- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

本日午後二時、長崎の某所で非公開講演。使用するリンクは以下の通り。

明治26年(1893年)、日清往復公文に尖閣の記載。
内閣官房第二囘(平成27年度)報告書に採用。28年四月公表。次々に反駁が出る。
http://senkaku.blog.jp/2017050370747070.html

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内閣官房領土室 第三囘平成28年度報告。平成29年5月12日公表。
内容は1819年初上陸、1461年「大明一統志」、18世紀大清一統志。
http://senkaku.blog.jp/1819tendabana.html
翌日、八重山日報第一面の報導。
http://senkaku.blog.jp/2017051370892822.html
臺灣、香港などで報導。チャイナ報導は史料内容を無視。
http://senkaku.blog.jp/kanbou_houdou_290516.html
チャイナ外交部は黙殺。
http://senkaku.blog.jp/2017051970976737.html


尖閣最古の上陸記録を二十六年引き上げ 向氏家譜・具志川家 西暦1819年。  
http://senkaku.blog.jp/1819ronbun.html


それまで最古とされてゐた1845年上陸記録。英人ベルチャーのサマラン艦。
http://senkaku.blog.jp/20160330yaeyama.html

無名研究員だけ反駁。「1819年上陸は尖閣ではない」。
http://senkaku.blog.jp/2017053171152848.html
http://senkaku.blog.jp/LiLi20170620.html


佐賀新聞。平成24年10月5日 大明一統志の國境線。  
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/9/9/992684e7.jpg

八重山日報 平成24年10月6日  大明一統志の國境線。
http://senkaku.blog.jp/daimin_itto.html

大清一統志の國境線。
http://senkaku.blog.jp/daishin_itto.html

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次に、今年の最大注目史料は西暦1617年『皇明實録』
福建沿岸六島をチャイナ海防線として日本に通告。
平成二十五年一月二十一日に長崎縣廳で記者會見。
産經及び長崎新聞の報導。
http://senkaku.blog.jp/2017072771950173.html
讀賣。
http://senkaku.blog.jp/archives/30701638.html
琉球新報。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453565.html
香港臺灣の反應。
http://senkaku.blog.jp/archives/25875959.html

キャノングローバル研究所で關聯史料の研究報告。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453552.html
八重山日報で關聯史料。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453555.html
。。

オランダ坂下





 カールグレンは漢字音學の草創者に非ず。當り前の事なので、まづこの標題だけで人に笑はれる。しかし先日、或る米人が少しばかり漢字音學の初歩を齧ってゐて、私に對して言ふには、
「カールグレンは誤りが多いが、しかし最も早く音標を用ゐ、最も早くチャイナ以外の漢字音と比較し、最も早くチャイナ語の方言の字音を比較したから、一番偉い」
と。
 この米人を素人と笑ってはいけない。今でも歐米の學界ではこのやうな自惚れが支配的なのである。念のため、カールグレン(西暦1915年から漢字音學研究を刊行)よりも以前の漢字音研究を二三ここに舉げて置かう。

大島正健『支那古韻考』明治三十一年(西暦1898年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993666
上古音を探究。ローマ字音標を使用。

 大島正健『韻鏡音韻考』明治四十五年(西暦1912年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088291
官話、江南音、廣東音、日本音、廈門音などを比較。ローマ字音標を使用。

他に大島正健著作。大阪大學岡島昭浩氏ネット頁。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/oosima/

『支那音韻斷』滿田新造、西暦1915年。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942679
朝鮮音、安南音(ベトナム音)、梵語などと比較。ローマ字使用。「斷」といふ書目はそれまでの先行研究の存在を前提としてゐる。

陳第『毛詩古音考』『屈宋古音義』。明國、西暦十七世紀初葉。
https://books.google.co.jp/books?id=TLEsAAAAYAAJ
明國各地の字音を使用。上古音を推測。

 現代の目から見れば、これら諸家はみな誤りだらけである。しかしそれぞれ草創の功は沒すべからざるものがある。カールグレンもまた誤りだらけなのは先輩諸家と同じである。ただ先輩よりも材料を増やして、研究を一歩進めることができたといふだけに過ぎない。
 そもそも、漢字音を非漢字文化と比較したのは、六朝から既にあったことで、唐までに成った『韻鏡』はその綜合である。カールグレンの創始ではない。
 カールグレンは近代西洋の方法を最も早く用ゐたとの評もある。その理由は二つだらう。第一に近代西洋のローマ字を用ゐたこと。これは大島正健が先だ。第二に『切韻』にもとづいて中古韻部を極めて細かく分けたこと。これはとんでもない。韻部を細かく分けたのはカールグレンの最大の誤謬であって、「細かいから近代的らしく見える」といふ見掛け倒しに過ぎない。
 そもそも韻部を細かく分けたのは『切韻』作者であって、カールグレンではない。カールグレンはそこに愚直にも逐一ローマ字をあてはめただけである。問題は、『切韻』の細かな韻部は一時代一地域の純粹音ではなく、異なる時代地域の複合物である。清國の段玉裁らが既にそこに言及してゐる。カールグレンは先行研究を無視して、『切韻』の統一的字音體系がそのまま過去に存在したかのやうな誤解を歐米にひろめた。
 要するにカールグレンの功績は、漢字音學の存在を歐米に宣傳したといふだけに過ぎない。今人がカールグレンを高く評價するのは單に東洋人が歐米崇拜し、もしくは歐米人が自惚れてゐるだけだ。「漢字音の存在を歐米人に知ってもらった、嬉しい!」。つまり近年はやりのネトウヨの「日本凄い!」「東洋凄い!」と大差ない。

ついでながら、大島正健『漢字聲符考』第三十六頁に曰く、
「我がやまとを邪馬臺を以て寫したるに因りて、台のtoに近き音なりしを知るべし」
と云々。(西暦1913年刊)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949884/23
邪馬臺にyamatoといふローマ字を早くも充ててゐる。參考:
http://senkaku.blog.jp/2016042358843504.html
(本ブログ平成二十八年四月二十三日、邪馬臺國は「やまとこく」と讀み換へよ、魏志倭人傳の時から「やまと」は存在した )

大島正健

Chan, Y. A. [陳以信]. (2006).
"A reconstruction of late middle Chinese".

 (Thesis). University of Hong Kong, Pokfulam, Hong Kong SAR.
http://dx.doi.org/10.5353/th_b4501540
http://hub.hku.hk/handle/10722/159130

page 64:
Dong 1949 is, in a way, a reaction to his teacher’s paper Luo 1933b,
the first attempt to seek a phonetic explanation
for the inner/outer distinction in terms of Karigren’s
Ancient Chinese reconstruction. Granted, Luo is definitely not the first to
propose that the inner/outer turning is somehow related to the vowel.
Based on Sino-Japanese readings Oshima (1913) already proposed that the inner turning involved vowels such as /o/, /u/ and /i/, whereas the outer turning had vowels /a/ and  /e/;
and in Oshima 1926 he brought out the idea
that the zhen she should belong to the inner turning.
Oya (1924) further proposed to move the dang she to the outer turning,
and in Oya 1932 he decided to move the guo she to the outer turning as well.
Luo 1933b already includes an adequate summary of the views
of Oshima and Oya that I need not repeat here.
As we shall examine further below in Chapter 4, the general tendency
that the inner turning has Japanese reflexes of hi, I
u! and /o/ while the outer turning has Ia) and /e/ is very strong indeed.
The dispute surrounding the zhen, dang and guo she
originates from the discrepancy between their traditional inner/outer status
and their Japanese reflexes.

reconstruction_late_middle_Chinese_陳以信_page64大島正健に論及

Karlgren
Bernhard_Karlgren



三浦按針は平戸から朱印船で出航し、尖閣を目撃した。そこで、平戸の按針情報です。
https://www.city.hirado.nagasaki.jp/kurashi/news/2018/2018-0508-1455-108.html

按針忌レクイエムコンサート
按針忌レクイエムコンサートが開催されます。三浦按針(ウィリアム・アダムス)をはじめとする平戸で没した大航海時代の外国人たちを追悼するコンサートです。ヨーロッパで歌われた古い民謡や子守歌、慰霊の曲目などを披露します。ぜひ、ご鑑賞ください。

とき 平成30年5月26日(土曜)
開場 午後5時30分 
開演 午後6時
ところ 平戸オランダ商館2階(平戸市崎方町)
出演予定者    星野 恵利(ソプラノ)    後藤 美樹(ピアノ)    河本 洋平 (ヴァイオリン)

演目(予定)    アヴェマリア     アメージンググレイス 
    イギリス~スコットランド民謡メドレー    アニーローリーほか

当日曲目など変更になる場合がござますので御了承ください。
チケット 一般  1,000円
高校生以下 500円 ※当日500円増 
チケット購入窓口 文化交流課 平戸オランダ商館
お問い合わせ先 文化観光商工部 文化交流課 文化遺産班
電話:0950-22-4111  FAX:0950-23-3399
(受付時間:午前8時30分~午後5時15分まで)

平戸按針忌レクイエム

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http://www.hirado-net.com/?tribe_events=slug-tribe_events-5507
第24回按針忌  平成30年5月27日
■会場 崎方公園按針塚
■問合 HIRAの会 0950-23-3833(井上)
時間未定か。多分午前十時から。
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北朝鮮が突如強氣に米國と破談の可能性。
http://www.afpbb.com/articles/-/3174736
https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/180516/wor18051611180009-n1.html
素人の私ながら、伏線ありと見ます。北朝鮮封じ込めには、まづチャイナ封じ込めの必要あり。米國が貿易制裁で本氣なので、チャイナはやむを得ず北朝鮮封じ込め側に就きました。それで北朝鮮は降參寸前となりました。ところが日本が北海道でチャイナにお供して一帶一路に協力表明。
https://www.sankei.com/politics/news/180511/plt1805110018-n1.html
それでチャイナは命拾ひして北朝鮮との裏取引を再開しました。よって北朝鮮は強氣に出ました。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018051601321
素人の私がここに見出すのは、日本からの壓力を北朝鮮に直接かけるのでなく、チャイナに壓力をかける必要があります。日本は蚊帳の外の黒子に徹して、アメリカの貿易制裁に完全に歩調を合はせるべきです。今まで數十年間、チャイナが危機になると、いつも日本が助けました。今度も自民黨がそれを繰り返さうとしてゐます。

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李克強首相を北海道に招いたことにつき、青山繁晴氏が自民黨を批判。虎ノ門平成30年5月14日1時間46分より。
切り取り版はこちら。


トランプ北朝鮮2

生月町博物館ネット拾得2


下は昨日5/14、生月町博物館「島の館」で見た龜井南溟の扇。
門弟のの益富氏が鯨肉を獻上した際に、南溟が返禮として贈った詩。
素晴らしい藝術品。撮影禁止だったのが殘念だ。
上聯の白鶴は、通常ならば鯨肉に比喩するが、
下聯の解が即時には得られなかった。
しかし今朝少々思索して、下のやうに解するのが普通である。

白鶴從天降、
來儀几案傍。
主人有仙骨、
不向閬風翔。

白鶴、天より降り、來たり儀す几案の傍ら。
主人に仙骨有らば、閬風に向かって翔けざらんや。

白鶴(鯨肉)が天から、
我が机に舞ひ降りた。
主人(私)にもし仙人の氣質があれば、
閬風(天)に飛翔するだらう。
(仙骨が無いので飛翔まではできないのが殘念だ。)


5/16追記。生月の益富氏が黒田藩儒の龜井氏を師としたことは、『能古博物館だより』26號(平成七年十月)所載「大儒龜井昭陽傳」に略述されてゐる。さらに『生月史稿』に詳しいらしいので今度見よう。
http://nokonoshima-museum.or.jp/issues/issues_026.pdf


生月町博物館ネット拾得



臺灣 自由時報
「安倍は李克強に會ふ見込み。釣魚臺爭議で妥協する見込みとの情報」
http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2418138
安倍將會晤李克強 傳將妥協釣魚台爭議
2018-05-07 16:23
〔即時新聞/綜合報導〕
 中國海警船近來屢次駛近釣魚台海域騷擾,日本消息人士指出,安倍晉三打算9日在東京與中國國務院總理李克強會晤,為了避免再發生衝突,將建立中日防務之間的「海空聯絡機制」,把釣魚台領海和領空設為不明示區域,以模糊解決的方式來消弭爭議。
 據《共同社》報導,在「海空聯絡機制」之中,日本方面規劃把釣魚台區域排除在外,對此中國可能會有意見,因為若按照日本的做法,等同於承認日本擁有釣魚台。因此,中日雙方也許會以地理上不明確的範圍進行協商。
 日本消息人士透露,9日下午進行日中會談時,若安倍與李克強在「海空聯絡機制」達成共識,雙方防務部門就會簽署文件,而外界將會關注日中之間的釣魚台衝突是否能得到緩解。
 此外,安倍晉三與李克強會晤時,預計會提到希望能儘快訪問中國,並爭取中國領導人習近平訪日。因應近來朝鮮半島局勢和緩,安倍屆時可能也會談到遭北韓綁架的日本人問題。

自由時報300507安倍釣魚臺妥協

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李克強今見安倍 緩解釣島緊張
2018/05/09  臺灣蘋果日報 りんご日報 
https://tw.news.appledaily.com/international/daily/20180509/38008050/
【林沿瑜╱綜合外電報導】
 中國國務院總理李克強昨晚抵達日本,將於今上午與日本首相安倍晉三、南韓總統文在寅舉行睽違3年的中日韓高峰會。李克強今下午還將與安倍會談。日本共同社引述消息指,中日兩國領導人將針對海空聯絡機制達成正式協議,以化解兩國因釣魚台主權爭議而頻頻陷入緊張的軍事對峙。
投書促兩國關係
 日本2012年9月將釣魚台國有化後,中日關係陷入冰點,原本每年舉行的中日韓高峰會,僅於2015年11月在南韓首爾舉行過一次,中國的領導人自此未曾踏足日本。
李克強昨在《朝日新聞》的投書中表示,此行是「中國總理時隔8年再次到訪。我這次來,就是要推動兩國關係長期健康穩定發展。」
 日本官方消息指出,雙方預計將在不明示是否包含釣魚台周邊領海和領空的情況下,達成海空聯絡機制協議。共同社報導,日方原主張將釣魚台周邊的領海和領空排除在協議之外,但中方表示為難,認為若將其排除,「等於承認釣魚台是日本領土」,日本因而做出讓步
 朝鮮半島局勢將是中日韓領導人峰會的重要議題。文在寅昨在給《讀賣新聞》的書面回覆中說;「我尤其認為,日本和北韓應該重啟對話。……倘若日本和北韓關係正常化,將大大促進東北亞和平及安全。」

蘋果日報300509安倍釣魚臺讓歩

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http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/1100751
釣魚台假想戰 美日沙盤推演
2017-05-09〔編譯林翠儀/綜合報導〕
 日本媒體報導,約二十名美國和日本前高層官員與前自衛隊員,三月下旬曾在美國舉行一場釣魚台假想戰的沙盤推演,設定兩種衝突場景,以評估可能採取的因應步驟。這可能是美日前官員首次針對敏感的釣魚台問題共同沙推,但日方成員會後憂心表示,美方更擔心與中國爆發衝突,而非站在日本擁有釣魚台的立場。
 「讀賣新聞」旗下的英文報「日本新聞」報導,這場沙推由美國洛克希德.馬丁公司提供場地,參加者約二十人,包括曾在布希政府擔任國家安全會議亞太資深主任的韋德寧。參與者分成三組,代表美、日、中三方。
 沙推設定兩種衝突場景,第一種是日本右翼組織武裝佔領釣魚台,日本派出三艘海上保安廳巡邏船及上百名警力,試圖控制情勢。由於佔領者為日本人,日方不希望出動自衛隊,但在此時,中國提出限定日方在四十八小時內處理完畢的要求,否則將出兵處理。
 日本擔心派遣自衛隊成中國出兵藉口,內部出現分歧。美方則考慮日方可能基於日美安保條約求援,要求日方快速處理以避免戰爭。日本最後決定由武裝海保船向島上開砲,中國卻認為日本無足夠意願和能力解決問題,決定出兵。
 第二種場景是中國六艘海警船和二十多艘漁船進入釣魚台海域,與一艘日本海保船相撞,造成數名中國船員落海。日方決定加派巡邏船支援,避免中方人員登島,海上自衛隊也派遣護衛艦,阻隔中國軍艦接近釣魚台,一觸即發。
 美國呼籲雙方保持克制,但中國認為日本先挑起爭端,提議雙方同時撤船。日方認為此舉有損其主權立場,拒絕撤船,但最後仍在美國強大壓力下讓步。





"History of the Senkaku Territorial Waters" by ISHIWI Nozomu 
download:
https://www.academia.edu/36578516/

Abstract:
Since the Dai-min ittou shi (Mdr. Da-Ming yitong zhi, Records of the United Great Min), which presents the Empire's geography of 1461, all Chinese geographic records have clearly stated that Chinese territory officially extends only to the east to the mainland coast and to the south to the southern tip of the Kainan (Mdr. Hainan) Island. Records have also stated that Taiwan Prefecture territory officially extends only to Fort Keelung and Cape Santiago, or the north and north-east tips of Taiwan Island, respectively.
 Most Ryukyu officials providing navigation services descended from 36 families naturalized in Ryukyu from Fukken (Mdr. Fujian). But Koumin Jitsuroku (Mdr. Huangiming shilu) clearly stated in January 1547 that the emperor officially deemed them non-Min Empire nationals. This was only natural, as the Empire credo from earlier times had been ban to sail abroad to sea.
 The 17th century's Funanori-piroto (Sailor Pilot), a record of Shogunate-chartered ships era, presents the Senkakus as part of a north-south shipping route from Nagasaki to Luzon via the east coast of Taiwan, with no connection with China.  
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Keywords   Dai-min ittou shi      36 families      Shuinsen
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いしゐのぞむ(石井望)「尖閣海域史辨妄」 長崎純心大學大學院『人間文化研究』第十五號所載。  
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1184559X
  
http://www.worldcat.org/oclc/852250619
 平成二十九年三月刊行。
"History of the Senkaku Territorial Waters"
in "Studia humanitatis"  no.15
by Nagasaki Junshin Catholic University. Graduate School. School of Humanistic Studies.
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いしゐのぞむ(石井望)「尖閣海域史辨妄」 長崎純心大學大學院『人間文化研究』第十五號所載。 平成二十九年三月刊行。
"History of the Senkaku Territorial Waters" in "Studia humanitatis" no.15 by Nagasaki Junshin Catholic University. Graduate School. School of Humanistic Studies.

