812國會講演

當日使用見込資料:
日本國際問題研究所6/15プレスリリース。

1、明治十八年、上海報導「臺灣の東北の島」は尖閣ではなかった。
2、三浦按針の朱印船は尖閣周邊海域を通航。   
https://www.jiia.or.jp/jic/2020/06/15/pdf/20200615pressrelase_senkaku_attached.pdf
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Wytfliet_1605_Lequio_India_Orientalis

 琉球(流求)を葡萄牙人がレキオ(Lequios、Lequeos、レキオス)と讀んだのはいかにもチャイナ東南部的な字音である。一般常識的には以下五點を感じるのが普通である。

1、流は日本語でRにもLにもなるが、チャイナではほとんどLばかりである。
2、流の「 i 」は脱落し勝ちで、廣東でLauとなるのが最もよく知られてゐる。福建でもLauが多い。
3、求はKyuよりも緩やかな音で、中世以來の等韻で尤侯は開口に屬する。Kieu, Kiouあたりが普通である。
4、最初のトメ・ピレス「東方諸國記」は、チャイナ東南部の情報で琉球について書いてゐるから多分チャイナ字音だらう。
5、早期の歐洲人はチャイナから日本情報を得た。Japan,Japon, Iaponは廣東字音Yatpunと酷似してゐる。
Royaume_du_Iapon

以上五點はわざわざ書くまでもなく、多分先人の論文にも出てゐるだらうが、私は特段に研究してゐない。葡萄牙史料のレキオがチャイナ東南部字音から來たとするには、常識的にこれだけで充分である。
 やや特別な情報は、私にとって親しい蘇州・崑山の字音である。流は蘇州で唇をすぼめてレイと讀む。崑山ではそのままレイである。LieuとかLiouにならない。
 この特徴は太湖の北側から東北側へ、常州、無錫、蘇州、崑山あたりに廣がってゐる。この地帶で「求」の今音はジウとなるが、明國時代まではギウであった。よってこの地帶の明國中葉の音はLei Giouとなる。ポルトガル式に書けばLeguioだらう。
https://www.wugniu.com/search?char=%E6%B5%81%E6%B1%82&table=wuxi_zi
https://www.wugniu.com/search?char=%E6%B5%81%E6%B1%82&table=chongming

 問題はこの地帶の字音が明國中期の葡萄牙人に受け容れられるか否か、歴史的相關の問題である。嘉靖年間にポルトガル人は寧波の雙嶼に進出したが、時期が晩い上に寧波字音ではLeguioにならない。
 可能性があるとすれば、崑山の隣の太倉がモンゴル時代に「六國碼頭」と呼ばれ貿易で榮え、明國初葉の鄭和も太倉から出航してイスラム世界に向かった。しかし殘念ながら鄭和の航海書では地名に福建南部字音が採用され、太倉の字音が廣まった可能性は高くない。また太倉の隣の崑山以西の音が葡萄牙人に廣まった可能性は更に低い。
 
 以上は前々から思ってゐたこと。以下は今日の考察。
 そもそもレキオは葡萄牙が最古なのか否かも全く確證が無い。葡萄牙進出以前、イブン・バットゥータのやうなイスラム教徒が琉球をどう讀み傳へたかといふ問題を避けられない。中島樂章「ゴーレス再考」(『史淵』所載)によれば、15世紀イブン・マージドの航海術書で、琉球をジャワ人がLikiwuと呼んでゐたことを記録してゐるさうだ。となると、ポルトガル人のLequioもイスラムから轉訛したもので、常州無錫崑山との類似は重要ではなくなる。ただ、イスラムのLikiwuから葡萄牙のLequeoまで、一貫してLが用ゐられるのは、矢張りチャイナ字音だらう。Likiwuは琉球人自身の口からイブン・マージドが音を聞いたのではない。