Volume: 15

Page Numbers: 63-86

Publication Date: 2017

Publication Name: History of the Senkaku Territorial waters, Senkaku Kaiikishi Benmou
Research Interests: Ryukyuan, Senkaku, Conflict Senkaku, Diaoyu Islands, Senkaku Islands,

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academia_edu



ポルトガル語など讀めるはずも無い私だが、尖閣とマカオとの關聯無きにしもあらず。岡美穗子『商人と宣教師・南蠻貿易の世界』(東大出版會平成二十二年)は、南蠻貿易の最尖端の研究だ。モンスーン文書(季節風貿易時代のポルトガル文書)や、樣々な古文書を驅使してゐる。難しくて勉強に時間がかかる。モンスーン文書の原本藏館は「Arquivo Nacional da Torre do Tombo」である。
https://pt.wikipedia.org/wiki/Arquivo_Nacional_da_Torre_do_Tombo
 Tomboはセイロン殖民地公文書。Torreは樓閣・タワー。略稱ANTT。つまりトンボ樓を起源とする國立文書館である。そこのホームページで近年大量の古文書が公開されてゐる。「Japão」(日本)を打ち入れて檢索すると、尖閣が出る筈もないが、幕末の日葡通商條約の和文が出て來た。

「Tratado de Paz, Amizade e Comércio entre o rei de Portugal e o imperador do Japão」
(Treaty of Peace, Friendship and Commerce between the King of Portugal and the Emperor of Japan)
https://digitarq.arquivos.pt/Controls/vaultimage/?id=4A3744C57D274DC3375614D559FD8E04&r=2
https://digitarq.arquivos.pt/details?id=4336033
https://digitarq.arquivos.pt/viewer?id=4336033
 明治の外務省記録局『締盟各國條約彙纂第一編』に日葡對照活字本あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798309/295
 ポルトガルがRei(=Royal,King)、日本がImperador(皇帝)である。日本が皇帝で他國が國王となってゐるのは、近代以前でよく見かける。「日本凄いぞ!」です、はい。和文は大君(德川大君)と葡萄牙國王となってゐる。
 駐葡大使館の解説あり。
http://www.pt.emb-japan.go.jp/jp/150anos_website/treaty_jp.htm
トンボ閣デジタルではポルトガル語原本が出て來ないのが殘念なところだ。

日葡通商條約1860年8月3日Tombo閣公文書館



長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1184559X
   陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。
  釣魚嶼(てうぎょしょ)
  黄毛嶼(くゎうもうしょ)
  赤嶼(せきしょ)
後の琉球和名は次の三つである。
  よくん(いゆぐん)
  くばしま(こばしま)
  あかしま(くめあかしま)
比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。
 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。
 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。
 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。
 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。しかし何故ここだけ湯桶讀みとなるのか分からない。
 平成十四年平凡社『日本歴史地名大系』第四十八册「沖繩縣の地名」第五百四十四頁には、慶良間諸島の久場島を「くぼーじま」といふ讀みで載せてゐる。「黄毛嶼」は「くぼーじま」を湯桶讀みで記した可能性がある。  
 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄茅嶼が、福建で黄麻嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは普遍的に同音となる。
 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉じ易い。
 そもそも日本の地名を福建人が福建字音で記すことは、當時の普遍的通例であった。西暦十六世紀末の航路書『順風相送』では、長崎を福建字音で「籠仔沙磯」、佐賀の名護屋を福建字音で「隴車仔」と記す。晩明の『西湖二集』末卷では、徽王汪直の控制の地を列し、博多を福建字音で花脚踏に作る。
 夏子陽『使琉球録』卷前「琉球過海圖」でも、粟國島を「安根尼」及び「翁居里山」に作る。翁居里は福建字音である。「琉球過海圖」は北京圖書館出版社『國家圖書館藏琉球資料彙編』影印「會稽夏氏宗譜」活印本『使琉球録』に載ってゐる。
 一方、チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。
 結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。日本の地名を福建字音で記すことは、國土を領有することに繋がってゐないことは確かである。
 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外として刊行したのだらう。
長山樗園大日本唐土輿地全圖横濱市立大學藏1
 長山氏圖では臺灣北方諸島の一つ彭家山が「彭化」の名で載ってゐるが、尖閣と距離が近く、區別できてゐない。もともと朱印船史料は尖閣と臺灣北方諸島とを明確に懸隔させて區別してゐたが、歐洲製地圖では西暦千七百五十一年のゴービル(Gaubil)製圖以後、兩者を混同する。またゴービル以後の歐洲製圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗る。長山圖はこの二點で歐洲製圖の地理認識の浸潤を受けたと考へられる。幕末の歐洲の最尖端認識ではなく、西暦十八世紀後半から十九世紀初期までのやや舊式の認識である。
 尖閣未編入時だから、長山圖は着色の一例に過ぎない。しかし歐洲の普遍的尖閣認識を日本人としても知悉してゐたことを示し、それなりの歴史的意義がある。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。
長山樗園大日本唐土輿地全圖横濱市立大學藏2
 次に明治二十六年漂流事件と大いに關はるのは、『大阪朝日新聞』明治十八年(西暦千八百八十五年)九月二十二日第二面記事である。國吉まこも氏が尖閣との關はりを發見し、平成二十七年八月二十七日及び九月一日『八重山日報』第四面に「尖閣諸島雜考」(上下)と題して、國吉まこも・石井望聯名で公表した。
 この朝日記事に引かれた同年の文匯報の紙面は現存が確認できない。しかし朝日新聞及び申報記事「臺灣警信」を併せみれば文匯報の原意はほぼ明らかになる。朝日新聞から直接的に分かることは、
1、文匯報が注意を促したのは尖閣附近の宮古諸島(宮古八重山諸島)であり、申報の言ふ東北側の尖閣ではない。
2、五年前(明治十三年)の分島改約案ゆゑに沖繩の領有を記者は憂慮している。
3、文匯報は宮古八重山と別に尖閣を清國領土とはしてゐない。
4、文匯報の長い報道を申報が短く摘録した。
以上四點である。そこから推論できるのは、
5、文匯報の宮古八重山諸島が、かりに尖閣を含むならば、尖閣が清國の臺灣附屬島嶼だとの主張を文匯報が否定したことになる。
6、朝日の「東側」に對し、申報は「東北側」となってゐる。當時のイギリスなどの地誌では八重山諸島を往々臺灣の東北側とするので、文匯報の原文は東北となってゐた可能性もある。
7、申報は短く摘録したに過ぎず、文匯報のイギリス人記者に較べて清國人は關心が低かったと分かる。
8、日本政府は尖閣が清國領土だから恐れたのでなく、分島改約案との關聯ゆゑに、列強乃至清國を刺激することを恐れたのである。そもそも井上馨山縣有朋間の密書では、尖閣を「清國國境に接近」つまり清國境外としている。
以上四點である。明治十三年の分島改約案以後、清國は沖繩縣設置につき承認してゐなかった。しかし明治二十六年、井澤漂流事件で清國側公文に「沖繩縣八重山島」も文字が出現することは、朝日新聞及び井上馨が憂慮した八重山領有問題について、清國が承認したことを示す。(終)
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以上、長崎純心大學大學院「人間文化研究」第十六號(平成三十年三月)所載、いしゐのぞむ「丙申尖閣談話録」より。
次に、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。
八重山20170515グロ4
國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船時代(四終)
               長崎純心大學准教授 石井望
 今一つ、西暦1810年の山田詠歸齋(えいきさい)「地球輿地全圖」でもほぼ朱印船海圖と同じ位置に尖閣を配する。印本數種が現存し、宮城縣圖書館及び横濱市立大學藏本は無着色、德島大學藏本は日本から清國まで黄に塗るので、色は問題ではない。注目すべきは「釣魚臺」の名だ。釣魚臺の名を尖閣諸島の中に確定した最古の史料である。チャイナ史料では確定できず、釣魚嶼(しょ)・釣魚臺(だい)を臺灣北方諸島の西側に置くものが約半數を占める。
 山田圖の釣魚臺をチャイナ名だと勘違ひする人が多い。しかし釣魚嶼の最古は、西暦1534年に琉球職員が明國の使節陳侃(ちんかん)を案内した記録であるから、琉球側が命名した可能性が99%となる。琉球の漢文名であってチャイナ名ではない。陳侃『使琉球録』所載は次の三島である。
  釣魚嶼(てうぎょしょ)
  黄毛嶼(くゎうもうしょ)
  赤嶼(せきしょ)
後の琉球和名は次の三つである。
  よくん(いゆぐん)
  くばしま(こばしま)
  あかしま(くめあかしま)
比較すると、漢文名と琉球和名とは奇妙に相似する。八重山の言語民俗學者宮良當壯の説によれば、「よくん」は古語「いをくに」(魚國)の訛りとされる(昭和十三年、幤原坦『南方文化の建設へ』第六十五頁引)。魚の小島の意で漢文名と一致する。漢文地名は例へば泰山をたいざんと音讀(よ)みするのが原則であり、「やすやま」の如く和訓することは歴史上ほとんど無いので、よくんが釣魚の和訓だとは考へられない。
 和語「き」(黄・木)は古くから「こ」とも讀む。黄金、木立、木の葉、木漏れ日が今でも使はれる。古語で黄金は「くがね」とも讀み、沖繩では「くがに」と讀む。さうなると、「くば」は「きば」「こば」と通じ、久場島は「黄ば島」に作り得る。
 黄毛嶼の毛は、諸本で麻・茅・尾に作り一定しないが、共通してバ行音から外れない。毛・麻も漢音で「ぼう」「ば」と讀む。通常、土着名は呉音で讀まれるが、ここで何故漢音なのか謎である。
 琉球には内地から臨濟宗と眞言宗だけが傳來(でんらい)し、海洋信仰の波上宮・普天間宮等諸社は眞言宗に屬(ぞく)する。眞言宗は呉音でなく漢音で統一的に讀經(どきゃう)するから、島名の漢音に反映したのだらうか。分からない。
 くばの木は與那國島にも繁殖し、昨年私は新嵩(あらたけ)喜八郎氏の海底遺跡觀覽船中からこれを望み見た。灌木ではなく、立派な喬木に達してゐる。喬木に麻・毛・茅などの草の形容は不適切なので、古人は草としてでなく漢字音を宛てたのだらう。
 茅は福建南部字音で「bau」と讀むが、茅と同音の「猫」は「bau」とも「ba」とも讀む。兩字ともに所謂等韻二等に列し、茅にも「ba」といふ福建古音は有り得る。されば琉球和名の黄麻嶼が、福建で黄茅嶼と書かれてしまふ可能性はある。更に茅と毛とは普遍的に同音となる。
 「黄尾嶼」は西暦1579年の蕭崇業『使琉球録』に初出する。「尾」は福建南部語で「bue」と讀み、「be」に近い。麻・馬の福建古音はともに「be」だったと考へられるので、琉球人の黄麻嶼は福建で黄尾嶼に轉(てん)じ易い。
 チャイナ地名の「尾」「崎」は、大陸東南部に集中してゐる。日本で古來多用される地名字であるから、倭寇文化が浸潤した結果だらう。尖閣の黄尾嶼が福建訛りだとしても、もともと日本文化なのである。結局地名談義は臆測に終始するが、とにかく奇妙な相似を説明する必要は有る。
 さてペリー來航後の西暦1854年に至り、長山樗園(ちょゑん)『大日本唐土輿地全圖』(横濱市立大學デジタル公開)では、釣魚臺を省略しながらも、黄尾嶼・赤尾嶼を琉球の黄色に刷ってある。臺灣(たいわん)から福建までは抹茶色となってゐる。手彩ではないので、軍學者長山樗園自身が尖閣を臺灣福建の外としたのだらう。
 西暦十九世紀前半までの歐洲製地圖では、黄尾・赤尾を往々琉球の色に塗るので、長山圖はそれを採用した可能性がある。勿論尖閣未編入時だから、着色の一例に過ぎない。なほ松島(今の竹島)は位置不精確ながら隱岐の黄色に刷られ、樺太北半は滿洲の桃色に刷られてゐる。
 末尾ながら、八重山日報五月四日第六面に元空將織田邦男氏の重要な指摘があった。大意に曰く、「先に自衞隊を出すと、チャイナは日本が先に軍を出したと國際社會に宣傳(せんでん)する。日本は輿論戰にやられてしまふ」と。精到の論だ。自衞隊常駐のために必要なのは世界的輿(よ)論戰に勝つことである。それには國際法でも安全保障でも足りない。歴史戰こそ勝負の鍵となる。
 宏闊にして悠久、嗚呼偉なるかな尖閣史。世界の九割の人々がそれを理解した時、自衞隊は世界的支持のもとで尖閣に常駐できる。歴史をマニアだとか趣味だとか馬鹿にするやうでは尖閣を守れない。尖閣の主役は歴史である。
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以上、八重山日報、平成二十九年五月十五日、第五面。

 次に、以下はたまたま今日(平成三十年五月三日)見つけた匿名ブログ。國吉まこも先生の匿名ブログかも知れない。みなさまご參考にどうぞ。
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尖閣諸島の領有権問題・ブログ 2013.07.30 Tuesday ホーム「尖閣諸島の領有権問題」は http://senkakujapan.nobody.jp/ へ移動しました。
http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
☆久場島考察
 ☆なぜ「久場」とされるのか 
 尖閣諸島や慶良間の「クバシマ」はなぜ「久場」島と書かれるのであろうか。なぜこういう字になるのだろうか。クバには様々な漢字のあてかたがある。蒲葵、古把、久葉、久波、古場などが使われている。コバは九州に特に多い地名であり、古場、古庭、木場、木庭、木葉、小場と書かれることが多い。しかし沖縄のクバシマは久場島とされる。記録をみる限り、ほぼ例外なく、そうである。久場とあてるのは「久しい場」という意味づけが行われていると考えるのが妥当である。つまり悠久の場である。でたらめに当字がなされているわけではない。慶良間の久場島は古史料のなかで古場島とされる例があったのを思い出した。しかしやはり「古い場」となる。久場と同じ意味である。これは偶然ではないと思う。
 琉球の伝説を思い起せば、天地創造の当時の状態を保っているという意味となるであろう。いにしえはすべての島にクバがおいしげっていたのである。
 
 ☆久場島の中国名――黄尾嶼という呼び名
 中国人はかなり後になってから琉球海域に入ってきた。漂流は古来からあったであろう。しかし琉球に対して継続的な意図的渡航を試みはじめたのは十六世紀頃からである。
 記録を見る限り形式的には中国名の方が古くからあることになる。しかしそれは自然的歴史的条件からありえないことである。
 島の中国名は、先に存在していた琉球名と関わりがあるのでないだろうか。解析してみよう。
 クバを手がかりとして島の中国名を分析していくと、琉球名の方が中国名よりも先にあったということをはっきりと理解することができる。  
 すでに分析した結果でわかる通り、尖閣諸島の古名は間違いなくクバシマである。しかし現在、クバシマという呼び名は諸島の内にある一島、つまり久場島に固定されている。これには明確な理由があるのであるが、それについては後述する。
 久場島の中国名は、現在においては黄尾嶼である。黄尾嶼の初出は、いつかは明確にはつかめないが、私が見た最古の例は1579年(万暦七年)の明末の史料のなかにあった。蕭崇業と謝杰の使琉球録をみるとその琉球過海図のなかに黄尾嶼があらわれている。
 この島には黄毛嶼、黄茅嶼、黄麻嶼などの名があった。この一連の名には何か共通の意味があるのであろうか?確かに黄という漢字が共通している。しかしそれだけであろうか?
 記録されている順番をきちんとみると黄毛が古く、次に黄茅、それから黄麻となり、黄尾となる。順番に変化したわけではなく、一時は混在して用いられていた。黄茅や黄毛は古い時代にしか使われていない。明代の殊域周咨録には黄花嶼とある。これは特異な例である。
 最初に記録があるのは黄毛嶼である。陳侃の使琉球録にでてくる。初出型で考えてみよう。
 
 ☆黄毛嶼の発音
 黄毛嶼はどうよむのであろうか。黄の漢音はクワウである。毛の漢音はボウである。クワウボウである。聞き慣れた感じがする。
          ↓
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【黄】《音読み》
コウ(クワウ)[漢],オウ(ワウ)[呉]〈hu・ng〉
 
 毛】《音読み》
モウ[呉],ボウ[漢],モ[慣]〈m・o〉
――グランド辞スパ
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 クワウボウとはクバであろう。陳侃は、クバといった琉球の人々の発音を、黄毛と漢字をあてて書きとめたのだろう。
 これはこじつけではない。実は、この島の中国名のどれを考えてみても、同じようなことがいえるのである。
 
 ☆漢音で考える
 中央から派遣されてくる明国の官吏は北京語を使った。琉球の人々の発音を聞取って書く場合には、北京語の音で当字したであろう。呉音ではなくて漢音を用いたであろう。
           ↓
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 官吏が、都の北京の地方語を、それぞれの地方の赴任さきで使用した。(-233)
△――熱河日記2 東洋文庫
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 ☆黄茅の発音
 陳侃の後に来琉した郭汝霖の册封録には黄茅がでてくる。
 茅の漢音はボウ(バウ)である。  
        ↓
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【茅】
《音読み》
ボウ(バウ)[漢],ミョウ(メウ)[呉]〈m・o〉
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 これは黄毛とほぼ同じように読める。黄茅もクワウバウあるいはクワウボウであろう。つまり黄茅もクバ(島)であろう。陳侃の聞いた黄毛と同じ音を郭汝霖は聞いたのだろう。
 琉球の人々の迎接使や夥長がクバというのをやはりそのままかきつけているにちがいない。陳侃は黄毛とし、郭汝霖は黄茅と書いたのである。黄茅の下に嶼も島も山もついていないところをみると相当、遠くからみたのかもしれない。嶼なのか島なのか郭汝霖には判断できなかったのであろう。
 
 ☆鄭若曽の黄麻嶼
 鄭若曽の『籌海図篇』では黄麻嶼となっている。黄麻嶼という名を最初に用いたのは鄭若曽のようである。『籌海圖編』は鄭若曽が十六世紀に編んだ有名な海防書である。
 
 ☆黄麻の発音
 黄麻の麻は、どう読むのか。漢音はバである。すると黄麻はクワゥバとなる。

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【麻】
《音読み》
マ[唐],メ[呉],バ[漢]〈m・〉
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☆クバに似た音で呼ばれる島嶼
 黄毛だけではなく、黄茅、黄麻という漢字名もクバを思わせる発音を聞取ったと思われるものである。久場島にあたる島のあるところに、中国史料においては、クバによく似た漢音をもつ島名が頻りにででくる。偶然であろうか。いやそんなはずはない。  

☆黄花嶼
 これもクバ(島)に関係のある名前であろう。
 おもろそうしの巻十三の百をみてみよう。
          ↓
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  本文                 訳
聞え、あけしのが       名高いアケシノ神女が
東方の蒲葵杜         久高島の蒲葵御嶽の
蒲葵の花の咲き居れば     蒲葵の花が咲けば
うら~~と若夏使い      のどかに神女をお招きする
又響む、あけしのが      有名なアケシノ神が
蒲葵(びろう)の花は黄色の粒を吹きあげたように雄大で南島の若夏の特徴のある風物である。
――南日本の民俗文化Ⅶ 増補南島の古歌謡 小野重朗 1995年 第一書房
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 琉球の人々にとっては、クバの花はこのように印象的であった。四月から五月にかけて咲くのであるから、丁度、琉球船が沖縄に帰る頃である。ただ中国人にとってはみても余り印象的ではなかったかもしれない。しかし黄花嶼とされる例があるのが気になる。黄色い花が島をおおうさまをみて、そのようにいわれたのだろうか。とするとそれはクバの花を指すのは間違いない。久場島が黄花嶼とみられたとしても不思議ではない。
 
☆黄尾嶼
 黄尾嶼を考察してみよう。現在においても使われている。今出されている日本製の地図のなかにさえ、この名が記されているものがあるほどである。定着した名である。
 黄尾という呼び名はどこからでてきたのか? またどうして定着したのか?
 
 ☆黄毛→黄尾の変化
 これは毛が尾に変化したのであろう。
 紅頭嶼は、明代には紅豆嶼と呼ばれていた。つまり豆が頭に変化したのである。十九世紀の海防書・洋防輯考では、釣魚嶼が約魚嶼と表記されていた。岩崎卓爾は「ひるぎの一葉」のなかで尖閣列島を光閣列島と記している。当時の地学雑誌を読んでいると確かに、収録された地図に光閣と読めるように島名が印刷された例がみられる。デフォルメしすぎて光閣とも読める字体になったのであろう。岩崎もたぶん光閣と見たのであろう。このようなことはよくあることである。黄毛嶼が黄尾嶼に変化したということもありうることである。いや間違いなくそうであると私は思う。
 黄尾はクバには似た音とはならない。しかしこれは黄毛の変化した名だったのである。
 
 ☆なぜ黄尾嶼は定着したのか
 台湾総督府の出した「台湾語大辞典」には、ンベェ=黄尾 として 
 
1.葉または梢が黄ばんで枯れる
2.悲惨な状態になる
 
 ……という意味が記されている。
 この2の意味、悲惨な状態になるというのは、册封録を読んでいると、納得できる。中国人にとってはまさに落?(←そこで水が下に落ちているとされていた)にむかう荒々しい海にまで来った気持をあらわすのにぴったりである。黄茅、黄毛というような名よりも、黄尾という名の方が定着してしまったわけである
 赤嶼も赤坎嶼と表記されることがかなりある。(赤嶼とは別に赤坎嶼という島があるとされている例もある。)この坎という字にも困難な状態に陥るという意味がある。赤坎嶼は黄尾嶼と同じ意味あいをもつ島名だったのである。
 
 ☆黄麻嶼も消えない
 清代においては、黄尾嶼がもっともよく使われる。しかし、黄麻嶼と記載された例もかなりある。一応、この二つの名が定着していた。
 黄麻はクワゥバと読めるわけだから、クバという発音を黄毛や黄茅よりも正しく写し取っていることになる。このため黄麻嶼がそれなりに定着する理由もわかる。
 
☆至黄麻嶼
 後に詳しく考察するが、あの有名な『籌海図篇』において、琉球に向かう針路の条のところに、至黄麻嶼という表記がみられる。ここから後の島にはずっと至るとつけられている。大琉球那覇までそうである。なぜこんなところで至が使われるだろうか。至黄麻嶼は大琉球の地に至るの意味ではないか。間違いなく至クバ島の意味である。
 クバシマが琉球の一部であることを明人はよく知っていたのではないか。明代からすでに中国の知識人はそう知っていたはずである。『籌海図篇』が余りにも有名であった。それが流布していたのであるから、疑う余地がない。ある地点から突如、はじまる「至の連鎖」を他に解釈することはできない。
 再三いうが、クバシマは琉球の伝統的領域であることが、これまでの分析により明らかである。琉球の人が間違いなく琉球の領域と考えたところで、中国人が至黄麻嶼としているということの意味をよくよく考えねばならないのである。
 
☆魚釣島の名の由来
 魚釣島は尖閣諸島最大の島である。主島といってもいい。この島の名前の由来について考察してみよう。
 
 ☆釣嶼
 魚釣島は、釣嶼という名で最初に記録されている。陳侃の使琉球録にはそうなっている。島の現在知られている中国名は釣魚嶼或いは釣魚台である。史料をみる限り、釣魚嶼の方が、魚釣島よりも四世紀も早く記録されていることになる。またしてもそうである。
 
☆琉球起源の名
 釣嶼(釣島)という呼名に注目すれば、魚釣島の名の由来が琉球起源であることがきちんと解明できる。魚釣島も実はクバシマと深い関わりのある名である。
 クバシマを歌っている「おもろ」が琉球王府によって採録されている。これが手がかりとなる。考察してみよう。
 
 ☆おもろとは何か  
 まずオモロとは何か。確認してみよう。
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「思い」と同源で、神に申し上げる、宣(ノ)り奉るの意)
沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ一二世紀から一七世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(二二巻、一五五四首、一五三一~一六二三年)がある。
――『広辞苑』
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おもろ(標準語の「思う」に対応する沖縄方言の「うむれ」からとも、「あもり(天降)つく」の「あもり」からともいう)琉球古代の歌謡。神事や宮廷の祝宴などに謡われた叙事詩。内容は神、労働、恋愛など雑多である。日本の神楽歌や「万葉集」にあたる。
c &  1987-1996 Microsoft Corporation. All rights reserved.
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) c Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)c小学館 1988.
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☆クバシマのおもろ
 クバシマのおもろがおさめられているのは「おもろそうし」の第十三巻である。この巻は「船ゑとのおもろ御そうし」となっている。天啓三年(1623年)に、とりまとめられ成立したとされている。
 
 この「船ゑと」から蒲葵島がでてくる部分を抜出してみるとこうなる。
    ↓
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》蒲葵島の神々
》おさんしちへ 守りよほ
》つれ島の神々
》おさんしちへ 守りよほ
 
註釈
   おさん為ちへ →   鎮座して。ましまして。
   守りよわ  →    守り給え
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 この蒲葵島は久高島をさし、つれ島は津堅島とされている。
 原註に「久高津堅しまの事なり」とされている。
 
 尚貞王が編纂を命じた沖縄の古辞書、混効験集にも「久高津堅両嶋名なり」とされている。この混効験集は手書きの草稿しか見つかっていない。表紙の中央に評定所と書かれている。この評定所というのは、首里城にあった。行政の要であった。そこに大事なものとして保管されていたのである。公刊されなかったということは、何を意味するのであろうか。重要な秘密だったのであろう。このオモロが重要な歌であったことはいうまでもない。混効験集の混は渾の意味である。単なる古辞書ではなく、神聖な言葉の辞書なのである。
 このオモロで、人々は二つのクバシマの神々に航海の安全を祈っている。いうまでもなく、クバは神のよりしろである。
 
 沖縄本島の東南部の沖にあるこの二つの島は、ともにくばしまと呼ばれていた。くばが全島をおおうばかりに生い茂っていたのであろう。
 津堅島はつれ島ともいわれていた。二つの島を区別しなければならない場合には、久高島の方をくば島とし、津堅島の方をつれ島と呼んでいたのである。渡島する場合には、必ず区別が必要である。この「つれ」とは日常的に使う「つれ」という意味で使われていると思われる。お供ということであろう。津堅島の名のもとは、この「つれ島」にあるものと思われる。
 久高島の方が琉球発祥の地とされていた。だから「つれ」島は津堅島にあてられたのである。津堅久高は併称されることが多い島であった。
 
 ☆当時の発音
          ↓
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 「おもろさうし」は変体仮名を含む平仮名で書かれ、漢字はほんの少ししか用いられていない。これは島津の琉球入り以前から成立していた表記法で、当時の発音と表記との関係はまだ充分明らかにされていない。(-50)
 
――沖縄語事典 国立国語研究所編 昭和38年 大蔵省印刷局
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          ↑
          
 当時の発音が正確にはわからないというのは、やっかいなことである。とくに琉球方言は地域差が余りにも大きく、一概にはいえない。しかも時代とともに音は変化しているはずであるから考察は極めて厄介である。五母音から三母音へと変化したのはいつ頃だったのであろうか?これまた明確ではない。
 しかし琉球方言の母音変化の一般的な原則では、母音オは母音イに変化するはずだから、レはリとなるはずである。だから、つれ島はつり島と発音されていた可能性が極めて高いと思われる。断定してもいいと思う。
 この「つり島」というのが気になる。
 尖閣諸島においてもクバシマの隣りにつり島がある。偶然だろうか。
 
☆つれ島→つり島
 尖閣諸島にもクバが生茂る二つの島があった。久場島と魚釣島である。二つのクバの生茂る島を共にクバシマと古くは呼んでいたであろう。二つを区別する場合には一方をつれ島といったのではなかろうか。
 或る時、つり(=つれ)に、釣という漢字があてはめられてしまったのであろう。漢字を当てる場合につりが釣となるのは自然である。本土の人がそうした可能性が高い。ここに釣島が生じてしまったのである。
 
☆クバシマとつれ島のおもろ
 くば島とつれ島のでてくるおもろの全文を見てみよう。
          ↓
       ***************************************
はつにしやが節(←唱え方を指定したもの)
 
御宣り人が もちよる
神にしやが もちよる
で 吾 言ちへ 走りやに
選ぶ~~ 選ぶ
百選びの親御船
選ぶ~~ 選ぶ
八十選びの親御船
百人 乗る 船子
七十人 乗る 船子
いや~~真ころ子が
一の楫 真強く
蒲葵島の神々
おさん為ちへ 守りよほ
連れ島の神々
おさん為ちへ 守りよほ
 
那覇泊 ぬき当てゝ
親泊り ぬき当てゝ
 
    ***************************************
         単語の註釈↓
 
御宣り人      神女名
神にしや      神女様 「にしや」は接尾敬称辞
もちよる      きらびやかに美しいこと。
で いざ。     さあ。感動詞。
言ちへ       言って。囃して。唱和して。
 
百選びの親御船・
八十選びの親御船  数多くのなかから選びすぐった立派な船
                    
いや~~真ころ子  立派な、あっぱれな男子。「いや~~」は美称辞。
一の楫       立派な楫
おさん為ちへ    鎮座して。ましまして。
守りよわ      守り給え
ぬき当てゝ     目ざして。……に船先を向けて。
 

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           ↑
 
 このオモロは久高渡を歌っているとされている。久高島(古名はクバシマ)にティンガナシー(琉球王)と聞得大君が隔年毎に渡るという定例の儀式があった。久高島は琉球の発祥の地とされていた。アマミキヨが島々を創造し、始めて穀物の種子をまいたのは久高島であった。神聖なクバシマなのである。そこへ渡ることになっていた。
 聞得大君の即位儀式は、真夜中に知念の斎場御嶽で行われていた。クバで葺かれた仮屋に一泊する。やはり、古くはこの儀式は久高島で行うこととされていたのではなかろうか。
 
 17世紀の中頃からは、ティンガナシー等は渡島せず、知念村の斎場御嶽から島を遙拝してすますことになった。羽地朝秀が進言したためである。しかしそれまでは古来から必ず渡島することになっていた。
 