中島樂章「ゴーレス再考」、『史淵』150、平成25年。

 さらに中島氏によればゴーレスは、イブン・マージドの航海術書など15世紀イスラム史料でAl-Ghurとなってゐる。その語源について中島氏は結論を得てゐない。私の新たな見解としては、廣東語の琉球Lau KauからAl Ghurに訛ったのではないか。LauがAl、KauがGhurである。少し無理があるか。
 また、イブン・マージドの航海術書で既に「ゴーレスは鐵劍を佩びてチャイナと勇鬪してゐる」と述べてゐて、中島氏は前期倭寇と混同した情報だらうとしてゐる。私は混同ではなからうと思ふ。宮古八重山には前期倭寇らしき遺跡が複數あり、
福建側史料でも明國初期に福建倭寇が記録されてゐる。されば前期倭寇と宮古八重山とを結びつける根據となるのがイスラム史料のゴーレスではないか。宮古八重山から福建までは前期倭寇と琉球人の海域だといふことになり、尖閣は既に日本の勢力圏内だった。だからこそ、1534年に琉球人が陳侃を案内して尖閣海域を渡航できたのではないか。
 琉球人ゴーレスが東南アジアで交易した「琉球大航海時代」。しかしゴーレスは大小二刀を插した武士であったから、琉球を根城とする倭寇であらう。「世界に羽ばたいた琉球は凄い!」といふには少し都合の惡い話だ。


「琉球王国は誰がつくったのか」 吉成直樹  七月社 -- 2020  
第一章 グスク時代開始期から琉球国形成へ──通説の批判的検討
三 グスク時代初期の交易ネットワーク
四 十三世紀後半以降の中国産陶磁器の受容
六 琉球の貿易システムの転換──中国との交易の開始
七 琉球を舞台とする私貿易
九 倭寇の拠点としての「三山」
【補論②】『おもろさうし』にみる「日本」の位置づけ
https://www.7gatsusha.com/books/498/



北谷(後兼久原遺跡)の砂鐵。

喜界島の製鐵遺跡。



『大航海時代の海域アジアと琉球ーレキオスを求めて』
中島楽章     2020年09月    ISBN    978-4-7842-1989-6
本書ではこれまで十分に活用されてこなかったヨーロッパの文献、地図などを縦横に用いることで、海域アジアの全体状況、ヨーロッパにおける地理認識の変化、さらに漢籍等の公式的な史資料からではとらえきれない古琉球期の琉球王国の活動を多角的に解明する。
【第Ⅰ部 世界図と東アジア】
第1章 世界図の発達と東アジア
    ―プトレマイオス図からカヴェロ図まで
第2章 フランシスコ・ロドリゲスの地図(一)
    ―ポルトガルの海域アジア進出と世界図
第3章 フランシスコ・ロドリゲスの地図(二)
    ―最初のポルトガル系東アジア図
第4章 ジパングとパリオコ
    ―大航海時代初期の世界図と日本
【第Ⅱ部 ゴーレスとレキオス】
第5章 ゴーレス再考(一)―アル・グールとゴーレス
第6章 ゴーレス再考(二)―その語源問題をめぐって
第7章 マラッカの琉球人(一)―『歴代宝案』にみる
第8章 マラッカの琉球人(二)―ポルトガル史料にみる
【第Ⅲ部 レキオスを求めて】
第9章 レキオスは何処に
    ―ポルトガル人の琉球探索と情報収集
第10章 マゼランとレキオス
    ―スペインのアジア進出と琉球認識
第11章 レキオス到達(一)
    ―一五四二年、ポルトガル人の琉球漂着
第12章 レキオス到達(二)
    ―新たな地理認識とその影響


上里隆史氏ブログより。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/02/post-d0ab.html
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/02/post-bdb9.html
1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。

1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

    「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していた。「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事。

これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近い。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「みかじめ料」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。
六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。