 久高島の人々は水夫としてティンガナシーと聞得大君をのせる船に乗り込んで久高渡をしていた。よりすぐりの船と人が選び出されたのである。ティンガナシーと聞得大君が乗り込むのであるから、この航海は比類なき大事な航海であった。この渡海は海が荒れることが多く非常に難路であるとして知られていた。津堅渡も久高渡と同じように恐れられていた。
 航海の安全を津堅島や久高島の神々に切実に祈るわけがわかるのである。ティンガナシーと聞得大君を連れて帰る復路も、また久高島の水夫が活躍したのである。
   
☆労働歌
 このクバシマのおもろは、労働歌であるとされる。人々が労働する場で歌われていたのである。このことは重要である。
 
          ↓
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 ゑとはイトとも発音し、労働作業歌の意である。作業をするとのエートという掛け声に由来する名だという。労働作業といっても一人で歌うものではなく、共同の結作業の場で多人数で歌うもので、音頭取り(根取り)がいて、それに衆和する形で歌うのである。(-167)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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 久高島の水夫は渡唐船や紋船や馬艦船にも乗り込んでいた。つまり「唐渡」もし、「大和渡」もし、先島方面にも航海していたのである。このため貢租を免除されていたという。馬艦船や渡唐船にのりこんだ久高島の男たちは尖閣諸島を望見することも多かったのである。
 琉球の船乗りは尖閣諸島が見える辺りで供え物をして海神を祭ったと册封使李鼎元は報告している。いつもそうしていると琉球の船長が話したと。常にそうしていたはずである。琉球の人々はこの折りにクバ島を祭っていたのではないかと思われる。そのときにこのおもろが歌われたとしても不自然ではない。このオモロが、渡唐船のなかで歌われたとしても何らおかしくはない。繰り返すが、久高島の船乗りが多数、渡唐船にのりこんでいるのである。
 久高島の水夫たちは、久高渡りのときと同じく、唐渡の際にも間違いなく、歌っていたはずであると思う。これは労働歌なのである。
 
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 ゑとオモロはすべて船上の労働に歌われたものばかりということになる。
 このことは、沖縄本島でこれらの船ゑとが歌われた十五世紀から十六世紀中葉までは、琉球の海外貿易の盛んであった時代で、人々は中国へ日本へ、南蛮の島々へと船で広く雄飛して、沖縄の歴史の大きな進展期にあたる。そうした基盤の上に、これらの船ゑとは立派な海洋文学として花開いたのである。(-167-168)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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ゑとオモロは庶民化したオモロで、最も新しい形をもつものが多い。(-149)
 
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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☆神女たちの祈りの歌
 このオモロは、航海安全を祈る予祝行事の際に神女たちによって歌われていたと、池宮正治は「琉球古語辞典混効験集の研究」(1995、第一書房)のなかで述べている。労働歌ではなかったのであろうか?
 
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 神女が航海の安全を祈るのは、古琉球から行われていて、これらは『おもろそうし』の巻十の「ありきゑとのおもろ」、巻十三の「船ゑとのおもろ」となってまとめられ、前者が王府の船の沿岸航路、後者が同じく王府の船の外洋航路の、航海の安全を祈る祭祀歌謡を集めたものであって、これに従事したのが聞得大君以下の神女だった。(-6)
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 この貿易は国家事業として営まれていたから、これもありそうなことである。よりすぐりの船と人を選び出して、唐へ送出したのである。大事な航海であった。
 神女たちの歌が、いつしか水夫たちに伝わるというのはありうることである。昔は神女たちが船に乗り込んでいたはずである。聞得大君だけが久高島に渡るわけではない。
 人々はこぞって祈りを捧げたであろう。
 労働歌でもあったと考えて不思議ではない。
 
☆尖閣諸島の歌?
 このオモロを更に掘り下げて考えていくと、大きな疑問が生じてしまった。本当に、この歌は久高渡の歌なのだろうか。
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『おもろさうし』巻一○の「ありきゑとのおもろ」(四五首)と巻一三の「船ゑとのおもろ」(二百三十六首)が航海のおもろといわれ(-207)
――王と王権の周辺   /新琉球史 古琉球編 琉球新報社
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「一般に船を帆走させることを走る、漕行することを歩くということから、これも船漕ぎ歌の意とされている」(-149)
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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両者は巻一○が、沖縄本島と周辺離島といった比較的に近海の航海を歌ったもので、巻一三は、唐(中国)や南蛮(東南アジア)や本土といった遠洋の航海を歌ったもので、両者にはそれなりに違いがある。(-207)
――王と王権の周辺   /新琉球史 古琉球編 琉球新報社
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 巻一三は遠洋の航海を歌ったものなのである。巻十「ありきゑのおもろ」は近くの島に行くための船漕ぎ歌を集めたものである。津堅島と久高島がでてくる歌であれば巻一○におさめられるはずではなかろうか。
 ここにでてくるくばしま、つれしまは、最初から久高島、津堅島をさしているのではないのかもしれない。これは尖閣諸島の久場島、魚釣島を歌いこんだ歌なのではないか。
「蒲葵島の神々おさんしちへ、守りよほ」の「おさんしちへ」は、原註に「遠~~とみろるして也」とされている。この遠々というのが気になる。やはり大洋を航海する歌であると思われる。池宮は、この言には高いところから見下ろすという意味があるとしている。久高島も津堅島も平均海抜は低い島である。平らである。いうほどの高地はない。尖閣諸島の二島はかなり高い島である。しかし見下ろすという言葉が、象徴的な意味で使われているかもしれないので断定は出来ない。万葉集にでてくる天香具山も、山ともいえないような低い丘である。
 
 混効験集坤巻には、「さやはだけみたけ」という言葉が取り上げられている。斎場御嶽のことである。次のような註釈がなされている。「知念間切有御嶽也。神歌ありきゑとの御さうしに見えたり。此御嶽霊地にて昔知念行幸の時は御拝賀有也。聞得大君加那しあらおれの砌も御参詣」。「神歌ありきゑとの御さうし」という表記が再三、この混効験集には見える。また「船ゑとのおもろの御さうし」についての言及も目に付く。しかしこちらには神歌とはつかない。神歌とされるのは、「ありきゑとの御さうし」の方である。
 「おもろさうしの巻十ありきゑとのおもろ御さうし」だけが神歌とされている。
 先述したように、この御嶽からは久高島が見える。遙拝するということでここから聞得大君とティンガナシーは礼拝したはずである。その斎場に伝わった神歌が、「神歌ありきゑとの御さうし」におさめられてはいないのが気になる。久高渡りを歌った歌であるというのは疑問になってきた。
 
 今、検討してきたオモロのなかにでてくる、つれ島、くば島はやはり尖閣の島々なのではないだろうか。渡唐の歌ではないのか。編纂した人は尖閣諸島の歌だと考えて巻十三に収めたのではないか。しかし今、早急に断定することはできない。
 当時としては久高渡は大洋の航海として受け取られていたのかもしれない。今の感覚でみれば近いといっても、過去においてはそうではないはずである。
 だがここでまた気になることが一つでてきた。それはおもろの以下の部分である。
 
那覇泊 ぬき当てゝ
親泊り ぬき当てゝ
 
 那覇泊をめざして、親泊をめざして、とはどういうことであろうか。親泊も那覇のことであろう。久高島に親泊があるのではない。久高渡りをするのに、那覇から出発するというのも妙である。沖縄西岸にある島に行くのだから……。知念あたりから久高島をみて出発するのがいいであろう。その方が安全であろう。久高渡りは帰路の方が危なかったのであろうか。いや久高島から対岸の知念あたりに渡る方が、まだしも安全であろう。久高島にわたる方が危険がより大だったように思う。目標が小さいということはそれだけ危ないはずである。なぜ那覇泊ぬきあててとのみ歌われるのであろうか。帰路のみを歌うのは……。
 
 しかし渡唐船の無事な帰りを祈るのであれば、那覇泊をめざしてとわざわざ歌われるのがわかる。大陸に向かうには、岸のどこかに着けばいいということからすれば、気が楽である。西方には、かなりおおざっぱに行くことになっていた。しかし帰路は、目標が小さい。往路でも帰路のことを考えていたであろう。
 
混効験集には
 こがねぐち 津口の事なり。「まはへまはへ。や(を)らおせ、ごがねぐちはりやさ」。とされている。那覇は黄金口とされていた。
     池宮は「○こがねぐち 黄金口。那覇港のこと。港や船溜まりのことを口という。」と註釈している。
 
 もともと久高渡と渡唐という二つの航海にかけてつくられた歌なのかもしれない。津堅久高、そして久場魚釣という両方の島々を読み込んだ歌かもしれない。
 
 このオモロが、もともとは久高と津堅の島々の神々に対する祈りを歌ったとしても、後に、尖閣の久場島、釣島を歌ったものとしても理解されるようになったとしてもおかしくはないのではないか。自然、そのようにとられるようになったと考えても無理はない。混集が編纂されたのは、かなり後になっている。古い伝承が、このオモロと結びつけられて、誤解を招く註釈になっていったのかもしれない。
 
☆つれ島→釣魚嶼
 釣島が、中国人のいう釣嶼となったとみるのが自然である。釣嶼のもとはつれ島であろう。
 先述したように、中国史料においては、陳侃が釣嶼と記しているのが最初である。次に来た郭汝霖も釣嶼としている。その後も册封録のなかで釣魚嶼は釣嶼と表記されたことがある。釣魚嶼が魚嶼と略される例は皆無である。
 つれ島→つり島→釣島→釣嶼→釣魚嶼と変化するのは自然である。ありうることである。この釣魚嶼がまた変化して魚釣島になったと考えられる。いや、そうではなくて釣島からいきなり魚釣島に変化した可能性がある。そしてそれが釣魚嶼となったとみることもできる。いずれにせよ、釣魚嶼は、琉球名が変化して生じた名であることは間違いない。
 
 册封使は釣魚嶼という漢字名をみたときにどう感じただろうか。魚の豊富な琉球地域の島という意味で理解したことは想像にかたくない。だから釣魚嶼が呼び名として定着したのであろう。十五世紀の西洋の記録をみると、琉球は魚が豊富であると西洋人にまで知られていたことがわかる。中国人からの伝聞と思われる。当時、西洋人は、まだ琉球にまで達していない。それなのにそう言及しているのであるから、琉球は魚が豊富だというのは非常に有名だったのである。
 
 おもろそうし巻十三の一七に、1517年に真南蛮(タイ)へ行く船に対して、オギヤカモイ=尚真王が祈りをささげたおもろがのっている。
 そのなかに「ぶれしまのかみかみ あよ そろて まぶりよほ」と歌われている。「群れ島の神々心を揃えて守りたまえ」と訳すことができる。このぶれしまとは何であろうか。
 
 △☆……中では、次のような新説が展開されている。このツレシマ、クバシマのオモロについてこう説明する。コバシマは慶良間諸島のクバシマであり、ツレ島は慶良間諸島全体のことをいったものだと。ツレシマはブレシマの意味であると。だから、おもろそうしや混集の註記は誤りだというのである。
 しかしこの新説はついては、まだ証明が十分ではない。にわかには信じがたい。これは王家の久高渡の際に歌われたオモロとされている。そのはずであろう。なぜそこに慶良間諸島がいきなりでてくるのであろうか。ティンガナシーが古来には慶良間に渡ったことがあるのであろうか。そのような解明もなしに、これらの島は久高島と津堅島を指すのではなくて、慶良間諸島をさすのだといきなりいわれても納得できない。オモロ全体の検討がなされていない。
 確かにこれが久高渡りの歌にしては変だと私にも思えていたのは事実である。だから検討した。
 
 この新説が正しいとすると、ツレ島はブレ島の意味であることになる。
 慶良間全体をさしてクバシマともいい、ブレシマともいったということになるのではないか。当時は、このクバシマは、現在の慶良間の最西にある久場島に特定されてはいなかったと思う。
 慶良間諸島とともに、尖閣諸島全体が群れる島と言う意味で、ツレ島と呼ばれても不思議ではないと思う。
 そのツレ島という名前がいつしか、尖閣諸島の魚釣島に固定されてしまったということになる。尖閣にも慶良間と同じように久場島があるのである。これは慶良間諸島を指すのではなくて尖閣諸島を指すとみてもいいのではないか。慶良間諸島と尖閣諸島とをだぶらせているとも考えられる。この歌は、渡唐の帰りに歌われる歌ではないか。
 しかしもっと研究が必要である。
 この新説が妥当なものであるかどうかは、今はこれ以上考察しない。
 
 ☆久場島の方がなぜクバシマとされるのか
 尖閣諸島には、クバの生い茂る島が二つある。なぜクバ島という名前が久場島の方についているのであろうか。より大きな魚釣島にもクバが繁茂していたのである。こちらが久場島といわれるのが本当ではなかろうか。
 二島を合わせてクバシマと琉球の人たちは呼んでいた。しかしクバ島として一島を特定する場合には、魚釣島ではなく「久場島」の方をクバ島と呼んだのである。二島の内ではなぜ小さな方の久場島を久場島としたのであろうか。必ず理由があるはずである。なぜであろうか?
 よばれはじめた時には、クバは魚釣島には繁茂していなかったと考えると説明がつきやすい。だが自然条件からみてありそうにないことである。台風の直撃を受けて、1日にして塩害により植物が大量に枯死するということは八重山の島ではよくあることである。しかし、その場合には二島とも同じであろう。
 クバシマは島の果てにあることが多いことを考えると、与那国から見て遠い方がクバシマになるのではないかと思える。与那国の人がそう呼んだのではないか。
 魚釣島には与那国島から人が移り住んだことがあるのではないか。だとするとその先が果ての島クバ島となるのがわかりやすい。しかし考古学的調査は十分なされていないから、断定することはできない。
 
 いや別様に考えることができる。魚釣島のクバは北側からみた場合にめだつ。北斜面にとくに繁茂している。南側は断崖をなしている。久場島の方はそうではない。どこからでもクバの繁茂しているさまが見える。琉球の人達が最初に尖閣に接近したのは、南や東からだと思われる。すると久場島の方がクバシマとなるわけであろう。もう一つがつれ島となるはずである。
 漁民は尖閣諸島をイーグンクバ島と呼んでいた。イーグンは銛であるとされている。魚釣島にはイーグンを思わせる尖塔があったが、クバシマでもあった。久場島の方はどう見てもイーグンとはいえず、クバの繁茂するシマであった。(そしてここらへんにある島のなかで久場島だけがイーグンには見えないのである。)このため、いつしかクバ島という名が、現在、久場島と呼ばれる島の方に固定したのではないか。そう考えることもできる。
 琉中航路が開かれるかなり前から、すでに魚釣島ではなく、久場島の方がクバシマと呼ばれていたのではないか。すっきりと説明がつく。
 
 だが中国史料をよくみていくと、クバシマとツレシマは入れかわったことがあったのではないかと推定できる史料が複数ある。どちらが「つれ」なのかが揺れ動いていたのでないか。そうともみえる。しかし今は、これ以上考察しない。
 
☆二つのクバシマ
 程順則の『指南広義』には、黄麻と黄尾という二つの嶼がでてくる。黄麻については、釣魚台前面黄麻となっている。この黄麻は久場島を指すはずである。釣魚嶼から四更離れているとされる黄尾嶼の方は存在しない。程順則は、伝本を記しているのであるが、なぜ存在しない位置に島があると書かれているのかは後述する。今、問題にしたいのは二つのクバシマが記されているということである。
 
 黄毛と黄茅という二島が存在していることになっている例もある。鄭若曽の万里海防図にはそうなっている。鄭若曽の著作をみると、黄毛山、黄茅山、黄麻嶼等の名が用いられているのがわかる。黄毛と黄茅、黄茅と黄麻というように使われている。鄭若曽が、二つのクバシマがあるかのように記しているのはなぜであろうか。
 
 尖閣諸島にはクバが生茂る島が二つ存在する。そのことと、黄麻と黄尾というように、あるいは黄茅山や黄毛山というように、図や針路に二つの島(=クバシマ系の名前の島)が記されることとの間には関係があると思われる。そして航路上に尖閣諸島の「久場島」と慶良間諸島の「久場島」が存在することにも関係があると思われる。慶良間の久場島もいれると、三つのクバシマがあることになるからである。
 慶良間の久場島と尖閣の久場島とを、中国人はとくに混同しやすいと思われる。同じ航路上に同名の島があるというのは混乱のもとである。
 魚釣島と久場島は相望む関係にある。尖閣諸島の久場島と慶良間の久場島の間はかなり離れている。
 これらのクバの島の位置関係が、認識に混乱を招いているのである。
 
☆四更離れる――針路の条の混乱
 釣魚嶼と、黄尾嶼或いは黄麻嶼は四更離れていると中国人が記述しているのをよくみかける。十九世紀末までそう繰り返されている。図に黄麻嶼と黄尾嶼の二つを登場させた場合もある。そのときは、黄麻嶼を釣魚嶼の全面におくとしながらも、黄尾嶼をそこから四更離れたところにあるともわざわざするのである。
 一更は六十里である。日本里ならば六里であろう。四更ならば二十四日本里離れていることになる。これはそれほど近いとはいえない。
 この誤りはどこから生じたのか? そのでどころは『籌海図篇』であると思われる。
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釣魚嶼北辺過十更、船南風用単針、東南風用単卯針、或用乙卯針四更、船至黄麻嶼
――『籌海圖編』使倭針経図説 鄭若曽
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 上の記載をみると、釣魚嶼と黄麻嶼は何更離れているのであろうか。四更? 十更? 十四更?
 十更或いは、十四更離れているとすると、この
黄麻嶼は慶良間の久場島を指すのではないかと思われる。しかしそうだとするとそこから姑米山に戻るというのはおかしい。やはり尖閣諸島の久場島をさすはずである。鄭若曽は混乱しているのである。二つのクバシマについての知識がいり混ざってしまっている。鄭若曽は、この水域に関しては、正しい認識を確立していないことがわかる。この混乱はずっとひきづられる。
   
 これより後世においては、なぜか二島は四更離れていると、理解されることになった。必ず四更離れていると記述されている。指南広義の針路でも四更になっている。指南広義がこのようにしたために、ますますこの四更離れているということは定説となっていった。なぜ琉球の人々が存在しない島を記したのかといえば、あえて訂正する必要を認めなかったからであろう。正しい地理的認識をことさらに与えないようにしているとも思われる。勝手に入ってきてもらっては困るからである。

 いやそれもあるかもしれないが、もっときちんとした説明ができることに気付いた。季節風の力をかりて黒潮の流れに逆い、尖閣諸島の沖を大陸に向かうことはかなりあったと考えられる。ここの海を乗り切るのは大変だった。この逆走は大変だったはずである。この場合、近いようにみえても、久場島が見えてから魚釣島が見えるまではだいぶかかったと思われるのである。これが四更の意味である。中国人が来琉する場合には黒潮の流れに乗ることが出来るから、二島は同時に見えるはずである。四更離れているとするはずがない。鄭若曽が、『籌海図篇』に記したことが後世に、四更離れているという誤解を生んだもととなったのではないようである。四更というのは琉球の人たちの認識をきちんと反映するものだったのである。『籌海図篇』の記載は不明瞭であり、なぜ四更離れていると後世において理解されるようになったのかが、うまく説明できない。
 
 籌海図編系の海防書「洋防輯要」(1838年重刊)をみると、「約魚嶼北過十更或四更至黄麻嶼五更赤嶼」とされている。著者には間が十更なのか、四更なのか判断できなかったのである。著者は彭佳山と約魚嶼をひとところにおいている。釣魚嶼と黄麻嶼が相望む位置関係にあるとは思わなかったのである。二島は離れていて、魚釣島から先に進んで、至黄麻嶼となると思ったのである。
 二島が相望む関係にあるとは一度も中国人は記していないのである。正しい位置関係を把握していないのである。とするとこの二つの名を命名したのは誰であろうか?中国由来の名でないことは明かである。
 
☆魚釣島と久場島
 航海の際に航路を正しく進んでいるかどうかの目印として見るだけであれば、この二つの島をとくに区別する必要はなかった。まとめて一島とみて十分なのである。相望む位置にある。区別されたのには理由がなければならない。私が行ったように解析すれば、なぜ区別されたわけがわかる。琉球の人々がこれを区別したのだとわかるのである。




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生月町博物館

こりゃ行かねば。
http://www2.vidro.gr.jp/2016_12.htm
【県内美術館・記念館めぐり】 行ってみんね、来てみんね~(47)
古式捕鯨の世界を分かりやすく紹介
平戸市生月町博物館・島の館
島の館学芸員  中園成生
 生月は長崎県北西に位置する人口約6,000人の島です。島の館は、生月島と平戸島を繋ぐ生月大橋を渡って直ぐ左折し1分程走った所にある博物館で、かくれキリシタン信仰や古式捕鯨などに代表される島独特の歴史や文化を紹介しています。
 生月島では天文19年(1550年)に布教が始まった古いキリシタン信仰の形態が、長い禁教の時代、他の宗教を並存させるかくれキリシタン信仰の形態で継承されてきました。同信仰のコーナーでは、信者が受け継いできたメダイ(メダル)やお掛け絵(聖画)などの貴重な信仰資料の他、行事を紹介した映像や、信仰空間である住居内部を再現して紹介しています。
 また生月島は、江戸時代中頃から明治時代にかけて、鯨に網を被せてから突き取る網掛突取法の漁場として栄え、同島を本拠地とする益冨組は、江戸時代後期に5つの網組を経営し3,000人の従業員を擁する日本最大規模の鯨組にまで発展しました。捕鯨のコーナーでは当時の捕鯨を大型のジオラマ(模型)や実際に使われた道具の展示でダイナミックに紹介しています。
 今年、漁業の魅力や重要性を発信する展示室「フィッシャーマンズアリーナ」がオープンしました。近海で取れた魚介類の剥製や、平戸市内で行われている定置網を始めとした様々な漁法を、模型や映像などで分かりやすく紹介しています。ぜひ平戸市を訪ねて漁業を見て、知って、食べて堪能してみてください。
 詳しくは、平戸市生月町博物館・島の館HP(http://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/)をご覧ください。

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「かくれキリシタンの起源、信仰と信者の実相」2018/3/13 中園成生 (著)
キリシタン信者は弾圧を逃れて離島や半島などに隠れ、貧しい暮らしに耐えながら信仰を守ったとする「定説」を覆し、「生月島では江戸時代に国内最大の産業だった捕鯨業があり、よそからも大勢の人が働きに来るなど、従来の見方は見当外れ」と記している。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/411516/
https://www.amazon.co.jp/dp/4863291655
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sekihei石平表紙4
石平表紙撮影4

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)


表紙7


いしゐのぞむ 所屬等リンク

長崎純心大學
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/guide/teachers/hikaku_teachers/ishii_nozomu.html
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/guide/jinbun/hikaku/hikaku_zemi.html
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/information/gakka/hikaku_news/post_363.html
 (↑リンク下方に短文)

笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター(資料調査委員)
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/

日本安全保障戰略研究所(研究員)
http://www.ssri-j.com/SSRIresearcher.html
http://www.ssri-j.com/