東方諸国記   Pires, Thomé トメ・ピレス [著] ; 生田滋  岩波書店, 1966.10
    Suma Oriental que trata do Maar Roxo ate os Chins

http://www.library.mcgill.ca/hostedjournals/000775148.html

https://archive.org/details/McGillLibrary-136385-182







李登輝氏と漁業との關はり。

農村復興委員會 1953-1964, 1968-1972.
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BB%E8%BC%9D
1953年取得碩士學位,同年自美返回台灣,擔任台灣省農林廳技士及經濟分析股股長。
之後,到中國農業復興聯合委員會(簡稱「農復會」)就職,擔任研究性質的工作。由於農復會有美國財政支援,待遇相對優渥,李登輝因此在該機關服務了12年。
1964年,獲得美國洛克菲勒農業經濟協會以及康乃爾大學聯合獎學金,李登輝預備前往康乃爾大學攻讀農業經濟博士。
李登輝在1968年提出論文以後,立刻返國,回國後被聘為國立台灣大學教授兼農復會技正。
農復會長官沈宗瀚在1971年8月將李登輝以農業問題專家的身分介紹給蔣經國。
翌年,蔣經國擔任行政院院長一職,李登輝以政務委員入閣,成為當時中華民國最年輕的閣員,年方49歲。自此之後的六年之間,以農經專長擔任行政院政務委員。

農復會年例報告。
第24期 1971年後半 大溪新漁港計劃。
第25期 1972年 大溪新漁港完成。

宜蘭縣頭城鎮の二大漁港:最北隅の大溪(小)、やや南の烏石(大)。
https://goo.gl/maps/oxz3sFB1fgFVQzor8
https://goo.gl/maps/BCftf9fsPWuTwR7J7


https://www.setn.com/News.aspx?NewsID=772805
https://today.line.me/tw/v2/article/-9Leqkq
三立新聞網2020/7/3  頭城鎮民代表簡英俊3日的聲明信,表示有不知名人士擅拿布條懸掛在大溪漁船拍照,憂心漁民權益受損。
有心人士拿「為主權、顧漁船」等布條,在大溪漁港懸掛10餘艘拖網漁船,於展示後拍照離去,最後船員才將布條拆除。
簡英俊指出,大溪漁港漁船均為以龜山島附近海域為魚場的拖網漁船,並非在台日協議海域(釣魚台)作業的船隻。
此舉行動也極可能打破台日漁業協議!過去台日漁業協議經17年協調,終能在102年簽訂後,使漁船能在協議海域內安心作業。若假借漁民名義,宣傳拖網漁船進行保釣行動,恐破壞協議造成漁民權益受損。
加上在台日協議海域內捕獲的黑鮪魚數量,為近年最高,簡英俊呼籲宜蘭縣漁民,勿隨人士起舞,在自家漁船懸掛布條。

簡英俊氏は、宜蘭縣の頭城鎮の鎮民代表(鎮議員)。
前龜山里の里長。龜山島の原住民。
https://toucheng.e-land.gov.tw/cp.aspx?n=E8B9CD8690D3155E&s=AC9E046F9622F160


 「阿公講古」,由高齡九十歲的老漁民林玉通講述釣魚台的故事給小朋友聽,呈現「拚無人島」精神的傳承。
蘇澳老漁民林玉通講述釣魚台的故事,小孩子圍繞著阿公專心聆聽。讓七十年前的「無人島」,隨著林玉通的描述重新浮現於大家眼前。


https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%BE%B3%E6%B8%AF
 蘇澳港舊稱為「東港」,原為一小型港口,其地形三面環山,是由北方澳、蘇澳及南方澳形成的天然優良港灣,形勢相當險要。日治時期,台灣總督府於南方澳開闢南方澳漁港與內埤漁港;二次大戰末期原有意闢建國際港,後因日本戰敗而中斷。
1965年,蔣中正政府為因應地方發展,在南方澳北邊興建小型商港,於1972年6月完工。1969年,行政院決議將蘇澳港擴建為基隆港的輔助港,並在1971年12月1日成立基隆港務局蘇澳港分局。1974年,蘇澳港列入「十大建設」之一;1975年7月,建港工程正式動工。除了建造碼頭、防波堤等設施,以及疏濬航道之外,並同時進行闢建蘭陽隧道等連外道路工程。1978年底,第一期工程完工;1983年6月,第二期工程全部完工。

大溪。
舊港建立於1934年。
1938年5月19日,宜蘭旅行社俱樂部募集龜山島遊覽團,從此港赴龜山島觀光,除船長、船員兩人還有二十七名旅客,中途翻船。當年在現在的大溪漁港景觀公園(鄰近新港)立「龜山島遊覽遭難者之招魂碑」,因位於軍方哨所而曾雜草叢生、遺忘多年。 
1953年經漁業局洽請中國農村復興聯合委員會撥款補助,先後修建碼頭198公尺,防波堤125公尺,泊地2,700平方公尺 ,曳船道一處,可供小型漁船停泊之用。僅供小型漁船及動力舢舨停靠。
新港位於舊港北面500公尺之處。自1970年4月開工至1971年9月闢建完成,計有泊地7,350平方公尺,防波堤145公尺,碼頭205公尺,可供中小型漁船數十艘使用。


1982年採択、1994年発効の『海洋法に関する国際連合条約』をもって、これまでの「大陸棚」の概念と統合し、新たに「排他的経済水域」という語となって明文化された。このとき水域、海底域の範囲についても原則領海基線から200海里を範囲とすると定められた。


http://senkaku.blog.jp/2016020353949995.html
上 世紀五、六十年代,李登輝先生在農復會(今農委會)工作,應該對基隆漁民操業的海域範圍有所瞭解。他認為釣魚台主權雖屬日本,但談漁權並無妨礙,其主張有 一定的專業基礎。數百年來,釣魚台西側遙遠處有明國、清國的國界線,釣魚台是界外無主地,日本人得以先入為主,這固然是一段改變不了的歷史。然而20世紀 台灣漁民前進該海域,也不能不說是另一段歷史。二戰以後,出現了專屬經濟水域的概念。新的概念自應共同服從,可我們也不能用它來全盤否定歷史。李登輝先生的看法最符合史實及法理,不愧是一代偉人。


總統府 李登輝と蔡英文。
總統府youtube李登輝蔡英文






以上都是炸彈。

【中英字幕片段】閻麗夢戰鬪室首次重磅發聲:中共病毒是解放軍病毒實驗室産物!


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完整版 
https://www.youtube.com/watch?v=eLRaSzM3Dmg