平成28-29年度内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。

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尖閣關聯著作等目録  少しづつ修正します。

【自著】

〔平成三十年〕
談話連載「尖閣大航海時代」毎週日曜。八重山日報第六面。

〔平成二十九年〕

「乙未丙申東方學雜録六首」平成29年2月、『純心人文研究』第23號。
http://ci.nii.ac.jp/naid/120006320841

「尖閣海域史辨妄」平成29年3月、純心大學院『人間文化研究』第15號。

〔平成二十八年〕

『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
第一囘 一月十四日(木曜)第六面最も早い「釣魚嶼」地圖 琉球と同じ色~~西暦千七百五十二年 ダンビル「アジア圖第二部分」(フランス)
第二囘 一月十六日(土曜)第三面島名「Tiao-yu-su」(釣魚嶼) 幕府統治の貫徹を示す~~西暦千七百五十一年 ゴービル『支那名琉球諸島嶼誌』(フランス)
第三囘 一月二十一日(木曜)第四面。ラペルーズ説「尖閣まで琉球」 シュティーラー境界線の起源~~西暦千八百四年 シュティーラー「支那圖」(ドイツ) 
第四囘 一月二十六日(火曜)第四面。長崎に唯一通商 オランダ船は尖閣を知らず~~西暦千七百五十三年 コイレン「フォルモサ日本間水路圖」(蘭)
第五囘 一月二十八日(木曜)第四面。フランス官製年鑑の人文的分類 尖閣は太平洋、チャイナはアジア~~西暦千八百年 經度局『星候須知』(フランス)
第六囘 二月二日(火曜)第四面。フランス官製年鑑 チャイナと非チャイナとを同一欄で對比~~西暦千八百七年、二十年 經度局『天候須知』(フランス)  
第七囘 二月四日(木曜)第四面。やっと見つけた 經緯度表に「尖閣は臺灣の島」 と思ったら糠喜び~~西暦千八百三年 ボーデ『通用輿地指南』(ドイツ) 
第八囘 二月九日(火曜)第四面。ラペルーズ以後の新認識 尖閣は琉球に屬す ロンドンでも流布開始~~西暦千八百八年 クラットウェル『世界各地名新辭典』(英)
第九囘 二月十一日(木曜)第四面。シュティーラーの地理學社 尖閣はチャイナか 目を凝らせば……~~西暦千八百十二年 ツァハ『通用地理星暦』(ドイツ) 
第十囘 二月十六日(火曜)第四面。チャイナの澎湖 チャイナ沿岸の尖閣 臺灣附屬島嶼説を否定~~西暦千八百十三年 ヴォスジェン『詳説世界新地理辭典』(フランス)  
第十一囘 二月二十一日(日曜)第四面。經緯度表に尖閣は琉球と明記、ポルトガル國王も採用~~西暦千八百十五年 リスボン科學院『天文萬年暦表』(ポルトガル) 
第十二囘 二月二十三日(火曜)第四面。ウェブスターの競爭者、辭書の處女作、尖閣は琉球諸島に屬す~~西暦千八百十七年 ウスター『古今世界地名辭典』(米) 
第十三囘 二月二十五日(木曜)第四面。尖閣は琉球諸島に屬す、百科全書も採用開始、ブリタニカと競合~~西暦千八百十九年 リース『世界學藝百科全書』(英)  
第十四囘 三月一日(火曜)第四面。米國地理學の父も、尖閣は琉球に屬する、英國から普及~~西暦千八百二十一年 モース『世界地名新辭典』(米)  
第十五囘 三月三日(木曜)第四面。澎湖はチャイナ、尖閣は支那海、分かれたチャイナの内と外~~西暦千八百二十一年 ブルイニング『通用地理辭典』(蘭)  
第十六囘 三月八日(火曜)第四面。シュティーラーの地理學社、總力結集の地誌、尖閣は琉球王治下~~西暦千八百二十二年  ガスパリ『最新地理指南全書』(ドイツ)  
第十七囘 三月十日(木曜)第四面。渡邊華山・高野長英、蠻社の獄に直結した地理書、尖閣は琉球~~西暦千八百二十三年 ルーランスゾーン『最新通用地理辭典』(蘭)
第十八囘 三月十五日(火曜)第四面。チャイナを避けて尖閣を探査 後の水路誌の基本となる~~西暦千八百四十五年 ベルチャー『サマラン艦航海録』(英)
第十九囘 三月十七日(木曜)第四面。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で、次第に尖閣は琉球へ~~西暦千八百五十二年 イギリス東印度會社『印度志』第六版(英)
第二十囘 三月二十二日(火曜)第四面。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で次第に尖閣は琉球へ(其二)~~西暦千八百三十六年 イギリス東印度會社『印度志』第四版(英)
第二十一囘 三月二十四日(木曜)第四面。八重山人が水先案内した尖閣、英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず~~西暦千八百五十五年、ローニー『支那導航書』(英)
第二十二囘 三月二十九日(火曜)第四面。水路志第三版、「may be琉球」から、八重山附屬に向かふ中間形~~西暦千八百六十一年 キング『支那導航書』(英)
第二十三囘 三月三十一日(木曜)第四面。英軍水路誌から、明治の和譯、前提は清國領土を避けた記録~~西暦千八百七十三年 柳楢悦『臺灣水路志』(日) 
第二十四囘 四月五日(火曜)第四面。英軍水路誌から抽出、尖閣と臺灣とを區別、しかしチャイナなのか~~西暦千八百五十七年 地圖海圖總局『水路紀要』(フランス)
第二十五囘 四月七日(木曜)第四面。尖閣はチャイナ沿岸の内か外か、チャイナ政府が惡用する虞れ~~西暦千八百六十一年 『商船雜誌』リクルート艦報告(英)
第二十六囘 四月十四日(木曜)第四面。大漢學者も採用、尖閣は臺灣なのか、わざわざ附屬外に別記~~西暦千八百六十三年 衞三畏『支那貿易指南』第五版(英)
第二十七囘 四月二十一日(木曜)第四面。無主地の歴史、尖閣は臺灣附屬に非ず、「八重山との中間」と明記~~西暦千八百六十四年 キング『支那導航書』第四版(英)
第二十八囘 四月二十六日(火曜)第四面。英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
第二十九囘 四月二十八日(木曜)第四面。太平洋に尖閣を記載 臺灣チャイナを含まず 英軍水路誌の理解法~~西暦千八百七十年 ロッサー『北太平洋導航書』(英)
第三十囘 五月三日(火曜)第四面。琉球人が尖閣に導く記録、初めて英國に紹介、英軍水路誌を參照~~西暦千八百七十一年 李鼎元『使琉球記』 衞三畏英譯(米)
第三十一囘 五月十日(火曜)第四面。尖閣の西側に最古の國境線、英軍水路誌にもとづく、臺灣附屬とせず~~明治元年 シュティーラー圖册「支那高麗日本圖」(ドイツ)
第三十二囘 五月十四日(土曜)第四面。臺灣の東北の尖閣 またも殘念 宮古八重山諸島だった~~西暦千八百七十三年 英軍水路局『支那海誌』初版(英)
第三十三囘 五月十七日(火曜)第四面。太平洋誌に琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣チャイナ誌に尖閣無し~西暦千八百七十年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第二版(英)
第三十四囘 五月十九日(木曜)第四面。宮古八重山も臺灣東北諸島、内に尖閣あり、臺灣附屬の外 ~西暦千八百七十八年 フィンドレー『印支日本航路誌』第二版(英)
第三十五囘 五月二十四日(火曜)第四面。太平洋の島々として、琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣なし ~西暦千八百八十六年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第三版(英)
第三十六囘 五月二十六日(木曜)第四面。歴史戰に勝てるのか、八重山及び臺灣の外の無主地、日清開戰の年 ~西暦千八百九十四年 海軍水路部『日本水路誌』(日)
第三十七囘 五月三十一日(火曜)第四面。 東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)
第三十八囘 六月二日(木曜)第四面。 米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)
第三十九囘 六月七日(火曜)第四面。 國吉まこも大發見、政府委託調査に採用、英軍の「臺灣東北」 ~西暦千八百九十三年 日清往復胡馬島公文(清)
第四十囘 六月十日(金曜)第四面。 ラペルーズの尖閣、シュティーラー圖の琉球欄、中間を繋いだのは ~西暦千八百一年 ガスパリ『通用地理星暦』第七册(ドイツ)
第四十一囘 六月十四日(火曜)第四面。 世界周航、北の提督の海路誌、臺灣附近に非ず、宮古八重山の内 ~西暦千八百二十七年 クルーゼンシュテルン『水路叢録』(露)
第四十二囘 六月十六日(木曜)第四面。 「尖閣は八重山」、フランスも後れを取らず、臺灣東部も清國外 ~西暦千八百二十九年 キリアン版『萬國地理辭典』(フランス)
第四十三囘 六月二十一日(火曜)第四面。 歐洲各國製の地誌に尖閣あり。文化の國イタリアも例外ならず ~西暦千八百二十九年 アントネッリ版『萬國地理辭典』(伊)  
第四十四囘 六月二十三日(木曜)第四面。 久場島はカントン沿岸、魚釣島は東支那海、五島は太平洋 ~西暦千八百二十七年 ホークス『米國必備』(米)
第四十五囘 六月二十八日(火曜)第四面。 永田町で公表、直接的に尖閣は日本、八重山歸屬問題の消滅を示す ~西暦千八百九十五年、チザム氏『ロングマン世界地名辭典』(英)
第四十六囘 六月三十日(木曜)第四面。 ドイツ製の地誌情報を逆輸入、尖閣は琉球、琉球は日本と同じ ~西暦千八百三十年、ラングロワ『普通近代地理新萬國辭典』(フランス)
第四十七囘 七月五日(火曜)第五面。 「尖閣は八重山」、ブリュッセルの雜版にも普及、臺灣東部も清國外 ~西暦千八百三十年 某地理學社『萬國地理辭典』(ベルギー)
第四十八囘 七月七日(木曜)第四面 未完成の大百科、完成部分に有った、尖閣は八重山に屬する ~西暦千八百三十二年 エルシュ等『綜合學藝百科全書』(ドイツ)
第四十九囘 七月十二日(火曜)第五面 忘れられたハンブルクの航海教本、琉球に屬す、普遍的知識 ~西暦千八百三十二年 『航海術學校用船客手册』(ドイツ)
第五十囘 七月十四日(木曜)第四面 ゴータ地理學社、人文的認識、尖閣海域を宮古八重山につなぐ ~西暦千八百三十五年 シュティーラー『世界各地圖手册』(ドイツ)
第五十一囘 七月十九日(火曜)第五面 蠻社の獄に遭遇、幻の蘭書、尖閣は宮古八重山の内 ~西暦千八百三十八年 ニューエンハウス『通用學藝辭典』(蘭)
第五十二囘 七月二十一日(木曜)第四面 ゴータ地理學社、インターネット公開、尖閣海域は八重山 ~西暦千八百三十一年 シュティーラー『世界各地圖手册』(ドイツ)
第五十三囘 七月二十六日(火曜)第五面 厦門島・金門島・澎湖・臺灣は福建内、琉球・尖閣は東支那海 ~西暦千八百四十四年 『ゲーラー氏物理學辭典』(ドイツ)
第五十四囘 七月二十八日(木曜)第四面 尖閣海域は八重山海域に繋がる、學校教材としても歴年刊行 ~西暦千八百四十年 シュティーラー『學校用世界圖册』(ドイツ)
第五十五囘 八月二日(火曜)第五面  謎のハープ島は尖閣だったのか、今こそ謎解きに挑む ~西暦千六百九十年 フィッセル『東印度諸島新圖』(蘭)
第五十六囘 八月四日(木曜)第四面  尖閣坐礁の貨物、幕府が引渡し、トリシマの歴史が繋がった ~西暦千六百六十一年 『ゼーランディア城日誌』(蘭)
第五十七囘 八月九日(火曜)第五面  オランダ人は坐礁で尖閣を知った、トリシマは與那國島に非ず ~西暦十七世紀後半 フィッセル『簡明小地圖册』(蘭)
第五十八囘 八月十一日(木曜)第四面  宮古八重山諸島の内、シュティーラーの地理學社から普及した認識 ~西暦千八百四十五年 ピーラー『古今世界學藝百科全書』(ドイツ)
第五十九囘 八月十六日(火曜)第五面  泰斗の名を冠し、尖閣は八重山の内、ドイツの地理學系列情報  ~西暦千八百四十七年 『リッター地理情報百科全書』(ドイツ)
第六十囘 八月二十三日(火曜)第五面  長崎出島から放逐、尖閣は琉球と認識、入試にも出るあの人物 ~西暦千八百五十二年 シーボルト「琉球諸島經緯度表」(ドイツ)
第六十一囘  八月二十六日(金曜)第四面。  遠くグラスゴーの出版社も、八重山に尖閣を含む ~西暦千八百五十六年 フラートン社『世界地名地理辭典』(英)
第六十二囘 八月二十七日(土曜)第五面 マヤカ島は宮古八重山だった、明治政府は尖閣主權を憂慮せず ~西暦千八百八十三年 『レッツ氏通俗地圖册』(英)
第六十三囘 八月三十日(火曜)第五面  マヤコ、マジカ、マヤカは宮古八重山の變形、尖閣にあらず ~西暦千八百五十九年 フラウエンフェルト「ノヴァーラ艦記」(墺)
第六十四囘 九月一日(木曜)第四面 尖閣・硫黄鳥島・伊良部島・八重山など全て支那、しかし臺灣の外 ~西暦千八百六十四年 『世界主要地名一覽字母索引』(英)
第六十五囘 九月六日(火)第五面  尖閣も與那國島も、ともに支那の内、元禄國繪圖を市役所に掲げよう ~西暦千八百六十六年 『插圖最新世界地理歴史辭典』(スペイン)
第六十六囘 九月八日(木)第四面 科學探査記の目次も、臺灣附屬の外、英軍水路誌の系譜に屬す ~西暦千八百六十八年 コリンウッド『博物家漫歩支那沿岸』(英)
第六十七囘 九月十三日(火)第五面 來琉軍人の經緯度表、英國航路學の權威となる、尖閣は八重山 ~西暦千八百五十七年 レイパー『實踐天文航海術』第六版(英)
第六十八囘 九月十七日(土曜)第五面  慶應年間に尖閣西方國境線、年代を更に引き上げ、ドイツ製地圖  ~西暦千八百六十七年 『シュティーラー氏世界圖手册』(ドイツ) 
第六十九囘 九月二十日(火)第五面  尖閣を琉球としたシュティーラー圖、索引本で尖閣八重山は支那  ~西暦千八百四十年 メラー『地理情報指南辭典』(ドイツ)
第七十囘 九月二十四日(土)第五面  またも釣魚嶼は支那の島、日本敗れたか、虚構戰に沈黙いつまで ~西暦千八百六十九年 ホフマン『世界民族國情百科全書』
第七十一囘 九月二十七日(火)第五面  釣魚はChogyoが先に出現、歐米に普及せず、危機的現状 ~西暦千九百一年 吉原重康「琉球弧の地質構造」(日)
第七十二囘 九月二十九日(木)第四面 マヤコの名は獨・蘭にも到達 ~西暦千八百六十五年 益智社『家庭用八十幅地圖册』(英) ~西暦千八百七十八年 ヘルワルト『世界民族地誌』(ドイツ)
第七十三囘 十月四日(火)第五面 更にマヤコ島、マイコ島、植物や種族にマヤカあり、尖閣と無縁  ~西暦千八百八十一年 『自然雜誌』(ドイツ)
第七十四囘 十月六日(木)第四面  臺灣から伸びる島々、探檢家ラペルーズの前と後、尖閣は如何 ~西暦千八百二年 ワルヒ「南洋豪洲並びにポリネシア諸島圖」(ドイツ)
第七十五囘 十月十一日(火)第五面  無主指定域に尖閣、シュティーラー系列、同時代の島津齊彬も ~西暦千八百五十二年 ワイマール地理學社『ハンド・アトラス』(獨)
第七十六囘 十月十四日(金)第四面 奄美、沖繩、宮古、尖閣、八重山の順で記述、支那帝國に含まず ~西暦千八百六十九年 オッテルロー『通用歐外津海志』(蘭)
第七十七囘 十月十八日(火)第五面 「釣魚臺」は日本名である 最古のローマ字は日本漢字音だった  ~~ 西暦千八百三十二年 クラプロート譯『三國通覽圖説』(フランス)
第七十八囘 十月二十日(木)第四面  諸外國が安全を保障、チャイナは恩を受ける、尖閣圖にも反映  ~西暦千八百七十四年 ギヨー『文法學校地理』(米)
第七十九囘 十月二十五日(火)第五面  愛國者田代安定が驚愕、マイコ島喪失の危機、國吉氏尖閣防衞説 ~西暦千八百七十五年 フォンペルテュ「維新日本」(フランス) 
第八十囘 十月二十七日(木)第四面 尖閣琉球日本は桃色、清國に派兵要請、八重山が北朝鮮となる危機 ~西暦千八百七十五年 ルヴァッソール「ポリネシア專域圖」(フランス)
第八十一囘 十一月一日(火)第五面 尖閣をかこむ各地の情報源、海防線が有った、驚愕の新知見其一  ~西暦千六百二年 マテオリッチ『坤輿萬國全圖』(イタリア) 
第八十二囘 十一月三日(木)第四面 尖閣をかこむ各地の情報源、海防線が有った、驚愕の新知見其二 ~西暦千五百九十五年 謝杰『虔臺倭纂』(明國) 
第八十三囘 十一月八日(火)第五面 尖閣をかこむ各地の情報源、海防線が有った、驚愕の新知見其三 ~西暦千六百四年 徐學聚『初報紅毛蕃疏』(明國) 
第八十四囘 十一月十日(木)第四面 堺事件の軍艦、香港から尖閣へ、『八十日間世界一周』の航路か~西暦千八百六十九年 トゥアール『デュプレ艦紀行』(フランス)
第八十五囘 十一月十五日(火)第五面 ノーチラス號『海底二萬里』の讀者に情報提供、尖閣は琉球に屬す~~西暦千八百七十八年 ベルヌ『十八世紀大航海家傳』(フランス)
第八十六囘 十一月十七日(木)第四面 惜しくも尖閣を使はず、ラペルーズ録とシュティーラー圖に着想 ~~西暦千八百八十八年 ベルヌ『十五少年漂流記』(フランス)
第八十七囘 十一月二十二日(火)第五面 尖閣所在の東支那海を公海として、取り捲く國家の領海が有った ~西暦千六百四年、韋麻郎(ウィブラント)紀行(蘭)
第八十八囘 十一月二十四日(木)第四面  澎湖に蘭船初來航時の領海概念、三百年後も尖閣はチャイナの外  ~西暦千八百八十年 ソネンシャイン『浮彫り全世界地圖册』(英) 
第八十九囘 十一月二十九日(火)第五面  幻影の日蘭聯合の恐怖、長崎二十六聖人の遺言は尖閣だった ~西暦千五百九十七年、宣教師マルティノ遺言(スペイン)
第九十囘 十二月十三日(火)第五面  國際法は決着濟み、主戰場は歴史戰だ、日本人は方向轉換できるか ~西暦千八百八十一年 ラブルー「日本通信」(フランス)
第九十一囘 十二月十五日(木)第四面  シュティーラー系列、またも尖閣の西に線、臺灣東岸は清國線外  ~西暦千八百八十一年 バーソロミュー「支那帝國並日本圖」(英)
第九十二囘 十二月二十日(火)第五面  米艦搭載の無人潛水機、チャイナが強奪、艦名に尖閣の記憶あり  ~西暦千九百十四年 ボウディッチ『實用導航録』(米)
第九十三囘 十二月二十二日(木)第四面  歐米の學會で道場破りせよ、地勢も風水も歴史戰の武器となる ~西暦千八百八十四年 マルタン等『世界地理新辭典』(フランス) 
第九十四囘 十二月二十七日(火)第五面 日清開戰の年、英國書またも尖閣を八重山に、史料戰は今始まった ~西暦千八百九十四年 ロッサー『實用導航測天大全』(英)
第九十五囘 十二月二十九日(木)第四面 日清戰前と戰後、界線は尖閣の西から移動、そして臺灣獨立へ ~西暦千八百九十五年 バーソロミュー「支那日本高麗專域圖」(英)
第九十六囘 平成二十九年一月五日(木)第五面 英軍水路誌の清國譯本曰く、「尖閣は近からず」、詳細は削除濟み  ~~西暦千九百年 陳壽彭『江海險要圖志』(清國)
第九十七囘 一月八日(日)第四面  臺北はTai「b」ei、チャイナ式羅馬字、尖閣は「Japan」 ~西暦千九百六十七年 官製『世界圖册』(ソビエト)
第九十八囘 一月十日(火)第五面  スペインとオランダ、臺灣一大島認識への道程、尖閣を認識できず  ~西暦千五百九十七年 コロネル氏製ルソン臺灣圖(スペイン)
第九十九囘 一月十二日(木)第四面 福建人の認識、尖閣航路は錯綜、德川家康が眞田幸村を追った  ~西暦十七世紀初葉 無名氏作セルデン圖(オックスフォード藏)
第百囘 一月十四日(土)第八面 家康も愛玩したか、朱印船海圖に尖閣の精確な位置、明國に秘匿 ~西暦十六世紀末以後 「盧高朗圖」「比呂宇土Pilot」(日)



「漁權不等於主權、兼論釣魚台漁業史的最早紀録」、石井望、一月二十九日、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)。
http://www.peoplenews.tw/news/b80c0b38-63f4-41db-9cab-d4fbee28dd47

「歐洲史料尖閣獺祭録」連載第三囘「ラペルーズ説、尖閣まで琉球、シュティーラー境界線の起源、西暦千八百四年 シュティーラー支那圖、ドイツ」、『八重山日報』平成二十八年一月二十一日第四面。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
http://senkaku.blog.jp/2016012053050352.html

「歐洲史料尖閣獺祭録」連載第二囘「島名Tiao-yu-su(釣魚嶼)、幕府統治の貫徹を示す」、『八重山日報』平成二十八年一月十六日第三面。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
http://senkaku.blog.jp/20160121.html

「歐洲史料尖閣獺祭録」連載第一囘「最も早い釣魚嶼地圖、琉球と同じ色、西暦千七百五十二年、ダンビル、アジア圖第二部分、フランス」、『八重山日報』平成二十八年一月十四日第六面。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
http://senkaku.blog.jp/2016011552668451.html

「外交部公布釣魚台十大事實、日本學者指為虚構」、石井望、一月十日、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)。
http://senkaku.blog.jp/2016011152329234.html

〔平成二十七年〕


「假歷史又來了中國發現南海諸島兩千年說之闢謬」、石井望、1222日、
民報文化事業公司『民報』(インターネット版)。
http://www.peoplenews.tw/news/e226b0f0-698c-48c7-b914-17da65230fe4
http://www.msn.com/zh-tw/news/other/%E5%81%87%E6%AD%B7%E5%8F%B2%E5%8F%88%E4%BE%86%E4%BA%86%E3%80%8C%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E7%99%BC%E7%8F%BE%E5%8D%97%E6%B5%B7%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%85%A9%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%80%8D%E8%AA%AA%E4%B9%8B%E9%97%A2%E8%AC%AC/ar-BBnNMe3
https://tw.news.yahoo.com/-043526033.html

「投書、石井望、日本後新安保法時代、世界局勢轉換驚速!
」、石井望、十二月四日、天下雜誌社『天下雜誌・獨立評論』(インターネット版)
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/3600

「チャイナ尖閣特設サイトに反駁する」、いしゐのぞむ、『島嶼研究ジャーナル』第五卷第一號。十一月三十日。第六十八至八十五頁。
http://www.naigai-group.co.jp/_2015/11/post-47.html
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/

「尖閣現代史料無効説」、いしゐのぞむ、霞山會『中國研究論叢』第十五號、第百二十九至百五十三頁、十月二十六日刊。

http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12099678

「琉球王朝はなぜ中華思想にゆさぶられたのか」、いしゐのぞむ、『日本戰略研究フォーラム季報』第66號、第三至七頁。十月一日刊。
http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho66/66-3page.htm

「200年前德國製圖大師施蒂勒的地圖:釣魚臺歸劃在琉球框線內」、いしゐのぞむ、10月3日、關鍵評論網公司『關鍵評論網』(インターネット版)。
http://www.thenewslens.com/post/222650/

「日教授、馬投書外媒談釣魚台歴史,錯了!」、いしゐのぞむ、8月27日、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)
http://www.peoplenews.tw/news/48d08d18-1282-45e1-982e-6f1ccebcade8

「日本學者:釣魚台既非清國領土,亦非歷史上的附屬島嶼,馬政府的主張喪失歴史合法性」(讀者投書)、いしゐのぞむ、8月24日、 關鍵評論網公司『關鍵評論網』(インターネット版)
http://www.thenewslens.com/post/208712/

「讀者投書、馬文革式歪曲釣魚台歴史」、いしゐのぞむ、8月18日、先驅媒體公司『新頭殼newtalk』(インターネット版)
http://newtalk.tw/news/view/2015-08-18/63602

「釣魚台風雲、台日學者觀點、陳永峰、石井望、日本觀點、投書、石井望、此釣魚台非彼釣魚台──駁《中時》馬總統投書」、いしゐのぞむ、八月十三日、天下雜誌社『天下雜誌・獨立評論』(インターネット版)
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/3197

「專文、洪秀柱女士引共黨見解、證釣魚台非清國屬島」、いしゐのぞむ、8月10日、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)
http://www.peoplenews.tw/news/ae8ebf90-104c-46b7-875e-8012c7443ffd
https://tw.news.yahoo.com/-084124531.html
http://hpc23498.pixnet.net/blog/post/83097066
http://hcplace.blogspot.jp/2014/04/blog-post_27.html
http://blog.xuite.net/uq12doriss3/blog/330923604