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路德社官話採訪。

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 平安『新撰姓氏録』1182氏姓の神別・皇別・諸蕃3類の内わけは、皇別335氏、神別404氏、諸蕃326氏です(群馬縣立女子大學國文學科北川和秀研究室などの統計)。それぞれほぼ三分の一づつを占めます。
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html
これは現代日本人の父系Y染色體の主要三種にあてはまります。
D1b(舊D2) 東日本繩文人:神別
O1b2(舊O2b) 西日本繩文人(本土彌生人):皇別。
O2(舊O3) 渡來系彌生人:諸蕃。
それぞれ三分の一を占めます(リンク)。
http://senkaku.blog.jp/2019122981854824.html
 姓氏とは即ち父系であり、今のY染色體に相當します。『新撰姓氏録』は近畿一圓に限定されてゐますが、その大枠は、全國の父系遺傳子の比率で證明されてゐることになります。皇室のみならず日本のくにのかたち(國體)が問はれるのが、父系なのです。近代以前の所謂姓氏なるものは、言ふまでもなく父系であり、父系は現代では生物のY染色體で繋がってゐることが分かった。それ以上でも以下でもありません。
 『新撰姓氏録』なんて牽強傅會の書に違ひないと、以前は思ってゐました。しかし遺傳子と合致するとなると、信頼度が頓に高まります。『尖閣反駁マニュアル』共著者赤染康久氏は『新撰姓氏録』の燕王公孫淵の子孫・常世氏に相當しますが、それも信頼度が高まるわけです。
 諸蕃の内わけは、漢と百濟が大多數を占めて、高麗新羅任那は少數です。よって多くの漢人は高麗經由でなく、長江文明から五島や百濟を經て渡來した可能性が高いでせう。任那が少ない所以は、疑ふらく任那の日本人は諸蕃(外國人)と看做されなかったのではないか。
 朝鮮半島東岸にはかなり早くから繩文人が渡航してゐたことがY染色體や青谷遺骨から分かりますが、それも『新撰姓氏録』で日本人と看做され、新羅と高麗が少ないといふ結果に繋がったのではないか。皇別の酒部氏(古事記で百濟とする)、田邊氏、吉田氏、新良貴氏、神別の韓國氏・物部韓國氏・秦氏などです。先行研究ではこれらの氏について、渡來人が日本人を詐稱したのだとしてゐます。例:「新撰姓氏録における姓意識と渡来系氏族」菅澤庸子 2001年、京都女子大学史学研究室『史窗』第58号。
http://hdl.handle.net/11173/684
 しかしY染色體から見れば確かに日本人が朝鮮半島まで往來してゐたので、詐稱説は修正を要するでせう。
 西日本繩文Y染色體が任那・新羅・高句麗東部に分布し、逆に『新撰姓氏録』では任那・新羅・高句麗が少ないといふ相補を成してゐます。この現象の解としては、任那新羅高句麗に渡航した西日本繩文人が、『新撰姓氏録』で任那新羅高句麗の諸蕃に分類されなかったのです。ここにO1b2の西日本人を日本民族として、O2の渡來人を外國人とする、民族概念が見られます。
 換言すれば、早期に朝鮮半島に東部南部に渡航した新モンゴロイド(O1b2西日本繩文人)は、『新撰姓氏録』でも日本人として扱はれ、一方で晩期に渡來した新モンゴロイド(O2)は諸蕃とされたため、晩期の百濟からの諸蕃が多いのでせう。百濟人は古墳時代から南朝文化を日本にもたらしました。
 ついでながら、新良貴氏は『新撰姓氏録』で新羅王の祖とされ、『三國史記』で新羅第四代王・脱解尼師今は倭人から新羅王となり、新羅開國の元勲瓠公も倭人とされます。ここにも西日本繩文人が朝鮮半島東南部を勢力下に入れてゐたことが示されてゐます。

 『新撰姓氏録』の序文で神別が皇別の前に置かれてゐるのも意味があります。研究によれば草稿では慣例にもとづき上卷が神別、中卷が皇別であったが、定稿で倒置せられたとのこと。それが序文に痕跡を留めた。皇室以前の神の國、日本。皇室以前の出雲の大物主など、繩文の神々が先なのです。神々が出雲に集った神在月。その「天神地祇の冑(すゑ)」として、この序文でも否定できないわけです。 

『新撰姓氏録序』に曰く、
「跡其群分、則有三例。天神地祇之冑、謂之神別。天皇皇子之派、謂之皇別。大漢・三韓之族、謂之諸蕃。所以別同異、序前後、是為三體也。」
押小路家寫本では跡は草書の形似で誤って言包に從ふ。
新撰姓氏録序赤押小路寫本内閣文庫3-186

 『新撰姓氏録』押小路家藏寫本。國立公文書館内閣文庫、和2647、古3-0186。
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000051094.html
『群書類從』卷448にも收める。版本不明。 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576267/7
『群書類從』卷448、近代活字本。 
關聯:  



http://archive.vn/wip/tapBy


尖閣についてウソ本を書いたことのある元共同通信記者。
曰く、「香港への国家安全法導入から中印国境紛争、尖閣諸島(中国名、釣魚島)での中国公船の活動まで、居丈高な中国外交を意味する「戦狼外交」から、中国の意図を説明する言説が流行している。しかし中国は、米中対立の文脈から日本とインドとの関係を重視しており、「戦狼外交」とみるのは完全なミスリードだ。「戦狼外交」は、もちろん中国当局が自称しているわけではない。中国軍の特殊部隊の活動を描いた中国アクション映画「戦狼」(Wolf Warrior)がその由来。習近平政権登場(2012年)以来の中国の「高圧的な外交」の形容詞としてすっかり定着した感がある。」
https://www.businessinsider.jp/post-216192

ちょっと待って欲しい。言ふまでもなく戰狼は自己宣傳の國策映畫である。戰狼外交は自己宣傳に「外交」の名をつけたに過ぎず、戰狼鬪士なる教授もあり、
https://kknews.cc/science/2y5ebx9.html
警界戰狼(警察界の戰狼)もあり、
http://cpc.people.com.cn/BIG5/n1/2017/0923/c64104-29554370.html
直播界戰狼(インターネット生放送の戰狼)もあり、
戰狼畫手も大人氣だ。
https://chinanews.sina.com/bg/chnoverseamedia/phoenixtv/2020-06-09/doc-ifzwyusm5647949.shtml

駐英大使劉曉明は戰狼外交を否定せず、「狼と戰ふ外交官だ」と解釋して誇らしげである。
「有人說中國現在有很多的“戰狼”,我覺得之所以有“戰狼”,是因為這個世界上有“狼”。有“狼”,就必須有“戰狼”去跟他們進行鬥爭。所以我們鼓勵各級外交官主動應戰,哪里有“狼”,哪里就要主動出擊應戰,捍衛國家的尊嚴和利益。」
(原題為《駐英大使劉曉明:之所以有“戰狼” 是因為這個世界有“狼”》)
https://www.ttv.com.tw/news/view/10905250017300N/568
http://www.chinanews.com/gn/2020/05-25/9193747.shtml
https://newtalk.tw/news/view/2020-05-25/411647

あんまり自慢し過ぎたと思ったのか、「戰狼文化を反省しよう」
https://k.sina.cn/article_2662090253_9eac460d01900mhhy.html
なんて言説まで出て來た。認めた上で反省するんだから、そもそも共同通信元記者の言ふミスリードこそ大ウソだ。

といふわけで、戰狼について7/12の私の談話を八重山日報から特別公開。

八重山033_020712雖遠必誅縱





今日7/24、大きく報じられたニクソン圖書館演説、主要部分、字幕つき。



國務省アカウントの元ビデオ字幕なし、10:30から字幕版と同じ主要部分。


他にここ二カ月のツイッター演説と、最後に7/24ニクソン圖書館演説を追加。


もとのツイッター 





以下は音聲不明瞭。





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貝偏が財物を示すことは小學生でも知ってゐる。殷墟甲骨文の時から既に漢字多數。
黄河文明にとって貝類は稀少價値があり、貨幣となり得た。
長江文明の東南沿海部からの輸入品だらう。
長江文明が黄河流域に浸潤したことを象徴するのが貝偏の諸字だ。
殷が東方に興ったことから考へれば、齊魯を經て輸入されたと想像するのが自然だ。
近年の考古學もこれを證するさうだ。木下尚子教授の研究。
1.中国新石器時代から商周代において、海産貝類を威信財に用いる習俗は黄河流域に集中する。
2.黄河流域に認められる貝類は、2綱18科67種におよび、その9割以上がタカラガイである。
3.安陽殷墟で出土した貝類約1万個のうち、8割弱は現在の台湾、南中国海、琉球列島などの熱帯海域に生息するもので、2割弱は南中国海から東中国海に生息するもので占められている。
4.出土貝類の組成分析を踏まえると、これらがインド洋経由でもたらされた可能性は低い。
5.山東半島に、安陽殷墟と同様の貝類組成をもつ商周代の遺跡があり、貝殻の出土状況の検討から、この地の人々が中原への貝類流通に関わっていた可能性が高い。
6.中原で消費されたタカラガイは、台湾を含む中国東南沿岸域で採取され、山東半島を通って黄河流域にもたらされた可能性が高い。
7.中国においてタカラガイの消費量が増大する商周代併行期、台湾や琉球列島で玉加工品やこれに関わる製品が流行する。これはタカラガイの採取を目的として移動した人々の動きを反映する可能性がある。