「讀者投書、洪秀柱引對岸釣島見解為哪樁?」、いしゐのぞむ、先驅媒體公司『新頭殼』(newtalk)、八月三日、インターネット版。

http://newtalk.tw/news/view/2015-08-03/63004

「尖閣歴史戰三周年、新史料次々に出現」上下、石井望、『八重山日報』七月十六日、二十一日、各第四面。
http://www.shimbun-online.com/

「尖閣の東西國境線を對比 清國勅任副大使の記録にまた新事實」上下、石井望、『八重山日報』五月十九日、二十一日、各第四面。  
http://archive.is/9JU87
https://archive.is/LhJx5

「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」、いしゐのぞむ、『長崎純心大學言語文化センター研究紀要』第四號、第六十二至百二十五頁、三月。
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/research/LCC_Journal04_v2.pdf

「明治26年、尖閣渡航に異議なし――日清往復公文の共通認識」、いしゐのぞむ、『島嶼研究ジャーナル』4卷2號、三月。第102-113頁。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00007/
http://www.naigai-group.co.jp/_2015/04/post-41.html

「昭和44年の地圖は油田情報にもとづく、日本全勝の鍵は尖閣古史に在り」、石井望、『八重山日報』、三月二十四日、第五面。
http://senkaku.blog.jp/archives/25404582.html

「琉球尖閣近著雜録」、いしゐ のぞむ、『純心人文研究』 第21號、第232至187頁、三月。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020360401

「琉球國はチャイナ領土だったのか」、石井望、仲村覺編『さうだったのか沖繩』、示現社、二月二十八日、第百九至百三十頁。
http://www.amazon.co.jp/dp/4990578791
http://id.ndl.go.jp/bib/026189510
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB18578679

「中國釣魚島特設サイトの虚構を暴く」連載全十二囘、石井望、『八重山日報』、一月二十七日、二十九日、二月三日、五日、十日、十二日、十七日、十九日、二十四日、二十六日、三月三日、五日。各第五面。
http://bit.ly/1uwCMhT 第一囘
http://bit.ly/1uwCMhT 第一囘
http://senkaku.blog.jp/archives/21599087.html 第二囘
http://bit.ly/1vpCVK8 第三囘
http://senkaku.blog.jp/archives/22085555.html 第四囘
http://bit.ly/1CewRDR 第五囘
http://bit.ly/1DjTV5B 第六囘
http://senkaku.blog.jp/archives/22856491.html 第七囘
http://bit.ly/1zQDU0U 第八囘
http://bit.ly/1DLwhf0 第九囘
http://bit.ly/1DLwxL5 第十囘
http://bit.ly/1DLwRth 第十一囘。
https://archive.is/shtyB 第十二囘。


〔平成二十六年〕
「五百年の尖閣史を棄てた合意文書――公約違反を赦すなかれ」、石井望、『國民新聞』、平成二十六年十二月二十五日、第二面。
http://senkaku.blog.jp/archives/19452704.html
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/e/2/e2eabaee.jpg

「(識者寄稿)日本の歴史的完敗か」、石井望、『八重山日報』第一面、十一月八日。
https://archive.is/1hIX3

「世界史的大事件を鳩山氏に問ふ――チャイナ線を突如三百キロ移動させるのか」、石井望、『八重山日報』第四面、十一月八日。
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/c/1/c1119810.jpg

「尖閣最初の上陸記録は否定できるか-明治から文政に遡って反駁する」、いしゐのぞむ、『島嶼研究ジャーナル』4卷1號、十一月。第65-83頁。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00006/
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

「歴史的チャイナ包圍網、不可缺の尖閣諸島」、いしゐのぞむ、 『夢・大アジア』創刊號、第百二十六至百三十一頁。集廣舍、平成二十六年十一月一日。
http://www.amazon.co.jp/dp/4904213238

「APEC尖閣喪失危機、愛國派の議員は疑惑を追究せよ」、石井望、『八重山日報』十月三十日、第五面。
https://archive.is/WpBxK
http://www.yaeyama-nippo.com/2014/10/30/%EF%BD%81%EF%BD%90%EF%BD%85%EF%BD%83%E5%B0%96%E9%96%A3%E5%96%AA%E5%A4%B1%E5%8D%B1%E6%A9%9F-%E6%84%9B%E5%9C%8B%E6%B4%BE%E3%81%AE%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%81%AF%E7%96%91%E6%83%91%E3%82%92%E8%BF%BD%E7%A9%B6%E3%81%9B%E3%82%88-%E7%9F%B3%E4%BA%95-%E6%9C%9B/

 「清國の釣魚臺は尖閣ではなかった!!」、石井望、『八重山日報』、五月三十日、三十一日、六月三日。各第五面。
http://www.shukousha.com/information/news/3172/

『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍、計413頁。 五月二十八日。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986

「デビッド・ヘリウェル、ぶつかり合ふ岩山、尖閣諸島と2册の航路案内書、附記」、いしゐのぞむ、『島嶼研究ジャーナル』3卷2號、自128頁、至137頁。五月。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00005/
http://senkaku.blog.jp/archives/4895632.html
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020111846

「尖閣諸島歴史問答、開拓の日に寄せて」、石井望、「八重山日報」一月十二日、十五日、十六日、十七日、十八日、二十二日、二十三日、二十四日、第4、5面、連載全八囘。


〔平成二十五年〕
「尖閣空島政策は軍備增強の陰謀だ」、石井望、「八重山日報」自十二月一日、至三日、第2、3面、連載全三囘。

「華夷秩序に無主の地あり、琉球、尖閣、くにのかたち」、いしゐのぞむ、「島嶼研究ジャーナル」3卷1號、自53頁、至74頁。十月。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00004/

「明治元年、尖閣の西に境界線あり」上下、伊井茂・石井望・赤染康久共著、『八重山日報』十月三日、四日、第3面。

「八重山の危機は眼前に在り、安倍内閣が尖閣を見捨てる」上下、石井望、「八重山日報」八月二十四日、二十五日、第5面。

「尖閣をまもる秘策あり」上下、石井望、「八重山日報」、六月十六日、十八日、第5面。

「新事實發見!日本の琉球・尖閣領有は中國も認めてゐた」、石井望、ブクログ社電子雜志「言志」11號、6月。
http://www.genshi-net.com/free_9_25.html

「琉球史新議、明は併合に公式に同意した」、石井望、「八重山日報」六月五日、六日、第5面。

「明代史料が示す海洋的文化圏、5月10日に記念行事を、琉球人が導いた尖閣航路」、石井望、『琉球新報』五月九日、第12面。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453569.html

「前導者と記録者、東西二界の間にて、ニューヨークタイムズの邵氏の文に駁す」(嚮導者與執筆者,在東西兩界間~駁紐約時報邵氏文章)、いしゐのぞむ、島嶼資料センター「島嶼研究ジャーナル」2卷2號、自111頁、至127頁。四月。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00003/

「明の史料にみる海防の東限―尖閣のはるか西に列島線あり」、いしゐのぞむ、「島嶼研究ジャーナル」2卷2號、自136頁、至144頁。四月。
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00003/

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」、いしゐのぞむ、「日本戰略研究フォーラム季報」第56號、自第17頁、至第21頁、四月。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453603.html
http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

「中國の尖閣領有權の妄説を撃つ」、石井望、日本會議『日本の息吹』四月(通卷305號、第八至九頁)、五月(通卷306號、第二十二至二十三頁)、六月(通卷307號、第十四至十五頁)、七月(通卷308號、第三十至三十一頁)、八月(通卷309號、第二十至二十一頁)、連載全五囘。
http://www.nipponkaigi.org/publication/details?id=209
http://www.nipponkaigi.org/publication/details?id=210
http://www.nipponkaigi.org/publication/details?id=211
http://www.nipponkaigi.org/publication/details?id=212
http://www.nipponkaigi.org/publication/details?id=213

「尖閣釣魚列島雜説七篇、籌海圖編の釣魚嶼は國外且つ海防外、朱印船の出逢った明國東限、日本人初の無主地認識二百八十年引き上げ、東湧補説、我對釣魚台列嶼主權爭議之看法、小東補説、馬英九檢出史料補説」、いしゐのぞむ、長崎純心大學『ことばと人間形成の比較文化研究』、自右第1頁、至46頁、三月。 
https://docs.google.com/uc?id=0B2MwcvRggQjpc0lScnduYmhUYkk
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/25825613.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024345623-00

「尖閣釣魚列島雜説四首、尖閣漢文要點表、尖閣の東西兩界を導き渡った琉球の人々、順風相送は琉球人の航路だった、東西兩界之間嚮導者與執筆者駁紐育時報邵氏文章」、いしゐのぞむ、長崎純心大學「純心人文研究」第19號、自53頁、至80頁、二月。
https://docs.google.com/file/d/0B2MwcvRggQjpSnJWbkpHZ1ZwTVE/
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10486493



〔平成二十四年〕
「馬英九閣下、尖閣史料ご提供に感謝」、石井望、「八重山日報」自十一月二十六日、至十二月一日、第5面、連載全六囘。

「尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り」、石井望、「八重山日報」自八月三日、至五日、及び七日、第2面、連載全四囘。 
(1) https://archive.today/Kv5HZ
(2) https://archive.today/Zp4V3
(3) https://archive.today/aTl3G
(4) https://archive.today/VGDLg

『和訓淺解、尖閣釣魚列島漢文史料』、いしゐのぞむ、長崎純心大學比較文化研究所、計251頁、三月二十六日。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB09937668


〔平成二十三年〕  
「大印度小チャイナ説」、いしゐのぞむ、霞山會『中國研究論叢』第十一號、自第153頁、至第174頁。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020117742/

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【報道など】
〔平成二十八年〕

「尖閣論文、總統選意識した政治利用、石井准教授が臺灣國民黨に反論」、一月十五日、産經新聞九州山口綜合第二十七面、インターネット版同日。
http://www.sankei.com/region/news/160115/rgn1601150038-n1.html
https://archive.is/HpApQ
https://archive.is/DYNRE
https://web.archive.org/web/20160122091043/http://www.sankei.com/region/news/160115/rgn1601150038-n1.html

〔平成二十七年〕
「尖閣は琉球の一部、明記、19世紀初頭ドイツ地圖」、十一月十六日、産經新聞九州山口綜合第二十四面、インターネット版同日。
http://www.sankei.com/region/news/151116/rgn1511160037-n1.html
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151116/lif15111611150005-n1.html
http://senkaku.blog.jp/archives/47909764.html

「日本插旗竊釣魚台?重大發現:清末報導指宮古島」民報文化事業公司『民報』(インターネット版)、9月25日。
http://www.appledaily.com.tw/realtimenews/article/new/20150926/699433/
https://archive.is/K6oUV
http://www.peoplenews.tw/news/e366ebad-366a-4448-b34b-9bffb61f3bd9

「保釣騙局?清國官員詩證:釣魚台為無主地不屬中國」、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)、9月22日。
https://tw.news.yahoo.com/-180259883.html
http://www.peoplenews.tw/news/1d1d1aec-f1c2-4905-a058-9ce36654cc33
http://m.appledaily.com.tw/realtimenews/article/new/20150922/696551/

「歐洲古圖為證:釣魚台自古不屬於中國」、民報文化事業公司『民報』(インターネット版)、9月18日。
http://www.peoplenews.tw/news/81c131d4-f7d5-48fc-9c26-b18421af86af
https://tw.news.yahoo.com/-120424193.html

「「尖閣領有」最古の地圖」、『朝日新聞』第四面、9月18日。
(インターネット版標題は「「尖閣は琉球の一部」記載の最古の地圖、1804年獨製」に作る)
http://www.asahi.com/articles/ASH9K44KLH9KUTFK009.html

「日本編入の80年以上前、尖閣諸島、日本領とした地圖發見」、長崎文化放送(テレビ朝日系列)「NCCスーパーJチャンネル」、七月三十一日十八時三十四分。

「歐洲の地圖、尖閣日本領明記、長崎純心大石井准教授が調査、日清戰爭以前、中國主張覆す資料」、六月二十四日、『産經新聞』九州山口綜合第二十五面、インターネット版同日。
http://www.sankei.com/west/news/150624/wst1506240018-n1.html
https://archive.is/suyhY
https://archive.is/pkIhc
https://archive.is/BY8c9


「尖閣の東西に國境線 無主地證明、清の漢詩」、『八重山日報』六月一日第一面。
https://archive.is/VIlE1

「尖閣上陸最古は琉球王族、長崎純心大の石井准教授が發表」、『八重山毎日新聞』五月十六日第一面。
http://www.y-mainichi.co.jp/news/27452/

「尖閣上陸、日本人最古か、石井望氏、1819年に琉球王族」、『八重山日報』五月十六日、第五面。
https://archive.is/FzRPh

平野聰「尖閣は前近代中國にとって航路標識にすぎない、尖閣關聯史料から見る中國の矛盾」、4月24日、ウェッジ社『Wedge Infinity』(インターネット版のみ、印本無し)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4920?page=3

「中國清王朝が尖閣諸島は日本領土と認めた公文書を發見」、小學館『週刊ポスト』四月十日號(三月三十日發賣)、第百六十四至百六十五頁。(リンクは部分のみ)
http://www.news-postseven.com/archives/20150331_312811.html

美根慶樹「中國・明時代の支配域は、古文獻に見る尖閣諸島の歴史的經緯」、三月二十八日、ワードリーフ社『The Page』(インターネット版のみ、印本無し)
http://thepage.jp/detail/20150328-00000001-wordleaf?page=2

「清國公文書、尖閣領有認識せず、外務省、中國主張覆す」、『産經新聞』三月二十四日、九州山口綜合第二十七面、インターネット版同日。
http://www.sankei.com/politics/news/150324/plt1503240018-n1.html
https://archive.is/ma5yQ


「西洋諸国も「尖閣は日本領」、石井氏研究、編入前から認識」、『八重山日報』インタビュー、平成二十七年三月十九日、第七面。
http://bit.ly/1bfis1B

「日本學者:清朝文書顚覆中國釣魚島論證」、『澳洲日報』、三月二十日、インターネット版。
http://www.1688.com.au/site1/wap/world/2015/03/20/1676073.shtml
http://web.archive.org/web/20150618052449/http://www.1688.com.au/site1/wap/world/2015/03/20/1676073.shtml
https://archive.is/FrSZs

「日本學者:清朝文書顚覆中國釣魚島論證」、『多維新聞網』、三月十九日、インターネット版。
http://global.dwnews.com/news/2015-03-19/59642255.html
https://archive.is/TW7Ul

「日本學者:清朝文書顚覆中國釣魚島論證」、『超級蘋果網新聞』、三月十九日、インターネット版。
https://news.powerapple.com/guo-ji/2015/3/19/2125426.html
https://archive.is/l7H2B

「中日較勁、對話喊話竝進」、『自由時報』、三月十六日、A12版。
http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/863162
http://web.archive.org/web/20150329044027/http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/863162
https://archive.is/vCntn

「尖閣領有、清國公文書は認識せず、長崎純心大准教授が確認、日清戰爭で強奪、中國の主張覆す」、『産經新聞』三月十二日、九州山口綜合第二十七面、インターネット版三月十五日。
http://senkaku.blog.jp/archives/24809848.html

『環りの海、竹島と尖閣、國境地域からの問ひ』、琉球新報・山陰中央新報共編、岩波書店刊、二月、第八十頁。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB18148476

「尖閣は臺灣の一部…中國の稚拙なプロパガンダ、資料解釋、誤り多數」、『産經新聞』一月二十七日、九州山口綜合第二十七面、インターネット版二十九日。
http://www.sankei.com/region/news/150129/rgn1501290012-n1.html
http://senkaku.blog.jp/archives/28149319.html

「虚妄の史料で領有権主張、石井氏、中国サイト調査、尖閣問題、サイト新情報も無價値」、『八重山日報』一月十八日第六面。
http://bit.ly/1Gjab9w
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/1/5/15cb5af7.jpg

〔平成二十六年〕
「中國主張ことごとく論破、尖閣反駁マニュアル發刊、石井望氏」、『八重山日報』六月十八日第四面。
https://archive.is/ZiorF