一方、黄河文明では牛羊豚を祭祀に用ゐること秦漢以後まで續く。
牛羊で祭祀するのはメソポタミア文明以來普遍的だ。
牛羊馬等の家畜を産んだのがメソポタミア文明近傍であるから、
チャイナ特有ではない。陸のシルクロードからの輸入品だ。
そして牛馬が日本に輸入されるのは古墳時代以後なので、
『魏志倭人傳』では倭國に牛馬羊無しと記録されてゐる。

殷墟以來の漢字で、まづ多數の馬偏字は、そのまま
疾驅や驛傳など、馬そのものを形容する。
馬は食用に供せられない。

牛は祭祀(食用)に用ゐられ、
牛偏字は牛そのもの以外に祭祀の義が多い。
祭祀の比喩として牢、犠、牲、特、物などがある。
「牢」は、牛馬の檻であり、轉じて祭祀の牛を牢と呼ぶ。
犠と牲は勿論祭祀の獻げ牛である。
特は單獨で祭られる牛、特牲とも呼ぶ。祭祀の主役である。
物は『説文解字』で「牛、物の大なるものなり」とする。
これも多分祭祀の諸物中で主役が牛だといふ意だらう。
牢の主役は牛であり、太牢と呼ばれる。
白川靜「殷の社會」では殷を農耕社會として、
牛を農村の役牛とする。早くから家畜となった牛が主役である。

牛よりも早く家畜となったのは豚(豕)だらう。
日本でも豚はそのまま「しし」(にく)と呼ばれ、
農村で最も馴染まれた家畜だ。
家、冡(蒙)、逐、冢(塚)、豢、豚などのうち、
蒙・塚は豕ではない。逐はぶたを逐ふ義。
そして豢・豚は祭祀のぶたである。
他にも豕部では祭祀のぶたの義となるものが多い。

羊偏は、羊そのものを形容する群、羯、などのほかに、
比喩の字義も多い。義、善、美、羑、羞、羨などがあり、
聲符を兼ねるのは養、膳、祥などがある。
羞は後に饈に作り、獻げ供へる食用の羊である。
義は、『説文解字』義の條に曰く、
「己(我)の威儀也。我と羊とに從ふ。臣鉉等曰く、此れ善と同意なり、故に羊に從ふ、と。
 『説文解字』美の條に曰く、
「羊は六畜に在りて、給膳を主るなり。美は善と同意なり。臣鉉等曰く、羊大なれば則ち美なり、故に大に從ふ、と。段玉裁注に曰く、膳の言たる善なり。羊は祥なり。故に美は羊に從ふ。美は善と同意にして、美・善・義・羑、皆な同意なり、と。
『説文解字』羑の條に曰く、善を進むるなり、と。段玉裁注に、今は則ち「誘」行なはれて「羑」廢せり、と。つまり羑は誘の古字だといふ。諄々として善誘(善導)する意である。
羨は、良いと思ふこと。鄙見としては善と古音同じ。

このやうに羊を佳きものとする解は段玉裁以前から普遍的である。
或は牛に較べて羊は稀少價値があるから佳きものとされたのか、
それは分からない。
ただ牛豕に較べて羊はあまり祭祀的ではない。
羊は新たな外來文化だから祭祀では主役でなかったのだらう。
祭祀の太牢は牛、少牢は羊と豕である。
牛が祭祀の要であり、羊は脇役だった。
牛は農村の家畜、羊は遠く遊牧民の外來的動物である。
後の時代にも羊の毛織物は外來文化であり、
セーターは奢侈品である。