「歴史も日本主張を裏附け、尖閣有史480周年で講演、石井望氏」、『八重山日報』五月十二日、第一面。
https://archive.is/yUMx7

〔平成二十五年〕
九月二十九日「八重山日報」第1面、「歐洲でも尖閣は沖繩、明治元年のドイツ地圖に記載、西側に境界線」

九月二十二日「八重山日報」第1面、インタビュー「古地圖で強引な領有主張、石井准教授が反論、尖閣で中國」

六月四日、「八重山日報」第1面、「琉球侵攻、公式に容認、明皇帝が大赦、日本に歸屬、400年前に同意」

五月二十七日「長崎新聞」ローカル第12面、「中國の主張成り立たず、長崎純心大の石井准教授」

五月二十一日「八重山日報」第1面、インタビュー「中國の妄説打破、香港研究者ネットで流布、石井氏、清代の尖閣、無主地」

四月二十三日「山陰中央新報」第7面、「琉球新報」第13面、合同企劃「環(めぐ)りの海」第三部「絡み合ふ歴史」第25囘「領土編入以前」

三月十七日「八重山日報」第1面、「尖閣無主地、江戸時代に確認、領土編入の280年前、石井准教授發表」

一月二十三日「The Daily Yomiuri」第3面、「Chinese document contradicts Beijing's claim to Senkakus」

一月二十二日「産經新聞」第20面、「尖閣周邊は海防對象外、中國明王朝の歴史書に記述」 

一月二十二日「長崎新聞」第20面ローカル、「尖閣400年前は無主地、明の公式日誌に記述發見」 

一月二十一日「讀賣新聞」夕刊第12面、「尖閣400年前、明の支配域外、皇明實録に記載」

一月二十一日午後六時十七分、長崎文化放送(テレビ朝日系列)スーパーJチャンネル「尖閣は中國の外、400年前の資料發見」

一月二十一日午後六時四十七分、長崎國際テレビ(日本テレビ系列)ニュース・エブリデイ「中國は領有權主張も、尖閣は國外との史料」

〔平成二十四年〕
十二月二十四日「八重山日報」第4面、「尖閣東に琉球との境界線、新説、中國公式見解を否定」

十二月十八日「八重山日報」第4面、「強引命名で領有權宣傳、尖閣で中國、根據ない學説も使用」

石平『尖閣問題。眞實のすべて』、海龍社、平成二十四年十二月、第三十四至三十六頁。

讀賣新聞政治部『基礎からわかる日本の領土海洋問題』、中公新書ラクレ、平成二十四年十一月、第二十八頁。

十一月九日「八重山日報」第1面、「領有主張完全な誤り、中國が600年前から支配、石井氏學術的に反證」
http://www.yaeyama-nippo.com/2012/11/09/%E9%A0%98%E6%9C%89%E4%B8%BB%E5%BC%B5-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AA%E8%AA%A4%E3%82%8A-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%8C600%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%94%AF%E9%85%8D-%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F-%E5%AD%A6%E8%A1%93%E7%9A%84%E3%81%AB%E5%8F%8D%E8%A8%BC-%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E7%90%89%E7%90%83%E6%96%87%E5%8C%96%E5%9C%8F-%E3%81%A8%E6%8C%87%E6%91%98/

十一月五日「八重山日報」第4面、「清國史料また尖閣は國外、臺灣總統發見が逆證明、中臺の領有主張崩潰」

十月六日「八重山日報」第1面、「明國地圖、尖閣は國外、中國公式見解を否定、具體的反論を」

十月五日「佐賀新聞」第19面地域の話題、「明代から無主地、尖閣の歴史講演、石井・長崎純心大准教授」
http://www1.saga-s.co.jp/news/saga.0.2302730.article.html
https://archive.is/rrncK
https://web.archive.org/web/20121202202652/http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2302730.article.html

八月十五日、『讀賣新聞』第十二面「基礎からわかる尖閣諸島」・「他國支配ないと確認」。

八月一日「八重山日報」第1面、「尖閣を琉球と明記、中國の領有主張崩れる、明代の文書で判明」

七月十七日「産經新聞」第1面、「明代から領土、中國の主張崩壞、明上奏文、尖閣は琉球」


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【講演、口頭發表等】
〔平成二十七年〕
「尖閣前史小講」、石井望、内閣官房領土調整室、10月27日。


九月十七日、「明治20年の英國製尖閣地圖の新事實について」、自由民主黨本部、自由民主黨國際情報檢討委員會、配布資料「尖閣地圖戰及び歴史戰に100對0で勝つために」。
http://open.mixi.jp/user/1833966/diary/1947218093
http://www.asahi.com/articles/ASH9K44KLH9KUTFK009.html
https://drive.google.com/file/d/0B2MwcvRggQjpWDlselF3T2c5X1U/


三月二日、「琉球王國450年の嘘」、豐島區勤勞福祉會館、沖繩對策本部歴史戰講演會。
https://www.youtube.com/watch?v=UL0rXuwlFUI
https://www.youtube.com/watch?v=-2e5MUwkRGU
https://www.youtube.com/watch?v=sln_yaTa0TE
https://www.youtube.com/watch?v=WzJsjmQoX54
https://www.youtube.com/watch?v=KLG-dLFUjMY


〔平成二十六年〕
十一月二十九日、口頭發表(無題)、東京財團・中華人民共和國社會科學院日本研究所共催「東シナ海研究會」(東海論壇)、浙江海洋學院内會議室にて。

五月二十九日、口頭發表「劉江永氏所據諸史料に駁す」、「明國清國領域の自認限界線」、東京財團・中華人民共和國社會科學院日本研究所共催「東シナ海研究會」(東海論壇)、東京財團内會議室にて。
(發表概要を『純心人文研究』第二十一號「琉球尖閣近著雜録」に收録。)

五月二十五日ユーチューブ公開、「尖閣有史480周年記念講座」、チャンネル櫻沖繩支局にて。
https://www.youtube.com/watch?v=a-wNsD_F2Iw
https://www.youtube.com/watch?v=VKoJnhNWOyQ
https://www.youtube.com/watch?v=pARcQ4ci2R4


〔平成二十五年〕
十一月十九日午前、口頭發表(無題)、東京財團・中華人民共和國社會科學院日本研究所共催「東シナ海研究會」(東海論壇)、社會科學院日本研究所會議室にて。
(發表全文を『純心人文研究』第二十一號「琉球尖閣近著雜録」に收録。)

六月八日、シニア大學塾「明は尖閣は琉球の領土と認めてゐた!」、西南學院大學西南コミュニティーセンター(ユーチューブ有り)
https://www.youtube.com/watch?v=UdkzS12U4Mk
https://www.youtube.com/watch?v=jcggkYWXtMU
https://www.youtube.com/watch?v=gsu-7XQDYG4


五月二十七日放送、チャンネル櫻「新事實!日本の琉球領有は中國も認めてゐた」(五月二十四日ビデオ收録)
https://www.youtube.com/watch?v=kGDaomDfJ9o

五月二十六日午後二時、日本協議會・日本青年協議會長崎縣支部「尖閣諸島は本当に日本の領土か、日本と中國500年の眞實」、長崎市立圖書館多目的ホール(ユーチューブ有り)
http://www.youtube.com/watch?v=8_kbAJvpBOQ

四月十六日、インターネット西村幸祐放送局「尖閣の領有權主張は、文書僞造と年代サバ讀み」

四月十六日、インターネット西村幸祐放送局「孫崎享氏の尖閣論と『戰後史の正體』の正體」
https://www.youtube.com/watch?v=SGmNLwZyUOw

四月十一日、大和新聞社インターネット「長崎純心大石井望准教授に聞く、中國古文書が物語る日本の尖閣領有の正當性」
https://www.youtube.com/watch?v=ijJJelUopuI
https://www.youtube.com/watch?v=feAx5F4Ehco
https://www.youtube.com/watch?v=f9PxDS7m_fE
https://www.youtube.com/watch?v=NiBwkWOUfcA


三月二十七日、チャンネル櫻「尖閣が400年前から日本領土だった決定的な證據」

三月二十六日、日本戰略研究フォーラム「Key Note Chat 坂町」第52囘「中華思想の限界線、華夷秩序は尖閣に到達せず」(放送は五月九日チャンネル櫻「歴史上の第一列島線、尖閣の西300kmに和平ライン在り」、五月二十三日チャンネル櫻「インド、チャイナ、日本、琉球、釣魚嶼、文明圏からみる尖閣列島」上下囘)

三月二十三日、臺灣研究フォーラム(臺灣研究論壇)第百六十囘定例會「尖閣諸島問題、中國古文獻で證明する中國の主張の虚構」、文京區民會議室四階ホール(ユーチューブ有り)

二月十一日、インターネット西村幸祐放送局「尖閣が、江戸時代初期から無主地だった決定的な資料、發見!」

二月四日、キャノングローバル戰略研究所、北方領土問題研究會、研究報告「尖閣の西はチャイナの外、朱印船の出逢った明國東限」、同研究所會議室(配布資料あり)

一月二十八日、いしゐのぞむ主催史料説明會「尖閣の西はチャイナの外、朱印船が出逢った明國東限、最新報道」、アクロス福岡六百八號會議室(配布資料あり) 

一月二十三日、チャンネル櫻「中共の尖閣領有根據、皇明實録で完全崩壞」

一月二十一日、長崎縣廳記者クラブ、記者會見、配布資料あり。


〔平成二十四年〕
九月三十日、日本會議佐賀第一囘總會講演「尖閣は日本の領土、漢文史料が語る眞實」(配布資料あり)

七月二十七日、日本會議長崎主催會合講演、長崎市民會館第六第七會議室(配布資料あり)





著作等目録終

表紙7


 蚊帳の内か外かの議論が起きる原因は、日本が目に見える形で主役として表に立ってないからでせう。黒子に徹するなら蚊帳の外で黙って蚊帳を吊ってゐれば良い。逆に蚊帳の内だと言ひたいなら、主役的な見せ方をすれば良い。主役的な見せ方をできないのは演技力不足だから、芝居としては負けでせう。黒子なのか主役なのか。日本政府は「蚊帳の外ではない」とわざわざ言ってるのだから、明らかに黒子ではなく、演者の一人である。だとすれば端役に見えてしまふ時點でもう演技力不足。そもそも善良な日本人が芝居などできるわけがない。日本政府の答へ方としては「蚊帳の内でも外でも結構ですから、ただ核完全放棄、人質全員返還が實現しない限り壓力を繼續します」と言へば濟みます。
 そんなことよりも、さっさと尖閣常駐して下さい。靖國も憲法も後まはしにして、尖閣常駐すれば勝ちです。

何はともあれ、日米共同記者會見 トランプ大統領朗讀。
https://www.youtube.com/watch?v=asiJ-Psthxw

https://twitter.com/StateDept/status/986772318096474112



文字。
https://www.whitehouse.gov/briefings-statements/remarks-president-trump-prime-minister-abe-japan-joint-press-conference/

和譯。
https://www.sankei.com/politics/news/180419/plt1804190016-n1.html

同時通譯。
https://www.youtube.com/watch?v=AOVc-gCbp40

和譯解説。
https://ameblo.jp/japangard/entry-12371075106.html

.
300418_Abe_trump

Taipei Times  Wed, Jan 13, 2016
http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2016/01/13/2003637115

Yilan officials start campaign against Japanese academic
Staff writer, with CNA

Two Yilan County councilors yesterday urged members of the public to write protest letters to a Japanese academic to express their anger over his claim that the Diaoyutai Islands (釣魚台) belong to Japan.

Tsai Wen-yi (蔡文益) and Lin Yueh-hsien (林岳賢) announced their “one person, one letter” campaign at a news conference at Yilan County Council Hall, calling for people to take action to defend Taiwan’s sovereignty over the uninhabited islands, which are about 220km northeast of Taipei.

Displaying a copy of a land ownership certificate updated by the Yilan Land Office in September 2004, Tsai said the document proves that the Diaoyutais are registered as part of Yilan County’s Toucheng Township (頭城).

Nagasaki Junshin Catholic University associate professor Nozomu Ishiwi several days ago told Japanese media that the islands belong to Japan.

“This untrue statement has caused Toucheng residents to feel resentment,” Tsai said.

He said people should write letters to Ishiwi detailing their determination to defend the nation’s sovereignty.

The county council has passed a proposal that would see the county government inviting President Ma Ying-jeou (馬英九) and his successor sail to the Dioayutais with Yilan County Commissioner Lin Tsung-hsien (林聰賢).

臺北時報


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【徵稿啟事】2018年台灣政治學會年會暨研討會徵稿啟事
2018年台灣政治學會年會暨「變動中的大國關係與民主治理」國際學術研討會
徵稿啟事

壹、序言

貳、會議地點與時程規劃

一、會議地點:淡江大學蘭陽校園

二、時程詳情:
1.       論文摘要截稿:2018年6月15日(星期五)
2.       摘要審查通知:2018年7月6日(星期五)
3.       註冊費繳交期限:2018年10月12日(星期五)
4.       全文繳交期限:2018年10月31日(星期三)
5.       研討會日期:2018年11月10日至11月11日(星期六、星期日)

參、研討內容
在學術論文發表方面,將依過去慣例向國內、外政治學界公開徵求中、英文學術論文,針對下列相關議題進行理論探索與經驗研究,期待與會學者能夠從跨領域、跨學科、跨國界進行交流與分享,提出具有創新性和建設性的研究成果:
一、     價值思潮與社會變遷:東西文明、政治哲學、(後)物質主義、轉型正義、社會衝突、性別平等、恐怖主義等。
二、     制度設計與制度改革:憲政改革、選舉制度改革、社會改革、國會改革等。
三、     民主實踐與社會正義:國會政治、政黨政治、民主轉型、司法正義、代表與課責、人權、世代正義、貧富差距、年金改革等。
四、     廉能政府與民主治理:廉能政府、行政透明、跨域治理、地方治理、開放政府、數位民主、非營利組織等、參與式預算等。
五、     網路政治與公民參與:數位民主、社群媒體、網路正義、公民運動、政治參與、公民投票、電子投票、各國選舉等。
六、     政策議題與社會治理:新南向政策、國家安全、食品安全、長期照護、勞工政策、國土規劃、財稅改革、教育政策、青年創業、環境保育、產業政策、災害防治等。
七、     跨國比較與經驗:美國、歐洲等老牌民主國家與新興民主國家的民主赤字現象、形成原因、造成結果與解決的途徑。
八、     中國政治與兩岸關係:兩岸政經互動、中國大陸政治經濟、社會發展、基層治理、高層政治、軍隊改革等。
九、     國際政治與區域合作:全球化、國際政治經濟、區域經濟整合、國家安全、主權爭議、區域研究、南海爭議等。
十、     自行設定議題:此次研討會亦歡迎政府機關、學術機構、研究團隊依據本次年會主題或其他相關議題,自行規劃包含三至四篇論文的專題分組(panel),主辦單位將評估是否決定接受。


肆、            投稿方式
 有意發表論文者請將論文投稿相關資訊,於2018年6月15日(星期五)前發送至本會研討會專用信箱(tpsa.conference@gmail.com),並填寫研討會投稿表單,以方便秘書處進行統計(網站:https://goo.gl/forms/kZRc4YMWeeEtznz03)。論文全文以不超過20,000字為原則,撰稿格式以《台灣政治學刊》撰稿體例為準(相關體例請查詢http://www.tpsr.tw/zh-hant/page/zhuan-gao-ti-li)。

 伍、註冊費與補助事宜

非會員600元 800元
請直接匯入本會郵局劃撥帳戶(戶名:台灣政治學會寇健文;郵政劃撥帳號:19651478;或見附件:郵政儲蓄劃撥單)。
四、請在匯款收據或證明上,註明繳交項目、聯絡電話及姓名,並掃描成PDF檔案或照片檔後,以電子郵件寄至台灣政治學會信箱(tpsa1994@gmail.com)。

陸、聯絡資訊
如欲詢問研討會相關事務,請聯絡台灣政治學會秘書唐育萱(政治大學政治學系)。
電話:02-29393091#50761
電郵:tpsa1994@gmail.com
地址:116台北市文山區指南路二段64號(政治大學政治學系)
    下載資料:年會論文投稿表
http://www.tpsahome.org.tw/admin/uploads/article/88e2b0a96af0f6d87624ca98a3bdd6a7877d9f75.doc
    下載資料:郵政劃撥單
http://www.tpsahome.org.tw/admin/uploads/article/ec7d8d4fe5b86683acfbd84f86bd5b21d11d7342.doc


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臺灣政治學會


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