ところが市民圖書館の書架に、羊と貝のチャイナ文化論といふやうな書があり、
繙くと、美・善・義は周の祭祀文化で義を示し、
貝・財・貨・寶は殷の商業文化で利を示すといふ。
羊の周文化と貝の殷文化で今のチャイナ人を説明できるといふ。
ちょっと待って欲しい(朝日新聞)。

そもそも主役の牛を無視するのはどうしたことか。
牛部こそ字源からして祭祀の字である。
著者は羊が善物なるを借りてチャイナ人をイメージ向上したいのか。

しかも周の前の殷の甲骨文に既に美・義があり、周の造字ではない。
甲骨文の美、義は人名・地名にばかり用ゐられ、
通説としては佳き義は後の引伸だとされる。
かりに周人が地名人名の美・義に佳き義を賦予したとしても、
祭祀にもとづくとは言へない。
單に羊が外來の佳き物であるから佳き義が
産まれたとするのが通じ易い。

周の祖先と關はるのは姜字である。
周は姫姓だが、その始祖后稷の母親は姜姓の姜嫄であり、
陝西省西部の姜水のあたりの部族らしい。
後に太公望姜子牙も陝西省の磻溪で周の文王に見いだされた。
つまり周の父系は姜族ではなく、周の近隣部族が姜である。
羊が周の文化を代表するとは、とても言へない。

また、羑がやや晩い造字だと假定すれば
周の文王が羑里に囚せられたことに關聯づけることは
できるかも知れないが、他の字では筋が通らない。

評論家の字源説は怪しいものが多いので要注意。
常識的には、シルクロード文明が羊、長江文明が貝。
どちらもチャイナにとって外來文化である。
だから貝がたからもの、羊がよきもの、となるのだらう。
牛もシルクロードから來たが、早くに傳來して
農村に定着したので、外來イメージは稀薄である。
評論書としては、逆に羊と貝の「非チャイナ」文化論
とすれば、なるほど意味があるだらう。

義甲骨文
  ▲義の甲骨文。






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三浦春馬氏の遺言「發酵の精神」。 
 食品だけでなく文化文明の比喩としては多分三浦氏の創始と思はれます。グーグルで現在わづか15件。日本文明のあらゆるものが「發酵」で説明できるし、民族全體が一萬六千年間、發酵を目指して來たわけです。世界最古の繩文土器も發酵に用ゐられたさうです。動かざる發酵壺としての島國日本です。その象徴は、勿論父系皇室です。

 三浦氏自身の言葉はこのリンクの中段。

三浦春馬日本製1
三浦春馬日本製2


 平塚市博物館 こだわりの100選 有孔鍔付土器 岡崎 上ノ入遺跡 で発見された有孔鍔付土器は縄文時代中期の土器です。お酒を造る発酵器と考えられ、ムラの祭りの時に使われたと考えます。
平塚市博物館有孔鍔付土器
發酵壺1

 一應つけたしておけば、臺灣の歴史作家柏楊(外省人)の名言に「醬缸文化」がある。何でも味噌醤油の甕にぶちこまれて腐敗する。
「任何一個民族的文化,都象長江大河,滔滔不絕的流下去,但因為時間久了,長江大河裡的許多污穢骯髒的東西,象死魚、死貓、死耗子,開始沉澱,使這個水不能流動變成一潭死水,愈沉愈多,愈久愈腐,就成了一個醬缸,一個污泥坑,發酸發臭。"他認為中國的傳統文化就是這樣的醬缸文化。」    孔子大廈的講辭    中國人與醬缸 醜陋的中國人。
 チャイナ文化の發酵と、日本文化の發酵。似てもゐるし違ひもある。結果として産み出したものが素晴らしければ、發酵の精神となり、産み出したものが劣惡であれば發酵の腐臭となる。結果の差が産まれる原因は、何らかの本質的な差だらう。話せば長くなる。



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